水族館の割引チケットは、健保組合の季刊誌についてきたものだ。
元々の入場料が高額のためなかなか気軽に行けなかったが、割引券を入手できた上に興味をそそられる館内イベント開催期間中とあっては、行かざるを得ない。友人を誘おうとしていたところだったから、カラ松くんの登場はちょうどよかった。
現地に到着し、チケット売り場に並ぶ。時刻は午後二時を回っていたが、売り場には数十人という列ができていた。窓口は二つあり、チケットをさばく受付嬢の見事な手さばきから見るに、待機時間は数分というところだろう。
「この間からチンアナゴの展示が始まってるんだよ。みんなもそれを見に来たのかもね」
チケット片手に私は浮足立つ。一刻も早く中に入りたい。
「ハニー…オレの聞き間違いかもしれないんだが、何を見に来たかもう一度言ってくれないか?」
「何って───チン・アナゴ」
カラ松くんの意図することを汲み、私はわざと前半にアクセントを置いて、ゆっくりと口にする。
案の定、カラ松くんは腕を組み目を閉じた格好のまま、顔を赤くした。これ絶対勘違いしてるやつや。
「これこれ、こういう細長い魚だよ」
チラシを見せると、ようやく腑に落ちた様子で胸を撫で下ろす。
「テレビで観たことある気がするな。確か、体の半分が砂の中にあるんだろう?」
「そう、最近は有名になってきたもんね。一回実物見てみたかったんだけど、ここの水族館入場料高いからもう何年も来てなくてさ」
「オレは今日ユーリと来たのが初めてだ」
そんな返事がくるとはまるで予想していなかったから、思わず目を瞠ってしまった。
「男同士で行くような場所じゃないしな。
オレの初めてをハニーに捧げよう、感謝してくれていいんだぜ」
「誤解を生む発言は自重しようか」
そうこうしているうちに、自分たちのチケット購入の番が回ってきた。カラ松くんが自分の分の料金を私に渡して、私がそこに割引券と一人分を追加して窓口に支払う。
自然な流れだったが、待て待て、まるでカップルみたいな共同作業じゃないか。何シレッと支払ってんだ私たちは。
館内に入って早々にも人の列ができていた。見て回るのに時間がかかりそうかと思いきや、各種展示コーナーに続くエスカレーターの前に記念撮影コーナーがあって、その待機列である。
この水族館で人気のあるジンベイザメの模型と並んで、スタッフが無料で一枚撮影してくれるというものだ。撮影した写真は、帰りに出口で貰えるらしい。
今日の日付が入ったボードの前に立つ家族やカップルの、幸せに満ちた笑顔が眩しい。そういえば数年前に手のひらサイズの写真を貰ったような記憶があった。
「ちょっと並ぶけど、せっかくだし写真撮ってもらう?」
「ハニーがそう望むのなら、フォトの一枚や二枚喜んで撮ろうじゃないか」
「楽しみだね~」
男女一人ずつという組み合わせで写真を撮っている者は多いが、肩を寄せ合ったり、抱き合ったりと、いずれにしても非常に距離感が近い。
何気なく隣に立つカラ松くんをちらりと見やると、期待に満ちた双眸で撮影コーナーを見つめている。楽しみにしていらっしゃるご様子。
「ジンベイザメ、イカしてるなぁ」
そっちか。
ポーズを決めかねているうちに順番が来て、カラ松くんはジンベイザメの口元に立つ。手招きされて横に並んだ時には、彼はもうカメラのレンズに視線を向けていた。
混雑していたのは記念撮影コーナーまでらしく、一旦館内に入れば客は程よく流れている様子で、窮屈さは感じられなかった。
釣りが趣味だというカラ松くんは、アジやヒラメといった食卓に並ぶ類の魚に関心が向くようで、都度水槽の前で立ち止まっては興味深げに覗き込んでいる。
私はというと、一歩下がってカラ松くんのそんな姿を眺めるのが楽しくて仕方ない。ぽかんと口を開けたまま水槽上部を見上げる彼は、幼い子どものようだった。
とか言いつつも私自身、途中で発見したチンアナゴ展示コーナーで、ガラスに顔を貼り付ける勢いでガン見している姿をカラ松くんに見られて、爆笑されるというオチが待っていたわけだけれど。
「聞いてよカラ松くん!チンアナゴってこんな愛嬌ある顔してるけど、巣穴に入る時はくねくねしてしっぽから入ったり、巣穴は粘液で固めて崩れないようにしたり、集団で暮らしてて漂ってくるプランクトンがご飯だったり、よく似てるけどチンアナゴとニシキアナゴは違う種類で───」
「ハニーのそういうところ、オレはいいと思うぜ」
ちゃんと聞けよ。
カラ松くんは、よく見ないと分からないくらいのチンアナゴの小さな動作を見逃すまいとする私の真横に並んで、事もあろうに私の顔を見つめてくる。
