夏祭りというものは、往々にしてある種のノスタルジックを感じさせる場だ。
限られた軍資金で回る夜店を吟味した幼少時、同行者の普段とは違う装いに胸が高鳴った青春時代。二度と戻ってこない遠い日々を懐古しながら、賑わいの中に溶け込んで、刹那の郷愁に身を浸す。
花火大会が行われる日の夕方に、駅で落ち合う約束をしていた。
慣れない浴衣と下駄に体の自由が奪われる。その反面で、夏の風物詩を満喫しようとする自分は嫌いじゃない。
カランコロンと地面を鳴らす下駄の音色は、幻想の世界へと誘うかのような妖しささえ感じさせる。
カラ松くんは先に駅に着いていて、声をかけようと手を挙げたところで、不覚にも呼吸が止まりそうになる。
彼は細い白縞の描かれた紺色の浴衣を纏い、腕を組んで遠くを見つめていた。着崩した浴衣の胸元からは鎖骨が覗いている。
エロい。
その一言に尽きる。エロ神が降臨した。眼福の極み。
何がエロいってそりゃ合法的にチラリズムが拝み倒せるし、帯解いたら一気にベッドインに持ち込めるギリギリの際どさと、年にそうそう何度も着用しないレア感、そんなトリプルコンボが発動するところに尽きる。
「ユーリ」
己の煩悩を鎮めている最中に、カラ松くんがこちらに気付いた。私の姿を視認した後、悩ましげな表情で片手を額に当てる。
「ハニーの浴衣姿があまりに美しすぎて、夜空を彩るはずの一輪の花がガイアで咲き乱れたかと錯覚してしまったぜ。その七色の輝きはオレには眩しすぎる。サングラスを忘れたのが悔やまれるな」
「ついに発光体扱い」
相変わらず気障ったらしいのはブレないなと苦笑したら、賑やかな周りの声に紛れて、カラ松くんが口を手で隠しながら小声で続けた。
「その…すごく、綺麗だ」
それはこっちの台詞だ。
「浴衣で行きたいと頼んだのはオレだが、まさかここまでとは思ってなくて…他の男も大勢いるのを考慮してなかった。
ユーリ、今日はちゃんとエスコートするから、オレから離れないでくれ」
うん、と私は頷いて笑う。
「カラ松くんも似合うね、浴衣。やっぱり青が一番似合うよ」
「そう言ってもらえると、着てきた甲斐がある」
私の賛辞に目を細めたところで、カラ松くんは手を伸ばして私の髪飾りに触れた。花をモチーフにしたかんざしだ。
「ハニーにも青があるじゃないか」
花は、ブルーダリア。
「とてもよく似合ってる」
「お揃いだね」
「ああ…いいな、こういうの」
照れくさそうにカラ松くんが微笑んで、私たちの夏祭りはいつになく穏やかな空気に包まれながら始まろうとしていた。
かに思えた。
不意にカラ松くんの肩が叩かれて、彼ははにかんだまま振り返った。けれど次の瞬間、苦虫を噛み砕いたかのような不愉快極まりない表情になる。
「はいこんばんは、松野家リア充撲滅警察です」
六つ子たちがいた。しかも揃って浴衣姿で。
「実は松野家の次男が、浴衣着て花火デートに出掛けるってタレコミがあってね、ブチ壊すしかないと思って来たわけ」
「タレコミとは何のことだおそ松、オレはお前たちに話した上で来てる」
カラ松くんは冷めた双眸で彼らを睨むが、そもそも正論が通じる相手ではない。
「いやいや、夜のデートってだけで現行犯逮捕案件なのに、もし朝帰りにでもなったら俺らが待ちきれずに発狂して殺し合い始めるくらいメンタルやられちゃうんだよね。
だから一緒に行こうぜ。抜け駆けはぜってー許さねぇ───じゃなくて、ユーリちゃんの安全は俺たちリア充撲滅警察が守る」
節子、それ警察ちゃう、こじらせた非リア集団や。
おそ松くんは実に晴れやかな笑顔で両手を広げる。
「ね、いいでしょカラ松兄さん。ボク、カラ松兄さんやユーリちゃんと一緒に花火見たいな」
その後ろではトド松くんが瞳を輝かせて訴えかける。弟からの頼み事には滅法弱いカラ松くんの弱点を上手く突いた攻撃だ。
「し、しかし…」
案の定、カラ松くんは決心が揺らいだ様子。
「諦めなよカラ松。どうせ拒否っても、こいつらのことだから地の果てまで追いかけて徹底的に妨害するよ。まぁ僕もだけど」
さらっと自分も加えてくるチョロ松くん、正直か。
「そうそう、ボディーガード侍らせてるとでも思ってくれたらいいよ」
「カッコいい!ぼくらユーリちゃんのボディーガード!」
一松くんと十四松くんもノリノリだ。
「そりゃまぁ、天界のヴィーナスたちもこぞって嫉妬するくらい艶やかなユーリを害虫から守るにはガードは必要だが、六人は多すぎないか?」
まずはボディーガードの必要性から疑問視しようか。
「ユーリちゃんの可愛さは、お前一人で簡単に守れる程度のもんなの?
