このお話は、たまには病もいいもんだに関連する内容が随所に含まれています。
「もしユーリが風邪をひいたら、いつでも言ってくれ。通って看病する」
かつてカラ松くんは、私にそう言ったことがある。
上着の必要性を感じるほどに肌寒い日だった。
マスク姿の通行人も散見されて、秋の深まりと共に空気の乾燥を肌に感じる。
ついこの間まで半袖を着ていたのに、たまたま訪れたカフェでは自然と温かい飲み物を頼んでいた。カラ松くんも私に倣い、彼が持つトレイに載った二つのカップからは白い湯気が立ち上る。
「少し寒くなってきたね」
「オータムだからな」
「しばらくカラ松くんの二の腕と脇チラが拝めないのは極めて遺憾」
「──っ!唐突にそういう発言は止めてくれないか、ハニー…」
危うくトレイをひっくり返すところだったぞ、とカラ松くんは赤い顔。
「そっか、そうだね、ごめん。腹チラを忘れてた、大事だよね」
「んー、ノンノン、オレの話を聞いてないな。だがハニーの猫のような気紛れはキュートの一途をたどるから仕方ないな、このギルティガールめ」
カラ松くんが深い溜息をつきながらわざとらしく額に手を当てる。どっちもどっちな気がしてきた。
「でも真面目な話、風邪が流行ってるらしいから気をつけないと」
カップを両手で包みながら私は話題を戻す。
「ん?何でだ?」
え、今こいつ何でって言った?
ここは普通、そうだな、と相槌を打って然るべき展開ではないのか。体調を崩せば日常生活に支障をきたしまくるだろうが。そう口を開きかけた私は核心に気付く───六つ子全員無職のニートであることを。迷惑をかける相手は皆無、抱える業務も責任も皆無、気をつける必要などまるでない。
「…ああ、そうか、ユーリは気をつけないとな。ユーリが人を惹き付けるのは当然だが、ウイルスにまで愛されては困る」
違う、そうじゃない。
でも気遣いは嬉しいから黙っておく。
「もし風邪ひいても、家族と一緒に住んでる人はまだいいよね。私みたいな一人暮らしは、体調悪くても自分のことは自分でやらなきゃいけないから、結構大変。万が一のために色々買い溜めしておこうかな」
テーブルに頬杖をついて気怠げにそう呟けば、今度はカラ松くんが意外そうに目を瞠った。
「ハニーはその必要ないだろ」
「え?」
「オレが看病するって約束だったじゃないか」
何の話かさっぱり分からない。その思いはきっと顔に出ていたのだろう、唖然とする私に、カラ松くんが憮然として眉をひそめた。
「まさか覚えてないのか?
以前オレが風邪をひいてハニーの家に泊めてもらった時、熱が下がった後に話をしただろう?」
唇を尖らせながらカップに口をつける。
その言葉をきっかけに記憶の引き出しががらりと開いて、当時の映像が脳内で再生されていく。ああ、と私は言葉にならない息を溢した。
「冗談だと思ってたよ」
「本気だ。それだけの恩義がある。あの時オレは…ユーリに救われた」
ブラウンを基調としたナチュラルテイストな内装の中、カラ松くんの穏やかな微笑みは映えるなぁなんて、私の思考は横道に逸れる。
「借りという表現は適切じゃないが、必ず返す。もしユーリが風邪をひいて寝込むようなことがあったら、いつでも呼んでくれ」
すぐに駆けつけるから、と。
「…今だから言うが、ハニーの家は本当に快適だった。体調を崩した時に神経を研ぎ澄ますことなく無警戒で眠れたのは初めてだ」
「命狙われてるの?」
「約五人からな」
「否定しろよ」
まぁ、一部屋で一つの布団で就寝している現状を考えると、体調不良時も安らげなくて当然か。家の中で、逃げ場というか、安全地帯がないのは由々しき問題だ。
「まぁつまり、そういうことだ。だからハニーは安心して風邪をひいていいんだぞ」
