騒々しい昼休みはあっという間に過ぎ、午後の部が始まる。
第一プログラムのパン食い競争に参加するのは、十四松くん。コースは二百メートルの半分を使い、途中の通過ポイントで木の棒に吊るされたパンの袋をくわえてゴールへ向かう。軽く跳ねれば容易にパンに届く高さで、十四松くんには物足りないレベルと思われた。
しかし一般庶民にとっては、揺れるパンを口だけで獲得するのは意外に手こずるもので、現に第一走者の半分はパンの下でぴょんぴょんと何度も跳ねる。
「食後一発目にパン食い競争ってエグくない?食指動かなさすぎる」
「おそ松兄さん、腹満たす目的の競技じゃないから」
トド松くんの返答が至極真っ当で、ツッコミというよりはただの指摘だ。
「でも十四松って、赤塚高校パン食い競争記録保持者だよね?
どんな難関も十四松ゾーンに入りさえすれば、パンも貰えて一位獲得も余裕。赤高のトビウオと呼ばれた十四松のためにあるような競技」
一松くんの発する単語がいちいち破壊力がすごい。
とりあえず、十四松くんが一位ほぼ確定ということだけは伝わった。
しかし。
「問題は、主催者が赤高のトビウオを知らないはずがない──ってことだ」
チョロ松くんがごくりと唾を飲む。
シリアスシーンっぽいけど、たかが町内運動会のパン食い競争だからね?
ついに十四松くんの番がやって来る。
腕を振り回しながらマッスルマッスルと威勢のいい声を上げて、位置につく──とその時、十四松くんのコースのパンだけが、木の棒から外された。そしてコース外から釣り竿を使って垂らされた糸にぶら下がっている物へと代えられる。
百歩譲って、パンを吊るす方法の変更はいい。私が面食らったのは、パンの位置がどう好意的に見ても三メートル以上の高さにあることだ。
走者たちが右往左往する微笑ましいパン食い競争が一転、記録保持者に対してのハンデがえげつない熾烈な競技へと姿を変える。
カラ松くんが苦々しげに下唇を噛む。
「クッ…やはり奴らは、赤高のトビウオを見過ごさなかったか。だが逆に言えば、それだけの脅威であることは今なお健在ということだ」
「カラ松くん…」
お前は何を言ってるんだ。
「可哀想な十四松兄さん…高校時代、パン食い競争でのジャンプはどう見てもイルカっぽい感じだったのに、イルカってツラじゃないと一蹴されてトビウオの異名を貰ったばかりに…」
本当どうでもいい。
しかし彼らの懸念は現実となり、案の定十四松くんは苦戦を強いられる。一メートル超えの脚立を使ってようやく届くかという高さを、ジャンプだけで達しろというのが土台無理な話なのだ。
「わーん、届かないよー!」
天使の脚力をもってしても届かない高さを要求する運営陣に、無性に苛立ちが募る。人力で釣り竿を用いるなら、届くか届かないかのギリギリの駆け引きを楽しめばいいのに下手くそか。
「十四松くーん、頑張ってーっ!」
外野から私は声を張り上げる。
「うん、ユーリちゃん!見てて、ぼく頑張るからねー!」
声援一つで、十四松くんの表情がぱぁっと明るくなる。
直下から飛ぶのが駄目ならと、数メートルの助走つけた跳躍を試みるが、それでもまるでパンには届かない。
その内、敵対する赤組の走者がパンを引きちぎることに成功する。
何かできることはないか、そう考えた時、私の脳裏に過るものがあった。自分のバッグを漁って、取り出した物を天高く掲げる。
「十四松くんっ!一位になれたら、ネズミーランド限定のレインボーペロペロキャンディあげるよー!」
配色の美しさと均整のとれた形、濃厚かつ芳醇な味わいで、人を惹き付ける魅力を兼ね備えた人気キャンディである。たまたま友人からの土産で貰ったが、直径十センチ近い糖分を摂取する気になれなくて、彼に譲ろうと持ってきたものだ。
「限定ペロキャン!?」
十四松くんの目の色が変わった。
「この戦いが終わったら、ぼくはユーリちゃんから、ペロキャンを貰うんだ…ッ」
死亡フラグを立てるな。
口から吐き出される長い息と共に、体を軸にしてゆるゆると回転を始めた。コマのように回る体の周囲に砂が舞い上がり、時折強風が観客席まで吹き付けてくる。何だこの展開。
カラ松くんは矢面に立ち、私を風から守ろうとする。
「見ろハニー、十四松が十四松ゾーンに入った──これで勝利は約束されたも同然だ…」
「十四松ゾーン」
ツッコミは禁止ですか、そうですか。
タイフーンのように高速回転する彼が発生させた風は向かい風となって、パンをくわえたライバルをゴールへ進ませない。
「行け十四松っ、赤高のトビウオの実力を見せつけてやれ!」
「パン食い競争にお前の名が記述されたその瞬間から、勝負の行方は決まっていたんだッ」
向かい風になびく髪を押さえながら、おそ松くんとチョロ松くんが叫ぶ。
だから、町内会の運動会だからね?