この人混みだと、俺たち六人いてやっと死線をくぐり抜けられるくらいじゃない?ぶっちゃけ六人でもギリギリだよ?」
「確かに!」
カラ松くんは目から鱗とばかりに大きく頷いた。
馬鹿なの?脳みそミトコンドリアなの?
もう好きにして。
六つ子たちと行動を共にするまでの経緯には言葉を失ったが、一緒に行くことには別段抵抗はない。結論に辿り着くまでの茶番が長いのが問題なだけだ。
さて、体は大人頭脳は子供のニートが六名勢揃いすれば、夜店巡りも一筋縄ではいかないのは自然の摂理。
おそ松くんとチョロ松くんは、クジに挑む。
「止めときなよおそ松兄さん。こういう夜店でのクジは当たりが入ってないのが定石じゃん。母さんから貰った小遣いは有限だぞ」
「チョロちゃん、常識に縛られてたら柔軟な発想はできないよぉ。
万一にも当たりが入ってる可能性だってあるだろ。箱を開けるまで猫が入ってるか入ってないか分からないって、何とかいう猫の話にもあんじゃん?」
「シュレディンガーの猫な。しかもその解釈は誤解だからな。つかクジ引いて何になんの?お菓子とかおもちゃとか、どう見ても二十歳すぎの大人が喜ぶラインナップじゃなくない!?」
チョロ松くんから全否定を食らいつつも、おそ松くんは自分の欲望に素直に従う。そして案の定、ハズレの景品ばかり抱える羽目になった。
「ユーリちゃんに全部あげる」
「大量のスライム貰っても困る。ソロプレイ時にでも使いなよ、新しい道が開けるかもよ」
「天才現る」
「お前ら真顔で何つー会話してんの!?」
活用法を提案しただけなのに、赤面したチョロ松くんからツッコミが入った。
十四松くんとトド松くんに目を向けたら、彼らは射的の銃を構えている。銃口にコルクを詰めて放つ一般的なタイプのものだ。
「ボクこれ苦手なんだよね、当たったことなくてさ」
「袖の長いぼくの服があれば余裕でっせ、トッティ」
「え?」
「いくらでも伸ばせるから」
「それは腕が?袖が?聞かない方がいいやつかな?」
トド松くんは笑顔を浮かべたまま凍りつく。十四松くんはそんな弟の様子を気にも留めず、右腕をぐるぐると回してみせる。
「とりあえず腕の関節全部外したら数センチは伸びるかも、やってみるね」
「止めて」
今度は真顔になった。
それから細工なしの状態で二人は射的に挑戦し、それぞれ一個ずつ的に当て、菓子の景品を手に入れる。
「あはは、お菓子貰っちゃった!ユーリちゃんにあげマッスル」
「ボクのも貰って。ユーリちゃんのために頑張ったんだ」
私は思わず目頭を押さえた。
ここには天使しかいなかったんや。
天使たちから貰ったお菓子を巾着に入れたところで、カラ松くんと一松くんの姿が目に留まる。彼らは玉子せんべいの屋台前にいた。
玉子せんべいは、たこせんと呼ばれる駄菓子の上にソースやマヨネーズ、揚げ玉や卵を乗せて食べるものだ。見るからにジャンクな、しかし癖になる味に定評がある。
「フッ、クジのヴィーナスはご機嫌斜めのようだ。俺の愛を拒絶するなんて、最近構ってやれなかったから拗ねてるんだな」
割り箸を握りながら気取ったポーズを決め、溜息をつくのはカラ松くん。
その店では、玉子せんべいの上に乗せる目玉焼きの数がクジによって決まるらしい。大当たりを引けば三個、当たりは二個、ハズレは一個とボードには書かれている。カラ松くんが引き当てたのはハズレだった。
「ハズレのくせにカッコつけてんじゃねぇよクソ松、退け。こういうのは利益出すために大抵ハズレになんだよ、大当たりなんて出るはずないだろ、馬鹿か」
暴言に容赦がなさすぎる。無慈悲な唾を吐き捨てながら、一松くんもまた割り箸を引く。
