チャイナでナイト

金曜日の定時帰りは、明日への希望に満ちた心浮き立つ魅惑の時間帯だ。
いつも翌日へと持ち越される、業務に関する煩わしい懸念の放棄、持て余すほどの長い余暇、仕事用の仮面を捨てて好き放題振る舞える開放感。帰路に着く足取りも軽やかだ。このつかの間の晴れやかな心地がいつまでも続けばいいのにと、週末になるたびに私は思う。
そのまま自宅に帰るのももったいなくて、駅前のショッピングセンターで秋物の服でも見て行こうかとふと思い立つ。給料日も近いし、一着くらい買ってもいいかもしれない。

先日読んだファッション誌の内容を脳裏で反芻しながら駅へと向かっていたら、視線の先に見覚えのある後ろ姿が映る。
紫色の細身のスーツに、艶やかな内巻きの髪。おそらく特注であろう奇抜なロイヤルパープルのスーツは、一度会ったら忘れない特徴的な後ろ姿である。
「イヤミさん」
声をかけるか、正直一瞬の躊躇いがあった。イヤミさんには極力関わるなと、カラ松くんから忠告を受けていたからだ。
根拠のない胡散臭さは外見からも感じられたが、私自身は彼と数回挨拶を交わした程度の関係で、この時はまだカラ松くんの危惧を深く受け止めていなかった。
「…ん?──ああ、ユーリちゃんザンスか」
イヤミさんは振り返った後、あからさまに興味なさげな反応をする。反射的に名前が出る程度には認知されているらしい。
「仕事帰りザンスか?」
「はい、定時で帰れたので買い物でもして帰ろうかと。イヤミさんはお出掛けですか?」
「ミーはこれからビジネスで忙しいザンス。
…チミ、仕事帰りに買い物ということは、今夜の予定は特にないってことザンスね?」
嫌な予感がビンビンしまくる。
「あ、えと、私は…」
飛んで火に入る夏の虫!───もとい、これぞ天の助け!いいとこで会ったザンス、ユーリちゃん!」
今の絶対前半が本音だろ。
「予定がないなら、ミーの仕事を手伝ってチョーよ!簡単なチラシ配布ザンス。もちろんバイト代も出すザンスよ」
「えっ、いやでも私仕事終わったばっかりっていうか、そもそもうちの会社副業禁止ですし」
カラ松くんの忠告が脳裏に浮かぶので、両手を前に出して首と共に横に振る。
「社長のポケットマネーから出してもらえば問題ないザンス。時給二千円でどうザンスか?
「詳しくお話を聞きましょうか」
チラシ配りで時給二千円は正直美味しい。受けるか否かは内容を聞いてから判断してもいいだろう。イヤミさんは長い出っ歯の伸びた唇をにんまりと曲げて、詳しい説明を始めた。


「さっきも言ったように、仕事内容はチラシ配りザンス。繁華街に新しくオープンした中華料理屋の知名度を上げる目的で、店の前で配りながら呼び込みするだけの簡単なお仕事ザンス。
拘束時間は今夜の七時から十時までの三時間。どうザンスか?」
イヤミさんは立ち話で業務の詳細を語る。内容自体は、単発の派遣バイトによくある単純なものだ。
「そんな簡単なことで時給二千円って、何か裏があるんじゃないですか?」
平均でいえば、時給千円前後が妥当なところだろう。高額な時給には必ず理由があるはずだ。
しかしイヤミさんは私の不信感などお見通しといったように、ふふんと鼻を鳴らした。
「チミはフラッグコーポレーションを知ってるザンスか?」
私は目を瞠る。
「新進気鋭のコンサル会社ですよね」
何の後ろ盾も持たずに立ち上げたコンサル事業で成功を収め、めきめきと右肩上がりに業績を伸ばしている注目の企業である。社長がどう贔屓目に見ても小学生という風貌も話題を呼んだ。
「そこが外食産業にも手を伸ばそうとして作ったテスト店舗ザンス。プレスリリースも出してるから、ネットで検索すれば出てくるザンスよ。怪しくもいかがわしくもない、運営元は信頼できる店ザンしょ?」
「確かに…」
「というか、上場企業でもないフラッグコーポレーションを知ってるとは、意外と情報通ザンスね。あの六つ子の側に置いておくにはもったいない人材ザンス。奴らとつるんで何の利益があるザンスか?
「不利益しかないかの如き言い方」
推しと過ごせる時間はプライスレスで、私の心が癒やされるという大きなメリットがある。しかしまぁ、イヤミさんに言ったところで一ミリも共感はされないだろう。
「───で、やるザンスか?やらないザンスか?」
脳内の天秤は激しく揺れ動いたが、やがて片側に傾いた。

