街が装いを変えて移りゆく季節の中でも、自分の側で微笑んでいたその姿だけは、変わらないでいてくれると信じて疑わなかった。根拠なんて当然何もない。
あまりに自分勝手な思い込みだと身をもって知るのは、いつだって失ってからだ。
ユーリの記憶が戻らないまま、無情にもタイムリミットが訪れる。
水平線の向こう側に太陽が沈む頃、思い出巡りはまた日を改めようとユーリが戸惑いがちに口にする。カラ松に拒否権はなく、同意する他ない。
夕食でもどうだと誘うのは躊躇われた。二人で共有していた、二つで一つだった思い出が失われた今、カラ松が語る思い出は彼女にとっては空想の産物でしかない。
最寄り駅で入場券を購入し、ホームでユーリの乗る電車を待つ。
「せめてドアが閉まるまで見送らせてくれ」
いつになく離れ難くて、少しでも側にいたかった。
当初こそユーリは首を横に振って辞退したが、カラ松の悲痛な思いを察してか、しばらくして仕方ないなと肩を竦める。
ホームは電車を待つ客で溢れている。制服姿の学生たち、仕事帰りのサラリーマン、すれ違う人々の様相は様々で、地面を踏み鳴らす足音や会話の声で周囲はガヤガヤと賑やかだ。自分たちの声を掻き消してくれる、おあつらえ向きな環境。
「なぁ、ユーリ」
「うん?」
「もし…もしこのまま、君がオレのことを思い出せなかったら」
正直、まだ現実を受け入れられない。明日になれば何もかも元通りになって、ユーリはまた以前のようにカラ松の名を呼んでくれるのではないか。叶わないと知りながら、そんな淡い期待を抱いている。
「その時は──」
けれど、向き合わなければ。もう一度、ユーリと共に歩みたいと願うならば。
「もう一度、オレと友達になってくれないか?」
ホームに滑り込んだ電車のドアが開いて、乗り降りする乗客がカラ松とユーリの脇を通り抜けていく。大勢の人混みに溶け込んでも、ユーリだけが一際輝いて見える。
例え存在を忘れられても、彼女の態度がよそよそしくなっても、ユーリを想う自分の気持ちは一ミリだって変わらない。
「もちろん!っていうか、今だって友達でしょ?」
白い歯を覗かせて、ユーリはにこりと微笑んだ。
息が止まった、運命だと思った、オレが必ず守る。
関係性の変化を恐れて濁してきたユーリへの愛しさは、時に率直に、時に冗談っぽく気取って、使い古された陳腐な言葉に込めて伝えてきた。
回りくどいカラ松の口説き文句を聞くたび、ユーリはどんな感情を抱いていたのだろう。今となっては、本人に確認する術もない。
「この電車で帰るね」
「夜道には気をつけるんだぞ、ハニー」
「大丈夫だって。でもありがと、じゃあね」
カラ松の目の前でドアが閉まった。
まるで今の自分とユーリを隔てる距離のようだと思ってから、カラ松は内心で自嘲する。どこまでロマンチストを気取るつもりなのか。
しかし遠ざかる電車から目を逸らせずに、その姿が完全に視界から消えるまでカラ松はいつまでも見送っていた。
もう一度最初から始めればいい。
これまでだってずっと一方通行だったのだから。
今後の方針が決まった途端、胸に巣食っていた暗雲はたちどころに霧散して、急に晴れやかな気持ちになる。
明日の約束をどうするかを聞き忘れたことを、帰路に着く道中でようやく思い出した。
自室にはおそ松以外の四人が揃っていて、めいめいが夕食までの時間を潰している。
トド松は充電が復活したスマホを手にしていて、充電器が見つかったのかと問えば、ソファの裏に落ちていたと言う。その後電源が入るようになったスマホでデカパンに連絡を試みたが、外出しているのか、何度電話しても応答がなかったらしい。
他の兄弟はトド松から一通り事情を聞いているようで、部屋に戻ったカラ松に何とも言えない憐憫の目を向けてくる。気安い慰めは、かえって相手を傷付けることを知っているかのように。
「僕明日は朝六時に起きるけど、他に誰か早起き組いる?」
求人情報誌から顔を上げて、不穏な空気を変えるかのようにチョロ松が訊く。応えたのはトド松だ。
「はいはい、ボクも六時起き。スマホの目覚ましかけるから、うるさかったらごめんね」
「僕が起きなかった場合は起こしてよ」
「いいよ、ボク明日は絶対二度寝しないし」
胸に片手を当て、フフンと鼻を鳴らすトド松。妙に自信たっぷりだ。
カラ松は夜風を取り込むために開け放した窓の枠に腰を掛け、三男と末弟の他愛ないやりとりを眺める。
「何その自信。そこまで言われると逆に二度寝させるために十四松との完徹素振り特訓コース突入させたくなる」
「それボク確実に肉体的に死ぬよね」
「トッティ!ぼく明日全然予定ないから特訓してもいいよ!やる!?トッティやる!?」
「狂人は入ってこないで!話が余計こじれる!」
あははーフラれちゃった、と十四松は相変わらずの感情の読めない笑顔で体をくねらせる。そんな弟の頭を一松が無言で撫でた。
「何で二度寝しない自信あるって言っただけで拷問コース勧誘の流れになるんだよ、この兄弟ほんと頭おかしい」
「いやだってお前が腹立つこと言うから」
「言ってねーし!一欠片だって言ってねーから!
