歪さが目立つ通行人たちの中で、過去のカラ松くんと私だけは人間の体を成していた。私は元カレと去っていったが、カラ松くんはまだベンチの上で活字に目を向けている。
思考を巡らすより先に、足が動いた。
建物の影に落ちた暗がりから、日の当たる明るい場所へ。
「ユーリ…っ!?」
サングラスというフィルターを外したら、太陽の光がやたら眩しくて、私は目を細める。カラ松くんの制止の声を振り切って、公園へと足を踏み入れた。
「──松野カラ松くん」
名を呼ばれた少年は、不思議そうに顔を上げた。
「あ、えっと…誰、ですか?」
悠長にしている時間はない。私は単刀直入に告げる。
「初めまして。私はね、未来でカラ松くんと友達になる、有栖川ユーリ」
「友達って…か、からかってるんですか?」
本と鞄を胸に抱えて、カラ松くんは声を震わせた。投げられる声の質は、聞き慣れたカラ松くんそのもので、私の胸に不思議な安堵が広がる。
警戒する彼の肩を気安く叩きながら、意識してにこやかな笑みを浮かべた。
「うん、変な人が変なこと言ってるって思うよね。私だって君の立場なら絶対そう思うよ。
でも本当のこと。何年か経ったら───カラ松くんは、街で私と出会うんだよ」
私はカラ松くんの腕を取って、自分の左手につけていたシルバーのバングルを彼の手首に通す。
「その時まで私を覚えていられるように、プレゼント。
こうでもしないと、将来不安になった誰かさんのせいで将来面倒事に巻き込まれちゃうからさ。
結構気に入ってるヤツだから、大事にしてよね」
これは手枷だ、私と彼を繋ぐための。この世界が私たちどちらかの夢や思い出なら、私物を譲渡するこの行為に意味なんてないけれど。だとしても。
「え、ええと…お姉さんは、彼女にはならないの?」
疑いの眼差しは崩さないくせに、興味本位の問いを投げてくるから、つい笑ってしまう。
内気なナリをしていても、異性に関心のある年頃なのだ。
さて、どう答えたものか。
きらきらと双眸を輝かせて見上げてくる姿が可愛くて、私は思わず幼いカラ松くんを抱きしめる。
「えっ、ちょ…ッ」
「そうだなぁ、もし…もしカラ松くんが───」
言い終わるのを待ち構えたように、地面がぐにゃりと歪んで、平衡感覚が失われる。ベンチは膨張して真っ二つに分裂し、太い幹の木が根元から抜けて宙に浮き、青々と茂った枝棚がこちら目掛けて降り注ぐ。黒く大きな影が、私の周囲に広がった。
かろうじて制服姿のカラ松くんを突き飛ばすことには成功したものの、足が竦んで動けない。万事休すかと、最悪の事態を覚悟する。
「ハニー!」
建物の影からカラ松くんが躍り出て、呆然と立ち尽くす私を抱いて横へ飛んだ。私が下敷きにならないよう、上体を捻った彼の背中が地面に着地する。
「ご、ごめん…」
「ここから離れるんだ!」
度を過ぎた干渉の影響で、世界の均衡が崩れる。
「またね、高校生のカラ松くん!」
「あ…あの…っ」
砂場に尻もちをつく過去のカラ松くんに別れを告げて、彼から離れるために駆け出した。アスファルトの地面が粘土のような柔らかさで波打つから、不安定な足元に幾度となく足がもつれる。どこからともなく出現した瓦礫は空に舞い上がり、時折地上に降り注いだ。
遠ざかれば遠ざかるほどに、地面の揺らぎは小さくなっていく。
途中で何度か転倒しかけながらも全力で駆け抜けたら、街は次第に落ち着きを取り戻し、いつしか何事もなかったように静寂が戻った。
空がオレンジ色に染まる夕刻。
私とカラ松くんは、人のいない寂れた公園のブランコに腰掛ける。古びたブランコが、きいきいとチェーンの摩擦音を立てながら揺れた。
ショルダーバッグの中に財布が入っていたのは僥倖だ。自動販売機でジュースを買うことができた。適当に二本購入し、一本をカラ松くんに手渡す。
「ん──サンキュ、ハニー」
ジュースを両手で握ったまま、腿の上に肘を置く。彼の視線は地面に落ちた。
「ううん、さっきのお礼。助けてくれてありがとう、カラ松くん」
そう告げれば、カラ松くんは私を一瞥して、苦笑する。
「いくら何でもさっきは無茶しすぎだ、ユーリ。この世界に干渉しすぎるなとイヤミに言われただろう?」
「そうなんだけど、もしかしたら戻れるかな、って思って」
「…え?」
「カラ松くんが言うように、ここが『二人が出会ったか確認したい』世界だったのなら、すれ違ったことを確認して、納得した時点で帰れるはずでしょ?
