フラグを折る男

仕事を終え、いつもと同じ道を通って自宅へ帰る途中のこと。
変わらぬ景色、すれ違う見知らぬ他人、ぼんやりと晩ごはんの献立を思案する自分自身、全てが単調な日常の繰り返しに思えた。
歩いているだけで汗ばむ真夏日の夕方、日が暮れ始めているとはいえ、外を歩くと自然と汗が体を伝って不快だ。

その時、背後を振り返ったことに深い理由はなかったと思う。
誰かに呼ばれたような、繋がれた紐を引かれたような、しかし全て気のせいの一言で済んでしまうような、何とも表現し難い感覚だった。
視線の先に、見慣れた姿が映る───カラ松くんだ。
自然と頬の筋肉が緩む。忙しなく過ぎていく日常の中で、彼は私にとって癒やしとも呼べる存在だったからだ。何せ推しだから。
推しはいいぞ、乾いた大地を潤すオアシスだ。推しがいる人生は素晴らしい。

カラ松くんは両手を膝につき、肩で息をしている。その正面には、自転車から降りて彼を気遣う様子の若い女性。フレアスカートの似合う可愛い子だ。
そして彼が彼女に差し出す右手の中には、手のひらサイズの小さな犬のぬいぐるみ。外れたチェーンがぬいぐるみの頭部からぶら下がっているところを見るに、走行中に外れて落ちたのだろう。
「あ、ありがとうございます…っ」
女性は両手でぬいぐるみを受け取る。大切なものを扱うかのように。
「色褪せるくらいずっとつけているんだ、よっぽど大切なものだろうと思って…間に合って良かった」
腕で額の汗を拭いながら、カラ松くんは安堵の笑みを浮かべる。今日も推しは可愛い。
「はい…すごく大事なものなんです。何度も呼び止めてくれてたのに、気付かなくてごめんなさい」
「キュートなレディのためなら、フルマラソンの距離でも喜んで走りきってみせるさ。女性に優しくするのは男として当然のことだ」
気障ったらしい台詞も健在で、元気そうで何より。
持ち主の女性がカラ松くんに礼を言ってさよならかと思いきや、彼女はキーホルダーをリュックにつけ直した後、カラ松くんに向き直る。
「あ、あの…私のせいですごく汗かいちゃったし、お礼に近くのお店で冷たいものでも…」

フラグが立った。

貴重な分岐点だ。イエスかノーか、選択は一つしかない。ゆめゆめ間違えるなよ。
私は一人手に汗握る。
しかしカラ松くんは何を思ったか、首を横に振った。
「君の貴重な時間を少し貰えたことと、そのスマイルで十分お釣りが来る」
砂を吐く台詞いただきました、ありがとうございまーす。
いやいや違うだろ、同性の私から見ても可愛いと思う女の子からお茶に誘われて断るなんて、賢者モードか何かなのか
「それに、今から用事があるんだ」
タイミングが悪かったのか。それなら仕方ないと一人納得する私。
けれど女性は、はいそうですかと引き下がらない。
「それじゃ、今度改めてお礼をさせてください。それで、あの…連絡先を教えてもらえませんか?」
「オレは、可憐なヴィーナスの落とし物を拾えた光栄な男、というだけさ。だから気にせずに───あ」
顔を上げたカラ松くんと、目が合った。

「ユーリ!」

満面の笑みが顔いっぱいに広がって、カラ松くんが手を振ってくる。
「次は落ちないよう気をつけな、レディ」
「あ、あの」
彼に差し伸べようとした手は宙に浮いたまま、彼女は淋しげに視線を地面に落とした。去っていく自転車の後ろ姿を見つめながら、私は何とも言えない気持ちになる。

