「これが約束の薬だす」
「サンキュー、デカパン」
カラ松くんがデカパン博士から受け取るのは、白い紙袋。袋の中には、市販薬のようにアルミ包装された錠剤が数種類入っていた。
その日、私とカラ松くんは所用でデカパン博士の研究所へと足を運んでいた。
カラ松くんが受け取ったのは、デカパン博士特製の栄養剤だ。
数日前に風邪を引いた一松くんの治りが遅く、平常時でも一般人の半分ほどしかない体力ゲージがみるみる底を尽き、熱は下がったものの風邪特有の倦怠感が継続中。今や、布団から起き上がるのさえ億劫なほど消耗しているらしい。基礎体力が赤子レベル。
まずは体力回復が優先と判断したカラ松くんたちは、博士に効果の高い栄養剤を依頼した、そういう経緯である。
「食後に一錠ずつ、一日三回飲むだスよ。二日もすればかなり元気になるだス」
「分かったぜ、ブラザーにそう伝える」
処方されたのは三日分だった。カラ松くんはひいふうと中身を数えて、過不足のないことを確認する。
「博士は本当に色々作ってるんだね。薬から機械までって対象範囲広すぎ」
カラ松くんの後ろから顔を覗かせて、私は改めて感心する。騒動の種になることも多いが、何らかの賞や特許が取れても不思議ではないほど画期的な発明品も多い。
誰もがきっと一度は夢見た、どこでもドアやタイムマシンだって、実はもう既に開発しているのではなかろうか。
その疑問を投げかけると、デカパン博士は笑った。
「ホエホエ、実はタケコプターは作ったことがあるだス。浮遊効果も確認できたんだスよ」
「マジで」
欲しい。
「高速回転して首から下が千切れてもいいなら持ってくるだス」
「全力で遠慮させていただきます」
死因がタケコプターとか笑えない。期待した私が馬鹿だった。
「ユーリ…」
カラ松くんが絶望に満ちた瞳で私を見てくる。末路を私で想像するな。
「──まぁ、過去の犯罪歴は置いといて」
タケコプター試して誰か死んだのか。
「女性向けにも、栄養剤としてテストで作ったアンチエイジングサプリがあるだスよ。ユーリちゃん試しにどうだスか?」
「おお、いいんじゃないか?
ユーリがこれ以上美しくなる必要性はどこにもないが、美貌にますます磨きがかかったら、カリスマモデルも目じゃないな」
「え?ええ~、やだもう私そんな飲みます飲まずにいられるか今すぐお出しください」
デカパン博士が言うには、美容効果が謳われている二十種類の成分を、市販薬の数倍の量で配合した錠剤とのことだった。危険成分は一切なく、極めて安全安心と強調される。しかしこの人の発明品は最高か最低かの両極端だから、油断はできない。
「ユーリちゃん、こっちだよーん」
メイド姿のダヨーンに手招きされて、薬剤の並ぶ棚に案内される。出会い頭にミニスカートのエプロン姿は驚愕通り越して恐怖だったのだが、ダヨーンのメイド服に誰もツッコまないのはなぜなのか。見慣れてるの?デフォなの?
