グランピングに行こう

行楽日和の秋晴れだった。

「赤塚区を抜けた。最終関門突破したぞ、ユーリ」
カーナビに表示される区画が赤塚区から隣の区へと変わったのを見届けて、カラ松くんは満足気な笑みを浮かべる。
彼は左手でハンドルを軽く握り、もう片手はコンビニで買ったばかりの缶コーヒーを口元へと運んだ。
「良かった、これで追跡される心配はなくなったね」
私は助手席で両手を合わせ、安堵の息を漏らす。
「計画がバレないよう細心の注意を払ってはいたが…こと異性に関しては裏切り者を排除することに余念がないブラザーたちのことだ、包囲網を敷かれると突破は困難だからな」
「さすが経験者。カラ松くんも元々そっち側の人だもんね
「現役だぞ」
フフンと、鼻息荒く答えるカラ松くん。己のクズさに胸を張るな。
「だからこそブラザーたちの手の内は分かる。伊達に松野家次男を二十数年やってない」
痛いが無害と言わしめる次男も、本気を出せば五人の悪魔を出し抜けることが証明された。
私とカラ松くんを載せた車は料金所を通り、高速道路へと入る。カラ松くんはカーナビを一瞥して、アクセルを一層踏み込んだ。
実は今回の私たちの外出は、おそ松くんたちには内緒なのだ。

だって、私たちが『泊りがけで出かける』と知ったら、彼らは血相を変えて徹底的に妨害するに決まっている。




発端は、秋を満喫しようという私とカラ松くんの他愛ない会話だった。
軽やかなジャズが流れる静かなカフェの店内。スマホの画面と旅の情報誌をテーブルに広げて、秋ならではの定番ごとやイベントを紙に書き出しながら、この時期に何を楽しむか取捨選択していく。
「読書は一人でもできるし、芸術といえば美術館だけど建物の中だしなぁ。となると、やっぱり運動?」
久しぶりにアスレチックもいいなと思いを馳せる私とは対照的に、カラ松くんはテーブルの上で両手を組んで憂い顔になる。
「ハニー、運動能力の差は憂慮すべきじゃないか?」
黙れ脳筋。
しかしまぁ、カラ松くんの言うことも、もっともだ。他の案に考えを巡らせようとしたら、ふと情報誌の写真に目が留まる。
「河原でバーベキューなんか楽しそうだよね。キャンプとかでよくやるやつ」
「キャンプか…いいな、秋っぽいし。なぁハニー、キャンプはどうだ?」
カラ松くんの瞳が輝きを増す。
「いやー、狭い空間で年頃の男女が二人きりとかないでしょ。襲われたいの?
「ノン!」
流暢な発音で拒絶するやん。即答か。
しかしどうしても断念し難いアイデアらしく、胸中の葛藤を裏付けるように、彼の黒目が不安定に動く。貞操の危機と行楽への期待感が、今まさに秤にかけられている。

「でも、ユーリと行きたくて……駄目か?」

機嫌を窺うように小首を傾げる姿に、私は内心で悶絶する
格好つけたいお年頃のくせに、無意識で愛くるしいおねだりポーズを取るな。今の仕草をおかずにして、一週間白米だけでいける。ありがとうございます。
「カラ松くんの行きたいっていう気持ちは分かるよ。たださ、やっぱり──」
そこまで述べて、ふと脳裏にある単語が浮かぶ。
「…キャンプといえば、キャンプの上位互換にグランピングっていうのがあったね」
カラ松くんが図書館で借りてきた情報誌を捲ると、大きなテントの下に寝室かと見紛うインテリアの広がる写真が飛び込んでくる。紹介されている施設名は、手ぶらで行けると話題のスポットだ。
「グランピング…ああ、トッティがそんな単語を使っていた気がするな。キャンプの豪華版だろ?」
「キャンプに比べると値が張るけど、こういうの行ってみたいよね。バーベキューセットも持っていかなくていいから、楽しそうだし」
「え?」
「え?」
「ハニー…グランピングなら二人でもいいのか?」
どうしてそうなる。
カラ松くんは頬を赤くして、僅かに身を乗り出した。行く気満々だこいつ。
「そうじゃなくて──」
「フッ、オーケーオーケー。ハニーは、深夜のテント内でオレがウルフになるんじゃないかと心配しているんだな?
──大丈夫だ。ハニーの嫌がることは、絶対しない」
軽口はやがて真剣味を帯びて、力強く断言される。真摯な双眸が真っ直ぐに私を捉えた。