高速回転を維持したままの十四松くんが蹴った地面は、トランポリンかと見紛うほどの反発をもって、彼の口をパンの袋へと辿り着かせる。紐ごと勢いよく引きちぎって、竜巻状態のままゴールのテープを切った。
「やったよユーリちゃん!一位ゲットー!」
目をキラキラと輝かせて、十四松くんは手にしたパンの袋を振り回した。
有志メンバーによる応援合戦や、シニア限定の○×クイズなど、幾つかの競技を経て、一松くんと私が参加する玉入れの招集がかかった。
「あー面倒くさい」
ジャージのポケットに両手を突っ込み、一松くんは背中を丸める。
「面倒なのに玉入れ参加で大丈夫?結構体動かす競技だと思うんだけど」
「大勢参加するから、一人くらい外野で突っ立ってても大して変わんないでしょ?だからだよ」
なるほど、納得。両親から強制されたから参加の義理は果たすが、プラスアルファの努力はしない方針らしい。
「まぁユーリちゃんは頑張ってよ。ユーリちゃんが楽しそうにしてるの──可愛いし」
消え入りそうな声で紡がれたその言葉を、私は確かに聞いた。頬を僅かに赤くして、一松くんは私から視線を逸らす。
「かわ──」
「ちょっと待って、こういうのは聞こえないのがお決まりじゃないの?
真顔で反芻されると羞恥心で死ねる」
じゃあ何で言った。
それにしても、と私は周囲を見回す。何かがおかしい。他の競技と変わらない和気あいあいとした空気の中に、殺伐とした気配を感じて、私は眉間に皺を寄せる。
「ユーリちゃん…?」
視線を巡らせる私に倣うように、一松くんもまた一帯を観察する。
トラックの内側左右で白組と紅組に分かれて、籠から一定距離を取って円状に囲む。一見、何の変哲もない玉入れだ。だが得体の知れない不安に駆られた私は、一松くんの隣を死守する。
「あ、分かった」
一松くんが低いトーンでぽつりと溢す。
「参加者の割合がおかしいんだ」
「割合?」
「そう。普通玉入れって老若男女入り混じるもんだけど、見てみなよ他の参加者───八割が男で、女の人は五十代以上ばっかり」
紅白共に各三十人以上が参加しているにも関わらず、二十代女性は私しかいない。そして、なぜか男性陣から集中する意味深な視線。数少ない女性からは、憐憫の情に似た目線を向けられているような気がしてならない。杞憂だろうか。
「おそ松兄さんからは玉入れとしか聞いてないんだけど、ユーリちゃん何か知ってる?」
「ううん、私も玉入れとしか聞いてな──」
言い終わらないうちに、マイクを持った司会者の声がスピーカーを通して聞こえてくる。
『では午後の目玉競技、スプラッシュ玉入れを行います!』
何て?