「ハート型のピンクの錠剤だスよ」
「任せるよーん、見たことあるよーん」
博士はダヨーンに言い伝えて、カラ松くんに向き直る。手渡した薬の副作用の可能性や、万一数日経っても効果がなかった場合の対処法などを説明しているようだ。カラ松くんは腕組みをしてふんふんと聞き入る。
ダヨーンが、手の平サイズの小瓶を棚の奥から取り出した。ガラス瓶の中には、一センチに満たない錠剤が幾つか入っている。彼は蓋を開けて、私の右手に一錠をぽとりと落とす。
「一個で十分効果があるよーん、水で飲むといいよーん」
「ありがと。わぁ、可愛いデザイン。こういうディテールも凝るっていいよねぇ」
渡された錠剤は、大小のハートが重なったダブルハート。淡いピンク色も可愛らしい。
口の中に放り込み、渡された水で嚥下する。
「ダブルハートなんてこだわった形、もしかしてこのために型まで作ったとか?」
率直な疑問を口にしたら、デカパン博士が振り返った。
「ん?ダブルハート?」
不穏な空気が漂い、胸騒ぎがする。
六つ子に関わった上で発生するこういう事案は、往々にして平和から遠くかけ離れた壮絶な展開に発展することが多い。私が六つ子連中と縁切りしたくなるのは、八割方こういう時だ。
地獄が始まるゴングが鳴った。私はそう確信する。
「ダヨーン、間違いなくハートを選んだだスか?」
「ハニー、どうした?」
カラ松くんも駆け寄ってくる。
「…ちゃんとハートだったよ。可愛いダブルハート」
「それは別の薬だス。ワスが言ったのは、一般的なハート型のことだスよ」
博士は瓶の中身を見るやいなや、愕然と目を瞠った。
「これは───モテ薬だすな」
今回はそういうパターンかぁ、とどこか冷静に受け入れる自分がいる。慣れって怖い。
「モテ薬!?デカパンっ、ハニーは大丈夫なのか!?」
「大丈夫かどうかは…ワスには何とも言えないだス」
博士は声のトーンを落として言う。お前が作った薬だろうがというツッコミは無意味だろうか。
「ダヨーンのせいじゃないよーん、わざとじゃないよーん、本当だよーん」
ダヨーンはいつもと変わらない表情と口調だが、目線を私から逸らす。ひょっとしてわざとか?
「一つ言えることは、一刻も早く安全な場所に逃げた方がいいだス」
「どうして?たかがモテ薬でしょう?」
「このモテ薬は、体中から通常の何千倍のフェロモンが出て、性的対象として自分を見る人間の性欲を掻き立てる代物だス。その結果、増幅した性欲によって理性を失い、本能のままユーリちゃんに求愛してくるんだスな」
原理がやたら生々しい。
普通モテ薬というと、唐突にありとあらゆる異性から優しくされたり告白されたりツンデレ発動されたりして、モテ期突入しちゃったどうしよう~困ったゾ☆的な、乙女心をくすぐる王道展開のはずだ。
性欲故の求愛とか、下手すると犯罪スレスレ案件じゃないか。そんな危険なものなぜ作った?
ツッコミ所があまりにも多すぎて、私は投げやりな気持ちになる。
「効果が持続するのは三時間だス。
薬が体内で溶け出すまであと数分、早く逃げるだスよ」
「逃げた方がいいよーん」
「いや、ダヨーンはまず私に謝って。故意にしろそうでないにしろダヨーンのせいだし、謝られても現状が打破できるわけじゃないけど、私の精神安定上必要」
人差し指を突きつけ、無表情で謝罪を要求する。だがダヨーンは私から目を逸したまま微動だにしなかった。
釘バットで殴りたい。
「ユーリ!」
カラ松くんが私の腕を掴む。
「デカパンの言う通りにするんだ。ここもデカパンとダヨーンがいて、いずれ危険になる。とにかく外へ避難しよう」
「逃げるって言ったって、どこに──」
「考えるのは後だ、行くぞっ!」
強引に手を引かれて、別れの挨拶もそこそこに私とカラ松くんは研究所を後にした。
違和感は、研究所を出た瞬間から感じていた。
殺気や人の気配を感知する能力はおそらく人並みで、どちらかと言えば鈍い方だと思う。けれど外へ出て数歩進んだ途端、鋭い視線が体中に突き刺さるのを嫌というほど感じた。恐る恐る顔を上げれば、歩道を歩く男という男が一様に立ち止まり、私に顔を向けている。