「…やります」




そして半時間後、私は新装開店したばかりの中華料理屋の前に立っていた───なぜか、チャイナドレスを着て
中華といえばチャイナドレスがお決まりザンスなどと頭の沸いた発言をして、イヤミさんは私に衣装と称して押し付けてきた。梅の花の刺繍が全身に散りばめられたロング丈のドレスで、足さばきによっては太腿が露わになる深いスリットが開いている。
ボディラインを強調するシルエットと光沢のあるサテン生地。その上に白いパンプスを履けばどこからどう見てもコスプレだ
真夏はとうに過ぎ、昼間はまだ半袖で過ごせる季節といえど、さすがに夜は冷える。腕が剥き出しの格好は少々肌寒いが、数時間くらいならば辛抱できる。
「意外と似合うザンスね、ユーリちゃん。そのお色気で頑張って勧誘してチョーよ」
「まだ赤とかピンクじゃないだけマシか…」
イヤミさんがチャイナドレスを取り出した衣装ケースの中には、他にも様々なカラーのドレスが詰まっているようだった。そんな中で、なぜ華やかさよりも上品な印象が強い紺色なのか。夜の繁華街で目立とうとするなら、もっと明るい色の方が映えそうなものだが。
「チミがつけてるブレスレットの色に合わせただけザンス。不服なら赤や白でもいいザンスよ」
「い、いえ、これでいいです!」
私は手首のブレスレットを隠すようにして、苦笑する。たまたまつけていた、カラ松くんから貰った紺のレザーブレスレットが功を奏した。さすが推し。ありがとう推し。
「チラシ配りのバイトはもう一人呼んであるザンス。それまではユーリちゃん一人で配っておいてチョーよ」
「はーい」
気のない返事をして、段ボール箱目一杯に詰まったフライヤーの束を手に取る。ハガキサイズで、食欲をそそる料理の写真と店までのアクセス、各種SNSのID、期間限定の割引クーポンが情報として盛り込まれている。
店の基本情報を頭に叩き込んで、私は大きく深呼吸した。




「お姉さんが接客してくれるなら、行ってもいいかなぁ」
夕暮れを過ぎて黒いカーテンが空一面にかかり始める頃、仕事終わりの会社員たちの第一幕が開ける時間帯だ。酒に潰れた大人はまだ少なく、馴れ馴れしく声をかけてくる男の多くはシラフである。酔っ払い相手ならば適当に捌けるが、そうでない場合の対処には骨が折れた。
しかし、繁華街にチャイナドレス姿でフライヤー配布をしているのだ、ある程度のナンパは挨拶代わりと納得するしかない。憎むべきは、他に仕事があるからと早々に店内に戻ったイヤミさんだ。
「ごめんなさい、私の仕事はお店にご案内するまでなんですよ」
もう何度目のナンパだろうか。今回は二十代後半と思わしき男二人組。女一人だから陥落させやすいと見くびられるのは心外だ。
「じゃあ仕事終わったら、俺たちと一緒に飲まない?」
「その格好のまま来てほしいなぁ。お店の売上に貢献してあげるからさ」
握られそうになった手を咄嗟に引いて、私は営業用スマイルを浮かべる。
「仕事の後は約束があって無理なんです」
お呼びじゃないんだよ失せろ下衆どもと吐き捨てられたらどれほど楽だろう。しかしイヤミさん経由とはいえ一応給料の発生している仕事だ。下手を打てば店の今後の信用にも関わる。

