待ち合わせにまつわる攻防戦

待ち合わせは、往々にして一種の心理戦が行われる場だ。日常的に繰り返される平凡な光景の裏側で、目には見えない関係者たちの思惑が交錯する。
これから語るのは、私たちの間で繰り広げられた、小さな攻防戦の記録である。




その日、カラ松くんが珍しく遅刻をした。
待ち合わせ場所は駅の出口。約束の時間を十五分過ぎても姿を現さないので、半時間を超えたら一度松野家に電話をかけてみようと心に決める。幾度となく逢瀬を重ねた中で、私が彼を長く待つのは稀有なことだったからだ。
道中でトラブルにでも巻き込まれたのではと不安を募らせた頃、息を切らしてカラ松くんはやって来た。
「す、すまない、ハニー…っ」
絞り出すように紡がれる謝罪も心には響かない。
「良かった、何かあったんじゃないかって心配したよ」
私はホッと胸を撫で下ろす。無事に来てくれれば、それでいいのだ。
「しかし、ユーリを待たせたわけだし…」
「体感時間は短かったし、来てくれて良かったって気持ちの方が大きいからさ。珍しいよね、カラ松くんが間に合わないって」
「いや、その…」
原因を尋ねる意図はなかったが、カラ松くんは視線を逸して言い淀む。

「…着ていく服に悩んで、遅れてしまったんだ」

おや。
私は思わず目をパチクリさせる。意外な回答が降ってきた。
「着ていく予定だった服をトッティが無断で着ていってしまったせいで、選び直しに時間がかかって、それで…」
深いVネックの白シャツにデニムシャツを重ねた爽やかなトップスに、カーキ色のカーゴパンツとハイカットのスニーカー。、模範的なカジュアルコーデだ、ファッションセンス破壊神の面影はどこにもない。手首とくるぶしの露出がエロい。
「センスのいい服だって認識されてる証拠だね」
「借りていくのはいいが、オシャレにキメたいならスパンコールデニムオレの麗しいフェイスがプリントされたシャツを着ていけばいいものを…遠慮するとは奥ゆかしい奴だ
悩ましげに額に手を当てるカラ松くん。破壊神はまだまだ現役だった。
「服なんて普段着でも構わないのに」
困惑通り越して絶望するファッション以外なら、という言葉は飲み込んだ。
「ユーリと会うのに普段着では行けないだろ」
「ううん、そんなことない。普段着も好きだよ」
私の率直な意見に、カラ松くんは頬を朱に染めた。パーカーもツナギもラグランシャツも、彼にとてもよく似合っている。
「あー…でも、こういう服も似合うんだって新しい発見があるから、普段着以外のカラ松くんもいいんだよなぁ。公式からの新規絵供給は生きる糧
曇りのない眼差しで彼を見やれば、カラ松くんは顎に手を添えた気障ったらしいポーズのまま、顔を一層赤くした。
ツッコミが不在。



カラ松くんを待つのが好きだった。
時間も方角も出で立ちも現れるまで分からない、数々の不明確要素を待ち時間に想定し、現実で答え合わせをする。推理ゲームに興じる感覚に近い。どんな格好で、どんな表情で、いつどこから登場するだろう。考えている間、心が浮き立った。
電車の窓に映る二人の影を見つめながら、かつての自分の心境を振り返る。透明なガラスの向こうに流れていく景色は、見知らぬ土地を眺めるような未視感をもたらした。
「二人で会うようになった当初は、どっちが早く着くってなかったよね」
我ながら脈絡のない切り出し方だ。案の定、つり革を握るカラ松くんは、不思議そうに私に目を向けた。
「どちらといえば、ユーリが早く着いていたな」
「でもときどきカラ松くんが先に来てて、そういう時はちょっとドキドキしたよ」
「…えっ?」
カラ松くんの声が上擦る。
「ユーリ…それは、どういう」
「壊滅的な服装してないかなって」
「……ああ、うん…」
途端に意気消沈し、濁った瞳が遠くを見つめた。期待を裏切ったようで申し訳ないが、大事なことだ