その光景はホラー以外の何ものでもない。
「──っ!」
あまりの衝撃に、声が出なかった。口内の唾液が上手く飲み込めない。
カラ松くんは硬直して眉をひそめた後、静かに私に告げた。
「絶対にオレから離れるなよ」
「言われなくとも!」
叫ぶように告げて、私はカラ松くんの左腕に自分の腕を絡める。
「え、なっ…ユーリ!?」
「ごめん、しばらく彼氏役して!安全な場所に着くまででいいから!」
彼と恋人同士を装えば、何らかの抑止力にはなるかもしれないと踏んたのだ。横に彼氏がいる女に、そう簡単に声をかけるものか。
そう思っていた時期が、私にもありました。
「可愛いね!名前何ていうの?今からデートしよう!」
「一目惚れです!俺の彼女になってください!」
「君以外の女なんて考えられない。結婚を前提に付き合ってくれっ」
熱視線を送ってきていた男たちが、私の周囲をあっという間に取り囲む。彼らは揃いも揃って、隣にカラ松くんがいようがお構いなしに口説き文句を投げてきた。
ある者は従者のように跪き、ある者はパーソナルスペースに不躾に踏み込み、徐々に近づいてくる。
「か、彼氏いるし、ごめんなさい!無理、ほんと無理っ」
ふるふると首を振って断固とした拒否を示すが、その程度で引き下がるほど薬の効力は弱くはないようだ。彼らの目には私しか映っていなかった。カラ松くんのことは、存在さえ認識していないのかもしれない。
私は咄嗟にカラ松くんの背中に回る。肉壁発動して私を守れ。骨は拾う。
「ハニーが嫌がってる、道を開けろ」
カラ松くんは低い声音と振り払う仕草で拒絶の意向を示すが、彼を障害物と認識した男たちに突き飛ばされて私との距離が開く。私の意識もまたカラ松くんに向き、防御に隙ができた。
ガラ空きだった背後から伸びた誰かの手が、私の背中に触れる。
「うひぃッ!」
人間、予想だにしない出来事に遭遇すると変な声が出るものだ。思わず背を反らして感触から逃れようとするが、背後に回った男性陣たちは嬉々として距離を詰めてくる。
「か、カラ松くんっ!」
とっとと助けろ。そんな言葉が喉まで出かけた。余裕がないと口まで悪くなってしまうのは悪い癖だ。
「ユーリ!」
カラ松くんは両手を伸ばし、私を胸の内に抱き寄せた。掻き抱くといった表現が適切といっていい、狂おしいほどの抱擁。決して離すまいとする強い意思が感じられて、ゾンビ紛いの理性を失った連中に囲まれているシチュエーションでなければ、尊死待ったなしの案件だ。
かと思いきや、次の瞬間にカラ松くんが私の背中と膝裏に手を差し入れて、お姫様抱っこの要領で抱え上げてくる。
「ハニー、しっかり掴まっててくれ」
「えっ、えぇ!?」
もうわけが分からない。
「人の多い場所から離れるのが先決だ、全力で逃げるぞ!」
言うやいなや、脱兎の勢いで駆け出すカラ松くん。私は、彼の首にしがみついて逃走の成功を祈るしかない。
すれ違いざまに魅了される人もいて、追いかけてくる男たちの人数は増える一方だが、一切合切を振り切ってカラ松くんは走った。
ガシャンと騒々しい音を立てて閉めた引き戸を、後ろ手で施錠する。
玄関口で私を下ろして鍵をかけ、ようやくカラ松くんは大きく息を吐き出した。引き戸に預けた背は徐々にずり落ちて、やがて地面に尻をつく。米俵を抱えて全力疾走し続けたのだ、消耗して当然である。
「だ、大丈夫?」
「…ああ。ユーリが無事なら…いい…」
息も切れ切れに、カラ松くんは笑った。上げた顔からは、一筋の汗が首筋を伝う。
「ちょっと待ってて、何か飲み物貰ってくる」
上がり框で靴を脱いでいたら、私の背後で障子が開く音がした。
「んもー、人が気持ちよく昼寝してたってのに、うっせぇなぁ。お前ら、まっ昼間から何やってんの?鬼ごっこ?」
寝癖のついた髪を掻きながら、おそ松くんが現れる。瞼は半分ほど落ちかけていて、昼寝から起きたばかりといった様子だ。
「あ、うん、ちょっと色々あってね。昼寝の邪魔しちゃってごめん、おそ松くん。
