それからしばらくは平穏だった。
十四松くんは一松くんを縛り付けたバッドで素振りを始め、上から三番目までの長兄たちは麻雀の攻略法について真剣に議論を交わし、トド松くんと私は流行りのスマホアプリ談義に花を咲かせる。時間が経つのを忘れるほど純粋に楽しんでいた。
そんな穏やかだった空気を一変させたのは、おそ松くんである。
「突然ですが、今からゲームしまーす!」
私を含めた全員の視線が彼に集中する。だが、顔色の読めない十四松くん以外が、また馬鹿なこと始めたよと言わんばかりの呆れ顔なのが衝撃だった。
初見の私だけは、この後の展開が読めずに警戒する。
「名付けて、カラ松当てゲーム!」
今すぐ逃げた方がいいと私の直感は告げる。
「ルールは簡単、俺ら六人の中で誰がカラ松かをユーリちゃんが当てるだけ。
外した時の罰ゲームは、カラ松以外と日替わりで一日デートね☆」
挑戦者と罰ゲーム指定かよ問答無用だな。
「いや、それ私に何のメリットもないよね?」
「ははーん、さては当てる自信ないな?」
「そんな安い挑発に乗らないからね。
全員がフェアな前提ならまだ検討の余地あるけど、ハイリスク・ノーリターンって何なの、笑わせるな」
今日会ったばかりの六つ子との日替わりデートは、考えただけで胃が痛い。カラ松くんだから一日いても飽きないのであって、彼以外の相手と──それも罰ゲームとして──丸一日出掛けるくらいなら、家で暇を持て余していた方がよっぽど有意義だ。
「おそ松、そんなことをさせるためにユーリに来てもらったわけじゃない。
冗談が過ぎるようなら、オレにも考えがあるぞ」
カラ松くんが膝を立てて私を庇う。さすが、ユーリを必ず守る発言は伊達じゃない。その調子で全力で私を守ってくれ。
しかしおそ松くんに諦めた様子は微塵もなく、ニヤリと意味深に笑う。他の四人に至っては、異性とのデートという褒美に釣られて既に参加側に回っている。
「なぁカラ松。イヤミですら区別がつかないくらい同じ顔をした俺たちの中から、たった一人のお前をユーリちゃんが見つけてくれるんだぜ。
最高にロマンチックだと思わないか?」
「それは…」
カラ松くんの声が揺れた。
さすがは六つ子、彼の琴線に触れるワードを熟知している。
「それともアレかなカラ松。ユーリちゃんとは、俺たちの変装と区別もつかない程度の付き合いなんだ?」
「…分かった、そこまで言うなら受けて立とう!」
「受けて立つのは私だからね?カラ松くんは出題者側で、いうなれば敵だからね?」
何なのこの六つ子。
「───あーもう、分かった。やるやる、参加します。
その代わり、私が勝った場合のメリットは用意してもらうよ。でないと割に合わないからね」
人差し指を唇に当てて、私は思案する。
負ければ六つ子と順繰りでデートという、貴重な休日と体力を消耗する内容だ。それに見合うだけの価値は欲しい。
「そうだなぁ、とりあえずカラ松くんに写真を返すっていうのは、私の目の前でやってもらおう。
それから…あ、一人一つ私のお願いを聞くのはどう?
お願いの期限はなしで、私が使いたい時に使うの。もちろん、お金が絡んだり、無理な要求はしない」
「オッケー、商談成立。おいお前らっ、全力でカラ松演じろよ!」
「アイアイサー!」
おそ松くんとカラ松くん以外の四人が、姿勢を正して敬礼する。
「カラ松もアイコンタクトとか小細工なし!バレるようなことしたらロマンもクソもないんだからな!」
「ぼくたち準備してくるから、ユーリちゃんはここで待っててね」
十四松くんが愛らしい微笑を浮かべて、兄弟に続いて軽やかに部屋を出ていく。カラ松くんが、ふと我に返ったように私を振り返ったが、おそ松くんに背中を押されて障子の奥へと消えていった。
次に現れた時、彼らはまさにカラ松くんそのものだった。
全員が同じ青いスーツを身に纏い、彼を象徴する鋭い眉と自信に満ちた態度。つい先ほどまで確かにあった各自の個性は完全に消滅し、巧妙に松野カラ松に擬態している。
個体ごとに僅かな身長差や体格差こそあれど、カラ松くんと確信する身体的サイズを私が把握しているわけでもない。
「ハニー、オレがカラ松だ」
「君なら本物のオレが分かるよな?」
「マイエンジェルユーリ、オレの手を取ってくれ」
どれも本物っぽく、どれも偽物くさい。これ全員オスカー取れるレベルの演技力ではないだうか。こういうとこだけ本気出すのが松野家か。
言動で見分けがつきやすかった一松くんと十四松くんですら、自分の特徴を完全に隠している。
面白いのでスマホで写真に収めておこうとレンズを向けたら、思い思いにポーズを取ってくれるが、いずれもカラ松くんっぽい感じがする。難易度は高い。
けれど、自然と口角が上がる。
我こそが松野カラ松とそれぞれが主張する中、私は迷わず一人の手を取った。
「これが本物のカラ松くん」
選んだのは───右から二番目。
「な、なぜだハニー、それはオレじゃなくチョロ松で───」
一番左が焦りの表情を浮かべる。
「ゲームは私の勝ち。カラ松くん当てたら終わりでしょ?」
惑わそうったって、そうはいかない。
私の選択が揺るがないと知るや否や、動揺を装っていた一番左は、ハッと嘲笑して髪をかき上げた。
「あーあ、こんなあっさりバレちゃつまんねぇなぁ」
こういう言い方をするのは、たぶんおそ松くんだ。
「ユーリちゃんすごい!でもぼくもめちゃめちゃ似てたでしょ?」
「いやいやいや、これ分かるってヤバくない!?何で!?