「あー…えっと、そう、彼氏と約束してて!終わる頃に迎えに来てくれる予定で、本当ごめんなさい」
しかし敵はなかなか引き下がらない。
「えーまたまたそんな事言って。彼氏いるならそんなエロい格好しないでしょ」
「もしマジなら迎え断ってよ。今日くらい俺らと飲んでもいいじゃん」
「てかそもそも彼氏いるとか嘘でしょ?」
体のいい断り文句だもんねと嘲笑しながら、今度こそ手首を掴まれた。
嫌悪感で反射的に足を引けば、今度は背後から回された何者かの腕に体ごと引き寄せられる。
しまった、後ろにもいたか。
背中が誰かの胸と密着して、容易くは逃げられない。万事休す、もうクビ覚悟で暴れるしかない、そう決意を固めて右手に力を込めた───その時。

「──ハニーに気安く触らないでもらおうか」

ふわりと鼻腔をくすぐる匂いと、耳元で発された声。
私を抱き寄せる力を強めて、声の主は続けた。

「オレが彼氏だ」

鋭い眼光が男たちを真っ向から捉える。まるでドラマのワンシーンのようだと、ぼんやりとした頭で思ったら、安心感から体の硬直が溶けていく。
「…人の女に手を出そうとしたんだ、相応の覚悟はできてるんだよな?」
ゆっくりと私の体から手を離して、指の関節を鳴らしながら彼は一歩前へと躍り出る。手の甲には筋が浮かんでいた。
「え、彼氏って…マジかよ…」
「いや冗談冗談ッ、ちょっとからかっただけ!マジで彼氏いるなんて思わねぇじゃん!?」
距離を取っている私でも、ピリピリとした威圧感が肌に伝わる感覚がするのだから、正面から睨みをきかされている彼らが感じる脅威は想像を絶する。触らぬ神に祟りなし。
「すまないが、虫の居所が少々悪くてな、冗談で納得できそうにない」
重々しいもう一歩を踏み出すと、ナンパ男たちは顔色を変えて今度こそ一目散に逃げ出した。あっという間に人混みに紛れて、姿が見えなくなる。
彼らが視界から消えたのを確認してようやく、私は安堵の息を漏らし、背中を向ける彼に声をかけた。

「ありがとう───カラ松くん」

危機一髪で私を救ってくれたカラ松くんは、緩慢な仕草で振り返る。
「…ユーリ」
私を呼ぶ声はいつになく低く、抑揚がない。重なった視線の先にある双眸は、完全に据わっている。これたぶんマズイやつ。
「あ、あの、これは…」
「オレは怒ってるんだぞ」
ですよね。
「夜の繁華街でそんな格好をしていたら、誘ってくれと言ってるようなものだ。オレが来なければどうなってたか、分かってるのか?」
カラ松くんは腕を組んで仁王立ちになる。彼に叱られるのは初めてではないだろうか。そもそも滅多なことで激昂しない温厚な性質だ。
「うん…ごめんなさい」
「ユーリはもう少し危機感を持つべきだ」
最悪暴れてバイトもバックレたらいいかとは考えていたが、力で捻じ伏せられる、または後をつけられるといった可能性はまるで考慮していなかった。その場しのぎの対処しか念頭になかったのは、確かに迂闊だった。

