末弟による考察

カラ松とユーリは仲がいい。

それは公然たる事実であるし、本人も周囲も認めている。
二人の間でのみ交わされる特別なスキンシップや距離感は、どう見ても恋人同士のそれだが、当人曰く交際はしておらず、友人関係だという。
頻繁に松野家を訪ねるのも、ほとんどはカラ松との約束故で、彼の傍らがいつの間にかユーリの定位置だ。なのに付き合っていないと、口を揃えて二人は言う。
馬鹿じゃなかろうか。甘ったるいラブコメで致命傷を負い続ける童貞の身にもなれ。

半ば呪詛のように、トド松は常々そう思っている。




今日も今日とて、ユーリは松野家にいた。新作や期間限定のポテトチップスを手土産に抱えて。
訪問頻度も月に数回と高く、最近では飲み終えたカップをキッチンに運んで松代と談笑するなど、徐々にだが客人ではなく親戚のような立ち位置になりつつある。当の本人が気付いているかは定かではないけれど。

テーブルを囲みながら、七人の大人が雁首揃えてのDVD鑑賞。昨年流行ったアクション映画で、ストーリーの山場となる廃ビルでの銃撃戦が始まったところだ。派手なガンアクションを横目に、トド松は眼前に座るカラ松とユーリを見やる。
「ハニー、枝豆塩バターがデリシャスだぞ。ビールに合いそうだ」
嬉々とした表情で、カラ松はユーリにポテトチップスの袋を差し出した。我らが次男坊は実に分かりやすい。彼女への好意が顔に態度にと、如実に表れている。
ユーリは受け取ったチップスを咀嚼して、顔を綻ばせた。
「本当だ、美味しい。ね、カラ松くん、岩塩とわさびも意外とイケるよ──ほら」
笑顔でもって口元に差し出すのは、まるで幾度も繰り返しているといわんばかりの手慣れた仕草で。カラ松も嬉しそうにそれに食いつき、感想を共有して笑い合う。二人の世界おっぱじまった。
「目の前でイチャつかれるの、心臓にくるわー」
円卓に頬杖をつきながら、トド松は鼻白む。
「イチャ…っ!?な、何を突然!ブラザー、イチャついてなんか…っ」
「あーんしてもらっておいて白々しい。ユーリちゃんもユーリちゃんで、ほんとカラ松兄さんの特別視がすごいよね」
カラ松は赤面して声が裏返るが、ユーリはきょとんとした顔だ。
「推しは愛でてなんぼでしょ?」
推しで通されると、この議論はそれ以上続かなくなってしまう。しかし厄介なのは、ユーリは本気でそう思っているところだ。曇りのない瞳がトド松に向けられる。

「ユーリちゃん、俺にもそのわさび味頂戴」
運良くユーリの隣──カラ松とは反対側──を確保したおそ松が、見目にも明らかな下心を込めて彼女に声をかけた。
「いいよ、はい」
しかし笑顔と共に差し出されたのは、ポテトチップスの袋丸ごとだった。おそ松はしかめっ面になり、拳でテーブルを叩く。
「えー、何で!?オレもあーんってしてほしい!何でしてくれないの?ひどくない?」
「推しじゃない男はただの男だ」
「ジブリのイケメン豚みたいなこと言う」
ツッコミか独白か微妙な呟きを溢して、おそ松は興ざめしたとばかりに袋の中身を鷲掴みで口に放り込む。バリバリと豪快な音は、彼の苛立ちを如実に物語っていた。




カラ松とユーリの関係性について、少し掘り下げた話を聞いてみたいとトド松が思ったのは、単なる気紛れだった。
カラ松は、カラ松ガールズだの何だとの異性の視線を気にする割に、いざ女の子を前にすると自ら声掛けできない小心者だ。執心しやすいが超のつく奥手のため、外野が下手に手出しをしなければ、ユーリとの進展も亀の歩みだろうと踏んでいた。現状を鑑みるに、案の定といったところらしい。

そんなトド松にとって好機が訪れる。カラ松とたまたま二人きりになる時間帯ができたのだ。彼は飽きもせず手鏡を覗いては、己の表情や最も美しく映える角度の研究に勤しんでいた。