『今から係が水風船を持っていきますので、その水風船を籠に投げ入れてください。通常の玉入れ同様、多くの数を入れたチームの勝利です。
制限時間は六十秒。水風船は破れやすいので、落ちた拍子に割れて服が濡れてもご容赦くださいねー、ハハハ』
サークルの中にばら撒かれる、大量の水風船。不明瞭だった全てのパーツが一つに繋がって、私と一松くんはほぼ同時に外野のおそ松くんをきっと睨めつけた。
私たちの殺気に気付いた彼は、にこやかにウインクしてサムズアップ。
「よし、クソ長男は後で始末だ」
一松くんが青筋を立てて拳を鳴らす。頼もしい、やったれ。
「ユーリちゃんは逃げることに専念しなよ。オレと同じように端にいれば、一分くらいなら濡れずに済むんじゃない?」
「そうだといいけど…」
ひしひしと感じる、無遠慮に向けられる幾つかの眼差し。そういった類に聡くない私でも、真正面から見つめられれば嫌でも気付く。
一松くんが気怠そうに息を吐き出すのと、開始のホイッスルが鳴るのが同時だった。
参加者たちは、地面に転がる水風船を拾い上げ、籠へ向けて投げていく。
宙に舞う色とりどりの水風船。掴んだ瞬間に勢い余って破裂させる者、降ってきた水風船が直撃して服を濡らす者、誤って靴で踏みつけ爆発させる者など、一般的な玉入れとは異なる様相を呈する。そのたびに客席はどっと沸いた
積極的に参加するメンバーから二メートルほどの、サークルの縁ギリギリに立つ距離を保てば、被害は何とか免れそうだ。
戦線離脱は罪悪感が残るが、安堵して肩の力を抜いた、その時───
私の真横を、弾丸よろしく高速の水風船が通り過ぎた。
「ッ!?」
「ちょっ、ユーリちゃん…大丈夫!?」
一松くんの顔色が変わる。きっと、私も同じような表情をしていたに違いない。
「な、何とか…でも今の、間違いなく狙ってたよね?当てに来てたよね?」
「十四松並にキレのあるストレートだった…」
玉入れ参加メンバーに本職の方がいらっしゃる疑惑が浮上。
私を狙った理由は考えたくない。
白シャツは透けやすいとか、二十代女性が自分だけだとか、弾き出される解答は一つしかないけれど、認めたくない自分がいる。これが正常性バイアスか。
「伏せろっ!」
不意に、いつになく大きな一松くんの声が響いた。
そしてほぼ時を同じくして聞こえた破裂音と、水しぶき。
「い、一松く──」
素早く私の前方に躍り出て、迫りくる水風船を薙ぎ払った彼の右半身に水滴が滴る。ぽたりと地面に落ちて、足元に広がる水たまり。
「一松くん!」
「ユーリちゃんは動かないで」
真正面を見つめたまま微動だにせず。
「おれがどうにかする」
そう言い切った直後、立ち位置をずらして腿で水風船の直撃を受ける。私は息を飲んだ。彼が足を動かさなければ、屈んだ私の背中で破裂していたかもしれないからだ。
外野では、鬼のような顔をしたカラ松くんがロープを乗り越えようとして、他の四人に抑え込まれていた。やいのやいの騒いでいるようだが、玉入れの阿鼻叫喚で、彼らの声はこちらまで届かない。
籠目掛けて水風船を投じる大勢の中に紛れた、プロ投手さながらの手腕を持つスナイパー。一松くんの足の隙間から様子を窺うが、目星がつかない。
何より一松くんは、奴らを仕留めるよりも制限時間を耐える方が得策と判断したらしい。
爪を立てた猫のポーズで構え、時折飛来する水風船を次々と撃破していく。代償として自分が濡れることなど厭わずに。その命中率は百%、さすがは日頃十四松くんの野球に付き合っている相棒だけのことはある。
『試合終了ー!みなさん、白線までお戻りください!』
「…良かった」
力なく呟いた一松くんの声が、強く印象に残った。その表情は、彼に守られる私には見えなかったけれど。
試合は、僅差で白組が勝利を収めた。
ほぼ防御に徹した二人と、数名のスナイパーが離脱していたにも関わらず、チームは健闘してくれた。
「ユーリっ、無事か!?」
退場門をくぐった途端、待ち構えていたカラ松くんが血相を変えて駆け寄ってくる。
「私は大丈夫だよ。全然濡れなかった」
「ハニーを守ってくれてサンキューだぜ、ブラザー!」
双眸を輝かせてカラ松くんが仰々しく両手を広げた。土砂降りに遭ったような全身びしょ濡れの一松くんは、チッと舌打ちして眉間に皺を寄せる。
「ユーリちゃんはテメーのもんじゃねぇだろ」
「男気溢れたガーディアンだったぞ、一松!」
一松くんのツンな態度も何のその、白いバスタオルを彼の頭にかけて、カラ松くんは朗らかに笑う。
私は改めて一松くんに向き直った。
「本当にありがとうね、一松くん!驚くわ感動するわで、私もう今日は一松ガールだよ!」
「い、一松ガー…えっ!?」
両手を握りしめて私が言うと、一松くんは顔を赤くして目を瞠った。
「いやいや、おれみたいなクズにもったいない…そんな施しいらないし…っていうか別に、ちょっと濡れただけだし」
一見気のない返事だが、タオルで隠れた顔は綻んでいる。へへ、と一松くんが小さく笑って、肩が揺れた。
「えーっ、何で一松ガール!?」
異議を唱えたのは、カラ松くんだった。
「カラ松ガールになるのは断固リジェクトなのに!?