「ほら見ろ、おれだって───」
言いながら掲げた割り箸の先端は、赤く塗り潰されていた。
「あ」
声を上げたのは、たぶん三人一緒だったと思う。
「お兄さん大当たり!すごいね、大当たりは五十本中一本しか入れてないんだよ」
「え、え…ええ!?」
戸惑いを浮かべた表情のまま、一松くんは露店の女性から目玉焼きが三個載った玉子せんべいを受け取る。
「グレイトだ、ブラザー!」
「うっせぇ!こんなとこで、ただでさえ枯渇して砂漠化してる運使ってどうすんだよ!パチンコや競馬で当てた方が圧倒的にコスパいいだろがボケェッ!」
確かに。
「ただでさえ勝負運ないのに、もう止めておれの運貯蓄はゼロよ…」
「一松くんは相変わらずネガティヴ思考が凄まじいね」
ぶっちゃけ面倒くさい。
「いやでも、さすがに三個載ってると見栄えもするな。一松ラッキーボーイ」
「半熟卵三個とか贅沢の極みだよ、良かったね」
「いやいや、たかだか数百円だよこれ…」
私とカラ松くんが笑顔でサムズアップすると、一松くんは悪態をつきながらも満更ではなさそうだ。背中を丸めて、玉子せんべいにかぶりついた。
「ユーリ」
カラ松くんが、受け取ったばかりの玉子せんべいを私に向けてくる。
「ん」
言葉こそ発しないが、一口どうだ、と伺う顔だ。ソースの匂いに空腹が刺激されたところだ、有り難く頂戴することにして、一口かじる。
「旨いか?」
「うん、美味しい。私も買おうか悩むな」
正直に答えたら、カラ松くんはにこりと破顔した。それから私が食べた部分に口をつけて、次の瞬間ハッとしたように目を見開く。頬が赤く染まっていくその理由に、私はすぐ思い当たった。
ピュアがすぎる。少女漫画か。
「ハニー、荷物持とう」
十四松くんとトド松くんから貰った菓子や、自分で買ったりんご飴の入った巾着袋は、それなりに膨張しててパンク寸前だ。巾着袋は浴衣との相性がいい反面で、収納力がなく実用性には欠ける。
「ありがとう、助かる」
「浴衣というだけでも十分大変だろう?使う時は言ってくれ」
夏祭りに来て夜店を巡るのは、花火が打ち上がるまでの時間潰しであると同時に、この時期にしか味わえない独特な空気を感じるためなのかもしれない。
汗ばむ気温の中、履き慣れない下駄を鳴らして、色とりどりの提灯と明かりで作られたアーチをくぐれば、その先は別世界に繋がっているかのような錯覚。
どこからともなく聞こえてくる祭囃子は、幻想へと誘う魔法のように奏でられていく。
前を歩く六人の背中を追いながら、ふと唐揚げの露店が目に留まる。カップに入れ放題で五百円。こんがりときつね色に揚がった鶏肉と、香ばしい匂いが鼻孔をくすぐる。
「ね、カラ松くん、美味しそうな唐揚げが───」
見惚れていたのはほんの数秒のことだったと思う。
しかし視線を元に戻した時、その先に六つ子の姿はなかった。
慌てて人混みをかき分けて進むが、彼らは一向に見つからない。全員が異なる色の浴衣を着ているから、目立たないはずがないのだけれど。
「あ、そうだ、携帯──はカラ松くんか…」
財布も携帯も入った荷物は全部、カラ松くんが持っている。つまり、今の私は完全に手ぶら。帰りの電車賃さえない状態だ。しくった。
しばらく歩いて彼らを探したが、この人混みでは闇雲に探しても埒が明かない。通行の妨げにならないよう端に寄り、さぁどうしようかと腕を組んだところで、誰かに背中を叩かれた。
六つ子たちかと口元を綻ばせて振り返る。
「お姉さん、一人?」