「オレはただ…ユーリと楽しい時間を過ごしたいんだ」

照れくさそうにはにかんで。だからどうか、と。言葉にならない懇願。
この人は本当に卑怯だ。そんな風に言われて、毅然と拒絶できるほど私は理性的でもない。
「松野家フルメンバーとトト子ちゃんで妥協しよう」
「すまないユーリ、今回はオレも譲れないぞ
圧倒的に不利な立場のくせに、キリッと眉を上げるな。
「あーもう、分かった!いいよ、二人でグランピング行こう。どうせテント自体は防音性もないし、隣同士の距離も遠くないだろうし、それに…」
「それに?」
カラ松くんが続きを促すように首を傾げる。脳裏に浮かんだセリフを告げるのは何だかくすぐったいのだが、私は苦笑して述懐した。

「カラ松くんが私の嫌がることをしないっていうのは、信用してる」




そんな経緯を経て、私たちは隣県のグランピング施設へとやって来た。
私は平日に休暇を取り、レンタカーの予約を済ませ、カラ松くんは前の週に私の家に荷物を移動させる。六つ子たちに勘づかれないよう水面下で準備を進め、当日は日が昇らない早朝にカラ松くんが私の家を訪ねるという計画は、功を奏した。
眠い目を擦りながら玄関を開けた途端、子どものように邪気のない笑顔のカラ松くんがいるのだから、目も覚めるし尊さも振り切る。グランピング拒否ってマジすいませんとすら一瞬思った自分は、間違いなく頭のネジが一本飛んでいると思う。
推しと旅行だぜフゥー。

畑に囲まれた広大な敷地の一角に、キャンプ場はあった。敷地内では、グランピングだけでなくテントやコテージ、バーベキューといったキャンプを楽しめる設備はもちろん、天然温泉や農園、ミニ牧場なども展開していて、さながら一大リゾート地だ。
受付を済ませて、テントへと案内される。
「おおっ、本当に部屋みたいだな。ブラザーたちとの部屋よりよっぽどハイグレードだ」
眼前に広がる赤を基調とした北欧風インテリアに、カラ松くんが感嘆の声を上げた。
広さは六つ子の部屋と同じくらいだろうか。白いテント内に敷き詰められた明るい木目調のフロアマットに、入って奥にはセミダブルのベッドが二つ、その手前には木製のローテーブルと柔らかそうな座椅子が向かい合わせに設置されている。家電はエアコンとケトル。
部屋の中央にはテントを持ち上げるポールが存在するが、それを隠すように天井から床にかけて三角形の木製棚が設置されており、棚に壁がなく奥が見通せることで、圧迫感も感じない。

「それでは、ご夕食のお時間になりましたら、バーベキュー施設までお越しください」
案内人の男性から、施設の地図を手渡される。
「はい、ありがとうございます」
「楽しみにしてます」
私たちはそれぞれ案内人に会釈し、彼が背を向けて歩き出すのを見届けてテント内に入る。
「ハニーとワンナイトを過ごす聖なる地に降り立つ…オレ」
「言い方」
語弊ありまくりじゃないか。
苦虫を噛み潰すように言えば、カラ松くんは二つ置かれたベッドを見やって、恥じ入るように指先で頬を掻いた。
「…何だ、うん、その…こういうの初めてだから、変な感じだな」
腹立つのに可愛い、なにこの生き物。