やだやだっ、ハニーがカラ松ガール差し置いて一松ガールになるのは嫌だー!」
「うるさいよカラ松くん」
「うるさい黙れクソ松」
「そういうとこに限って二人の息が合うのも嫌だー!」
松野家出発時の朝、念のためにとおばさんから六つ子に渡されたボストンバックの中には、数人分の着替えが入っていた。この事態を予測したのかと勘ぐってしまう反面、さすがは長年彼らの母親を務めていることはあると感心する。
運動会も終盤に差し掛かり、最終種目の紅白代表リレーの招集がかかった。足に覚えのある者ばかりが集い、大会一番の盛り上がりを見せる競技だ。見る側も俄然テンションが上がる。
「フッ、オレの出番か」
シートからすっくと立ち上がるカラ松くんに反して、その他五人はシートに寝転がってひらひらと手を振るだけだ。
「適当に蹴散らしてこいよ脳筋」
「紅組と拮抗してんだから、最後で男見せろよ」
六つ子たちに威勢がないのは、つい今しがたまで参加してきた騎馬戦で消耗しているためだ。何でもありの男女混合戦で、大将かつ指揮官のトト子ちゃんに捨て駒として散々酷使された結果、性も根も尽き果てている。
紅白リレー出場者のカラ松くんだけは、順番が前後する競技には参加不可という大会側のルールにより、騎馬戦不参加。それ故、はつらつとしているというわけだ。
「活躍期待してるよ、カラ松くん──あ、暇だし入場門まで送ってく」
死屍累々の五人と共に待機するのが躊躇われたのもある。
入場門へと向かう道中の会話で、彼がリレーの最終走者と初めて知る。
「え、本当にアンカーなんだ?すごいね!」
「フッ、当然だ。どんな相手だろうとすぐさま追い抜いて、トップになる自信があるからな。それならオレを最後に配置するのがベストな采配、だろ?」
キメ顔で自信たっぷりにウインクを決めてくる。
「このファイナルリレーのとびっきりのビクトリーを、ユーリに捧げよう」
いつも通りの大袈裟な振る舞い。
私が笑ってスルーするのもお決まりの流れ───のはずだった。
「ちょっとっ!あなた今、告白リレーの優勝を贈るって言いました?」
本部席の前を通った時のことだった。
ジャージ姿の三十代のおぼしき男性が、本部席の椅子から勢いよく立ち上がって私とカラ松くんにマイクを向ける。首からは『司会進行』と書かれたカードがぶら下がっている。
「え…ああ、言ったが…」
呆気に取られながらも、カラ松くんは首を縦に振った。
「お隣にいるのは、あなたの彼女?」
「ハニーのことか?」
「ハニー!なるほど、そういうご関係!分かりました!」
どういうご関係。
一見会話が成立したように見えるが、これ絶対誤解してるヤツやん。
「えーとあなたは…おおっ、白組アンカーの松野カラ松さん!」
長テーブルに置かれていた参加表を手に取り、彼は唐突にマイクを掲げた。
『ご参加のみなさん!ここにおられる紅白リレー白組アンカーの松野カラ松さんが、リレーの勝利を彼女にプレゼントするそうですっ!
果たして彼の愛は通じるのか!?みなさん応援してくださいねー!』
スピーカーを通じて広がる司会者の声に、歓声が湧き上がる。
プログラムも終盤に差し掛かり緊張感が緩和された頃合いに、降って湧いたドラマチックなイベントは、場にも慣れて弛緩した彼らの感情に揺さぶりをかけた。
「…帰りたい」
私は文字通り頭を抱える。
しかしカラ松くんは対照的に、司会者からマイクを奪い取り嬉々として壇上に上がる。
「ハッハー、待たせたなボーイズ&ガールズ!