でも何も起きなくて、カラ松くんはあからさまに落胆してた。ということは、本当の望みは『確認したい』じゃない───『出会いたい』だと思ったんだよね」
「──あ」
腑に落ちたらしい。
カラ松くんは脱力した後、はは、と乾いた笑いを溢した。
「…どうしようもないロマンチストだな」
「ロマンチストだなんて…そんないい感じの表現はおこがましい」
「ごめんなさい」
しかしその予測も見当違いだったらしい、今なお私たちはこの世界に留まっている。
トリガーなんて存在しないのか。
だとしたら、夢が覚めるまでこの不安定な世界を彷徨い続けるしない。あまりに無謀だ、狂気の沙汰である。私は所在なげに、バングルを失った手首をさすった。
飲み干した缶をカラ松くんが投げる。
缶は緩やかな弧を描いて、ゴミ箱の中央にすとんと落ちた。
「ユーリ、一つ聞いていいか?」
じっと正面を見据えたまま。
「どうしたの?」
「彼氏と待ち合わせをしたあの後、どこへ行ったか覚えてないか?」
無茶言いおる。
存在さえ忘却の彼方だった元カレと、数年前の某日どこへ何しに出掛けたなんて記憶しているものか。
馬鹿言うなと呆れ果てた次の瞬間、私は思い立ってバッグの中からスマホを取り出した。電波は圏外だが、充電は十分に残っている。
待ち受けからカレンダーアプリを起動。機種変更するたびにバックアップデータをクラウド保存し、新しいスマホへと引き継いでいるのだ。予定さえ入力していれば、ひょっとしたら──
「あった!」
天才か。いや天才だ。過去の私にありがとう。
待ち合わせの時間と場所。そしてその後向かう先が簡素に入力されている。
「映画に行ってるよ。
このタイトルは確か…あ、そうそう、駅近の映画館で観て、その後にすぐ解散したんだっけ。全然関係ない予定が三時間後に入ってるし、間違いないよ」
掘り起こした記憶は意外なほど鮮明な映像で、私の脳裏に蘇る。きっかけさえあれば意外と思い出せるものなんだな、なんて感心するほどには。
「グッジョブだ、ハニー。
映画館へ向かおう。今行けば、出てくる時間には間に合うはずだ」
意気込んで、カラ松くんが立ち上がった。
「え…は?いやいや、何で?何の公開処刑?精神的に殺そうとしてる?」
恋愛に夢中になっている自分自身を、否応なしに見せつけられる精神的苦痛は計り知れない。苦悶の表情でのたうち回ってもいいのか。
「行くのは別にオレだけでもいいが、別行動しない方が安全だろう?」
「それはまぁ、そうなんだけど…」
「もしかしたら、帰れるかもしれないんだ」
はぁ、と私は息を漏らす。もう抵抗する気は起きなかった。何をするつもりかは知らないが、帰れる可能性が少しでもあるなら、カラ松くんに望みを託そう。
映画の終了時刻を映画館内のディスプレイで確認してから、私たちは一旦外へ出る。出入口から少し離れたベンチで待機する際、私だけ再びサングラスを装着。
そうこうしているうちに、映画を終えた客たちがぞろぞろと建物から排出される。抱えたパンフレットや会話の内容からして、私と元カレが観ていた映画に間違いない。自然と肩が強張った。
「ノンノン、リラックスだ、ユーリ。緊張する姿も新鮮でいいが、美の女神アフロディーテも裸足で逃げ出す微笑みが、ハニーには一番似合うぜ」
「各方面から叱責を食らう発言止めて」
カラ松フィルターどうなってるんだ。
「…大丈夫、取って食ったりしないさ」
カラ松くんが優しく笑って、再び出口へと顔を向けるのと時を同じくして、当時の私と元カレが姿を現わした。肩が触れ合うほどの距離感で、楽しそうに談笑しながら。