「前にも約束したが…ゴッドに誓って、ユーリには何もしない。ただオレも一応男だし、警戒はしてくれていい。それくらいがちょうどいいんだと思う」

念のため防犯ブザーは持ってきているが、その言いようだと、きっと出番はないのだろう。そんな気がする。確証はないけれど。
「うん、そうする。でも、カラ松くんとグランピングに来れて嬉しいよ。明日帰るまで、たくさん楽しもうね」
二人の荷物をテントの隅にまとめながら話すのは、私の本心だ。
「忘れられない思い出にしよう、ユーリ」
カラ松くんは自身の首筋に手を当てて、嬉しそうに微笑んだ。




「おおっ、ユーリ!見てくれ、大量だ!」
緑生い茂る畑の中に両足を突っ込んだ姿で、土にまみれた軍手でもって高々と掲げるのは、さつまいもが複数連なった株。細かな土が溢れ落ちて服にかかるのも顧みず、カラ松くんは誇らしげな顔だ。
「すごいよカラ松くん、やったね!」
推しの勇姿を余す所無く残すべくスマホのカメラで連写しながら、私は感嘆の声を上げる。
グランピング施設に隣接している農園での、収穫体験だ。体験料を支払えば、軍手や長靴といった装備を借りて、旬の野菜を自ら収穫することができる。もちろん、収穫した野菜は土産として持ち帰りが可能だ。
「オレほど魅力に溢れた存在ともなると、素朴な収穫スタイルさえ様になるな。自然と調和するオレ…いや、これはむしろ…自然がオレにシンパシーを感じて融合している?
なぜ疑問形なのか。
「もう一株抜けば、ブラザーたちの一食分にはなりそうだ。シンプルに焼き芋か大学芋か、それとも煮物か」
「天ぷらも良さそうじゃない?」
私が呟けば、名案とばかりにカラ松くんが指を鳴らした。
「ナイスアイデアだ、ハニー!」
「私の分も抜いちゃってよ。で、私も家で天ぷらにして食べたいから、一本だけ頂戴」
「なら、二本はユーリの分にしよう」
さつまいもに付着する土を落としてから、カラ松くんは分割してビニール袋に入れる。それから少し視線を地面に落として思案したかと思うと、ある提案を口にする。

「それで…今度、二人で一緒に作る、なんていうのはどうだ?」

カラ松くんの誘い方は、基本的に二つのパターンに分かれる。日常会話の延長でさらっと誘ってくるか、緊張感を伴いながら顔色を窺うように提案してくるか、だ。今回は後者だったが、彼の打つ手に法則は存在しない。あるとすれば、本人が意識しているかどうか、というところか。
「いいね、美味しいさつまいもの天ぷら定食作ろっか。追熟させる必要があるから、作るのは数週間後になるけど」
例外を除いて、彼の誘いは断らない。けれど私が首を縦に振るたびカラ松くんの顔がぱぁっと明るくなるから、いつまで経っても初々しい。
「約束だぞ、ユーリ」
柔らかい微笑みが私に向けられた。

私たちはこんな風に、意図的に約束を重ねて、次の逢瀬に繋げていく。
断続的に顔を合わせることで積み重なるのは、さざなみのような優しい思い出ばかりではなくて。明言されない思惑が交錯する。




それからは、ミニ動物園エリアで飼われているヤギに餌をやり、うさぎやモルモットといった小動物と触れ合い、他の宿泊客と互いに写真を撮り合ったりして、気が付けば日も暮れる夕刻時。
見晴らしのいい広場の中に囲まれた、屋根付きの屋外バーベキュー施設へ足を運ぶ。
木製のベンチ付きテーブルの傍らには、コンパクトなバーベキューコンロ。網の下に敷かれた炭は炎を纏い、煌々としたオレンジ色の光を揺らしている。
「開放感のある屋外でのバーベキューか…控え目に言って最高だな
「完全に同意」
私とカラ松くんは真顔で感想を述べる。表情が感動についてこない。
テーブルの上に置かれた皿の上には、金属の串に刺さった肉の塊、手作りソーセージ、各種海鮮、ぶつ切りの野菜がてんこ盛りだ。野性的ともいえる盛り付けが、私たちの非日常感を一層盛り上げる。
「プランや予約をハニーに任せておいて良かった」
「そう?もっと地味なイメージだった?」
「いや、正直何も考えてなかった。ユーリと泊りがけで出掛けられる喜びに勝るものなんてないと思ってたんだ…」
照れくさそうに頬を紅潮させるカラ松くんを、可愛いなぁなんて思っていたら。
「撤回する。肉最高、バーベキューの民に幸あれ」