大船に乗った気で、と胸を叩いて得意げなカラ松くんに、何と返事をすべきか悩んだのが正直なところだった。だからこの時私は、どうとでも取れるように、曖昧に笑った。
そんな会話を交わしたこともすっかり忘れてしまったある日、目が覚めた瞬間から全身に漂う倦怠感を知覚する。唾を飲み込んだ喉に激痛が走り、体が熱い。ベッドのマットレスに肘をついてどうにか体を起こしたものの、体温計を取りに行く僅か数歩の距離で早くも力尽きた。
再び布団に潜り込んで、体温計を脇に挟む。表示された数値は平熱よりも二度ほど高い。風邪をひいたようだ。恨みがましく数値を睨みながら、うー、と唸る。
よりによって、カラ松くんと約束をした日に熱を出すなんて。推しに会って触って拝んでイケボに悶えて生きる糧を得る貴重な日に。
しかし、唾を飲む痛みに耐えるだけで体力を消耗していく今、会えるはずもない。仮に会えても、病原菌をうつす危険性も高い。
横になったまま枕元のスマホを手に取って、松野家に電話をかけた。
「はい、松野です」
どうか一発で出てくれという祈りが通じてか、受話器を取ったのはカラ松くんだった。
「…カラ松くん」
「その声はユーリか、おはようハニー。どうした、元気がないようだが」
気力を振り絞って明るく呼びかけようとしたのだけれど、一瞬で見抜かれてしまう。
「うん、ちょっと風邪ひいたみたいで…」
「え…そうか…分かった」
言葉を続けるのに僅かな間があって、なぜか重々しい空気が漂う。楽しみにしてくれていたのだろうか、だとしたら申し訳ない。埋め合わせはきっとしよう。
「ごめんね、だから今日会うのは無理で──」
「今から向かう」
話聞いてた?
「あ、あのねカラ松くん…だから」
「看病するって約束だ──ユーリ」
彼にしては珍しく、私の言葉に被せて有無を言わせない。掛け布団に一層顔を埋めたら、ごそりと布の擦れる音がした。頭に靄がかかって、拒否するのも億劫に感じられる。
「…本気?──あ、えーと、本気なのは知ってるけど…」
「ユーリが嫌なら無理強いはしないさ。ただ──」
急に優しい声音になる。推しは今日もいい声だ。
「オレが看病したいんだ。だからできれば…ハニーの許可を貰いたい」
私はつい笑ってしまった。
強引かと思えば謙虚で、控え目かと思えば強気で、愛嬌と凛々しさが同居する。
「じゃあ、お言葉に甘えてお願いします」
「オフコースだ、オレに任せておけ!」
気取った台詞で締めくくられて、私は通話終了をタップした。スケジュールに、カラ松くんとの外出予定が表示されている。
そうか。楽しみにしていたのは、きっと───私だ。
次に目が覚めた時、時計の針は九時を示していた。近所の内科の開院時間が九時半なのを思い出し、私は動きやすい服に着替えてマスクを着用する。保険証と診察券を入れた財布をショルダーバッグに放り込んだところで、玄関のチャイムが鳴った。
ドアを開けると、見慣れた青いパーカー姿のカラ松くんが息を切らして立っている。
「ユーリ、待たせてすまない。大丈夫…そうじゃないな」
普段なら顔を合わせるなりカタカナ単語連発で気取ってみせるのに、そんな余裕もないほど私を案じてくれているらしい。
「唾飲むのも激痛」
「ええっ!?じ、じゃあ早く休まないと…」
「今から病院行こうと思って」
それならタクシーをと言いかけたカラ松くんを、首を横に振って制する。歩いて五分だからと極力短い文で伝えれば、彼は手を差し伸べた。
「バッグ、オレが持つ」
「でも」
「ユーリの看病に来たんだ。こういう時くらい頼ってくれ」
困ったように笑うカラ松くんに、遠慮なく甘えることにする。喉の痛みに耐えるのに精一杯で、いつも湯水のように溢れていた推しへの性欲がまるで沸かない。重症だ。