…はぁ、もういいよ。明日は朝からユーリちゃんとデートだし、お肌に悪いことはしたくない」
「ユーリちゃんとデート!?」
叫んだのは、カラ松とトド松以外の三人だった。カラ松は正直出遅れて、理解が追いつかず呆然とする。
「トッティお前…クソ松がユーリちゃんと駄目になったからって、後釜狙ってんの?」
何か大事なことを見逃しているような気がして、眩暈がする。
「失礼なこと言わないでよ。ユーリちゃんがオッケー出してくれたんだよ」
トド松は心外とばかりに口を尖らせた。
自分は、何か重大な勘違いをしているのではないか。
振り出しに戻ったのなら、もう一度始めればいいと思った。
しかしその関係は、対象者がユーリとカラ松の二人である前提があって初めて成立する。
ああ、そうか───スタート地点まで戻ったのは、カラ松だけなのだ。
彼女の中で五人の兄弟の立ち位置は、今までと変わらない。
ということは、カラ松に関する記憶と思い出を失った今、少なくともカラ松の知る交遊関係のうち彼女に最も近いのは、スマホを通じて交流のあるトド松だ。自分が知らないだけで、男友達や異性の同僚もいるだろう。彼ら全員にアドバンテージがある。
ユーリにとっての『一番』は、既に誰かに取って代わられた。
背筋に冷たい緊張が走る。
なぜ今までそんな当たり前のことに気付かなかっただろう。ユーリにとっての一番は不動だという驕りがあったのか。
反射的に部屋を飛び出していた。
十四松の自分を呼ぶ声が背中にかかった気がしたが、振り返って応じる余裕はない。乱暴に靴を引っ掛けて、人気のない夜道を走った。
「カラ松兄さん、どうかしたの?」
「さぁ?何だあいつ、すごい慌ててたけど」
一松とトド松は窓から身を乗り出して、カラ松が玄関を出る後ろ姿を唖然と見送る。事情を尋ねる間もなく、青い背中は闇夜に溶けて消えた。
「っていうかトッティ、ユーリちゃんとデートってマジ?」
「──あー、デートっていうのはボクの認識。朝一に並ばないと買えない人気のスイーツ一緒に並ぶだけだよ。買ったらそれで解散」
待機時間含めても、長くて三時間といったところか。デートと呼ぶにはあまりにも色気のない逢瀬。
「個数制限あって、ユーリちゃん、ボクら六人に食べさせたいんだってさ」
「…ええ子やん」
「だよね」
二人でしみじみと呟いて、それから揃って深い息を吐いた。
「さて、あとは容疑者のキングオブクズのご帰還を待つだけか」
「兄さんと呼ぶのもおこがましい。あいつを処刑しないことには今日は終われないね」
部屋に揃う四人が容疑を否認する現状で、有力候補はおそ松一人に絞り込まれた。いずれにせよ、デカパンと連絡がつけば犯人は確定する。
ガバッと音を立て、弾かれたように十四松が体を起こす。
「訪問者の匂いをキャッチ!データ照合───パターン赤、兄さんです!」
「第一の長男か。総員、戦闘配置だ」
「何で使徒襲来っぽく言うの」
十四松と一松の唐突なコントに、トド松はついていけない。
そうこうしているうちに、軽やかに階段を上る足音とご機嫌な鼻歌が近づいてきて、赤いシャツが姿を現した。
「兄ちゃん帰ったよー!いやー参った参った、パチンコで確変止まらなくなっちゃって、もうウハウハ───ってあれ?何、どした?お前ら揃いも揃って機嫌悪いの?」
「お前のせいじゃボケエエエェェエェェッ!」
四人の叫びがハモった。
「え!?ちょっと待って、なになに!?どゆこと!?」
「デカパンからこの薬貰ったの兄さんでしょ!?