期待を裏切らない掌返し。そんな推しが逆に愛しい。


係員から簡単な指示を受けた後は、各自で好きなように食材を焼いていく。二人分の食材が盛られた皿から肉の串を取り、カラ松くんが嬉々として網に載せていく。いつになくきらきらと瞳を輝かせ、自然と上がる口角は、無邪気な子供のそれだ。
「お肉メインのコースにしておいて正解だったね」
「ユーリ…ひょっとしてオレのために…」
「カラ松くんがバーベキュー楽しみにしてるの知ってたから、ちょっと奮発しちゃったよ。追加でステーキもある
ニヤリと笑って高らかに指を鳴らしてみせたら、タイミングよくウェイターがステーキ肉の皿を運んできた。脂肪の少ない分厚い赤身肉が二枚、炭火焼きにするには、実におあつらえ向きな重厚感。
「ハニー…ッ!」
カラ松くんの目尻に涙が浮かんで、潤んだ瞳が私を見つめる。欲情待ったなし。
「い、生きてて良かった…!ブラザーたちの妨害なしでたらふく肉が食べられるなんて、オレは夢を見てるんじゃないだろうか!」
感極まった様子で涙を流すカラ松くんに、慈愛に満ちた微笑みと共に無言でカメラを連写する私。激レアな新規絵をいただき光栄です。


「ふふ、彼氏さんのこと大好きなんですね」

優しげな声が背中にかかって、私は反射的に振り返る。背後に立っていたのは、昼過ぎにミニ動物園エリアで、写真撮影を頼んできた若い男女だった。揃いの指輪を薬指にしているところから察するに恋人同士で、今だって男が彼女の腰に手を回している。
私とカラ松くんは彼ら二人とは距離感がまるで異なるが、宿泊施設に男女で来ているのだから、そう見られても当然か。
「だって、本当に可愛いんですよ」
私は鼻息荒く頷く。
「イケボだしスタイルもいいし顔もタイプだし、ときどきかましてくるわけ分からない言動ももはや愛嬌の塊。私にとっては欠点さえ長所なパーフェクトヒューマン
まくし立てるように語ったら、向かいの席でカラ松くんがビールを吹いた
推しという言葉を忘れていたが、まぁいい。些末なことだ。




園内には温泉施設もあって、バーベキューで肉を堪能した後は、露天風呂でバーベキューの臭いと一日の疲れがリセットできる。都会の喧騒を離れて自然を満喫できるだけでなく、風情ある温泉も楽しめるなんて、贅沢の極みといえるだろう。平日のせいか人もまばらで、一日活動し続けた疲労感が嘘のように溶けていく気がした。

「ごめん、待たせちゃったね」
着替えを終えて女湯を出ると、カラ松くんが館内のベンチに腰かけて雑誌を読んでいるところだった。
「構わないさ、ユーリを待たせるわけにはいかないからな」
垣間見えるスパダリの片鱗。
「寒くなかった?」
「平気だ」
それからカラ松くんは私を見つめて、目を細めた。

「…風呂上がりのユーリも、魅力的だな」

その言葉そっくりそのまま返そう。
紺のシャツと黒いスウェットパンツといった緩い服装にも関わらず強調されるスタイルの良さと、濡れて無造作な髪。乾ききらない髪は掻き上げられた状態で、額が露出している。このフェロモン垂れ流しを前にして、襲わない選択肢ってある?いや、ない!