「私を見つけると、カラ松くんは小走りに駆けてくるんだよね」
「ハニーを待たせてるわけだからな」
「まぁね」
けれど。
その姿を見るのが好きだった。花が咲き誇るような明るい笑顔が必ず付属でついてきたから。だから意図的に、先に着いて彼を待った。

「──さっき、ふと思ったことがあるんだ」
「何?」

「その…本心はハニーを待たせたくないんだが、待ち合わせ場所にハニーが立っている姿を見るのは…いいな。オレを待ってくれていると思うと、すごく──嬉しい。
何度ユーリと会っても、夢を見てるんじゃないかと思うことがあるよ」
遠くを見つめる瞳に映るのは、目まぐるしく流れる街の風景。
目に映る世界が全てではない。可視化できない感情の機微は、人々の間で絶え間なく変化を続けている。
「まだ非現実的?」
いつぞや水族館の巨大な水槽を前に投げた問いを、今一度。
「いや」
カラ松くんは緩く首を振る。

「夢見心地と言った方が正しいな──それだけ幸せなんだ、ハニーと会えるのが」




暇を持て余すカラ松くんが私の都合に合わせることが増え、いつしか週一で会うのが恒例になる。
そして回を重ねるうち、カラ松くんにお待たせと声をかけるのは私の役目になった。いちいち時間を確認してはいないので推測の域を出ないが、彼は十五分は早く来ている。
本音を言えば、カラ松くんを待たせるのは本意ではない。緊急時の連絡手段がないため、もし私が何らかの事情で行くことが叶わなくなっても、カラ松くんは催促さえせずにいつまでも待ってしまう気がするから。
でも、推しが自分を待っている姿を視認するのは、不思議な感覚だった。貴重な時間を、私のために消費している。

「カラ松くん、いつも早いよね」
次に会った時、彼はやはり私よりも先に待ち合わせ場所にいた。野暮と知りつつ、感想を装って疑問を提示をする。
「フッ、ガイアの申し子と名高いオレを待たせる肝が座ったレディは、ハニーくらいなもんだぜ
腰かけたベンチで高らかに足を組み、指先で前髪を払う気取った仕草。
「まぁいいさ、ユーリを待つのは苦にならないからな」
そう言って寄越した視線の先で、私がやれやれといった表情を浮かべているのに驚き、カラ松くんはすっくと立ち上がる。いつも強気な眉が今は下り坂。
「ほ、本当だぞ…?」
急に不安顔になるな。愛くるしいギャップに死者が出る。
「そうなの?まだ来ないのかー、とか思わない?」
「思わない。フリーハグやカラ松ガールズ待ちで待つのには慣れてる、半日は余裕だ」
「フリーハグ」
聞き捨てならない単語が飛び出してきた。無課金で推しと抱擁できる機会を、推し自ら設けたと?
「次にやる時は連絡して。おひねり持って先頭に並ぶ
「え」
「っていうか、それいつやったの?最近?──何だ、私と会う前か。チッ
「いや、ハニー相手ならフリーどころか──」
カラ松くんは何か言い掛けたが、慌てた様子で続く言葉を飲み込んだ。しかし私が無言で促すと、気恥ずかしそうに視線を揺らしながらも、雫が垂れるようにぽつりと呟いた。

「むしろ、いつでも歓迎、というか…」

たまにさらっと卒倒ワードをぶちかましてくるなぁ、なんて、彼に向ける微笑みの裏で必死に自分を律する私。
「それじゃあ、すごく嫌なことがあったらフリーハグ実施してもらおうかな。もちろん貸し切りで」
冗談として回避できる紙一重の線上で、私たちは互いの好意を交わらせる。指先の皮膚だけが肌を撫でる程度の、かろうじて接触と呼べる触れ合いを重ねながら。隔てる距離感さえ不透明な繋がりは、どこへ辿り着こうというのだろう。
「止めてくれ、ハニー。呼び出されるのを待ち焦がれてしまうじゃないか」
苦笑の中に、明確な単語で示されない彼の想いが滲む。掻き上げた髪の隙間からは、健康的な色の額が覗いた。