開院直後の内科は閑散としていたが、それでも待合席のソファには数名患者が座っていた。
途方もない疲労感で道中ほぼ無言だったが、カラ松くんは私に合わせてか、言葉数少なめだ。
「有栖川様」
受付で名を呼ばれ、診察室へと誘導される。緩慢に立ち上がれば、カラ松くんが声をかけてきた。
「ハニー」
「うん?」
「一人で大丈夫か?オレもついていこうか?」
その発言に私は驚いて目を瞠ったが、彼は真面目も真面目、大真面目だ。
「診察くらい一人で受けられるよ、平気。そこで待ってて」
言ってから、愛想のない表情も相まって突き放した物言いになったのではと思い、慌てて付け加える。
「──ありがと」
礼の言葉は無事カラ松くんに届いたようで、彼は満足気に微笑んだ。
診断の結果は、扁桃炎とのことだった。
案の定というべきか、予想通りというべきか。確信を得るために病院を訪れたようなものだ。解熱剤と消炎鎮痛薬が処方されて、ひとまず安心する。一刻も早く喉の痛みと倦怠感から開放されたい。
カラ松くんの待つ席に戻ると、彼は手を差し出した。
「処方箋渡してくれ、オレが隣の薬局で受け取ってくる。ハニーはいい子にしてここで休んでるんだ、オーケー?」
反論を許さない強制力があった。拒否する理由もない。薬手帳と財布はバッグの中にあること、半年以内に利用経験のある薬局だから質問票を書く必要はないことを告げる。カラ松くんは私のショルダーバッグを肩に掛けて、少し大袈裟にウインクしてみせた。
「辛かったら、家まで抱きかかえて帰っても構わないからな。ハニーならいつでもウェルカムだ、ノープロブレム」
「ごめん、それは私が構うしプロブレムだわ」
バリバリ生活圏で羞恥プレイは御免被る。引っ越しやむなし案件になってしまう。
「オレの負荷なら気にしなくていいんだぞ。エンジェルウィングのように軽いユーリなら、ゼログラビティに等しい」
「もはや何言ってるか分からない」
ツッコむ体力がない。真顔で反論するのが精一杯だ。
いつものふざけた掛け合い発生にげんなりしていたら、向かいに座っていた高齢の女性が口元に手を当ててくすりと笑った。その視線は私たちに向けられている。
年は六十前後だろうか、緩やかなパーマがかかった白髪混じりの髪は明るく、ワインレッドのニットチュニックが鮮やかだ。
「ごめんなさいね。二人のやりとりが面白くって、つい」
言いながらも、くすくすと彼女の口からは笑い声が溢れる。
「フッ、意図せずにアダルトなレディのハートを撃ち抜いてしまったようだな。老若男女問わず魅了してしまう罪作りな…オレ」
ちょっと黙っとけ。あと早く薬局行け。
「病院に一緒に来てくれるなんて、素敵な旦那さんね」
「──だん…ッ!?」
彼女の言葉に驚愕したのは、カラ松くんだ。つい今しがたまでの自信に満ちた饒舌さは鳴りを潜め、口を開いたまま硬直している。
「はぁ…」
対する私は、吐息とも取れる曖昧な相槌を打った。
話題を切り上げるため、カラ松くんを薬局へ促そうと口を開きかけたところへ、受付の女性が誰かの名を呼ぶ。あら、と向かいに座る女性が腰を上げた。
「呼ばれたみたい。奥さん、お大事にね」
「ありがとうございます」
私は軽く会釈して、診察室へと向かっていく彼女の後ろ姿を見送る。そして、唖然としたまま私を見つめるカラ松くんの視線は無視させていただいた。
「…ユーリ」
処方薬を受け取った帰り道。カラ松くんが僅かに染めた頬でちらちらと私を見やる。
「何?」
「その…さっきの、どうして否定しなかったんだ?」
上着を着て防寒は十分なはずなのに悪寒が走る。熱が上がっているのだろうか。
「夫婦に間違われたやつ?