「毎日の銭湯行脚にお供したい」
「ん?」
「カラ松くんはセクシーだねって話」
「何だ、今更オレの色気に魅了されたかハニー───って、え?…ええッ!?」
気付くの遅い。


テントに戻っても、カラ松くんはシャツとスウェットパンツのままだった。とうに日も暮れ、今晩はもう休むだけだ。ベッドで一息ついたカラ松くんに、問いかけてみる。
「パジャマに着替えないの?」
「パジャマ?持ってきてないぞ」
「そうなんだ。普段は六人お揃いの水色のパジャマ着てるんだよね?見たかったんだけどな」
さすがに就寝姿までは踏み込めないか。パジャマ姿が拝めないのは残念だが、簡単に見られないからこそ俄然今後への期待が高まる。
「家じゃないし…ユーリもいるからな」
テントの下に、ベッドが二つ。時計の針はまだ九時を過ぎたばかりだが、いずれ就寝時間は訪れる。
「でもこれってよく考えれば、完全プライベートショット?推しの私生活垣間見れるって貴重だよね
「そういうのは本来オレがする発言じゃないか?」
「今日撮影した分だけで写真集作れるし、ヤバイな…最高すぎる」
「聞いて」

カラ松くんの懇願をフル無視して、自分のベッドに座り、スマホのアルバムをタップする。ディスプレイに表示される写真の被写体は、九割がカラ松くんだ。中には連写したものや焦点が合っていないものもあるから、一枚ずつ確認しながら選別する。
不意にぎしりとベッドが沈み込んだので何事かと顔を上げれば、カラ松くんが傍らに腰を下ろして、私の手元を覗き込む。
「本当にオレの写真ばかりじゃないか…」
呆れたような声。
「最初からそう言ってるでしょ」
「ユーリと写っている写真もあっただろう?あれが見たい」
「ああ、女の子に撮ってもらったヤツ?」
私たちと同世代とおぼしき、バーベキューエリアで声をかけてきた男女。
日中私が彼らの写真を撮った後、もし良ければ撮りますよと手を差し出してきたのだ。あの時本当は辞退するつもりだったのだけれど、カラ松くんが目を輝かせて私を見つめるから、心ならずも彼女にスマホを手渡した。
写真は何枚かあって、その中でも一番最後に撮られたものは───

肩を寄せ合い、照れくさそうに顔を見合わせて笑う、私とカラ松くんだった。

二人とももうちょっと近づいて、と指示を出されたのが一枚目。従った直後、羞恥心に耐え切れずカラ松くんが顔を片手で覆い、それを見た私が苦笑するのが二枚目。そして、目が合って、二人揃ってはにかんだのが、最後の写真である。

「……ッ!」
自然と浮かぶ微笑みを必死に噛み殺そうとする顔で、カラ松くんが視線を逸らす。
「カラ松くん?」

「すまん…ハニーのあまりの愛らしさに、どんな顔すればいいのか分からん」

だからそれはこっちの台詞だ。いちいち仕草がたまらん。今すぐ抱いたろか。
「だからつまり、その…二人きりというこのシチュエーションは、真剣に不味い」
「不味い?」
「…まぁ、あれだ、こういうのは──わ、分かるだろう?」
みなまで言わせるなと、その瞳は語る。
男と女が一つ屋根の下、簡易とはいえ施錠されたテントの中、互いに風呂上がりの無防備な姿。不安材料は山ほど積み重なっている。私自身、この状況下でぽかんとするほど初な少女でもない。

「じゃあ私外で星でも見てるから、落ち着いたら言ってね」

「……え?」
カラ松くんからは素っ頓狂な声が上がって、しかしベッドから立ち上がれない困窮した事情を抱えているため、僅かに伸ばした手は制止もままならない。
にこりと微笑を向けて、私は颯爽とテントの外へ出る。




空を見上げて、私は言葉を失った。
漆黒の夜空に散らばる満天の星空が、私の視界を埋め尽くす。高いビルも電信柱も、遮るものは何一つなく、ただひたすらに広がる無数の星。夢に落ちたのかと錯覚するほどに、美しい光景だった。
パウダーを撒き散らしたように空を彩る星々を眺めていると、ぽっかりと心に空洞ができて、何も考えられなくなる。草原の上に座り、膝を抱えた。