カラ松くんは真っ直ぐに駆け寄ってきて、私を見て一層喜びを溢れさせる。
「仕事帰りか?」
「う、うん。今ちょうど通りかかって」
盗み見してましたなんて口が裂けても言えない。
「フッ、この広い世界でハニーと巡り合うとは何という偶然、いやこれは間違いなくデスティニー。ハニーの小指に結ばれた赤い糸が、オレをこの地に引き寄せたに違いない」
一通りポエムを吐いてから、私の服装を見て続けた。
「仕事帰りのユーリは相変わらず格好いいな。いつも以上に大人っぽく見えて、眩しいくらいだ」
ギャップ萌えさせるコンボは卑怯だ。息をするように褒めてくるの止めて。
「ハニーさえ良ければ、どこかで軽く食べて帰らないか?」
え、と思わず声が出た。
「カラ松くん、用事は…?」
「用事?万年暇を持て余したニートに、急を要する用事なんてあるわけないじゃないか
胸を張るな。
「…そっか。用事がないなら、定食でも食べて行こうか。行きつけの所があるんだ」
すぐ近くだからと、私はカラ松くんを先導するように歩く。

ふと、彼がベッキベキに折ったフラグについて思いを馳せる。
松野家兄弟間におけるカラ松くんのヒエラルキーが底辺のため、彼自身自己評価が低くなりがちだけれど、今の女性然り、真摯な眼差しと豊富な語彙力で好意を告げられて、嬉しく思う異性も一定数いるはずだ。
大袈裟な演技の鬱陶しさを除けば、見目も決して悪くない。
ということはやはり、痛い言動とウザさが問題か。今しがたのように、ポエムの量を控えめにすれば、人によっては好意的に受け取る可能性もある。

「テレビの星座占いで、今日は双子座が一位だったんだ」
カラ松くんが不意に話しかけてくるので、私は思考を中断する。
「『思わぬ出会いがあるでしょう』、これはユーリと会うことを示していたんだな」
「すごいね、当たったわけだ」
「さっき目が合っただろう?
あの時、人混みの中でユーリだけが輝いて見えたんだ…会えたらいいなと思ってたから、夢か幻だと思った。
幻でも十分だったのに、こうして隣にいるから、嬉しいのを通り越して正直…その、どうしたらいいのか悩むな」
口説き文句が増し増しで来た。
照れる仕草の色っぽさに、今週これをおかずに生きていけそうな気さえする。
神よ、推しに幸あれ。




それから少し経った、休日の夜。
個人経営の居酒屋にカラ松くんとやって来た。いくつかのカウンター席とテーブル席が三つほどの、夫婦とアルバイトの青年一人で回している小さな店だ。
席は半分以上が埋まっていて、私たちは入口に近いテーブル席に通される。
先に入店したカラ松くんは通路側の椅子を引き、自然と私を壁側へと誘導する。上座を譲る所作も、いつの間にか自然になった。どんな時でも、彼は必ず下座に座る。
「ハニーは明日も休みだったか?」
「そうだよ」
「じゃ、今晩はゆっくり飲めるな。帰りは送っていくから」
さすがに酩酊するまでは飲まないよと笑って返して、私たちはそれぞれアルコールと料理を注文する。

「ハニーはいつも本当にオシャレだな」
ジョッキのビールを一杯飲み干した頃、カラ松くんが唐突に切り出したので、口に含んでいただし巻き卵を吹き出しかけた。
「どうしたの、急に」
「最初に出会った日から今日までずっと、オシャレの洗練度が更新され続けてるじゃないか。今日だって、服装からアクセサリーに至るまで人目を引く上に統一感があって、しかもトレンドまで意識してる。女性ファッション誌の表紙飾るかコラム連載持てるレベルじゃないか」
「ん、んん!?」
おいおい褒めすぎた、構わんもっとやれ
お世辞と分かっていても、真っ直ぐな瞳でそう言われて悪い気はしない。