「だからイヤミには関わるなと、あれほど忠告したのに…」

「え?」
なぜそれを。
だが直後、チラシ配りのバイトをもう一人呼んでいる、そう言ったイヤミさんの顔が思い出される。
「もしかして、チラシ配りのバイトに?」
「バイト代を弾むから来てくれと電話で呼ばれて、ブラザーたちから押し付けられたんだ。最初は二人だったのに途中で一人でいいと言われて、変だと思ったが…引き受けて良かった」
「そ、そっか…もう一人って、カラ松くんのことだったんだ」
殊勝な顔をしながら、私は内心でガッツポーズを決める
脳筋が助っ人に来てくれたなら百人力だ。わらわらと寄ってくる不届きな連中の接客は任せて、私はフライヤー配布に集中できる。
「それで来てみたら、まさかユーリがチャイナドレス姿で絡まれてるとはな」
眉間に皺を寄せて嫌味を吐いてくる。通常運行がデレなので、ツンな態度はレアだ
「忠告を無視したことに関しては、私が浅はかでした」
「本当に反省してるのか?」
怒った態度も可愛すぎるのでもう勘弁してください。ニヤけるのを堪えるのが辛い。尊さ通り越して昇天案件になりそうだ。
してます、と答えた後、ついに限界がきて吹き出してしまった。カラ松くんは心底呆れたとばかりに長い溜息をつく。
「ユーリ…あのな、オレは本気で」
「うん、ごめんね。
でもカラ松くんがヒーローみたいに現れて助けてくれたから。格好良かったし、嬉しかったよ」
「そうやって有耶無耶にしようとしたって──」
まるで反省する素振りのない私に叱責を続けようとするカラ松くんだったが、そのポーズを維持できたのは僅か数秒だった。
やがて頬を緩ませ、柔らかな表情になる。

「ああもう…その言い方は卑怯だぞ、ハニー」

頬を赤く染め上げて、ふにゃりと口元が綻ぶ。
「頼むからオレを心配させないでくれ」
「次からは気をつけるよ」
「安請け合いをするところは信用できない」
なかなか辛辣な言われようである。けれど妙に浮かれしまうのは、私の欠点を指摘する軽口を叩けるほどの関係性になったせいだろうか。
そんなことを考えていたら、カラ松くんは私を見て口ごもりながら小さく呟く。
「ああ…ユーリ、さっきの、その…彼氏のフリをしたのは、あくまで方便で…」
「うん、分かってる。気にしてないよ」
「…そ、そうか」
安堵したような気落ちしたような、何とも表現し難い複雑な顔でカラ松くんは視線を地面に落とした。

「とにかく今は仕事を終わらせるのが先決だな。到着したことをイヤミに伝えに行こう」
そう言って入り口の自動ドアをくぐろうとしたところで、ダンボールを抱えたイヤミさんが中から姿を現した。カラ松くんの姿を見て、あ、と声を出す。
「おや、やっと来たザンスか十四松」
「カラ松だ」
相変わらず六つ子を見分けをつける気が毛頭ない。しかし毎回的確に別の名を出してくるから、実は故意なのかとも訝しんでしまう。
「ちょうど良かったザンス、さっそくこれに着替えてユーリちゃんと二人でチラシ配りをしてチョーよ。チラシについてる割引券の使用率によっては、バイト代を上乗せするザンス」
しれっとハードル上げてきやがった。
イヤミさんはダンボールの中から取り出した服をカラ松くんに投げる。彼はそれを受け取ると、私を一瞥してからイヤミさんに釘を刺す。
「すぐ着替えてくるから、イヤミはハニーの側にいろよ。絶対離れるな、いいな?」
「分かったザンス。分かったからさっさと着替えてくるザンスよ、トド松」
「カラ松!」
これはもうわざとなのか。




数分後に戻ってきたカラ松くんの格好を見て、私は膝から崩れ落ちる
中華料理屋、自分のチャイナドレス、カラ松くんに渡される着替え、仮説を立てるには材料が揃いすぎていた状況下にも関わらず、何も考えず呆けていた自分を呪う。
カラ松くんは───紺のカンフースーツで現れた
立ち襟、中央の一文字ボタン、白く折り返した袖、緩めの黒いパンツと、カンフーイメージ全開の装いである。袖を折り返しているため、両手首が露出してセクシーだ。
その戦闘スタイルは、カラ松くんの自信に満ちた強気な表情をより華やかに彩っている。