「…ユーリ」

空を見上げていたのは、数分だったと思う。しかし私の体感では、刹那のようにも、長い歳月のようにも感じられた。
「落ち着いた?」
「…たぶん」
問いかけに対しての返答は、歯切れが悪い。カラ松くんが居心地が悪そうに私の隣に並ぶ。
「なぁユーリ、今更何言ってるんだと思うかもしれないんだが…」
「うん?」
「オレと一緒に泊りがけで旅行に来て、本当に良かったのか?」
本当に今更何言ってんだ。
脳内で私のツッコミが冴える。
「いや、もちろんオレが強引に誘ったせいなのは分かってるんだ。責任はオレにある。ただ、いつも以上にユーリを一人のレディとして意識してしまって──本当に…全然クールじゃない」
カラ松くんは自嘲して、立てた膝に顔を埋める。理想と現実を隔てる壁は、乗り越えるにはあまりにも高すぎるから、無力に立ち尽くすしかない。やはり童貞にはハードルの高い旅だったか。冷気を含んだ風が、私の頬を撫でる。
「ねぇカラ松くん、空見てよ」
私は右手の人差し指を天に向けた。カラ松くんの目線が私の指先を追って、顔が上がる。
「……あ」
やがて双眸は驚愕に瞠られて、口からは感嘆の息が漏れる。私が先ほど見上げた時と、まるで同じ反応。

「こんな綺麗な景色をカラ松くんと見られるだけで、私は十分楽しいんだけど、それじゃ駄目かな?」

ふにゃりと、カラ松くんの相好が崩れる。
「…ユーリ───はは、まったく、どうしていつもハニーは、オレが一番欲しい言葉をくれるんだ」
「需要と供給が一致してて何より」
「ハニーはエスパーなのかもな」
「というよりは、対カラ松くんのみに劇的に勝率が高いギャンブラーっぽい」
ロマンチックな雰囲気は次第にいつもの不毛な内容へと姿を変えて、私たちは顔を突き合わせて笑う。この会話はここで終わりと、区切りをつける意味も内包して。
「ユーリは、まだここにいるか?」
「うーん、とりあえず飽きるまでいようかな。東京でこんな綺麗な星見えないし」
「そうか」
頷いて、カラ松くんはすっくと立ち上がった。そのまま踵を返してテントへと戻っていくので、私の発言が気に触っただろうかと一瞬不安に駆られたが、そもそもそういう関係じゃないと思い出して、考えるのを止めた。面倒くせぇな、もう。


夜景の美しさに見惚れて、眠るのがもったいないと感じるのとは、とても贅沢なことだ。毎日粛々とルーティンを積み重ねて、気が付けば一日の終幕の舞台にいる。カーテンコールもないまま幕が下りて、翌日の舞台の準備に追われる日々。
テントに戻る時間だけ決めようとポケットをまさぐったが、スマホはベッドの上だ。膝に手をついて立ち上がろうとすると背後に人の影があって、振り返れば──カラ松くんの姿。
「オレも付き合う。一緒に見よう」
その手には湯気が立ち上るマグカップが二つ載ったトレイと、ブランケット。
「ん」
「…ありがと」
優しい眼差しと共に差し出されるマグカップを受け取ったら、肩にふわりとブランケットが掛けられた。
「旅先でハニーに風邪なんてひかせたら、本気でブラザーたちに殺されそうだ」
今の状況だって十分動機になると思うのだが、言うだけ野暮だ。どんな制裁が待ち受けているかは想像に難くない。