だって面倒だもん、否定したら状況を詳しく説明しないといけなくなる」
言葉を発する億劫さと誤解を秤にかけて、私は前者を優先した。友人関係と言っても関係性を勘ぐられるに違いないし、自ら井戸端会議のネタを提供するつもりはない。仲のいい夫婦がいた、ただそれだけの些末な出来事ならば、遅かれ早かれ忘却される。
「それにカラ松くんなら別にいいよ、夫婦だと思われても」
その発言に、他意はなかった。
しかしカラ松くんは顔を一層赤くして、嬉しそうに笑う。
「──オレもだ」
「そっか」
私の頭の中は、症状の改善と快方に向かいたい願望で一杯だった。早く帰宅して薬を飲みたい。
「でも…端から見れば、オレとユーリは夫婦にも見えるんだな」
「見えるでしょ。病院についてきてバッグを持って、私の代わりに薬取ってくるなんて、彼氏でもなかなかしないと思うよ」
献身的というか過保護というか。私の意見に対して彼は、腑に落ちないとばかりに首を傾げた。
「ハニーが辛い時に、何もしないという選択肢はない。オレにできることは何でもする。もちろん、何もするなと言われればその通りにするさ」
それがハニー本心ならな、と。
「オレにとってユーリは、そういう相手だ」
もはや何で告白されないのか不思議だ。しかし今はツッコミを入れる体力もない。でもよくよく考えれば、私にとってカラ松くんも『そういう相手』だ。結局のところ、お互い様なのかもしれない。
「ふふ」
何だかおかしくて笑ってしまった。
「な、何か変なこと言ったか?」
「ううん、カラ松くんは変なこと言ってない。何でもないよ」
もうずいぶんと長く起きている気がしたが、時はまだ、正午前。
帰宅してすぐに薬を飲み、寝間着に着替える。起きて座っているだけでも体力を消耗していく。肩で息をする私を不安げに見つめるカラ松くんには、大丈夫だよとだけ声をかけた。空元気にすらならない、無意味な強がり。
「オレはまだここにいてもいいか?」
ベッドに潜り込む私に彼が問う。
「いいけど…何のお構いもできないよ。ひたすら寝てるだけになると思うし」
「それでもいい」
間髪入れずに答えてくるから、奇特な人だなと思う。自宅ならともかく、他人の部屋に長時間滞在は苦痛なだけだろうに。せめて退屈しのぎにと、本棚の本やテレビは好きに使ってくれて構わないこと、冷蔵庫やキッチンにある飲食物は自由に食してほしいことを告げる。
「そうだ、ユーリ。すまないが、家の鍵を貸しておいてくれないか?」
「…鍵?出掛けるの?」
「ああ、まぁ、買い物に行くかもしれないし」
私は二つ返事で了承する。ソファに置いたバッグのポケット内にあることを伝えると、彼はすぐに中からそれを取り出して、テーブルの上に置く。
それからベッド際で中腰になり、薄く浮かべた笑みと共に、大きな手で私の頭をゆるりと撫でた。
「ユーリはもう休むんだ──いいな?」
囁くような声で。
「何なら子守唄でも歌おうか?」
本人は冗談のつもりだったのかもしれない。十八番の歌があるのに兄弟は決して歌わせてはくれないと、いつだったか嘆いていた。私もその時は、子供じゃないしねと一蹴した覚えがある。
「うん、歌って」
「え?」
カラ松くんの目が見開かれる。
「聴きたいな」
もう半分ほど瞼は落ちていて、視界に映る景色は混濁していた。だからきっと、私がイエスと応じたのも、意識が朦朧としたせいだ。
「──オーケー、ハニー」
目一杯破顔してから、カラ松くんは目を閉じた。開いた唇からはいつかどこかで聞いた懐かしいメロディが紡がれていく。雑音のない空虚な世界に、彼の美しい歌声だけが響くように感じられた。
自分用にスポーツドリンクやゼリーを買い忘れたことを思い出したのは、意識が途切れる一瞬前のことだった。
一分程度の短い歌を終える頃には、ユーリはすっかり眠りに落ちていた。布団を肩まで被って、苦しげな寝息を立てている。