「いいものを見せてもらった…ッ」
糸の切れた傀儡のように、私は地面に膝をつく。
「え…ユーリっ、どうした!?」
突然倒れる私にカラ松くんは目を剥いて、駆け寄ってくる。屈んだ際に、私の視界に彼の足元が映って、カンフーシューズとパンツの間からくるぶしが覗いていた。白い肌がエロい。
「我が人生に一片の悔いなし…」
「ハニイイイィィ!?」
「何ザンスかこの茶番」
イヤミさんが呆れ果てたところで私は身を起こし、彼に詰め寄る。
「カラ松くんが来てる衣装、仕事終わったら貰ってもいいですか?っていうかください!バイト代から引いてもいいから!」
「今日限りの使い捨ての衣装ザンス、終わったら煮るなり焼くなり好きにしていいザンス」
「っしゃ!」
「その代わり、仕事を受けた責任はしっかり果たして売上に貢献するザンスよ」
そう言い残してイヤミさんは店内に戻っていく。お任せあれ。
呆然と立ち尽くすカラ松くんの背中を叩いて、私は鼻息荒く気合いを入れる。金よりも価値のある報酬が約束された。
「よし、カラ松くん頑張ろう!フライヤー配りまくるよ!」
「え、あの、ハニー…?」
「綺麗なお姉さんたちをジャンジャン呼び込んでね。今こそカラ松くんの魅力を存分に発揮する時!
「…フッ、オーケーだぜハニー。禁忌ともいえるオレの色気を放出する時が来たか。オレのテンプテーションで、カラ松ガールズたちを愛の虜にしてやろう!」
扱いやすくて助かる。




カラ松くんは、思いの外女性客に受けが良かった。
夜のネオン街で働く女性たちにとって彼の言動の痛さは、たちの悪い酔っ払いに比べれば遥かに可愛いレベルなのだろう。逆にカラ松くんが圧倒されてたじろぐ場面が多く見受けられる。その様子があまりに可愛かったので、私に助けを求める視線は華麗にスルーさせていただいた
しかし、イヤミさんには啖呵を切ったものの、地道なフライヤー配りでは集客に限度がある。ターゲットは店の前を横切る社会人に限定されるからだ。成功を収めるのならば、母数を増やしたい。
そんなことを考え始めていた時、突然黒塗りのベンツが店の前でエンジンを止める。スーツ姿の青年が運転席から降り、恭しく後部座席をドアを開けた。任侠の世界に生きる人の来店かと警戒心を強めたところで、降りてきたのは意外な人物だった。

「───何だ、ハタ坊か」

カラ松くんがそう声をかける。
降りてきたのは、フラッグコーポレーションの代表取締役社長であるミスターフラッグその人だった。
「お疲れ様だじょー」
「繁盛してるか様子を見に来たのか?」
「そうだじょー。ターゲット層のニーズとミスマッチがないかも確認して、今後の運営方針の参考にするんだじょー」
気の抜ける口調だが、言ってることはまともだ
「え、えぇっ?カラ松くん、ミスターフラッグと知り合い!?」
「ん?ああ…ユーリには言ってなかったか。ハタ坊とは小さい頃からの友達なんだ───ハタ坊、彼女はユーリ、オレの友達だ」
「よろしくだじょー」
ミスターフラッグから手を差し伸べられて、私は挙動不審になりながらも慌てて握り返す。
「有栖川ユーリです。お会いできて光栄です、ミスターフラッグ」
「ハタ坊でいいじょー、敬語もいらないじょー」
地元では比較的知名度が高くなりつつある企業の社長に、呼び捨てタメ口の合わせ技は恐れ多すぎないか?
しかもミスターフラッグは表情が読めない。冗談なのか本気なのか判断がつかずに逡巡していたら、カラ松くんが私の肩を叩き、こくりと頷いた。
「…よ、よろしくね、ハタ坊」
「よろしくだじょ、ユーリちゃん。みんなの友達なら、ハタ坊とも友達だじょー」
唐突にランクアップする関係性に戸惑いを隠せない。地元では名の知れた実業家に、出会って数分で友達扱いされるとは。