しかしそこにいたのは、二十代半ばと思われる浴衣姿の青年二人だった。明るく染めた髪と耳に光るピアスの外見、初対面での馴れ馴れしいタメ口。待ち人ではなかった落胆と、第一印象の悪いモブの出現に、思わず顔をしかめる。
「さっきから見てたけど、一人で来たんでしょ?
いい角度で花火が見れる穴場知ってんだけど、どうかな?一緒に行こうよ」
「はぐれた人を探してるので、すみません」
「ウソウソ。連絡取る様子もなかったじゃん、暇でしょ?」
それは携帯も財布もないからだと反論しようとして、口を噤む。自分が不利になるネタをバラまくだけだ。
「暇じゃないです」
眉根を寄せて、話しかけるな散れオーラを全身から醸し出すが、一向に諦める様子はない。
「そんな可愛い格好して一人なんてもったいないよ。遠慮しないで、行こうぜ」
「大丈夫、心配しなくても俺ら怖くないって」
「ちょっ──」
青年のうちの一人が手首を掴んでくる。表面上は誘っているという体だが、有無を言わさない力が込められている。
苛立ちの中で僅かに湧き上がる恐怖に、足が竦む。
「いいじゃん、付き合ってあげれば」
どこからともなく聞こえた声。
人が大勢行き来する喧騒の中、その声は確かに私に向けられていた。
「…仕方ないな。いいよ、付き合う」
私が観念したように言うと、彼らはニヤリとお世辞にも愛嬌があるとは言えない笑みを浮かべて、顔を見合わせた。手首の拘束が外れる。
浴衣の裾を翻して、さぁどうぞとばかりに私は手を広げた。
「───私のボディーガードたちも一緒になるけど、いいよね?」
私の背後にずらりと並ぶのは、同じ顔をした六人の青年たち。
憎悪を込めた鋭い眼光を向ける者、不敵な笑みで出迎える者、無表情で見下す者。一様に敵意を剥き出しにして彼らの前に立ちはだかる。
「うちのお嬢さんに声をかけるなんて、目の付け所が違うねぇ。お礼にさ、俺たちボティーガードも君らのお相手させてよ」
六人の中央に控えるおそ松くんが拳を鳴らす。
「ハニーに気安く触ってくれたんだ、是非お願いしたい」
カラ松くんに至っては、侮蔑を通り越して殺意さえ漂っていた。触るな危険。
「あ、いや、俺らは別に…なぁ?」
「そうそう!と、友達見つかって良かったね、それじゃ!」
去り際に不意打ちで強く肩を押され、体が後ろによろめく。
「おっと」
咄嗟に肩を抱きとめてくれたのはカラ松くんだった。
しかし私がバランスを崩して転倒しかけたことに六つ子全員の意識が向いてしまい、脱兎の勢いで人混みに消えたナンパ男たちを見失ってしまう。実害がなかったとはいえ不愉快な思いはしたのだ、報復されるところは正直見たかった。
「チッ、ヘタレ野郎どもが。ユーリちゃんナンパしようなんざ百年早ぇんだよ、一昨日来やがれ」
大きく舌打ちするおそ松くん。思いの外頼り甲斐がある背中に呆気に取られていたら、カラ松くんが私の顔色を窺ってくる。
「…ユーリ、無事か?」
「う、うん、何ともないよ」
「良かった…人混みで見失ってしまって、本当にすまない。オレのせいで怖い目に遭わせたな」
カラ松くんのせいじゃないと、私は首を横に振る。
「そんなこと──」
「一瞬でも目を離したオレが悪い」
今にも泣き出しそうにカラ松くんの顔が歪む。まるで責任の所在が、彼にあるかのように。自ら作り上げた十字架を背負う必要はどこにもない。だから断固否定した、真正面から彼を見据えて。
「カラ松くんは悪くない」
「ユーリ…」
カラ松くんが何か言いかける中、私たちの間に首を突っ込んで、私の手を遠慮なく握ってくるおそ松くん。
「なぁなぁユーリちゃん、俺すげーイケてなかった?まさしくヒーローって感じだっただろ?