トレイを置き、地面に手をつこうと下ろしたカラ松くんの指先が──私の手に触れる。

「あっ、す、すまん…」
慌てて離したその手の行方を、私は目で追いかける。
「…ハニー…?」
「カラ松くん、袖捲ってるのに手が温かいね。いいなぁ、代謝が違うのかな…それとも、筋肉量?」
もう一度見せてよと、カラ松くんの右手を取る。彼はびくりと肩を強張らせたが、振り払いはしなかった。それから、ああ、と驚いた声を上げる。
「ハニーの手、冷えてるじゃないか」
「うーん、湯冷めかな?
あ、そうだ、持ってきてもらったコーヒーをカイロ代わりにすればいいんだね」
我ながら名案だとカップに手を伸ばそうとしたら、カラ松くんが私の手を掴む。そして、戸惑いがちに言葉を紡いだ。

「…カイロにするなら、オレの手を使ってくれ」

逃げ場のない環境で、その提案を口にするのはさそがし勇気がいっただろう。平坦で穏やかな雰囲気を、がらりと一変させてしまいかねない爆弾だ。
「カイロは二つ貸してくれるの?でもそれだと、向かい合う形になっちゃうね」
まるでフォークダンスの構えみたいだと軽口を叩けば、カラ松くんの顔に焦りが浮かぶ。この後の展開については無計画だったらしい。
私は助け舟を出すために、それじゃあ、と続ける。
「コーヒーも飲みたいから、片手だけ貸してくれる?」
「…ああ、お安い御用だ!」
互いに伸ばした手がぶつかったから、カラ松くんの指を私が絡め取る。驚きと共に瞠られた瞳に、様々な意図を込めて微笑みを返す。彼の視線があちこちに彷徨ったのも束の間、いつしか指を絡めた手に力がこもった。それが、彼の答え。
繋いだ手を地面に下ろして、私たちは再び空を見上げた。




マグカップのコーヒーも飲み干し、時折ぽつぽつと交わしていた会話も途切れた頃。私が大きなあくびをしたのが、きっかけとなった。
他のテントは随分前に九割方消灯しており、木々の葉がそよぐ音を除いて、辺りはしんと静まり返っている。
「そ、そろそろ休むか…?」
カラ松くんの声が裏返る。動揺がバレてるぞ新品。
「そうしよっか。さすがに朝ご飯の時間に起きられないと困るね」
「なら戻ろう、ハニー」
何となく手を繋いだまま立ち上がって、自分たちのテントへと向かう。さすがに少し照れくさくて、そんな胸中を彼に吐露しようとした、次の瞬間──

カラ松くんが吹っ飛んだ。

「…は?」

「カラ松兄さん始末完了しやした!」
「よくやった十四松!」

代わりに私の側に降り立つのは、頭に鋭利な三角コーンを被った松野家五男。彼方から駆けてくる長男が親指をおっ立てて五男を労う。
「ユーリちゃんっ!ミトコンドリア以下のクソ松兄さんに何もされなかった?助けに来るのが遅くなってごめんね、もう大丈夫だよ」
盛大な毒を撒き散らしながら、きらきらとした瞳で私の両手を握ってくるのは、トド松くんだ。突然のどんでん返しに、私の思考は完全に停止する。
「オイコラ、クソ松ッ!こんな夜分にユーリちゃんと手繋いで何してやがった!?
つか、今からどこにしけ込もうとしてたんだ、吐けゴラァ!」
一松くんに至ってはもはやチンピラの如し。
「落ち着け一松。まぁ僕たちも、カラ松にとってお邪魔虫であることは否めないよね。その辺は申し訳なく思うけど──僕たちを欺いてまで、付き合ってもない女の子と一つ屋根の下で泊まろうとしたのはどういった了見なのか詳しく聞かせろよ、クソ次男
良識を持ち合わせていると見せかけて、無表情でカラ松くんを見下ろすチョロ松くんが一番怖い。
「そこ正座して。うん、とっとと座れ
三角コーンの先端が腹部に直撃したらしいカラ松くんは、青ざめた顔で腹を押さえながらも、よろよろとチョロ松くんの指示に従う。逆らえばそれこそ痛い目に遭うだけだと、よく理解している。