カラ松はユーリの髪に触れた。指の隙間からさらさらと細い髪が溢れていく。熱があるのは一目瞭然なのに倦怠感を堪えて笑う彼女が痛々しくて、居ても立ってもいられなかった。だからといって回復を促す特別な手立てがあるわけでもなく、側にいることしかできない。己の無力さを痛感させられると共に、ひょっとしたらそれさえも、ユーリにとっては煩わしいという可能性にも気付いている。
けれど。
「なぁ、ハニー」
寝顔を見つめながら、カラ松は語りかける。独白のように。
「オレは幸せだ。どうしようもないくらい、オレ自身持て余すくらい。全部──ユーリがいてくれるから」
熱を出したあの日、治るまで休んでいけと言い放たれたあの時のことを、今でも鮮明に覚えている。強引に奪われた手と、心配しているのだという言葉は、カラ松の心を鷲掴みにした。たまらなく嬉しかった。彼女にとって自分は特別だと、そう告げられた気がして。
そういえばあの時も、膨れ上がるばかりでどこにも辿り着けない愛しさを、ソファで眠るユーリに囁いた。答えを知る勇気がなくて、拒絶されるのが怖くて、今もずっと燻り続けているくせに。
幸福を感じているという言葉に、嘘偽りはない。しかし満たされれば満たされるほどに、より一層を渇望する。自分はこんなにも欲深い生き物だったのかと驚くほど、強く。
なのに、淀んでどろどろした醜い欲望に、ユーリはいつだって真正面から向き合ってくれる。その真摯さにどれだけ感謝し、どれだけ焦がれただろう。
「その苦しみも辛さも、オレが代われるなら喜んで代わるのにな」
神通力があればなんて、夢みたいなことを思ったりして。
もう一度彼女の額に手を当てて、指先で前髪を掻き上げる。ユーリはううんと唸り、苦しげに眉をつり上げた。
いつだって強く想っていることも、伝えられたらいいのに。
喉の渇きで目が覚めた。
レースカーテンの奥に見える景色はまだ明るくて、スマホの時計で夕刻前と知る。
「目が覚めたか、ハニー」
頭に霧がかかるせいか、何でカラ松くんがここにいるんだろう、なんて頓珍漢な疑問が浮かんだ。しかしすぐに記憶が蘇り、ずっと傍らにいてくれた事実に、胸が温かくなる。
テレビにはバラエティ番組が映し出されているけれど、スピーカーから音は流れてこない。カラ松くんは私の前に膝をついた。
「何か飲むか?スポーツドリンクもあるぞ」
「うん…え?」
そんな物在庫していなかったはずだ。しかし私が問いを投げるより前にカラ松くんはキッチンに立ち、冷蔵庫から冷えたスポーツドリンクを持ってくる。
「何で、これ…」
「さっきコンビニで買ってきた」
言いながら彼は蓋を開けて、私に手渡す。
「何が食べられるか分からなかったから、ゼリー飲料とヨーグルトも冷蔵庫に入れてあるんだ。食べられそうなら持ってくるが、どうする?」
気遣いの紳士現る。
鍵貸して発言はこの展開への伏線だったのか。ここまで気遣えてなぜモテない童貞なのだろう、世の中の女性は見る目がなさすぎる。いやしかし、だからこそ全力で推していきたい。
「今はこれだけでいいかな。お腹減ったら食べるね───ありがと、カラ松くん」
今日も尊い。
私の礼に対し、カラ松くんは困ったように苦笑した。
「本当は代わりたいくらいなんだ。ユーリの辛い姿を見るのは、オレも辛い。でも離れて何もできないのはもっと嫌で…こんなことしかできないんだけどな」
「十分すぎるくらいだよ。退屈じゃなかった?テレビの音出してもいいよ」
私は眠れるからと言えば、カラ松くんは膝を立てた格好のまま私に向き直った。それから右手の人差し指を顔の前で振ってみせる。
「ハニー、こんな時までオレにジェントルに振る舞う必要はないぞ。まずは風邪を治すことを一番に考えるんだ。アンニュイなハニーも美しいが、オレは───いつもの元気なユーリがいい」
スッピンに緩い部屋着、髪も乱れていて、どう好意的に評価しても、今の私は清潔感や愛嬌とは程遠い。よそ行きを装おうとは思わないが、来客に対してもう少し愛想があって然るべきと多少反省はしている。
だから、そんな私の態度を目の当たりにしてもなお、変わらぬ態度で接してくれるカラ松くんが正直不思議でならない。あれちょっと待って、さっき完全にスルーしたけど、何気に美しいとか言われなかった?