カラ松くんは待ち合わせ場所に先に着くだけでなく、帰りも遅くなれば送ってくれる完全無欠のスパダリだ。空が朱色に染まる時間帯なら、どちらかの最寄り駅で解散というパターンも多いが、例えば夕食を共にした後などは、必ずと言っていいほど自宅前まで送り届けてくれる。私がドアを閉めて鍵をかけるところまで見届けて、カラ松くんは帰路に着く。

「そういうとこ律儀だよね。優秀なボディーガードがいてくれるのは、私としては有り難いくらいだけど」
オフィスビルから溢れる照明の光と街灯に灯った明かりで、足元が照らされる。アスファルトに伸びる黒い影は、二つ。
「レディの夜の独り歩きは危険だ」
カラ松くんはにべもない。
「夜が更けるにつれて不届きな輩は増えてくる。オレがユーリの身を案じるのは当然だろう?」
「まぁ確かに、この辺って人通りが全然ないってわけではないけど、犯罪抑止力になるほどの人気じゃないもんね」
人の通りは、まばらに散見される程度だ。それに、善意が仇になることもままあるこのご時世、人助けには誰もが及び腰にもなる。
「事件に巻き込まれる可能性は限りなく低いんだろうが、ユーリに何かあったらオレは自分を許せなくなる。特にこれから冬にかけては日の入りが早くなるから、迷惑じゃないなら家まで送らせてくれ」
迷惑と感じたことは一度もない。率直に答えようとしたら、カラ松くんはふっと顔の筋肉を弛緩させた。
「──というのは建前で」
気恥ずかしそうに、私を一瞥して。

「…本当は、少しでも長くユーリと一緒にいたいんだ」


じゃあさ、と私は微笑む。
「反対もあるって、考えたことある?」
表現が曖昧だったせいか、カラ松くんは私の言葉にきょとんとする。
「反対…?」
「うん。私もカラ松くんと同じってこと」
数秒の思考の末、私の意図する内容に辿り着いたらしいカラ松くんの表情は、驚愕と歓喜を織り交ぜた複雑なものへと変化していく。
「それは…ユーリ、本当に…?」
「帰りが遅くなって、今日みたいに送ってもらった日は特にね。カラ松くんが無事帰れたかなって心配になるよ」
市街地を離れるにつれて車の通りも少なくなる。互いの声を阻む雑音は消えて、静寂が漂う。夜間の街はこんなにも静かだったのか。いつもカラ松くんが傍らにいて、他愛ない会話に意識が向くから、気が付かなかった。
「それじゃあ、ええと…家に着いたら、連絡した方がいいか?」
「あ、その案いいね。その方が安心して一日終わる感じがする───いい一日だった、って」
推しのイケボで一日を終える。最の高。
我ながらナイス誘導だと、私は内心で自画自賛する。
「分かった。これからは家に帰ったらすぐハニーに電話する。ああ、でも──」
カラ松くんは人差し指を形のいい唇に当てて、複雑そうな顔をする。

「ユーリの声を聞いたら、すぐに会いたくなったしまうから…それは少し、困る」

おいおい本人目の前だぜ兄さん。
口説き文句のバーゲンセールやー。
「これまで別れた後は、次ハニーに会えるのを楽しみにしてたんだが、これからはハニーに電話する楽しみが一つ増えるんだな。
ユーリの時間をまた少しオレが独占できる。…うん、すまない、困ってる場合じゃないな…贅沢すぎるくらいなのに」
彼は朱が差した頬を恥ずかしそうに片手で覆うけれど、笑みを浮かべた唇は隠しきれずに露わになる。街灯の明かりを反射する瞳が細められて、そのまま真っ直ぐに私を捉えた。
「…長電話にならないように、気をつける」