言い逃れは許さないよ、正直に吐いてよね!」
トド松はデカパンシールの貼られた小瓶を突きつける。
眉間に皺を寄せてしげしげと見つめた後、あ、とおそ松は声に出す。見つかっちゃったかぁと、まるでイタズラが見つかった子どものように肩を竦めて。
フルスイングで殴り飛ばしたい衝動を必死に堪え、チョロ松はトド松に続いて問う。
「ユーリちゃんがこれ口にして、カラ松のこと忘れたんだって。カラ松はどうでもいいけど、あいつがいたから僕らとユーリちゃんに濃い接点があったも同然なんだぞ。
お前どう落とし前つけてくれんの?指詰める?体の関節という関節外す?」
チョロ松は怒らせると怖い。
しかし四人の狼狽など我関せずといったおそ松は相変わらずの飄々とした態度で、彼らの怒りに油を注ぐ。
「えー…そっかぁ、ユーリちゃんが飲んじゃったか。マズった、置いとく場所失敗したな」
「こいつ余裕あるな、爪一枚ずつ剥がしていくか」
「待ってチョロちゃあんッ!」
工具箱からペンチ持って来いと末弟に指示する三男を両手で制してから、おそ松は苦笑して言う。
「ってかさ、そんなカッカするようなことじゃないって。だってこの薬は───」
インターホンを押す指が震えた。
息は切れ、こめかみや首筋から流れる汗がぽたりと地面に落ちる。
「カラ松くん!」
玄関を開けたユーリは、カラ松の姿を見て目を瞠った。
服装がさっきまでとは違う、体のラインを隠すゆったりとしたシャツに、ジャージパンツという部屋着だ。カラ松は予期せぬ訪問者だったに違いない。
「こんな時間にどうしたの?」
夜も更けた時刻に女性の一人暮らし宅への訪問。肩で息をする今日が初対面の男。
身の危険を感じて当然の状況で、玄関を開けてくれたのは不幸中の幸いだった。
「あ、あのね、カラ松くん──」
ユーリが拒絶の言葉を放つ前に、カラ松は告げる。
「ユーリ」
焦がれるように名を呼んで。
「オレのことを思い出せなくてもいい!もう一度始めからでもいい!
それでもいいから、だから…っ、これからもユーリの一番近くにいさせてほしい!」
絞り出した声は掠れ、悲痛な叫びとなってマンション内に反響する。共用廊下で点滅を繰り返す切れかけた電灯が、不安を煽るかのようにチカチカと不規則に明かりを灯す。
昨日までの日々に戻れないことよりも、居場所を奪われる方が、ずっと苦しい。
「オレ以外の男に、その場所を譲らないでくれ…ッ」
片手でドアを開けたまま呆然とするユーリの顔が滲む。目頭が熱い。
「と、とにかく中入って!」
ユーリはカラ松の腕を取って、玄関内へと引き込んだ。廊下に誰もいないことを確認してドアを閉めた時、口から漏らした安堵の息がカラ松の首筋にかかるから、思わず息を呑んだ。
一人暮らし用の狭い玄関口に二人が立つと、今にも密着しそうなほど距離が近い。気安く触れたいと渇望していた肌が今は間近だ。
足を引いてカラ松から離れようするユーリの腕を咄嗟に掴んで、強引に自分と向き合わせる。
「カラ松く──」
「定職にも就く、パチンコだって止める。できることは何でもする!だから───」
気ばかりが急く一方で、どこまで身勝手なのかと冷静に分析するもう一人の自分もいる。望んでいたはずのユーリの幸福は、幸せにするのは自分でありたい願望にいつしか取って代わっていた。
「…明日のトド松とのデートだって、本当は行ってほしくないんだ」
ユーリが顔を上げる。
乱暴に振り払われた直後、ユーリの両手がカラ松の腕を掴む感触があった。あっという間に立場が逆転する。キッと自分を見つめる双眸には、力強ささえ感じられた。
「待って待って、落ち着いて!トド松くんとデートって何のこと?」
彼女は大きくかぶりを振った。
「トド松くんとは明日朝一にスイーツ買いに並ぶだけだよ、買ったらすぐ帰るし、デートじゃない。
カラ松くんとの約束は午後からだったよね?」
「…え」
どうしてそれを、という言葉が喉まで出た。
「もしかして、私から連絡ないからドタキャンになったと思った?