六つ子のボクらでも、一松兄さんがカラ松兄さんに扮した時に全然気付かないくらいだったんだよ!」
十四松くんに褒められ、トド松くんは驚きと共に興味深い過去話を振ってきた。ちょっとその話詳しく。
「何でって言われてもなぁ…」
答えにくい質問だ。数値やデータに基づいた判断ではないのだ。これは───
「ハニーっ!」
どう表現すべきか悩んでいたら、カラ松くんが私の胸に飛び込んできた。私の肩に顔を埋めて号泣する。
彼が抱えていた不安は、一抹どころかとても大きなものだったのだろう。
抱きしめて、頭を撫でてやる。
「よしよし、もう大丈夫だよカラ松くん」
相手は大の男だが、子供を持つ母親の気持ちが分かるような気がする。
「ちょっとちょっと、俺たちの前で堂々とイチャつくの止めてくんない?」
「お、おそ松っ、これはその、違っ…」
慌てて私から離れるカラ松くん。しかし五人は納得いかない顔で彼を睨めつけていて、カラ松くんは針のむしろだ。
「うらやまけしからん罪で、カラ松処刑───やれ、十四松」
「兄さんいっくよー!」
「え、ちょ、待っ───おおおぉおぉぉぉッ、ギフギブだ十四まああぁああぁぁつ!」
慣れた様子でカラ松くんに卍固めを仕掛ける十四松くん。苦悶に歪むカラ松くんの表情をトド松くんがスマホで録画し、ディスプレイを一松くんが覗き込む。チョロ松くんは腕を組んだ格好で、調子乗んなクソ松が、と吐き捨てていた。三男怖い。
カラ松くんの断末魔が室内に響き渡る中、いつの間にか隣にはおそ松くんがいて、彼は私に問う。
「で、ユーリちゃんはうちの次男とはどうするつもり?」
「どうって…」
「見ての通り、カラ松は本気だよ」
深い意味のない冗談のような軽口だが、こちらに向ける双眸は私の出方を用心深く窺っている。それはおそらく、突如出現した異端者に対する警戒心。
私はおそ松くんに向き直って、微笑んでみせた。
「──さぁ、おそ松くんが何を言ってるのか私にはさっぱり」
わざと不自然な間を開けて答えたら、おそ松くんは白い歯を覗かせて笑った。
「はは、ユーリちゃんいい性格してる。俺、そういう子好きだよ」
「私もおそ松くんみたいな人、嫌いじゃないな。身が引き締まるよ」
「ってことはさ、俺たちにもまだチャンスあるってことじゃん?