俺に惚れるフラグ立ったよな、今すぐフラグ回収するからホテル行こう」
「即物的すぎるだろおいこらゲス松」
しかしすぐにチョロ松くんに首根っこを掴まれた。好感をドストレートに伝えてくるところは評価するが、如何せん表現がゲスい。
どう返事すべきかと苦笑していたら、トド松くんが頬を膨らませて吐き捨てる。
「ほんっと止めて、おそ松兄さん。兄弟ランキングのワースト殿堂入りするよ」
「まぁまぁ、おそ松兄さんはプレーンだからさ。おれらと違ってキャラっていう皮被ってない剥き出し状態だから、少しは勘弁してあげなよトッティ」
一松くん、それフォローになってない、むしろ抉ってる。
花火の打ち上げ前まで一時間を切った頃、後少し露店を楽しんだら土手に移動しようか、そんな話になる。
残された時間でどの店に行くか、童心に帰ったように目を輝かせて見回す六つ子たちの後ろ姿を、私は微笑ましい気持ちを眺めていた。
何気なく隣を一瞥すると、カラ松くんと目が合った。彼は照れくさそうな微笑を浮かべた後、自分の唇に人差し指を当ててウインクしてみせる。
意図が測れず目を点にしていたら、カラ松くんは突然私の手を取り、別の道へと誘導する。
前を歩く松野家兄弟は、私たちの離脱には気付かない。色とりどりの浴衣姿が次第に小さくなっていく。
「カラ松くん、どこ行くの?」
「先回りするだけさ」
彼の言葉通り、手を引かれて連れられた先は、もう少ししたら向かおうとしていた目的地だった。
河川敷の土手は、今日の花火大会における絶好の鑑賞スポットだ。ビルや大きな建物といった障害物に阻まれることなく花火が鑑賞できるから、シートを敷いて席取りをする見物客も多い。
「ブラザーがここに来るまでの少しの間でいい、ユーリと二人で過ごしたいんだ」
空いている場所に腰を下ろしたら、カラ松くんがぽつりと呟くように言った。
「半時間もないけどね」
「その半時間を、オレにくれないか?」
いつになく真摯な眼差しに、私は言葉を失う。
人混みが奏でる騒々しいくらいの雑音が、二人の声を狭い空間に閉じ込める。あまりに人が多すぎて、私たち二人のことなど気にも留めない。
「夢だったんだ───こうやって、ハニーと祭りに来るのが」
気恥ずかしさを誤魔化すように髪を掻きながら、カラ松くんは私を見つめたまま続ける。
「だから、こうして夢が一つ叶って嬉しい」
「そう思ってもらえるのは光栄だな」
こちらこそ、推しと夏祭りなんて課金してないのが申し訳ないレベル。
浴衣姿だけでも美味しすぎるのに、ボティーガードとか逃避行ごっことかミニイベント盛ってくるの何なの、無課金でいいのか本気で心配になる。
「でもカラ松くんからのお誘いがなかったら、私から誘ってたと思うよ。夏はやっぱりお祭りは外せないもんね」
「こうやって、季節ごとのイベントをハニーと楽しんでいけたらいいな」
「いっそのこと一年通して定番イベントコンプしちゃおっか。たまにはおそ松くんたちやトト子ちゃんも誘ってさ」
我ながらナイスアイデア。休日に推しや仲間たちと騒ぎ倒してエネルギーを充電すれば、仕事への活力にもなる。