信じてもらえないと思うけど、お昼ぐらいからついさっきまで何してたのか全然覚えてなくて、今ちょうど電話しようと思ってたんだ」
遅くなってごめんね、と。
何度目の謝罪だろうか、今日はずっとユーリに謝られてばかりだ。
世界が本来あるべき色を取り戻し始める。暗澹とした灰色に染まっていた景色に鮮やかな色が溶け出して、部屋中に広がっていく。
「ユーリ、ひょっとして記憶が…」
カラ松に関する記憶を一切喪失しているなら、明日の約束を覚えているはずがない。約束を交わしたのは、薬を飲むより以前のことなのだから。だとしたら。
「きおく?」
「…なぁハニー、オレと初めて会った場所を覚えてるか?」
「カラ松くんのお財布拾った所のこと?」
「今まで二人で出掛けた場所は?」
ユーリは淀みなく答えていく。今日カラ松と共に回った場所さえも。
「え、何?何のクイズ?もしかして、夕方までのこと覚えてないって言ったから、痴呆症の可能性示唆してるの?止めて、私の心が大きな傷を負う」
胸いっぱいに広がる安堵を脳が認識したら、もう駄目だった。
堰を切ったように溢れる涙が止まらなくなって、ユーリには見られないように腕で拭ったら、余計に顔中に広がってしまう。
不意に、タオルハンカチの柔らかな繊維が目尻に触れる。カラ松の涙を拭きながら、ユーリは困ったように笑った。
見慣れたユーリの顔だ、とカラ松は思う。まるで警戒心のない、カラ松に全幅といっていい信頼を寄せている表情。
安堵と共に訪れた途方もない脱力感に体の力が奪われる。と同時に、細いしなやかな指がカラ松の背中を叩く。もう我慢しなくてもいい、そう言われた気がして。
カラ松はユーリの肩に顔を埋め、今度こそ声を上げて泣いた。
込み入った話を玄関で続けるわけにもいかず、ひとまず部屋に上がってもらい、カラ松くんに冷えたお茶を出した。
「そっか、私記憶喪失だったんだ」
しゃくりあげながら切れ切れに顛末を語るカラ松くんの言葉を繋ぎ合わせて、私は空白の半日の全貌を知るに至る。
思い出して良かったこれでハッピーエンドだねとなるべきなのだろうが、そうは問屋が卸さない。
貴重な休日の半日どうしてくれる。ニートたちはいい、奴らは毎日が休日だ。しかし私は社会人、休日はかけがえのない休息の時間である。推しを愛で推しをいじり倒し、あわよくば欲望のままにセクハラをかます有益となるべき時間を、事もあろうに無為に過ごした、と。
主犯のおそ松は極刑に処す、と心の中で復讐を誓っていたら、カラ松くんが重い口を開く。
「それで、その…オレがさっき言ったことなんだが…」
私から目を反らしたまま、いささか居心地が悪そうにガラスコップを両手で包んでいる。
「うん。定職に就くって」
「就かない」
「あとパチンコも止めるって」
「止めない」
おいおいこの人真顔だよ、澄み切った瞳で言い切りやがった。さっきまでの鬼気迫る様子は何だったのか。
「そんなこと言ってない」
「自分に都合のいい展開になったから前言撤回ときたか。いい感じに松野家六つ子らしいクズっぷり」
カラ松くんも六つ子の一員であることを再認識させられる。推しの欲目で見がちだが、所詮は彼らの中ではまだマシ、というレベルか。
「一般ピープルとは一線を画した際立つ才を持つ…オレ。フッ、そう褒めるなハニー」
「褒めてない」
さっきまでのドラマっぽい展開の必要性を問いたい。もう半分以上告白だったような気がしたが、気のせいだったらしい。
私の辛辣な返答に首を竦めて、カラ松くんはようやく私と目を合わせる。
「でも───ユーリに迷惑かけた埋め合わせはする。今はそれで勘弁してくれ」
今は。
ただの言葉の綾なのか。それとも、未来に何かしらのリターンがあると期待してもいいものか。しかしそれ以上踏み込んで聞くのは野暮な気がして、私は納得したフリをした。