「そんなユーリの隣を歩けるオレは役得だな」

もういい、今日の支払いは私が持とう。
鞄から財布を取り出してカラ松くんの顔面に投げつけたい。何なら財布ごと持っていけ。
「そ、そうかな…カラ松くんだって、前よりもっとオシャレになってきたよ。
私があげた服も着回してくれて、嬉しいな」
今日のカラ松くんは、紺のポロシャツにベージュのクロップドパンツという爽やかな出で立ちだ。ポロシャツの襟ぐりが深いため、ボタンを外して肌を露出させた姿からは、程よい色気も漂う。今日もありがとうございます。
「ユーリは…こういう服が好きなんだろう?」
「カラ松くんに似合うと思うからね。素材いいんだから、服で化けるよ」
「───だから、さ」
小さく答えたカラ松くんの耳が赤く染まっていく。
「いや、その…世のカラ松ガールたちの期待を裏切らないためにも、見惚れるくらいの美のカリスマである必要があるからな」
右手を額に当てて、悩ましげなポーズを決めるカラ松くん。そうだねーと私は適当に返事をしておく。



会話の途中で、不意にカラ松くんが立ち上がった。
テーブルにはほとんど空になった二杯目のジョッキと、食べかけの料理がいくつか並んでいる。
「すまないハニー、煙草が切れてた」
珍しいなと思った。なぜなら彼は、私の目の前で煙草を吸ったことがなく、言及することさえほとんどなかったからだ。たまに衣服から煙草の臭いがするから、嗜むことは知っていたけれど。
「外の自販機で買ってきてもいいか?すぐ戻る」
「暗いから気をつけてね」
「ついでに熱燗注文しておいてくれ」
店を出るカラ松くんの背中を見送ってから、頼まれた熱燗ついでに何か注文しようと思い、テーブル端に置いていたメニューに手を伸ばして、はたと気付く。

カラ松くんの財布がテーブルに置きっぱなしだ。

今ならまだ声の届く範囲にいるかもしれない。そう思って、入口のガラス戸を開けて外へ出る。
クーラーの効いた涼しい室内から一転、生温い微風が肌を撫でた。
店は、商店街の一角にある。目の前は車一台が何とか通れるといった道幅の道路。街灯が少なく、シャッターが下りた店もあるため、夜間は薄暗い。
そんな中、見慣れたシルエットが数メートル先に見えたから、財布を握る手を持ち上げて声をかける。
「カラ松く──」
だが彼のすぐ側で他の影が動くので、私は咄嗟に口を噤んだ。

「嫌がるレディを強引にエスコートするのは、紳士的じゃないな」

カラ松くんが二つの影の間に割って入る。彼の台詞から察するに、強引なナンパを仲裁しているようだった。
私は慌てて電柱の影に隠れる。
「テメェには関係ねぇだろ!」
怒鳴り声の主は酔っているようだ。
「関係なくても、見過ごすわけにはいかないだろ」
「うっせぇ、そこ退け!」
男の手がカラ松くんの胸元に伸びてくるが、彼は素早く体を捻り一撃を避けた。空振りした腕を掴み、相手の体を回転させて背中で捩じ上げる。
顔色一つ変えず、何でもないことのように。
「レディに強引なことをしても許されるのは、嫌がるフリの時だけだ。それ以上この人につきまとうなら、オレが相手をしよう」
やだ、イケメン。って、私がときめいてどうする。
酔っぱらいは大きく舌打ちをした後、捨て台詞を吐いて千鳥足で逃げていく。カラ松くんに庇われていた女性は、不安げに彼を見つめていた。

「大丈夫か?」
彼女を振り返り、カラ松くんが声をかける。ナンパ男に向けていた抑揚のない低音とは違う、優しい声音で。紳士が降臨、拝み倒したい。
「あの…ありがとうございました」
「この辺は人通りも多くないし、特に君のような美しいレディのひとり歩きは危険だな」
美しいと聞いて、私は身を乗り出した。助けた女性は、化粧映えする二十代半ばの美女だ。服装は半袖ブラウスとタイトスカート、仕事帰りのOLといったその格好からはスタイルの良さも窺えた。
「怖かった…」
「もう戻ってくることはないさ。行き先は?駅?
ああ、それならすぐそこだな」
「あ、あの…助けてもらったお礼を、させてもらえませんか?」