出口の自動ドアをくぐって数歩進んだところで、元カレは片手を挙げて軽やかに別れを告げる。かつての私はにこやかに応じ、名残惜しそうに背中が見えなくなるまで見送っていた。まだ一緒にいたい思いを隠して強がるのが傍目にも分かるから、何ともむず痒い。
「ねぇカラ松くん、一体ここで何をし──」
その問いかけが最後まで紡がれることはなかった。尋ねようとした視線の先に、カラ松くんの姿がなかったのだ。
「…は?あれ?」
慌てて周囲を見回すと、彼は有栖川ユーリ──つまり私なのだが──と対峙していた。
「えーと…どこかで会いました?」
目を丸くして首を傾げる、若い頃の私。カラ松くんはこちらに背中を向ける格好になっていて、彼の表情を読むことはできない。
「オレの名は松野カラ松。静寂と孤独を愛する───あー、いや、そんな前口上はいい。
信じてもらえないと思うが、数年後にオレはユーリ…君と出会う。街中で再会してオレが食事に誘って、それからは毎週のように会うことになる」
若い私は怪訝そうに眉間に皺を寄せ、口をへの字に曲げる。完全に不審者を見る目つきだ。逃げ出さないだけマシか。
「その時君が会うオレは、今の彼氏よりもずっといい男だ」
大した自信だ。実家暮らしでニートで童貞で、同世代カースト圧倒的最底辺と自称するくらいなのに。
でも同時に、もしかしたら、万一にも、そういう可能性もあるかもしれないな、とも思う。
「…どうか、覚えていてくれ。ユーリ…オレは、ずっと───」
次第に声のボリュームが絞られて、その台詞は最後まで聞き取ることができなかった。
驚愕を顔に貼り付けて目を瞠る私の姿だけが、目に映る。彼女は、一体何を聞かされたのだろう。
だがすぐに、長考するだけの余裕は失われる。再び、世界がぐにゃりと形を変えて歪み始めたのだ。
「また会う時までさよならだ、ハニー」
二本指の気取った敬礼を投げて、カラ松くんはその場を後にする。道路に停車していた半数以上の車が、空へ舞い上がり、一部が隕石のように落下を始めた。車体は破損し、ガラス片やパーツの欠片が無残に飛び散る。これは間違いなく殺しにきてる。
「さぁ、とっとと逃げるぞ!」
私の手を引いて駆け出すカラ松くんの顔は───心なしか満足げだった。
地面の段差を利用して障害物を避ける。
「こんな時に何だけど、カラ松くんだって人のこと言えないよね!」
並走する彼に向かって私は声を荒げた。
「ああ、無茶したな」
反省の意思など微塵もないとばかりに、カラ松くんはさらりと言ってのける。飛来する鉄製のゴミ箱を回避するため、彼は軽やかに跳ねた。叩きつけられるゴミ箱、ばらばらと散らばっていく空き缶たち。
「私が高校生のカラ松くんに会ったから、それで良かったんじゃないの?」
「それだと、この時代ではオレしかユーリに会ってないことになる。逆も必要だと思ったんだ」
ああ、とつい声が出た。なるほど、合点がいく。
亀裂の入ったアスファルトを飛ぶ。裂け目の奥に広がるのは、漆黒の闇。
「まぁ…実を言うと、それは後付けというか、言い訳みたいなもんなんだが」
「別の目的があったの?」
「マーキング」
ニヤリと鼻につく笑みを浮かべて。けれどどこか照れくさそうに。
「元カレより、オレの方が何倍もイカしてるだろ?」
「はぁ!?マーキングって、何それ!」
「フーン、いいだろう説明しよう。マーキングというのは目印や標識をつける──」
「単語の意味を説明されるのは想定外だった!ごめんいらない!」
走りながらのツッコミは体力を消耗する。危うく段差で転倒するところだった。
カラ松くんは数十センチの高低差などもろともせず、私の先を行く。だが私たちの距離が広かないのは、彼が随所随所で背後を振り返り、私が遅れてないかを確認してくれるからだ。
「──で、実際どう?