ところでお茶かお水貰いたいんだけど、台所ってどこ?」
「麦茶が冷蔵庫にあるけど。母さんいないから勝手に取ってきていいよ。場所はあっち」
「ありがと!」
立ち上がり、おそ松くんが指差した方向へと向かう。
──と、次の瞬間、背後から抱きすくめられた。
自分の身に起こったことを理解するのに、数秒を要した。あまりにも想定外だったからだ。
「…なぁ、ユーリちゃん」
耳元から聞こえる囁き声。おそ松くんの髪が私のこめかみに触れて、やたらくすぐったい。カラ松くんとはまるで違う匂いと、感触。同じ顔で似たような体型なのに、顔を見なくても別人だと分かる。
「──今から俺と一発やらない?」
ブルータスお前もか。
いや、むしろ当然の流れだ。そうりゃそうだろう。私たちはなぜ松野家が安全だと錯覚したのか。
それにしても清々しいくらいの性欲直球発言。さすがは松野家六つ子のプレーン。
しかし感心している暇はない。おそ松くんの右手が私のシャツに侵入し、素手で腹部を撫で上げた。全身が総毛立つ。
「ちょっ、放してっ!」
「おそ松!」
立ち上がったカラ松くんが、私たちの間に両手を差し込んで強引に引き離す。
「んだコラ、カラ松。俺とユーリちゃんの邪魔すんじゃねぇよ」
「おそ松、冷静になれ」
「俺はいつだって冷静だし真剣だよ?」
一触即発の空気が漂う。今のおそ松くんには何を言っても無駄だ、話が通じる状態ではない。
「玄関で騒がないでくれない?猫が逃げる…」
「みんな揃って何してんの?やきゅう?」
逃げようとカラ松くんに声をかけようとしたその時、奥の廊下と居間から、一松くんと十四松くんがそれぞれ顔を覗かせる。厄介な童貞が増えやがった。
彼らもおそ松くん同様に、私を視認するなり目の色を変える。それを瞬時に察したカラ松くんは、踵を返して二階へ続く階段を指で示す。
「上に行くんだ、ハニー!」
「させるかクソ松ゴルアアァアァ!」
「ユーリちゃんとセクロスするのはぼくっ!」
「お前ら、童貞卒業は兄ちゃんに譲れッ」
一松くんと十四松くんが空中に跳躍し、おそ松くんは手を伸ばす。カラ松くんを障害物として知覚はしているが、障害の撤去よりも獲物を仕留めるのが優先なのか、私を着地点にロックオンしているのは明白だった。
「───すまない、ブラザー!」
カラ松くんは、下駄箱の上に置かれていたゴキブリ駆除スプレーを手に取り、兄と弟たちの眼球に向けて思いきりトリガーを引いた。
「カラ松テメエエェェッ!」
「目がっ、目がぁっ!」
ムスカがいる。
三人が怯んだ隙に、私たちは階段を一目散に駆け上がった。
本棚とソファで入り口にバリケードを張るが、敵は攻撃力瞬発力共に秀でている十四松くんを筆頭に、欲望を満たすためならなりふり構わない面子が揃っている。即席の壁は、多少の時間稼ぎにしかならないだろう。
窓際まで下がって脱出方法を思案するが、窓から屋根を伝って下りるか、三人を振り切って強行突破しか選択肢はない。安全なのは前者だが、私が無事下りられるかという一抹の不安と、靴を取りに戻る際に戸を開ける音で気付かれる危険性がある。
決めかねているうちに、バリケードの奥にある襖が力強く叩かれた。
「ここを開けて、ユーリちゃん!」
「大丈夫、怖いこと何もしないよ~、ただちょっとデートしてご飯食べて疲れたら休憩するだけだから!」
「休憩で余計疲れるかもしれないから、何なら泊まりでも!」
ホテル連れ込む気満々じゃねぇか。
「ユーリ…何か、その、どこに出しても恥ずかしいブラザーですまん」
カラ松くんが素で謝罪してきた。
「ううん…みんなのせいじゃないから。薬のせいだよ、全部モテ薬のせい」
だが、恐怖と不安と苛立ちが混ざり合って、魔女の鍋のようにふつふつと泡を立てて煮立っていく。何で私がこんな目に遭わなければいけないのか。おそ松くんたちにも、非なんてない。彼らもまた被害者なのだ。
爆発した感情は、やがて怒りとして意識の表層に現れた。
「あーもうッ、うるさいうるさい!何が一発だ何がセクロスだ、童貞ニートども!