ここまでの流れは自然だった。ロマンチックな展開と言っても過言でもない。しかし俄然テンションが上がったのか、デート後までオレの美声を聴けるハニーはゴッドに感謝すべきだぜアンダスターン?などと調子に乗った発言を始め、私に溜息をつかれることになるのだった。




その日、私は約束の一時間前に約束の地に到着した。
カラ松くんより先に着いて驚かせてやろうという、ちょっとした悪戯心が芽生えたのがきっかけだ。待ち合わせに十五分は早く来ている彼を出し抜くには、もっと前から現地で待機する必要がある。
待ち合わせ場所は、駅前のカフェを指定した。早く着いても店内で暇を潰すことができるし、ガラス張りだから外の様子を窺いやすい。入口付近の二人がけの席に案内してもらい、温かい飲み物を注文する。

テーブルに置いたスマホでときどき時間と外の様子を確認しながら、私は胸が高鳴った。小さないたずらを仕掛けた高揚感に混じって、彼を待つ行為そのものにある種の愉悦を感じていた。時間の経過と共に、スマホの画面とガラスの外を見やる頻度が上がる。その度に、まださほど経っていないじゃないかと苦笑して。

やがて半時間を切ったところで、私はスマホをバッグに仕舞う。外へ出て、さも今来たばかりという体を装うためだ。さすがにカラ松くんも三十分前には来まい。
──しかしその判断は、予想外の展開をもたらすこととなる。

伝票を持って腰を上げたところで、コンコンとガラスを叩く軽い音が左耳に届く。反射的に音の聞こえた方へ顔を向けた。
「え…」
視界に広がる光景に、私は絶句する。
指先で少しズラしたサングラスから覗くいたずらっぽい眼差しと、目が合う。ゆっくりと口元が動いて、声なき声が私を呼んだ。
ハニー、と。

外側からガラスに添えられた片手に、思わず自分の手を重ねる。冷たい無機質な感触が、電流のように体内を走り抜けた。


「まさかハニーがこんなに早く来ているとは、夢にも思わなかったぞ」
水と手拭きを運んできた店員に、私と同じものをと注文を投げ、カラ松くんは私に向き直る。
「今来たばかりだよ。ちょっと先に来てたってだけ」
「…ちょっと?」
「そ、そうだけど」
私の反論には、カラ松くんはかぶりを振った。私の手元で裏返していた伝票を持ち上げる。あ、と私の口から思わず声が出る。
「ノンノン、嘘はいけないな──ユーリの到着時刻を示す、動かぬエビデンスがここにある」
「それは…」
私は憔悴する素振りで俯き、盛大に舌打ちする。敵に証拠を奪われるとは、とんだ失態だ、クソが
「カップの飲み物もすっかり冷めているしな」
畳み掛けてきた。ここまでくれば言い逃れするつもりは毛頭ないし、言い訳がましいのも好みじゃない。私は両手を天井に向けて、大きく伸びをした。
「そうだよ、正解ですよ、名探偵。私は一時間前に来てました。でも別に悪いことじゃないでしょ?
カラ松くんに早く会いたくて来ちゃった☆
私が投げたストレートは、カラ松くんの虚を突いた。呆気にとられて、しばし口が半開きのままになる。
「…いけなかった?」
ダメ押し。
案の定、カラ松くんは歯がゆそうに視線を落とす。
「いや、すまん…ハニーは悪くないな。少し、苛ついてしまった」
「苛ついた?」
いくら何でも、彼の逆鱗に触れるような過失はおかしていないと思ったが。カラ松くんは少々渋ったが、やがて溜息と共に口を割った。

「ユーリに声をかけようとした男がいたんだ」

私は水の入ったグラスを持ち上げたまま、ぽかんとする。
「まさか…」
「気付かなかったのか?
オレが窓ガラスを叩いてユーリの気を引いたのも、それが理由だ。幸いにも、さっさと消えてくれたけどな」
あのノックには、そんな意図があったのか。
しかし自分の態度を振り返れば、待ちぼうけを食った挙げ句にすっぽかされた女にも見えたに違いない。半時間もの間、幾度となくスマホを眺め、時折溜息を溢し、最終的には伝票を持って立ち上がったのだから。