チョロ松に首根っこをつかまれ足の半分が宙に浮いた格好で、おそ松はデカパン貰った薬の効能と副作用を説明する。弟の乱暴に強く抵抗しないのは、自分の行為にやましさがあった事実を物語ると同時に、三男の背後に殺意を持った三名が控えていた恐怖故でもある。
「───ってことは、あの薬の効果は六時間。
効果が切れたら、元の記憶を取り戻す反面、記憶を失っていた時間帯の記憶をなくすってことで間違いないな?」
「うん、そう。な?カッカするようなもんじゃなかっただろ?」
ちょっとした遊び心だったんだよ、と笑うのはおそ松。
「リアタイで巻き込まれたボクは生きた心地しなかったんだけど?一回首の骨折る?」
「やったれトッティ」
ボキボキと指を関節を鳴らすトド松の背中を一松が押す。
「それか僕がチョークして気管潰すのでもいいよ。おそ松兄さんはどっちがいい?」
十四松が片手を口元に当てて、ふふふと笑う。
「待ってえええぇえぇ!どっち選んでも死ぬ未来しか見えない!」
「生かしておく気ねぇから。
我ら童貞の希望の女神であるユーリちゃんに迷惑かけた罪、万死に値する」
ニートで童貞で実家寄生という三重苦を気にも留めず、友人として別け隔てなく接してくれる貴重な異性だ。カラ松が特別視されていることを面白くないと感じることはあれど、次男を出し抜いてトップに君臨する無謀さも理解している。
トト子が憧れで高嶺の花なら、ユーリは大事な友人だ。
いや待ってよチョロ松兄さん、とトド松がハッと何かに気付いた顔になる。
「カラ松兄さん、もしかしてユーリちゃんの所に行ったんじゃ…」
「何、だと…」
チョロ松は目を剥く。顔を上げて壁がけ時計を見やれば、彼女が薬を飲んだ時間から六時間が経過した頃合いだ。記憶の戻ったユーリと、元に戻ってほしいカラ松が出会えば、その後の展開は想像に難くない。
「…おい元凶長男、もしこれでカラ松が朝帰りにでもなってみろ。お前を東京湾に沈めるからな」
「チョロ松の目がマジだよ、お兄ちゃん怖いよ。
確かにユーリちゃん巻き込んだのは俺が悪かったよ。でもさ、記憶喪失なんてドラマとか漫画でしか見たことないじゃん?実際にちょっと体験できるって言われたら興味沸かない?」
「それは…まぁ…」
チョロ松を筆頭に、顔色を窺うようにして顔を見合わせる四人。全く興味がないとは言い切れないのが正直なところだ。
しかし十四松が異議を唱える。
「でも最終的に忘れるんじゃ、自分がやっても意味ないよね。六時間無駄になるだけなら、ぼく飲みたくないなぁ」
「うん、デカパンの薬にはそういう致命的な欠陥があったりするからね。誰かが飲んで焦るのを見る立場が一番楽かも」
「そうそう、自分以外の誰かが記憶喪失になってるのを高みの見物するが楽しいんだよ───今回おそ松兄さんが画策してたように、ね」
十四松、一松、トド松の三人がゆらりと立ち上がり、じっとおそ松を見つめる。
「な、何の話かな?」
おそ松はあからさまに動揺して宙に目を泳がせた。地面に転がる瓶をチョロ松が拾い上げて、彼の眼前に突きつける。
「飴はユーリちゃんが食べたのを合わせて五個しかない。
お前が食べさせようとしてたのは自分を除く僕ら五人──そういうことだよな?」
状況証拠が全てを物語る。
六時間経てば全員が記憶喪失だった間のことを忘却し、何もなかったように日常を続けていく。曜日の感覚さえ曖昧な暇を持て余したニートなのだ、六時間前後の記憶がなくとも実害は皆無といっていい。
おそ松は言葉もなく及び腰で後ずさるが、背後にあるのは壁だ。逃げ道となる三方向は武器を構えた四人の兄弟に囲まれている。
「え、あの、その…暴力は良くないと思うんだ。もう夜だし近所迷惑に…」
「始末しろ」
「あいあいさー」
近隣一帯に、おそ松の断末魔が轟いたとか轟かなかったとか。
それから二時間ほど経った頃、主犯の長男にどう説教すべきか悶々としながら帰宅したカラ松は、布団で簀巻きにされた中から原型を留めないほどに殴打されたおそ松の顔を見て、溜飲を下げたのだった。