例え本心ではそう思ってても、そういう下心は上手く隠して振る舞うのが大人でしょうが!私はここを出たいのっ、安全な場所でゆっくりしたいの!
これ以上迫ってくるようなら、みんなのこと嫌いになるからねっ、絶交だから!」
力の限り叫んだら、バリケードの向こう側が急に静かになる。それからひそひそと囁き合う声が聞こえたかと思うと、おそ松くんがもう一度襖をノックした。今度は、弱々しい力加減で。
「…ごめん、ユーリちゃんに嫌われるのは困る。
でもここにいられたら俺たち我慢できそうにないからさ、早く逃げてよ」
おそ松くんの、いつもの声のトーンだ。
感情を抑えた、努めて抑揚のない声で紡がれる言葉。
「だったら…三人とも一階の居間に戻って。私たちが外に行くまで、絶対に出てこないで」
沈む私の声を聞くカラ松くんが、居たたまれない顔で私を見つめていた。
「うん、分かった…」
「ユーリちゃん、カラ松兄さん──ごめんね」
「おれたちのこと…嫌わないで」
そして遠ざかる三人分の足音。遠くでぴしゃりと襖が閉まる音がして、それを合図にカラ松くんが無言でバリケードを外していく。
空気が張り詰める。私は唇を噛んで、下ろした両手の拳を強く握りしめた。ぎりぎと皮膚に食い込む爪の痛みが、冷静さを取り戻させる。
一度大きく息を吐いて、襖を開けた。
「とでも言うと思ったか!馬鹿めええええぇぇッ!」
死角から飛び込んでくる三人。
ああ、と私は思う。
おそ松くんの率直で裏表のない明るさや、一松くんの無愛想な中に秘めた優しさ、十四松くんの無邪気な笑顔が、走馬灯のように駆け巡る。いつも楽しかった。本当に、充実して飽きない日々で。いつまでも続けばいいなと夢を描いた。
だから私は───
「お前らの浅知恵なんぞ、最初からお見通しじゃボケエエエェエェェ!」
隠し持っていた殺虫剤で、雑魚三匹を始末する。
「二十歳超えた童貞の性欲に理性が勝てるわけあるか!私に攻撃力がないと見誤ったのが敗因だっ、一昨日来やがれ!」
そう吐き捨てて、さぁ行くよとカラ松くんに手招きをする。床に転がって両目を押さえている間は戦闘不能だが、状態異常はいずれ復活する。
廊下で悶絶しながら転がる兄弟を一瞥して、カラ松くんは苦しそうに口を開いた。
「あの…ハニー…」
「何?」
「こんなことを頼める立場じゃないんだが…ブラザーたちのことを、嫌いにならないでほしい。
オレ含めて全員クズでクソだが、間違ってもユーリにこういうことはしないはずなんだ」
真摯な眼差し。私に気を遣いながら控えめに、けれど間違いないと断言する彼らへの信頼。
ふふ、とこんな状況なのに思わず笑ってしまった。
「嫌いになんてならないよ、当たり前でしょ───みんな、大事な友達だよ」
「そうか…良かった、ありがとう」
「さ、行こう。私の家に行けば誰もいないし、薬が切れるまで安全に過ごせると思う」
久しぶりに全力疾走をした。
確実にタクシーを拾える駅前まで走って、強引に女性運転手の車に乗り込み、自宅までの住所を叫ぶ。マナー違反と叱咤を受けるのも厭わないつもりだったが、私たちの剣幕に圧倒されてか、女性運転手は二つ返事でハンドルを切った。