「な、何かな、カラ松くん?」
「いや何、水槽を見つめるハニーの瞳に散りばめられた光の美しさに、言葉もなく立ち尽くしているだけさ。オレがギルドガイなら、ユーリはさしずめギルドレディだな」
逆チンアナゴの刑に処してやりたい。
ペンギンやイルカといった人気のコーナーを過ぎて、この水族館のメインとなる水槽はもう目の前だ。
「カラ松くん、この先ジンベイザメの水槽だって」
「おお、ついに…っ」
通路を進んだ先に、建物の高さにして三階分相応の円柱の巨大な水槽がそびえ立っていた。
分厚いアクリルの板を挟んだ先で、全長十数メートルはあろうかという巨体が優雅に体をくねらせている。
こちら側と向こう側。それぞれに広がる異世界が、今はすぐ側にある。手を伸ばせば届くくらい、近く。
「アメージングだな、ユーリ」
「うん、すごいね」
自分がひどく小さく見える。小人にでもなった気分だ。
「カラ松くん、ジンベイザメと写真撮ったげるよ」
こんな気持ちを何と表現すればいいだろう。
私は周囲に人が少なくなったのを見計らって、後ろに下がりながらスマホのカメラを起動する。
ああ、そうだ、これは───
「非現実的だね」
「うん?」
「生息地を考えればジンベイザメと私たちは交わらないはずなのに、今はこんなに側にいるなんてさ。ファンタジーみたいな」
スマホのレンズをカラ松くんに向ける。彼はジンベイザメの水槽に片手を添えるようにして、少し笑っていた。
「オレはずっと、非現実的な感覚がしてる」
薄暗がりの中、ディスプレイの中のカラ松くんと視線が絡む。
「ユーリと出会えた瞬間から、夢の世界にいるような気がしてるんだ」
カシャリ、とシャッターの音が小さく響いた。
何となく無言のままカラ松くんの傍らに戻ると、彼は口元を手で押さえて私から目を逸らす。
「えーと…」
「き、聞かなかったことにしてくれないかハニー」
「何で?」
「いや、何でって…その、口が滑ったというか、言葉の綾というか…」
彼の言い訳を聞き流しながら、私はスマホのアルバムアプリをタップして、先ほど撮影したばかりの写真を開く。ジンベイザメを背にして、柔らかな笑みを浮かべるカラ松くんが写っている。
「非現実ってさ、現実にあらずって書くでしょ?」
「あ、ああ…」
「泡みたいに消えるわけじゃないんだし、とっとと現実にしてもらわなきゃ困るよ、カラ松くん。
いつか覚める夢と違って、この現実はこれからも続くんだからさ」
うん、いい写真が撮れた。服はファストファッションとはいえ、革靴と腕時計が程よくアクセントになっていて、いいスタイルだ。
「ユーリ…」
「この先進んでいくと、また違った角度でジンベイザメが見れるんだよ。
私たちが見てるお互いの姿も、氷山の一角。いつ相手を好きになるかなんて分からないし、逆にいつ幻滅するかも分からない。どうなるか分からないから人間関係は面白いよね」
先手を切って私が歩を進めると、カラ松くんはすぐ後ろをついてくる。
「確かに、今ユーリに見せているオレもまた、松野カラ松のほんの一部だったな。一部というか欠片というか……でも、例え君の氷山の隠れた部分を見ても、オレはきっと───」
「あ、イワシの大群がいるよカラ松くん。煮付けにしたら絶対美味しいやつ!」
「ハニーのお望みとあらば、ガイアに降り注ぐレインの数だけ釣ってきてやるさ」
「いいね!」
釣りたてのツヤツヤして引き締まった魚を考えるだけで涎が出そうだ。約束だよ、と声をあげたら、オーケーユーリ と弾む返事。
また会う新しい約束を取りつけながら、楽しい時間は過ぎていく。
いつしか薄暗闇を抜けて、出口に着いた。眩しくて目を細めたら、カラ松くんも同じ顔をしていたので、やっぱりどうしてもこんな顔になるよね、と肩を竦める。
入退場ゲートのスタッフに写真の引換券を渡して、小さな写真を受け取った。私とカラ松くんが並んでポーズを取っているものだ。
「ユーリ、それ見せてくれないか」
「いいよ」
写真の中のカラ松くんは、片足に重心をかけながら腰に手を当てている。顔は斜め四十五度で、口元にはニヒルな笑みを浮かべたポーズ。
で、私はというと───
「なっ、ちょっ…ハニー、これは…ッ」
「いい感じでしょ?」
カラ松くんとまったく同じポーズなのだった。完コピは無事成功、いい仕事した。充実感すごい。
「ああもう…君は本当に、オレの予想を超えることばかりするな」
「普通に撮っても面白くないしねぇ。家に飾ってくれてもいいのよ」
「……本当に?」
「え?」
マジで?