「はは、いいなそれ。ということは、軍資金調達のために、銀のヴィーナスには是非とも微笑んでもらわなければ」
「いやいや、そこは仕事しなよ。真っ当な方法で稼ごうよ、ニート歴更新する気満々か」
「オレを養ってくれていいんだぜ、ハニー」
瞳を輝かせながらの気取ったポーズで、カラ松くんはぬけぬけと言い放つ。苦虫を潰したような顔の私と顔を見合わせて、それから二人で吹き出した。
「さっきのナンパ野郎は許せないが、ユーリに声をかけた気持ちは分かる」
雲ひとつない星空の下、生暖かい風が吹き抜けた。
「困ったな…これ以上他の男に、その浴衣姿を見せたくない」
足元から頭のてっぺんにかけて熱が駆け巡る感覚がした。咄嗟に気の利いた台詞が出てこない。
エッロ。
これもうドエロやん。R指定でもおかしくない色気。
着崩した浴衣から見え隠れする肌と照れた顔だけでも昇天ものなのに、ここに来てウィスパーボイスで口説き文句ときた。イケボの正しい有効活用。
「───あー、いたいた!おーいユーリちゃん!」
タイムリミットを告げる鐘の音が鳴ったら、王子様との逢瀬は終わり。
シンデレラは後ろ髪引かれる思いを振り切って、カボチャの馬車へと戻るのだ。
「時間切れ、か」
そう言って苦笑したカラ松くんは、次の瞬間私の視界から消えた。
チョロ松くんの飛び蹴りが命中した模様。
「クソ松テメェっ、ユーリちゃん拉致って抜け駆け気取りか!?あぁん!?浅いんだよテメェの考えは!
リア充撲滅警察の包囲網舐めてんじゃねぇぞ!」
その設定はまだ継続中なのか。
「逃避行ごっこは二人きりの時にやってもらおうか。
俺らと行動共にしている時に勝手にやられると、もはやただの迷子なんだよ」
おそ松くんの意見には、反論の余地がない。よくよく考えれば仰るとおり。
「…ま、ユーリちゃんは被害者だからさ。クソ松は帰ってから改めて処刑だ」
土手を転げ落ちたカラ松くんを冷めた双眸で見下ろしてから、一松くんは私の隣に腰かけた。それを見ていた十四松くんは、あー、と声を上げる。
「一松兄さんズルい!ぼくもユーリちゃんの隣がいい!」
「ねぇみんな、そろそろ花火の時間だよ」
最初に、栓を開けるような音がした。
それから鮮やかな火花が暗闇に放たれて、夜空を美しく彩っていく。遙か上空で無数の星が瞬き、見上げる観客の瞳を輝かせる。ある者は歓声を上げ、ある者は言葉もなくただ立ち尽くす。
か細い光の集合体は刹那の輝きの後に空気に溶け、その姿を散らしていく。
「綺麗だねぇ」
そう呟いたのは、六つ子のうちの誰だったか。
誰もが口を綻ばせて、黒い夜空に咲き乱れる色とりどりの花に心を奪われる。
いい夏だった。
遊び倒したという表現が一番適切と感じたのは初めてだ。
来年もまた同じ夏を過ごしたいと望む心とは裏腹に、同じ夏は二度と来ないことを頭では分かっている。私たちは一年分大人になり、街は歳月と共に姿を変える。
だからこう願うのだ、来年はもっと楽しい夏になりますように、と。
幸せが、この花火のように降り注ぐように。