背後の連中は振り切ってくれと、アクション映画さながらの無茶な指示も聞き入れてもらい、薬の効果で魅了された連中を撒くことにも成功。安息の地は近い。まさかエンジンの音に癒やされる日が来るとは、夢にも思わなかった。
マンションの周囲に人がいないことを確認して、カラ松くんと共に自宅の鍵を開ける。緊張からか、らしくなく手が震えた。なかなか鍵を回せない自分に苛立っていると、カラ松くんが自分の手を上から重ねて、ゆっくりと鍵を回す。
「…ありがと、カラ松くん」
最後の最後まで、助けられている。彼がいなければ、きっと乗り越えられなかった。
中に入って施錠した途端に緊張の糸が切れて、靴を脱ぎ捨てた後は廊下に座り込んでしまう。薬の効果が発揮されてから、まだ一時間も経っていないが、休憩なしで丸一日働き詰めだったかのような疲労感が体中に広がっていく。
「大丈夫か、ユーリ?」
「疲れたぁ、もう無理ー、もうモテるのほんと嫌っ、勘弁して!」
少女漫画のような淡いときめきや可愛いハプニングなんて幻想だ。這い寄るゾンビを蹴散らすバイオハザードの世界と言った方が正しい。丸腰で戦い抜いた私を誰か褒めて。
しかし、冷静になってふと気付く。
──カラ松くんと密室で二人きりになるのは、今の状況では危険すぎるのではないか。
モテ薬で何千倍のフェロモンが放出されているなら、異性かつ童貞歴の長いカラ松くんにも効果があるはずだ。最初から彼だけは味方だと信じていたから、薬の効力が及んでいるなんて考えにさえ至らなかった。あまりに浅慮な自分を恥じる。
私が不安げに見上げると、カラ松くんは身を屈めて床に片膝をついた。
「どうした?水でも持ってこようか?」
優しい口調は、いつもと何ら変わらない。彼はいつだって私を気遣って、私を喜ばそうと一生懸命で。力で捻じ伏せることなど容易いと知りながら、決してその選択だけは選ばない。
それは、なぜか。
「カラ松くんには…モテ薬、効いてないの?」
正直なところ、彼になら、という思いは僅かながら沸いた。
万一の時は襲撃を逆手に取り、言葉巧みに誘導してむしろ抱くくらいの意気込みは頭の片隅にいつもあったし、その流れに持ち込む自信もあった。
しかし私が言い出すまで彼自身もまるで思い至らなかったらしく、今気付いたとばかりに顎に手を当てて思案する。
「ああ…そういえば効いてないようだ」
別に何ともない、と両手を広げてみせる。
「女の子より自分のことが好きなナルシストだから?」
「感心すると見せかけた巧妙なディスり」
「違う?ということは…実は男の人の方が好き?」
「なぜその結論になる」
結果から逆算する仮説としては、方向性は間違っていないと思うのだが。
「まぁ、モテ薬なんて効果がなくて当たり前だ」
カラ松くんは気怠げに前髪を掻く。
「薬なんかなくても、オレはずっとユーリが───」
しん、とした静寂が辺りを包み込んだ。
窓ガラスから差し込む日差しが、カラ松くんの黒い髪に反射してきらきらと輝く。その双眸には、唖然とする私の顔だけが映る。
「ユーリが…その、何というか…」
言葉を濁して、カラ松くんの顔が耳まで赤くなる。
言いかけたその台詞が最後まで語られることはなく。