しかしこれは好機だ。私は先ほどからの懸念をハタ坊に訊いてみる。
「ミスターフラ…じゃなくてハタ坊、今日のお店の集客は他にどんな方法を用意してる?
フライヤー配りだけだと限界があるから、もし他に案があるなら教えてほしいんだけど」
「特に考えてないじょ。ユーリちゃんに案があれば言ってほしいじょ」
「案っていうほどじゃないけど、例えば有名人を呼んでSNSに投稿してもらうとか。ターゲット層が繁華街に来るようなサラリーマンってことなら、その層に人気の人なら興味持ってもらえるんじゃないかな?」
持続的な売上は期待できないが、瞬発的に効果はあるだろう。料理の味や接客に自信があるなら、口コミを広げる起爆剤にはなり得る。
何らかのツテがあればいいのだけれど。
「おおっ、さすがハニー、冴えてるじゃないか」
カラ松くんに褒められた。
「ハタ坊はSNSやってないの?」
「一応やってるじょ」
ハタ坊がオーバーオールのポケットからスマホを取り出した。それからSNSのアカウントが映る画面を向けられて、私は言葉を失う───フォロワー百万人
目を凝らしてもう一度画面を見る。やはりフォロワーは百万人。
「ええええぇっ!?地元でちょっと名の知れた企業の社長どころじゃない、全国的に知名度の高い芸能人レベルの驚異的フォロワー数!」
そして驚くべきは、フォロワー欄に並ぶ著名人の名前だ。レジェンドクラスの芸能人たちだけでなく、米国の前大統領までが相互フォロワーに名を連ねる
何者?
「いやいや、もうこのアカウントで新店オープンしましたって呟くだけでお客さん来るから!芸能人必要ない!」
「分かったじょー」
ハタ坊がこなれたフリック操作で、繁華街に中華料理屋を開店した旨を投稿すると、直後からいいねがつき始め、あっという間にその数字は数千に跳ね上がる。
今度行きたい、近々寄るといった店に興味を示すコメントに紛れて、収録で近くにいるから今から向かうとお笑い界のレジェンドと呼ばれる大御所芸人からコメントが書き込まれる。マジかよと唖然としていたら、数分後には高級車が店前に乗り付けてレジェンド本人が姿を現した。
フランクにハタ坊の肩を抱き店内に入ったかと思えば、テーブルに料理が並び始める頃には各SNSでレジェンドが店の料理を絶賛、その投稿を見たファンが大挙して駆けつける騒ぎにまで発展する。そして、訪れたファンと気さくに交流するレジェンドの写真がSNSで大量に投稿拡散され、店は常時満席、鳴り止まぬ電話で年内の予約が埋まった。
用意されていたフライヤーは一瞬で捌け、私とカラ松くんは人手の足りないホールの手伝いに急遽駆り出される。約束の三時間は、あれよあれよという間に過ぎていったのだった。

「また儲かったじょー」
またって何だ、またって。




結局、当初の約束だった三時間では終われず、拘束時間は四時間に延び、ラストオーダーをとり終えたところでようやくお役御免を言い渡された。
休憩を取る暇もなく酷使された私とカラ松くんは、販促衣装を脱いで私服へと着替えると、深夜営業の居酒屋へと足を伸ばして、遅い夕食を食べる。アルコールの注がれたグラスで乾杯したら、一気に気が抜けた。乾いた喉が潤って心地良い。そう言えば水を飲む間もないほど働き詰めだったことに、今さら気付いた。
「旨い!労働の後の一杯は最高だな!」
「うんうん、染み渡るよね」
仕事に次ぐ仕事で体力的には限界だったが、カンフー服の推しを長時間間近で拝めた上に、衣装までゲットできたのは大きい収穫だ。眼福ここに極まれり。
かと思いきや、カラ松くんは懸念事項があるとばかりに深な顔でテーブルの上で手を組んで、ぽつりと零す。
まともな場所で真面目に働いてオチも何もないんだが、果たして良かったのか…」
「それが普通だから」
真っ当な仕事で背徳感を感じてどうする。
「ユーリの服装にはハラハラしっぱなしだったけどな。ああいう服は着ない方がいい──というか、オレが着てほしくない」
「うん、分かった」
「あっさりか」
私が間髪入れず承諾したので、拍子抜けした模様。
「今回はバイトを承諾した責任もあって仕方なくコスプレも受けただけだし、それに…ホールでの接客中も、カラ松くんに助けてもらいっぱなしだったから」
店内でチャイナドレスを着た若い女性スタッフは私一人だったせいか、夜が更けるほどに男性客に絡まれたり、特に太腿に妙な視線を感じることが何度かあったのだ。
他のスタッフは接客や片付けで手一杯の修羅場。助けを求めることも裏方に逃げることも叶わない中で、カラ松くんは男性客への配膳を代わってくれたり、私に向けられる視線の盾になってくれた。
「カラ松くんの株が上がりまくりな一日だったよ」
彼はずっと、私を守ってくれた。