「オレがいつも約束の場所に先に着いているのは、ハニーを守るためだ」

大仰な台詞である。カラ松フィルターの故障か?
「ハニーが早く着いてしまうと、どこの馬の骨とも分からないクソ男が気安くハニーに声をかける可能性が出てくる。オレはそれを未然に防ぎたい」
過保護通り越したモンペの襲来。
「カラ松くんの気持ちは嬉しいけど、それはさすがに大袈裟すぎない?」
「すぎない。ハニーはどこから見てもキュートでチャーミングなレディなんだぞ。いつ芸能界からスカウトが来てもおかしくないし、少年誌のグラビアだって余裕で飾れる
心が死ぬのでもう止めて。
「いやいや、本当勘弁して。謙遜でも何でもなく、そんなんじゃないってば。あんまり持ち上げないで」
私が両手を胸元で振れば、カラ松くんは腕組みをして不服そうな顔をする。
「私に声かけてくるような物好き、いないよ」

「目の前にいる」

ムッした顔のまま間髪入れず飛んできた言葉に、私は目を剥いた。
カラ松くんと出会った記憶が、脳裏を駆け巡る。横断歩道を渡る私の背中にかかった呼び声、また会えないかと絞り出された別れ際の懇願、どちらも切り出したのはカラ松くんだった。彼の勇気がなければ、私たちは今こうしてこの場にいない。
「──ッ、というか、そのっ…お、オレと一緒にいる時でも何度かあったじゃないか!」
声をかけられたことが。
ああ、そういえば、あった。執拗に絡んでくるナンパ男を引き離してもらったことも、すんでのところで救ってもらったことも。
「そっか、女なら誰でもいいケースもあるね」
「ユーリ…どうしてそう自分を卑下するんだ。ユーリは可愛い。頼むから自覚してくれ。だから心配なんだ」
カラ松くんが切羽詰まった顔で言う。今日はやたらグイグイくるな。
「卑下どころか、本当にそう思ってるんだけどなぁ。
っていうか、私よりむしろカラ松くんの方が断然可愛いし色気あるし、痴女に襲われないのが不思議なくらいだよね。私なら襲う
「…な…っ、ノーキディングだぞハニー!」
カラ松くんが手の甲で口元を覆う。眉間に皺が寄ったが、頬は赤い。
「冗談じゃなくて本気でそう思ってるよ───私の推しは、とってもかわ」
「わあああああぁぁっ、分かった、もういい、ごめんなさい!ああそうだハニー、スイーツでも食べようじゃないか!期間限定で栗のパフェがあるぞ!」
私の台詞を遮り、カラ松くんは窓際に立てかけていたメニューを広げた。
そこに写るモンブランパフェのイメージ写真に、私の目は釘付けになる。栗アイス、紅茶のシフォンケーキ、コーヒーゼリーなどグレイッシュトーンのスイーツをパフェグラスに詰め込み、トップにマロンクリームをふんだんに盛った大人のパフェだ。
「あ、いいね。美味しそう」
言うやいなや、通りかかった店員を呼び止めてモンブランパフェを注文する。
「スプーンは二つでお願いします」
「…ユーリ?」
店員が去ったのを確認し、メニュースタンドにメニューを戻して、私はカラ松くんに向き直る。
「私一人で食べるには量が多いから」
三時のおやつには少しばかり早い時間帯。

「はんぶんこしよう」

そう言って笑えば、カラ松くんは今度こそ両手で顔を覆ったのだった。




カフェでカラ松くんを待ち伏せた日から一週間が経った、休日の午後。真っ青に澄み渡る空に浮かぶうろこ雲を見上げるために立ち止まったら、松野家の屋根が視界の隅に映る。見飽きるほど見てきた屋根の形に違和感を感じるのは、いつもと眺める角度が違うからだ。
今日は所要で出先から松野家へ出向くことになり、普段とは逆の道筋を辿ることになったのである。
「散歩日和だなぁ」
時間があれば、都立公園の散策を提案しようか。カフェのテラス席でのんびりと過ごすのも悪くない。穏やかな時間を推しと過ごすイメージに自然と頬が緩んだ。