「オレはもう少しここにいるから、何かやってほしいことや欲しい物があったら言ってくれ」
まるで従者のようにかしずいて、どうしてそんなに嬉しそうなのか。
私は少しだけ笑って、うん、と応じた。
次の覚醒は、外的要因による強制的なものだった。体が揺さぶられる感覚があって、強引に意識が浮上させられる。
最初に視界に飛び込んできたのは室内のシーリングライトが煌々と輝く様で、カーテンの閉められた室内に、夜が更けたことを悟った。
「起こしてすまない、ユーリ」
申し訳なさそうに眉を下げて、カラ松くんが言う。
「…あ、うん…どうかした?」
「終電がなくなるから、そろそろ帰るな。オレが出てから、玄関の鍵をかけてくれ」
もうそんな時間か。眠りすぎて頭が重い。私がぼんやりとしていたら、ああそうだ、とカラ松くんは思い出したようにズボンに手を差し入れる。
「借りた鍵を返しておかないとな」
取り出した家の鍵を、私に向けた。
後々思い返してみれば、この時の私は風邪をひいて心身共に弱っていたのだろう。体調不良を引き金に表層に現れた心細さと、それを穴埋めしてくれる存在。失い難く感じて、向けられた手をやんわりと押し返す。
「鍵、明日まで持っててよ」
「…ユーリ?」
「看病してくれるって約束は、連日でも有効?」
カラ松くんの目がみるみるうちに瞠られて、しかし驚愕はすぐに柔らかな笑みへと変わる。
「もちろんだ!ハニーが望むなら毎日だって構わないぞ」
それはさすがに鬱陶しいと本音が喉を突いて出かけたが、咄嗟に口を噤む。
だからといって、泊まっていけとも言えない。カラ松くんの水飴のように甘ったるい優しさが、今この瞬間どうしようもないほど心地良く感じるのは、私だけの胸に秘めておこう。
「もし何かあったら、夜中でもいいからすぐ電話してくれ」
カラ松くんの左手が私の髪に触れる。
「もうだいぶマシだから。大丈夫」
「そうか。明日は九時には来る。鍵はその時に返すから」
彼の手の平に包み込まれた銀色のそれは、私とカラ松くんを繋ぐ約束の証だ。曖昧で確証のない口約束が、間違いなく交わされたと証明するための。
「おやすみ、ハニー」
背を向けたカラ松くんが、やがて私の視界から姿を消した。閉じられたドアの鍵がかかる機械音が小さく響いて、周囲の空間には無音が広がる。決して広くない部屋がやたら広々と感じるのは、一人残された寂寞感のせいか。柄にもない。
「おやすみ、カラ松くん」
遅すぎる返事をして、私は再び目を閉じた。
ベッドから体を起こして、両手を思いっきり天井に伸ばす。カーテンの隙間から差し込む木漏れ日が清々しい。
喉の痛みは、嚥下時に僅かに痛みが走る程度に落ち着いた。体も軽く、体調は八割方回復したようだ。立ち上がって室内を闊歩しても疲労感は襲ってこない。カラ松くんが買ってくれたゼリー飲料を飲み干して空腹を満たしてから、シャワーを浴びて身支度を整える。せめて昨日よりはマシな格好を、と。
───時刻は間もなく、九時を迎えようとしている。
ガチャリ、と玄関を解錠する音がして。
「ユーリ!」