「カラ松くんに叱られたのも、初めてかな」

感情の起伏のない低いトーンで淡々と諭された時、カラ松くんへの反発心はまるで沸かなかった。こういう顔もするんだと、新しい発見をしたような新鮮な気分になっただけで。
「あれはユーリに警戒心がなさすぎるからだ。オレのいない時に今日みたいなことが起きるんじゃないかって不安になる」
「普段は家と職場の往復だから、何も起こらないよ」
「ユーリが起こさなくても、他の男が起こすかもしれないだろ」
「心配性だなぁ」
限りなく可能性の低い事象だと笑い飛ばそうとしたら、思いの外真摯な眼差しを返される。

「当たり前だ。ハニーに何かあったら正気じゃいられない」

「はぁ…」
我ながら間の抜けた声が出た。呆気に取られる私とは対照的に、顔を赤くするカラ松くん。彼は両手を胸の前で振った。
「──ッ、い、いや、今のは言葉の綾で!何ていうか、その…っ」
視線をあちこちに彷徨わせたカラ松くんは、やがて話題転換の糸口を見つける。
「そ、そういえば、貰ったバイトは何に使おうか悩むな!ハニーはどうする?」
「あー…うん、これねぇ…どうしよう」
私は鞄に入れていた茶色い封筒を取り出して、歯切れの悪い声を出した。封筒の上からでも少々厚みがあるのが分かる金額。
イヤミさんの依頼以上の仕事をこなした自負はある。フライヤーは早い段階で捌け、集客に大きく貢献し、今後数ヶ月に渡る売上を作った。私としては、バイト代に多少色を付けた謝礼があるとラッキー程度の考えだったから、これでも固辞しまくって減額された額だ。
何しろ当初は、厚み数センチに渡る札束を手に載せられた。目を剥いて固まったら、追加で上乗せしてこようとするから、慌てて拒否する。札束を積み木にするんじゃありません。
何とか大金の享受は回避できたが、それでも分不相応な報酬を貰い受けたわけで。

「オレの分は、ユーリが預かっておいてくれ」
カラ松くんは自分の封筒を私に差し出した。
「え!?何で!?」
「ブラザーたちに嗅ぎつけられたら、間違いなく強奪される」
あ、はい、私もそう思う。
「ハニーになら安心して預けられる。何なら、必要があれば使ってくれたっていい」
カラ松くんは本気だ。彼の信頼には応えなければと身が引き締まる。
「もしハニーの使い道が決まらなければ、このバイト代で…そうだな、そのうち二人でどこか遠くに出掛けないか?」
いつも近場ばかりだから、と。無職故に年中金欠なのを気にしてはいるらしい。
「遠出か、いいね、その案乗った。そうと決まれば、みんなにはバレないようにしないと。
私とカラ松くんだけの秘密だね」
同じ秘め事を共有する共犯者というわけだ。
共犯者、どことなく甘美な響きに聞こえるのは私だけだろうか。

「ハニーといると、飽きるどころか毎回新しい発見があって不思議だ」
だから毎日でも会いたくなるんだろうなと独白して、私と目が合う。カラ松くんは、照れくさそうに肩を竦めてビールを呷った。