この松野カラ松、いかなる試練も乗り越えてハニーに勝利を捧げてみせようっ!乞うご期待!」
マイクを通して反響するイケボ。盛り上がる観客たち。うん、声はいい、実にいい。問題は内容だ。
「カラ松くん…大丈夫?」
司会者にマイクを返した彼に、私は声をかける。
「うん?どうしたユーリ、オレが負けるか心配なのか?」
「何ていうか…勝ってほしいけど、こんなに大勢の前で宣言しちゃっていいのかな、って」
彼の意気込みをこの場の全員が知るところとなった以上、何が起こるか予測がつかないのだ。
しかし私の不安をよそに、カラ松くんは私に笑顔を向ける。
「それなら、オレの勝率が劇的に上がるおまじないがあるんだが、頼まれてくれないか?」
「いいよ、私にできることなら」
即座に頷けば、彼は一層目を細めた。
「ゴールで、オレを待っていてくれ」
運動会のトリを飾る紅白リレーが始まった。
紅白各チームから足の速さに自信のある猛者が集い、バトンをつないで走る、言わずと知れた競技だ。最終走者はチームカラーのたすきを肩にかける。鋭い眼差しで遠くを見つめるカラ松くんの白いはちまきとたすきが、ひらひらと風に揺れていた。
走者は二十代から三十代が過半数を占めており、紅白リレーに出場するだけあって走る姿には迫力がある。観客席からは歓声が飛び交い、スピーカーから流れるBGMと相まってグラウンドの熱気は高まっていった。
両者抜きつ抜かれつの互角の戦いが続く。
拮抗しているならばカラ松くんが有利か。
そう思った次の瞬間───白組の走者がバランスを崩して転倒する。
紅組に大きく引き離される。
叫ぶ観客と私の動揺とは裏腹に、カラ松くんは無表情のままだ。スタートラインに立ち、感情の読めない顔でバトンを持つ白組走者を見つめる。二百メートルトラックで半周の差が開いたまま、紅組のバトンはアンカーへ渡った。アンカーはトラックを二周回る。
転倒した白組走者は足を捻ったのか、体勢を整えて再び走り出した際のスピードが、明らかに落ちた。それでも走りきり、カラ松くんの手にバトンをつなぐ。
私は、祈るような思いだった。
半周以上の差はあまりにも痛手だ。ここからどうやって挽回するというのか。
けれどバトンを受け取った時、カラ松くんの口が動いて、前走者に何かを告げた。
「後は任せろ」
彼が紡いだのは、唇の動きから察するに、おそらくこんな言葉だったと思う。
そうしてカラ松くんは───ニヤリと、笑った。
紅組を追うため、弾丸の如きスピードで軽やかに疾走する。両者の違いは、走法だった。力強く地面を蹴る紅組に比べて、カラ松くんは地面からの反動を利用して弾むように走る。歩幅、足の回転、いずれのスキルもカラ松くんが圧倒的に高いことが、素人目にも明白だった。
見る見るうちに距離が縮まっていく姿に、客席から彼の名を叫ぶ声援が幾つも上がった。
彼がトラックを一周を走り切る頃には、半分以上の差を取り戻す。
アンカー両者が最終トラックへ突入し、私はテープ係にゴール地点へと誘導される。テープの先に立ち、彼がゴールするのを待つ。
「カラ松くん!」
私の叫びは、観衆の応援に溶けてしまう程度の音量に過ぎなかった。
けれど。
届いていないはずなのに──不意に、目が合うから。
「カラ松くん、頑張れー!」
視線を絡めたまま力の限り振り絞った。
私の声援に応じるように、彼はコーナーで僅かに失速する紅組アンカーを抜いて、ついにトップに躍り出る。
「やった!」
一度追い抜きさえすれば、勝利確定だ。破顔して思わず手を振る。
最終の直線でさらに加速したかと思うと、テープを切る直前で大きく減速してテープを切った。
大逆転劇で収めた勝利に、BGMを掻き消すほどの喝采が沸き起こる。鳴り止まない拍手と賛辞の声。
「──ユーリ」
名を呼ばれて、ほとんど無意識に両手を伸ばしていた。
地面に投げ捨てられる白いバトン。スピードを落としながらカラ松くんが飛び込んできて、私を力強く抱きしめる。
「おめでとう、カラま───へ?」
直後、脇の下に添えられた手に持ち上げられて体が宙に浮いた。
「えっ、ち、ちょっと…ッ」
まるで高い高いをされる子供のように。
「約束通り勝ったぞハニー。言った通り、とびっきりのビクトリーだっただろ?」
にかっと白い歯を覗かせて、誇らしげに笑うカラ松くん。
推しの大正義すぎる可愛らしさとか度肝を抜かれる逆転劇への感動だとか、色んな感情が高ぶって、抵抗する気力が削がれていく。
「…うん!」
『やった!やりました、松野カラ松さん!