「ど、どうしてここが…」
カラ松くんが消え入りそうな声でチョロ松くんに問う。各種予約は私が行い、雑誌やチラシといった痕跡は松野家には一つとして残していない。仁王立ちの三男の肩に腕をかけて、へへ、とおそ松くんが嘲笑する。
「母さんにはバカ正直に話してたのが運の尽きだな、カラ松」
「マミーが裏切ったのか…っ!?」
「いんや、母さんは誘導尋問にかかっただけ。俺らの方が何枚も上手なんだよ…こういう風に、抜け駆けしようとする姑息な兄弟に対しては、さ
素直に打ち明けても十中八九妨害するくせに、と私は内心で苦笑する。
「朝から母さんがやたら浮足立ってるから、妙だとは思ってたんだ。イヤミから車を強奪…もとい借りたりして時間がかかったけど、間一髪で間に合って良かった」
六つ子が保護者の管理下にあることが災いしたようだ。いや、幸いか。この場合、果たしてどちらなのだろう。
「ねぇユーリちゃん、ぼくらコテージ借りたから、カラ松兄さんは回収していくね
十四松くんの笑みからは有無を言わせない威圧感が漂う。
「ツルピカハゲ松にしてやろうぜ、十四松。おれバリカン持ってきたし」
「ツルピカハゲ松」
ちょっと見てみたいと思ったのは内緒だ。

真顔のチョロ松くんに首根っこを引きずられながら、カラ松くんが私の前を通り過ぎようとする。
「は、ハニー…」
捨てられた小動物さながらの潤んだ瞳で、縋るように私を見るものだから、見過ごすことはできない。私は彼らの前に躍り出る。
「みんな、騙すようなことしてごめんね。
私がバーベキューしたいって強引に誘っちゃったんだ。泊まりになったのはそっちの方が楽ってだけで、やましいことは何もないよ。カラ松くんは悪くないから、責めないであげて」
本当にごめん、と私は深々と頭を下げる。
まさか私が謝罪の言葉を口にするとは予想だにしなかったのだろう、五人はそれぞれ顔を見合わせて互いの胸の内を窺う。

「あーもう、気が削がれた。ユーリちゃんに謝られちゃ、それ以上何もできないじゃん」

多くの場合、計画変更の舵を握るのは長男だ。彼は両手を頭の後ろに回して、大きく溜息を吐き出した。
「じゃあさ、罰としてってわけじゃないけど、今から少しだけボクらに付き合ってよ。お酒買ってきてるから、ちょっとだけ飲み会。どうかな?」
「もちろん。付き合うよ」
トド松くんの提案を、私は二つ返事で承諾する。それでカラ松くんを窮地から救えるなら、安い対価だ。六つ子の登場で、眠気も吹っ飛んでしまった。


「…すまない、ユーリ」
無事解放されたカラ松くんは、背中を丸めて私に詫びる。
「貸し一回つけとく。まぁ、泊まりがけはまた改めようよ。グランピング、これ一回きりってわけじゃないでしょ?」
先を行くおそ松くんたちに聞こえないよう、いたずらっぽく囁く。案の定、カラ松くんは顔を真っ赤にしながら、私の投げた台詞に戸惑いを見せた。しかし、からかいが過ぎたかと思い、冗談だよと私が声に出すより先に、彼の唇が動く。

「言ったな、ハニー。撤回はなしだぞ──また、オレと来てくれる、って」

私だけを見つめる、真摯な眼差し。兄弟がいなければ、前のめりで迫ってきてもおかしくないくらい、真剣な。
「おいカラ松、てめぇは荷物持て」
「…あ、ああ、分かった」
一松くんから突如ボストンバッグを投げられて、カラ松くんは両手で受け止める。
「ユーリちゃんはこっちおいでよ。カラ松兄さんの独り占めはもうおしまい」
トド松くんに手招きされて、私の足は自然とそちらへと向く。けれど名残惜しそうな表情が視界の隅に過ぎるから、私はもう一度カラ松くんに向き直る。

「うん」

その一言で十分だった。
両手いっぱいにバッグを抱えた格好で、カラ松くんは幸せそうに、声を立てずに笑った。