カラ松くんは顔を真っ赤にしたまま、眉間に皺を寄せながら額に片手を当て、悩ましげなポーズを決めた。
「──フッ、常にガールズたちを魅了しているサキュバスの化身同然であるこのオレに、モテ薬なんて邪道なもの効くわけがないだろう!アンダスターン!?」
大袈裟な身振りで声高に演説するカラ松くんを無視して、私は大きく息を吐き出した。
「まぁ何でもいいけど、カラ松くんに効果ないなら良かった」
理由はこの際不問にしよう。
とにもかくにも、二人とも全力で逃げ回って疲労困憊だ。ひとまずお茶を出すために立ち上がろうとしたら、優しい眼差しと共にカラ松くんの手のひらが私の頭を優しく撫でる。
「ハニーが不安なら、薬の効果が切れる時間まで外で待とう。鍵をかけてくれたっていいぞ」
その提案には、首を横に振った。この期に及んで何を言うんだ、この人は。
「駄目、そんなことさせられないよ。カラ松くんのおかげで無事に家まで来れたんだから」
効果が切れるまであと二時間。
「お礼しなきゃね。何がいい?」
「ハニーを守るのは当然だ、礼なんていい」
そう言うと思ったから、私は人差し指を彼の鼻先に突きつけた。カラ松くんは驚いてきょとんとする。
「人間関係をより円滑にするコツはWin-Winであることだよ、カラ松くん。
お礼をさせてもらえると、私はスッキリするしカラ松くんは得をする。悪い話じゃないと思うんだけどな」
もちろん金額や内容によって限度はある。
「コーヒーやカラオケ代私持ちとか、今日の晩ごはん奢るとか、あと何があるかな…えーと…」
「ユーリの手料理が食べたい」
天井を見上げていた視線をカラ松くんに戻せば、少し照れ臭そうに微笑みながら。
「夕方、二人で一緒に買い物に行って…って、こういうのでもいいか?」
自然と頬の筋肉が緩む。
「うん、もちろん!
じゃあ夕方買い出しに行こっか。ハンバーグでいい?」
「肉!?ふふ、分かってるじゃないか、さすがはハニー!」
肉メニューに瞳を輝かせた。
付け合わせやスープの材料をメモに書き出しながら、カラ松くんと顔を突き合わせてああだこうだとメニューを考える。
一緒に住んでいたら、こんなやりとりを何度も重ねるのだろうか。ふとそんな仮定が頭に浮かんだら、肩が触れ合うほど近い距離感に、今更ながら少し緊張する。
「何だか、嬉しいな」
ぽつりと溢れる言葉と、細められる双眸。
「こういうのに憧れてたんだ───思いきって言ってみて良かった」
尊さは許容限界値を超えた。
スーパーで買い出しをする推し、食材を吟味する推し、エプロン姿の推し、料理をする推し、何このご褒美絵図のオンパレード。殺す気か。心臓が保たない。
「あ、あのさ、料理する時のエプロン…デニム生地の格好いいヤツがあるんだけど、カラ松くん使う?」
命が惜しくば止めておけばいいのに、自分でとどめを刺しに行く私。
「いいのか!?それじゃあ、ハニーと一緒に料理する時専用にしよう」
カラ松くんはにこりと破顔する。
私の血管の一本か二本がプツリと切れた音が聞こえた。
プライスレスな推しの笑顔は、尊さという名の攻撃で私の寿命をゴリゴリ容赦なく削っていって───世界は、今日も平和です。