彼女へ愛も無事届いたようです!ハッピーエンドっ!みなさん、素敵な恋人同士のお二人に今一度盛大な拍手を!』
感極まった司会者の叫びが、スピーカーから流れてくる。
そうだった、そういう設定だった。
すっかり失念していたが、よくよく周りを見渡してみれば、結末を見届けた大勢の観客たちの視線は私たち向いていて、つまり晒し者同然だったわけで。うん、もう何ていうか、死にたい。穴があったら入りたいどころではない、存在を抹消したい、タイムマシンでやり直したい。
そしてその数秒後、般若の形相をした六つ子たちが観客席から駆けてきて、誰が誰の恋人だオラなどと暴言を吐きつつ、カラ松くんを絞め上げることとなる。会場はどっと沸いて、赤塚区大運動会は無事全ての競技の終わりを迎えた。
赤塚区大運動会は、白組の優勝で幕を閉じた。
町内会長による労いの後、紅白各代表者に優勝と準優勝トロフィーの贈呈、参加者全員に参加賞として入浴剤セットが配布される。
さて解散かと気を抜いていたら、司会者が壇上で声を上げる。
「では最後に、本日のMVPの発表です!栄えあるMVPは───松野家六つ子のみなさん!」
名指しされた六つ子の面々は、揃って面食らった顔になる。
「え、マジ?マジで俺ら?」
「活躍どころか恥を晒した覚えしかない」
おそ松くんは興奮気味に周囲を見回し、チョロ松くんはげんなりと眉をひそめる。
「松野家のみなさんには『いい意味でも悪い意味でも運動会を盛り上げてくれましたで賞』をお贈りします!」
笑い声に包まれて、六つ子の傍らにいる私の肩身も狭い。
「最高にいらない…」
「帰れ帰れー」
一松くんと十四松くんは断固拒否の構え。そりゃそうだ。
「そしてもう一つのMVPは───有栖川ユーリさん!」
嫌な予感が押し寄せる。
「『悪魔の六つ子を手玉に取っていたで賞』です!お疲れ様でしたっ」
誰が賞名つけたんだ、悪意の塊すぎる。
「ちょっと止めてよー。ボクたちはいつものことだからいいけど、ユーリちゃんは一般人なんだよ」
トド松くんが頬を膨らませた。言い方が芸能人っぽいが、内容的には概ね合っているから不思議だ。
MVPの商品は一ダースのカップラーメン。私の分も彼らに譲ると、おそ松くんと十四松くんが箱を掲げながら小躍りする。
「さすがユーリちゃん、俺らの女神なだけはある」
「ユーリちゃん、ありが盗塁王!」
「さっそく今日の夜食にしようぜ、十四松」
閉会の挨拶があり、お疲れ様でしたと参加者全員が揃って頭を下げる。
いつも通りな松野家の面々と、いつも通りに騒々しい一日が終わりを告げる。幾度となく、もう二度とこいつらとは行動を共にしないと心に誓っても、結局次の約束を交わして、懲りずに繰り返す。
六つ子とつるむのは悪くない、むしろ好ましいと思う自分は、たぶん、どうかしている。
シートの上の荷物を六つ子たちと片付けていたら、荷物を持ち上げようとしたカラ松くんの右腕が視界の隅に入る。
何気なく顔を向ければ目が合って、自然と言葉が口をついて出た。
「楽しかったね」
忌憚ない感想だった。
「ユーリが楽しめたなら良かった。今更だが、強引な誘い方で、その…すまなかった」
彼ら自身も本意ではない参加だったのだろう。だからこそ私を道連れにするのに、正攻法では断られると思ったのか。
「ほんとそれ。次からはちゃんと誘ってよね。
でも色々新しい発見や再確認したこともあって、収穫が多い一日だったかな」
一呼吸置いて、私はにこりと微笑む。
「特に───カラ松くんのことで」
「えっ!?…お、オレ?」
「そう」
「ふ…フフン、さすが目の付け所が違うなハニー。オレの勇ましい活躍の数々を目の当たりにして一層魅了されたというわけか。存在さえもギルティな…オレ」