またフラグ来た。

前回は可愛い子だったが、今度はカラ松くん好みの美女だ。しかも今度は、恐怖から救ってくれたヒーローという好印象しか抱いていない。言動も全てイケメンのそれだった。据え膳食わぬは何とやら。

「すまない、連れを待たせてるんだ」

カラ松くんはにべもなく彼女の誘いを断る。
ああ、そうだった。煙草を買いに行くという理由での離席だったのだ。何というタイミングの悪さ。
───本当に、そんな理由だったのだろうか。
店の入口は上半分は透明なガラス張りで、カラ松くんは外の様子が自然と視界に入る席に座っていた。ならば、これは。
「駅まで行くなら、ここから見届けよう」
「でも…」

「彼女に誤解されるようなことはしたくない」

カラ松くんは揺るがない。
そんな風に思ってくれているのに、据え膳とか心が汚れたこと思ってすみませんでした。
カラ松くんの『彼女』という表現を誤解して受け取ったらしいその女性は、視線を地面に落として悲しげに微笑んだ。
頭を下げて改めて礼を述べてから、駅へと向かうためにカラ松くんに背を向ける。彼は約束通り、彼女の姿が見えなくなるまでその背中を見送っていた。
私は、音を立てないよう店内に戻る。そして熱燗を頼み忘れていたことに気付いて、慌てて店員を呼んだ。




少し経って、カラ松くんが席に戻ってきた。
テーブルに置き忘れた財布を目に留めて、苦笑する。
「オレともあろう者が、煙草を買いに行ったはいいが財布を忘れてたぜ」
「もう一回買いに行く?」
意地悪な問いかけだったか。カラ松くんは首を振って、席につく。
「いや、せっかくこうしてユーリといるのに、煙草を買いに行く時間がもったいない」
言いながら触れた熱燗のお猪口がまだ熱いことに、カラ松くんは不思議に思ったようだった。
「ユーリ…」

「あ、うん」
誤魔化すか、正直に話すか。意味のない声を出して時間を稼ぐ一秒の間に、脳を目まぐるしくフル回転させる。

「カラ松ガールは、いいの?」
「見てたのか…」
「お財布持っていこうとして。見るつもりなかったんだけど…」
カラ松くんは目を細めて笑う。
「彼女はカラ松ガールなんかじゃないさ。酔っぱらいに絡まれて困ってたレディだ」
お猪口に酒を注ぎながら、カラ松くんは答えた。
いつの間にか客は増えて、店内の席は九割埋まっている。高らかな笑い声や賑やかな会話が混じり合い、雑音として耳を突き抜ける。
「本気で言ってる?」
「へ?」
「助けた後にカラ松ガールになってたのに?
この前の、キーホルダー拾ってあげた子もそうだよ。その目は節穴か?ブラックホールか?
お猪口から日本酒が零れ落ちそうになり、カラ松くんが慌てて一気に煽る。
気付いていなかったのか、意識していなかったのか、いずれにせよ数日前と合わせてフラグを二本真っ二つにしたのは紛れもない事実だ。
「フッ、そうか、ついに時代がオレの魅力に追いついたか。
シャイなカラ松ガールたちには、オレからの歩み寄りが必要だったんだな」
まぁあながち間違ってはいない
そうかぁ、そうだったのかぁと悦に入るカラ松くんの様子が面白くてしばらく黙って眺めていたけれど、アルコールによる酔いも手伝ってか、口が滑る。