ふと見上げた視線の先に、見慣れた影。
そして開け放たれた二階の窓の手すりには、青いパーカーを着て頬杖をついた松野家次男。体の力を抜いた物憂げな表情で、じっと遠くを見つめている。不定期に繰り返す瞬き以外は、まるで微動だにしない。

そっちは───いつも、私が通る道だ。

約束の時刻はまだ十分以上も先だというのに、外出先だけでなく自宅でも私を待っているのか。本当に、どこまでも真っ直ぐな人だ。依存体質となる危険を孕んではいるが、今は私の一声でどうとでも軌道修正が効く。つまり、調教し甲斐がある
玄関前のベンチに腰かけても、彼はまだ私の訪問に気付かない。いつも駅から松野家に直行するから、よもや反対側から来るなんて想像もしていないのだろう。
数分ほど眺めていたが、時折少し長めの息を漏らすくらいで、窓際からは動かない。もう少し目線を手前に移動させれば、私の姿が視界に入りそうなものだけれど。

「カラ松くーん」

笑みを浮かべながら、二階へと声をかける。
「……へ?」
カラ松くんはハッと顔を上げた。それから声のする方角へと目を向けて、ようやく私の姿を捉える。ひらひらと片手を振る私に、意表を突かれたとばかりに目を剥いて。
「ユーリッ!」
「今からお邪魔す──」
「そこにいてくれッ、すぐ行く!」
青いパーカーが窓際から消える。ドタバタと床を駆ける騒々しい足音が近づいて、玄関の引き戸が勢いよく開かれた。さぞ歓迎されるかと思いきや、登場したのは意外にもクールなポージングのカラ松くんだった。
「フッ、憂いを帯びたセクシーな表情のオレを見つめたくて、わざと逆側からカミングとは…策士だなハニー。そんなにオレに会いたかったのか?」
テンパりすぎて、台詞と行動が一致していない。そこは頑張れ。
「うん、会うの楽しみにしてたよ」
たまには正直に答えてみる。どうやらその返事は想定外だったらしく、カラ松くんは言葉を失う。あ、え、と呟きを溢しながら視線を左右に彷徨わせたが、やがて観念したように相好を崩した。

「──オレも…ユーリに会いたかった」

当推しは本日も尊くていらっしゃる。もういい加減抱かせてほしい。抱かせろ。
「今日はみんな揃ってるの?」
「チョロ松と十四松が出掛けてるが、あと半時間もすれば帰ってくるさ。ユーリが来ると伝えたら、予定を変更すると言ってたからな」
「そこまでしなくていいのにね。どうせそのうちまた来るんだし」
「すっかりうちの常連だな、ハニー」
カラ松くんが笑う。
「ついにこの間、もう手土産は持ってこなくていいっておばさんに言われちゃったよ」
カラ松のことくれぐれもよろしくね、と両手を握られたのは黙っておこう。あの時の松代は、眼鏡の奥の目が笑っていなかった
「頻繁に行き過ぎて倦厭されると思ってたから、いいのかなぁって感じ」
「──いいんだ、ユーリだから」
上着越しに、カラ松くんの手が軽く腰に触れる。卑猥な意図は微塵もなく、エスコートする紳士のように。

「ただ…ブラザーたちがユーリに本気になってしまうのではと、そこは少し心配してる」

何を馬鹿な、と一笑に付すことはしない。
「勘違いして調子に乗った童貞は厄介だ」
お前が言うか。

その言葉オウム返しして顔面に叩きつけたい。

「さぁ、こちらへどうぞ、マイレディ」
そう言ってカラ松くんは、開いた玄関口へと恭しく手を差し向ける。
どうもありがとう、なんて私も社交界の気高いレディを気取ってみせてから、私は彼と顔を突き合わせて、笑う。
今日もいい日になりそうだ。