俺たち六つ子は色んなタイプ揃ってるし、今から一つに絞るのはもったいなくない?」
そうじゃないんだよ、と返事をしかけて止める。
そうじゃないんだ、推しというものは。
見た目や声や言動といった様々な要素はあるけれど、具体的にどの要素が胸を貫いたかなんて分からないくらい感覚的なものなのだ。
しかし説明したところで理解しろというのは酷だ。だから返答は濁して、肩を竦めた。
「とにかく、この勝負は私の勝ちだから約束は守ってもらうよ。写真渡して」
「…ちぇっ、賢い女は嫌われるよ?」
おそ松くんはジャケットの内ポケットから写真を出して、私に手渡した。
いつぞやの、水族館で撮った二人の写真。まださほど月日は経っていないのに、少し懐かしい。
「カラ松くん、写真返してもらったよ」
「本当かハニー!」
卍固めで脂汗を浮かべていたカラ松くんの瞳に生気が戻る。十四松くんが力を抜いて彼を開放するや否や、一目散に私の元へと駆けてきた。
「ありがとう…良かった、オレにとっては本当に大事なものなんだ」
心の底から安堵したように肩の力を抜くカラ松くんを見て、他の五人が顔を見合わせた。
やりすぎただろうか、という感情が垣間見える。
そうだ、と不意にチョロ松くんが手を叩いた。
「そろそろ遅くなるし、みんなでユーリちゃんを駅まで送ろうか?」
「いいね、そうしよう。今日は楽しかったよユーリちゃん。また遊ぼうよ、後でメッセージ送るね」
「あ、ありがと。でもそんな…大所帯で見送られるのは逆に申し訳ないし、駅結構近くだし、ここで十分だよ」
全力で首を横に振って辞退しようとするが、六つ子はそれを謙遜と受け取ったのか、私の背中を押して玄関まで向かおうとする。
慣れないVIP扱いに、ああもうどうにでもなれと半ば投げやりになった、次の瞬間。
スパーンと障子が開け放たれた。
現れたのは、エプロン姿の中年女性だった。
「お黙りなさいニートたち」
見た目はどこにでもいそうな平凡な主婦像そのものだが、不思議な威圧感がある。丸い眼鏡の奥がきらりと光った。
「母さん…っ」
ラスボスが来た。
「初めまして、カラ松くんと仲良くさせてもらってます、有栖川ユーリです」
障子を壊す勢いでぶち開けた理由を尋ねるのは横に置いて、私は瞬時に態度を切り替える。姿勢を正し、彼女に向けて頭を下げた。第一印象は大切だ。
私が挨拶すると、彼女は六つ子たちに向けていた殺気はどこへやら、柔和な表情で私に微笑んだ。
「こんにちは。まさかカラ松が女の子をつけてくる日がくるなんて…はぁ、諦めずにニートたち養ってた甲斐があるわぁ。
ユーリちゃん、カラ松はもう本当どうしようもないくらいベテランニートだけど、これから末永くよろしく頼むわね」
いや、養いませんからね。
「母さん、僕たちユーリちゃん送ってくるよ。
貰ったケーキの残りが冷蔵庫にあるから、母さんと父さんで食べて」
それじゃあね、と踵を返そうとしたチョロ松くんは首根っこをおばさんにつかまれて、畳の上に転倒する。
「うわっ、な、何!?」
「見送りはカラ松一人にさせてあげなさい」
「へ?」
「そうやっていつも六人で集ってるから、あんたたちはいつまでも彼女ができないのよ。
抜け駆け、裏切り、先回り、持ちうるスキルを駆使して独占に向けて奪い合いなさい。女の子が絡んだら兄弟とて敵と思え」
もはや母親の台詞じゃない。
おばさんが演説している間に、カラ松くんは私と五人の間にさり気なく体を割り込ませた。それから人差し指を自分の唇に当てて、こっそりと私にウインクする。
「悪いなブラザーたち。そういうわけだ、ユーリはオレが責任持って送ってくる」
「ちょっ、待てよカラ松!」
「行こうハニー!」
手を引かれて、玄関から飛び立すように外へ出る私たち。
また今度ねと言い放った私の言葉は、まるで捨て台詞のようになってしまった。
思いの外逞しい無骨な指が、私の手首をつかんでいる。真っ昼間だけれど、逃避行のようだと思ったのはカラ松くんには内緒にしておこう。
「ハニー、今日は本当に助かった」
何かお礼がしたいと言うので、駅近くのコンビニでジュースを奢ってもらった。そんな安いものでいいのかと心配される。
「ううん、意外に楽しかったよ。警戒していたのが申し訳ないくらい。
ね、もうすぐ夏だし、そのうちみんなで海とかお祭りとか行こうよ、絶対楽しいと思う」
「グッドアイデアだ、ハニー。ブラザーたちも喜ぶな」
またトド松くんにも連絡しておくね、と告げたところで、カラ松くんが、あ、と声を上げた。
「それは…二人で行くのとはまた別に、だよな?」
「ん?」
「オレは、これからもユーリと二人で遊びに行きたいんだ。
ブラザーたちも含めて会うのは何回かに一度くらいにして、それ以外は今まで通りオレと過ごしてくれないか?」
いつものように赤面で切れ切れに語られるのはなく、他愛ない会話の延長として自然に紡がれた言葉。
これが無意識下だとしたら、とんだ天然のタラシだ。
「私もそういう風に考えてたよ」
「そ、そうか…なら良かった。さすがはオレのミューズだ」
調子が戻ってきたようだ。
「あと、その…今日はオレを見つけてくれてありがとう。すごく…嬉しかった」
同じ顔をした六人の中から、一人しかいない本物の手を取った、あの時。
見間違えるわけがない。
そもそも同じに見えるのはあくまで外見だけの話で、彼らは何もかもが違うのだから。
「何て言ったらいいのか…本当に、嬉しかったんだ」
うん、と私は頷いた。
優しい時間が流れていく。
電車が駅に着くアナウンスが鳴っても、私たちはしばらく改札前で笑い合っていた。