「でも、カラ松くんに彼女ができるのは嫌だなぁ」
カラ松くんの眉がピクリと動く。
「ん、んん?それはどういう意味かなハニー?」
彼はテーブルの上で両手を組んで平静を装っているが、頬が朱に染まっていく。
「こうして二人で飲みに行ったり、遊びに行ったりできなくなるでしょ?」
「…うん、そうなんだ。
大勢のカラ松ガールズに囲まれるより、ハニーと二人でこうして過ごす方がよっぽど楽しいから困るんだよな」
私に話してはいるが、ほとんど独白だった。
「誰かに好意を持ってもらえるのは嬉しい。でも今はもう、誰でもいいわけじゃない」
ちびちびと日本酒で口を湿らせながら、カラ松くんが言う。

「好きな相手に好きになってもらいたいなんて、虫のいい話なんだろうか」

カラ松くんの恋愛観を聞くのは初めてだ。
いつものように茶化すのは失礼な気がしたから、私も嘘偽りなく本心を答える。
「カラ松くんだけじゃない、私だって同じように思うよ。好きな人に好きになってもらいたいって、普通のことだと思う」
「…そういうもの、だよな。今まで経験がないから、どういう状態が普通なのかよく分からないんだ」
ブラザーたちには聞けないし、と自嘲するように笑う。
「自分だけが想っているのは苦しいな」
「うん」
「でも同時に楽しくもある…見たことのない世界が広がっていて、すごく綺麗なんだ」
遠くを見つめるカラ松くんの視線の先には、どんな情景が広がっているのだろう。頬を上気させて嬉しそうに微笑む姿からは、恋煩いの苦悩や悲壮感といったマイナスの感情はまるで感じられない。

「ユーリにも同じ景色を見せたいくらいだ」
私はいつも願っている。
カラ松くんの行く未来がどうか幸福に満ちたものであるように、と。





熱燗が二本空になった時には、カラ松くんの目は完全に据わっていた。酔っぱらい爆誕である。
他の兄弟と違って酒に強くはないと聞いていたが、外で酔うまで飲むのは想定外だった。放置して帰りたい。
他愛ない世間話が一段落した時、無言の時間が私とカラ松くんに訪れた。ガヤガヤとした雑音は途切れなく響く中で、私は料理に手を伸ばし、カラ松くんは水の入ったコップを両手で包む。

「なぁ、ユーリ───デートをしないか?」

静寂を破ったのはカラ松くんだった。
問われた真意を測りかねて、私は何でもないことのように返事をする。
「いいよ、今度は何して遊ぶ?」
その回答は彼の望むものではなかったらしい、カラ松くんはゆるゆるとかぶりを振った。
「違うんだ。二人で会うのは同じでも、視点を変えてみてくれないか?
デートの相手というフィルターを通して、オレを見てほしい」
ガラスコップの中で溶けていく氷を見つめながら。私と視線は合わせない。
酩酊による戯言ならば聞き流せばいい。ただ、そうでないなら?
「そういう話は、お酒を飲んでない時にしようね」
いずれにせよ、答えに窮する。酒を飲んで酔っている、冷静な判断が下せるとはお世辞にも言い難い状況だ。
「シラフの時じゃ言えないから、今言ってるんだ」
カラ松くんは畳み掛けてくる。
「逃げ道を用意してから挑むのは、ズルいな」
「ああ、ほんとにな…」
「お酒を飲んでるのはカラ松くんだけじゃなくて…私も、だからさ」
アルコールのせいにして逃げられるのは、何も彼だけではない。
ああ、とカラ松くんは頷いた。
熱に浮かされるような、眩暈がするような、仮にこの先何かを口走ったとしても、それは全部酒のせい。彼が本来望む真心には届かない。