嘘か本当かは置いといて、私とカラ松くんの出会いを目の当たりにした感想は?」
「…そう、だな」
カラ松くんは苦笑する。
瓦礫やゴミが舞う青空に、不似合いな稲妻が走った。空が荒れている。
「これで良かったんだと思う。
もしオレたちがさっき見たように、本当にこの時期にユーリと会っていたんだとしたら、顔も見ずにすれ違ったままでいい。
仮に目が会って、言葉を交わしていたとしても、彼氏がいる相手にまた会いたいという勇気もなかっだろうし、ユーリだって首を縦に振らなかったはずだ」
自家用車が近くに落下した地響きに足を取られる。
あわや尻もちをつくかというところで、腰に回ったカラ松くんの腕に助けられた。体勢を整え、再び地を蹴る。
「ってことは、満足した?」
「した。ハニーとは数ヶ月前に会うこの運命で良かったんだ」
「実はずっと前に会ってましたなんて都合のいい展開、あるわけないよ」
本当ドリーマーが過ぎると唇を尖らせて愚痴れば、カラ松くんは頷いて笑った。
「例え何度運命を繰り返しても、オレは今の年でユーリと出会いたい」
眩暈がする。
自分の意思とは裏腹に、視界が徐々に白濁していく。何気なく見つめた自分の手は透けて、その先にいるカラ松くんの服がうっすらと見える。
いつの間にか、空には闇の帳。物語の終焉を告げるかのように、静かに広がる、黒。
「結局、夢か思い出の世界かは分からないままだったね」
言葉を発することさえ億劫になっていく。向かい合うカラ松くんの体は、もう上半身しか知覚できない。
「イヤミの言うことだからな。でも、これで元の世界には帰れそうだ」
「お疲れでした」
「また後でな、ハニー」
晴れやかなカラ松くんの笑顔。
夢から覚めることを自覚するなんて、不思議な体験だ。覚めたいのに覚めなくて足掻く夢なら幾度も経験してきたけれど。
「──いい夢だった」
最後に聞こえたカラ松くんの声に応じるだけの気力は、もう残されてはいなかった。
せめて手を振ろうと腕を持ち上げた直後、私の意識はぷつりと途切れる。
頭に靄がかかったような、気怠げな目覚めだった。
ちゃぶ台に突っ伏して居眠りをしていたらしい、額を置いていた右腕には赤い跡が残っている。喉がカラカラだ。
コップの麦茶を飲み干したら、生温い液体が喉を通る感覚で、次第に意識が鮮明になっていく。
「…寝てた?え?何で?」
隣を見やれば、カラ松くんは畳の上に体を横向けて熟睡している。重力に逆らえず流れる前髪からは強気な眉が、捲れたシャツからは白い脇腹が覗いている。半開きの唇が、ごにょごにょと言葉にならない寝言を呟いた。
推しの寝顔美味しいです。
無防備すぎる。腹チラ最高。寝てるだけでエロいは罪。食べたい。寝起きとは思えぬ回転の速さで、私はスマホの撮影ボタンを連打する。
開いた口の端から垂れた涎を確認した時には、思わず目頭を押さえた。
「…んん?」
定位置に戻ろうと立ち上がった際に、一際高い音で畳が軋む。その音と時を同じくして、カラ松くんが眩しそうに目を開いて覚醒した。
「おはよう、カラ松くん」
寝顔の視姦なんてしてませんでしたとばかりに、極上の笑みを取り繕って起床を歓迎する。
「ああ、ユーリ……え、えっ?」
カラ松くんは数秒の間ぼんやりと私と見つめ合っていたが、やがて双眸を見開いて飛び起きた。
「オレ、寝てたのか!?」
「うん、でも大丈夫だよ。よく分からないけど私も寝てたみたいで、今起きたとこ」
「何だとっ!?ジーザスっ、ハニーの寝顔をじっくり眺めるチャンスをみすみす逃した!?」
思考回路一緒か。
「何で二人揃って昼寝なんてしてたんだろうね」
「分からん」
「疲れる夢を見た気がする」
「それは分かる、オレもだ」
顔を見合わせて、笑う。
チクタクと時を刻む壁掛け時計の針は、間もなく正午を示そうとしている。半時間ほど眠っていたようだ。
「腹減ったな、ユーリ。何か食べに行こう」
円卓に手をついて立ち上がるカラ松くん。
うん、と生返事をした私は、彼の手首できらりと光る物に目が留まった。
年季の入った、シルバーのバングル。
表面には細かな傷が幾つも見受けられた。
そういえばもう何年も前、私も同じようなデザインのバングルを持っていたっけ。安物だったけど気に入っていたのに、いつの間にかなくしてしまった。あれは、どこへいってしまったのだろう。
それにしても、紛失したバングルに──よく似ている。
誰かが言った。
真実なんてない。あるのは無数の各人の解釈。
私たちが常々真実と呼ぶのは、最も有力な解釈の一つでしかない。
イヤミさんは言った。
私とカラ松くんが過ごした不思議な空間は、夢、思い出のどちらかであろうと。
「ねぇカラ松くん、そのバングル───」
それもまた解釈でしかないのなら、さぁ、私たちの旅路は、一体どんな『解釈』が有力なのだろう。