冗談ですごめんなさい止めてくださいと言いかけて、思い留まる。手のひらサイズの小さな写真を、大事そうに両手で持つ姿を見たら、この期に及んでノーとは言えない。
「…うん、カラ松くんにあげる」
カラ松くんの表情がぱぁっと明るくなる。まるで大きなひまわりが咲いたみたいに。
「ありがとうユーリ…宝物にする」
調子に乗った結果の産物を宝物にされる恥ずかしさは、筆舌に尽くし難い。体中の熱が顔に集中していくような気さえする。
これを素でやっているのだとしたら、非常にたちが悪い。
「ハニー、何かペンと紙を持ってないか?」
水族館から駅へ戻る途中の帰り道、ふと立ち止まってカラ松くんが私に問いかける。バッグの中に手帳とボールペンが入っていたので、メモ欄のページを広げて手渡すと、彼はその場で紙の上にペンを走らせた。
「──これ、受け取ってくれ」
癖の強い字で書かれた、数字の羅列。何を意味するのかは一瞬で理解できた。
「うちの電話番号だ。
それで、もし、よかったら…ハニーの連絡先も教えてほしい」
まだ会って三回目だよとか、私も一応異性だからとか、断る言い訳はいくらでも思い浮かんだのだけれど。
ジンベイザメコーナーの前で吐露した彼の心情に、嘘ないと思えた。連絡先を尋ねるのも、カラ松くんにとっては清水の舞台から飛び降りるほど勇気のいる行為だったのだろう。
私はカラ松くんからペンを受け取り、空いているページに数字とアルファベットを書いていく。そのページを手帳から外して、カラ松くんに差し出した。
「はい、私の番号とメールアドレス。いつでも連絡して」
「ユーリも、オレのセクシーボイスが聞きたくなったらいつでも電話してくるんだぜ」
「あはは、はいはい、そうしまーす」
異性の家に電話をかけるなんて、プライベートでは働き始めてから初めてのことではないだろうか。兄弟ならまだいいが、親が出たら意味もなく緊張してしまいそうだ。
高いハードルだなと多少げんなりしたものの、ほくほく顔で写真とメモ用紙を抱えるカラ松くんを見ていたら、全部大したことではない気がするから不思議だ。
駅のコインロッカーで服を取り出し、カラ松くんと向き合う。
「それじゃ、今日はここで解散しようか」
「オレとのデートが君のメモリーに刻まれる、優雅で充実したサタデーになったなハニー」
デートという感覚はなかったが、フリーの男女が二人でそれっぽい所へ出向けばそういう呼び方になっても致し方ない。そうだね、と適当に返事をしようとしたところで、発言した本人が突然顔を真っ赤にして動揺し始めた。
「ユーリとデートって……えッ?あ、いや、何でもない!」
可愛いなぁ。
「次は約束通り、釣りかな?いつ行くかは、また近いうちに決めよう」
「…あ、ああ。それじゃユーリ、また」
「うん」
「───楽しかった、ありがとう」
「こちらこそ」
少しずつ少しずつ。
こうやって、人は互いの氷山の隠れた部分を知りながら関係性を深めていくのだろう。それが結果として吉と出るか凶と出るかは、誰にも分からないことだ。
けれどカラ松くんに会うたび、知らない一面を見るたびに彼に対する興味は深まっていくばかりだから、少なくとも今は友人として、楽しい時間を共有できればいいと私は思っている。
スマホのディスプレイに、知らない番号からの着信があった。
否、知らないと表現すると語弊がある。つい先日知ったばかりで登録を忘れていた番号というのが正しい。
部屋のベッドに腰掛けて、電話に出た。冒険に出る直前のような、胸が躍る興奮を覚えたのは内緒にしておこう。
「もしもし───カラ松くん?」
電話の奥で、私をユーリと呼ぶ、心地良い声が聞こえた。