「それでもいいんだ」

だったら、言葉も感情も、嘘も真実も全部混ぜてドロドロに溶かしてしまえばいい。

「…分かった、いいよ。カラ松くんが今の言葉を覚えていられたら、ね」

右手の小指が差し出される。
骨太で、繊細な指。
約束を交わす儀式に何の意味があるのか。契約の証はどこにもない、ただの行為に過ぎない。

けれど私たちは指を重ねた。

静かに、愉悦を感じるかのようにカラ松くんが頬を染め上げる。
「ありがとう、ユーリ」
交わした小指の温もりを離すまいと、私たちは指切りをしたまま動かない。
「…約束だ」
満足気に艶やかな笑みを浮かべた次の瞬間、カラ松くんは寝落ちした
それはもう見事な、意識を失うと表現しても過言ではないくらい、いきなりテーブルに突伏してのログアウト
すっげぇいい笑顔で爆睡するから、とりあえず無言で写真に収めておく。

とにもかくにも、新たなフラグが立った。
さて、このフラグを立てたのは、私とカラ松くん果たしてどちらなのだろう。




寝落ちしたカラ松くんは呼んでも叩いても起きる気配がないので、トド松くんに連絡を取り迎えを要請したら、なぜか五人全員でやって来た
「ごめんねユーリちゃん、兄さんたちに電話聞かれちゃって…迎えに行くって言ったらついてくるって聞かなくてさ」
「土曜の夜はこれから始まるんだよ、トド松。
てか、女の子とのデート中に寝落ちするとか、カラ松も腹が据わってるねぇ」
呆れたように溜息を吐きながら、おそ松くんがカラ松くんを背負う。
「これから僕らカラオケ行こうかって話になってるんだけど、ユーリちゃんも行かない?」
「おそ松兄さんが競馬で勝ったから、奢りだって」
チョロ松くんと一松くんに誘われる。
明日の予定も特にないし、酔いを覚ますのと、消化不良の発散にはちょうどいいかもしれない。
「行く!」
半時間ぶりに立ち上がったら、足元がふらついた。咄嗟にテーブルに手をついて事なきを得る。
正常な判断が下せるくらい平常心のつもりだったが、やはり酔いが回っているようだ。だとしたら先ほどの返事もきっと、気の迷いに違いない。


カラオケに興じて二時間ほどが経った頃、ソファに転がされていたカラ松くんが目を覚ます。
酔っ払った一松くんと十四松くんがしっとりしたバラードを艶っぽい仕草で歌い上げているところへの覚醒だったから、十秒ほど硬直したまま瞼一つ動かさなかった。気持ちは分かる。
それから辺りを見回して私を見つけると、親を見つけた迷子のような安堵に満ちた顔をして駆け寄ってくる。
「ユーリ…その、オレ…」
「途中で寝落ちしちゃったんだよ、覚えてる?」
「…あー、やはりそうか。熱燗二本目が少なくなって、次何頼むかとかいうところまでは覚えてるんだが。
ハニーがブラザーたちを呼んでくれたのか?」
あ?今何つった?
そうかー、そこかー、それたぶんデートの話よりだいぶ前だなー。うふふー。

フラグ三本目、終了のお知らせ。

「はい、カラ松くんアウトー」
無機質な声音で私は告げる。デデーン、と年末恒例長時間番組の某効果音がどこからともなく聞こえてきた。
「十四松くん、カラ松くんにタイキック
「いいよー」
「え、ちょっ、は、ハニー何の冗談」
「兄さん、歯ぁ食いしばって
「じ、十四ま───いっだあああぁああぁぁぁッ!」
カラ松くんの断末魔がカラオケルームに轟いた。

カラ松くんには、フラグブレイカーという称号を授けよう。
破壊なくして創造はあり得ないというが、いくら何でも破壊しすぎだ。可愛い女の子とイチャイチャしてリア充になれる輝かしい未来が目と鼻の先で、破壊と創造を繰り返して何一つ得ないなんてお前は神か。暇を持て余した神々の遊びか。

しかし、条件自体はまだ生きている。
デートを了承するにあたり提示したのは、『カラ松くんが私をデートに誘ったことを覚えていること』だ。つまり、私が彼に思い出させれば、その時点で有効となる。

なんて。

だからこのフラグはまだ、折られてはいない。