当たらずも遠からずではあるが。
「これが沼ってヤツなんだ、って」
「……ぬま?」
カラ松くんは素っ頓狂な声をあげる。
「だってカラ松くん可愛いんだもん。どんなイケてる活躍しても、最終的に感想が可愛いに集約されるって、まさに沼。これぞ沼。ハチマキ巻いたジャージ姿の運動会スタイルだけで、語彙力追いつかない可愛さって最高だよね。公式からの怒涛の供給マジ有難い」
荷物を詰めたリュックを背負いながら淡々と語り、ふと彼を見やったら、タコよろしく顔を真っ赤にして硬直していた。
「…カラ松くん?」
「え、あ…何というか……えーと、ユーリ、その」
「二人共何やってんの、そろそろ帰るよ。あ、ユーリちゃんは荷物持たなくていいよ、カラ松お前彼女の分全部持て」
チョロ松くんが振り返って声をかけてくる。各自荷物を抱えて、帰り支度は準備万端のようだ。
「あ、ああ…分かった、チョロ松───ハニー、疲れてるだろ、荷物を渡してくれ」
「ありがと、じゃあ任せちゃおうかな」
ゴミを詰めたビニール袋を手渡して私たちが並んで歩き出すと、チョロ松くんがおもむろに茶色い封筒をひらひらと掲げてみせた。
「ねぇユーリちゃん、六時から近所の居酒屋で慰労会という名の飲み会しようと思うんだけど、ユーリちゃんも来るでしょ?
母さんから資金貰ってるんだ、お弁当のお礼も兼ねて奢らせてよ」
「え、いいの?行く行く、喜んで!」
「何だよチョロ松、自分だけユーリちゃんにいいとこ見せやがって。てか、親に金出してもらってる時点で格好良くないも何ともからね」
「うるせぇクソ長男。テメェのせいで鼻血噴出してぶっ倒れる醜態見せた時点で、好感度は最底辺なんだよ、もう後は上がるしかないんだよ、最速で上げさせろよ」
大縄の事件を根に持ってるらしい。対するおそ松くんはきょとんとしていて、反省の念がないのか既に忘却の彼方なのか。
「驚いたけど、別に好感度は下がってないよ。大変だったよね、チョロ松くん」
「えー、ユーリちゃんフォロースキル高すぎる。もう普通に好きー」
チョロ松くんの顔が花が咲いたようにぱぁっと明るくなった。
「それは光栄」
片手を胸に当て、少し大袈裟な仕草で返す。けれどすぐ傍らには、不機嫌そうに眉間に皺を寄せた人がいて。
「待ってくれ。それは…駄目だ」
「駄目?好きでいてもらえるのは嬉しいよ」
友達として、という言葉は敢えて除外した。付け加える方が不自然な気がしたからだ。私が首を傾げれば、カラ松くんは私を真っ直ぐ見据えたまま口を開く。
「だったら、チョロ松よりオレの方がよっぽどユーリが、す…す──」
「カラ松兄さん、ユーリちゃん、早く帰ろうよー」
ボクもう疲れたよ、と。可愛い末っ子が気怠そうに言うから。
すの続きを発するべく横に広がった唇からは、やがて静かな溜息が漏れた。
「……ああ、すまん、トッティ。そうだな、早く荷物を置いて飲みに行こう」
それからチラリと、心残りがあるような目で私を一瞥するので、私は助け舟を出した。
「帰りが遅くなったら、カラ松くん送ってくれる?」
我ながら役者だと内心で苦笑する。しかし依頼された側には満面の笑みが広がって、彼は大きく頷いた。
「もちろん!プリンセスを無事に送り届けるのはナイトの務めだ、任せてくれ」
笑い声を上げる者、倦怠感を吐き出し者、茶々を入れる者、三者三様の後ろ姿と横顔を少し後ろから眺める。私の顔には自然と笑みが浮かんでいて、やっぱり彼らといるのは飽きないなと思う。
郷に入っては郷に従えの真逆を行く六人が織り成す、予測できない物語の共謀者というのは、私にはいささか荷が重い気もするが、いつどんな時でも、必ず私を守ろうとしてくれる人もいるから。
日が暮れ始める茜色の帰り道、足元に伸びる七人の長い影は、どこか愉快そうに見えた。