玄関先まで出迎えた私の姿を見て、カラ松くんは顔を綻ばせた。
「おはよう、カラ松くん」
精一杯快活な声を上げて、彼を出迎える。この部屋に越してきてから、他人が外側から鍵を開けるのは初めてだ。まるで自宅へ帰ってきた家族を歓迎するような、不思議な感覚に陥る。
「顔色が良くなったな」
「薬飲んで一日寝たら、結構良くなったよ。今日一日ゆっくりしたら治りそう」
計ってはいないが、もう熱もなさそうだ。カラ松くんは胸を撫で下ろしたとばかりに、肩の力を抜いた。
「良かった…一晩なのに、会えない時間がすごく長く感じたんだ。ブラザーたちには心配性だと叱られたが」
「うーん、それは確かに」
「その割に、自分たちも看病すると躍起になってたから撒くのに苦労した」
しれっと衝撃発言。朝っぱらから楽しそうだなお前ら。
「一対五はさすがに分が悪いよな」
「え、その程度?悪魔五人相手は死を覚悟する恐怖」
六つ子が本気になれば赤塚区界隈に逃げ場はない。どこに隠れようとも草の根分けて見つけ出し、確実に殲滅する。一個体でも破壊神相当なのに、それが五人ともなると想像を絶するカオスだ。よく生還したなマジで。
「今日も家でのんびりするか?」
「そうするよ。疲れたら休むけど、今はまだ眠たくないから、DVDでも観ない?」
玄関口で靴を脱ぎ、カラ松くんが部屋へとやって来る。
「オレは構わないが、疲れたら途中でも言うんだぞ、ユーリ。無理をしてぶり返したら、また辛くなるだけだ」
「ぶり返したら、カラ松くんが通って看病してくれるのかな?」
「…自業自得の場合はリジェクトさせてもらおう」
おっと手厳しい。冗談は控え目にするかと内心で決意した時、カラ松くんが私を見て目を細くする。
「──と言いたいところだが」
私たちは真正面から向き合う格好になって。
「ユーリが苦しんでる時は側にいたい」
何だか墓穴を掘った気がしないでもない。
「甘やかすと図に乗るから止めておきなよ。最初のうちこそ遠慮はするけど、絶対面倒くさいことになるって」
「望むところだ」
間髪入れずに受け止めないでほしい。昨日から甘やかされっぱなしで、優しさの標準値をどこに定めればいいのか悩ましくなる。
「言ったな、後悔しても知らないんだからね…でもありがと、カラ松くんの気持ちは嬉しいよ」
「オレは本気でそう思ってるぞ、ユーリ」
「…知ってる」
そうでなきゃ、終電で帰った翌日に朝早くから訪ねてこない。臥せった病人の側にいるだけなんて退屈だろうに、文句一つ溢さずに、むしろどことなく楽しげで。
だから、嘘だなんて微塵も思わない。
「ハニーからうつされる風邪なら、むしろ歓迎だ」
カラ松くんを部屋に入れるのに抵抗がなくなったのは、いつからだろう。外に遊びに行くのはもちろん好きだし、賑やかな松野家も気に入っているが、たまには私の家で二人でのんびりと過ごすのも悪くない。そんな、誰に語るでもない率直な感想が脳裏に思い浮かんでは、些末なこととして霧散していく。
部屋に入るカラ松くんの背中を見つめながら、私は静かに玄関の戸を閉めたのだった。