「てかさ、カラ松兄さんってユーリちゃんのこと好きじゃん?」

ソファの上でスマホ片手に、何でもないことのようにトド松は問う。
「それがどうし───え…んー!?
唇を引き結んだままカラ松が絶叫する。流れ落ちる怒涛の冷や汗
「なっ、何を急に言い出すんだトッティ!?
オレは別に、は、ハニーのことは、そんな風には…っ」
不自然に声が上擦る上に、顔と言わず耳まで真っ赤に染まるカラ松。本人が明言せずとも一目瞭然なのに。
「知り合って半年くらい経つよね?ほぼ毎週会ってるし、未遂とはいえお泊まりデートする関係なのに、何で付き合わないの?」
「つ、付き合…えッ!?
ふ…フフ、からかうのは止すんだブラザー。さては愛しの兄をハニーに取られるんじゃないかとジェラシーか?可愛いヤツめ
否定を無視して畳み掛けるトド松の言葉を、カラ松は咄嗟に態勢を立て直して回避しようとする。しかし元来攻撃性のない次男は、話題転換させるだけのインパクトを繰り出せない。トド松はそんな彼を一瞥して、続ける。
「推しって言ってるし、あれでしょ、カラ松ガールズなんでしょ?
カラ松兄さんが押せばいけるんじゃ──」

「ユーリは違う」

トド松の台詞を遮り、カラ松はいつになく強い口調で否定する。
「ユーリがオレに向ける目は…オレが向けているものとは、違うんだ」
苦々しげに視線が逸らされる。
「それ、どういう…」
「会ってくれる、触れても嫌がらない、いつだって守ってくれる…でも、何か違う。その答えを知るのがオレは怖い」
「…そうかなぁ」
トド松は首を傾げる。しかし確かに思い返せば、盲目なのはカラ松だけだ。ユーリはカラ松を大事に思ってはいるようだが、紙一重で常に冷静さを保っている。温度差という言うには大袈裟かもしれないが、少なくとも彼女はカラ松と違い、溺れてはいない。二人の大きな違いはそこにある。
「じゃあ、カラ松兄さんが言うように違うとしたら、ユーリちゃんのこと諦めるの?」
画面がスリープしたのを機に、スマホをテーブルに置いてカラ松へ向き直る。質問を投げた当初こそからかい半分だったのを、今は少し反省している。
「諦められない」
即答だった。
「向けられてるのが、恋愛感情じゃなくても?」
「オレにはユーリしかいないんだ」
「その結論は乱暴だよ。十四松兄さんだって乗り越えた」
あの頃の十四松は、彼女のために変わり、彼女しか見ていなかった。負った傷は決して浅くなかったものの、時間の経過と共に塞がり、今や新たな出会いを求めて奔走する日々だ。残った傷跡は、稀に痛むようだけれど。

「ユーリをよく知らないままなら、それもできたんだろうな」

自嘲するようにカラ松は薄く微笑む。
冗談っぽく囁かれる睦言の心地良さも、触れた肌の温もりも、彼は知ってしまった。知る前ならば、適度な下心と淡い憧れで済んだかもしれない。
しかしどこかで区切りをつけなければ、宙ぶらりんな物語は未完のまま時が止まってしまう。奪われた心も取り戻せず、行き場のないやるせない気持ちだけがじんわりと拡大していくのだ。
トド松は大きな溜息と共に胸を反らし、背中の後ろで両手をついた。
「もーやだやだ、湿っぽいなぁ。ボクこういう展開苦手なんだよねー」
「あ、すまん」
柄にもないな、と乾いた笑いを溢してカラ松は首を掻く。
「でもカラ松兄さんが本気なのは分かったから、ボクは応援するよ。頑張ってね」
「トッティ…」
肩を竦めて微笑むトド松に、カラ松は救われたように顔を上げた。その双眸は次第に潤んで、今にも泣き出しそうになる。

「──なんて言うと思ったか、このクソチキンがッ!」
突然降りかかるドスの利いた罵声。末弟の豹変に、カラ松はびくりと肩を震わせる。
「対等に接してくれて連絡もデートも嫌がらない可愛い女の子がいて、手出さないとか愚の骨頂!
女子といたいでしょ常に!喋りたいでしょ常に!触れてみたいし触れられたいでしょ常にー!最終的にはあんなこともこんなこともしたいでしょうがっ、馬鹿なのかお前は!
華麗なちゃぶ台返しを決めて、クズが、と吐き捨てるトド松。
しかしカラ松は飛来したちゃぶ台を片手で受け止め、負けじと声を荒げた。
「いやいや、よーくシンキングするんだ、トド松!
本気になって入れ込んだ挙げ句の果てに、私そんなつもりじゃなかったのに勘違いさせちゃったかな☆って展開になってみろ!お前ら全員葬ってオレも死ぬしかない!
「しれっとボクらを巻き込もうとするな!」




兄弟の、男の顔を見るのは苦手だと思っていた。自分と同じ顔が熱に浮かされている気恥ずかしさと、知らない一面を垣間見る居心地の悪さ。そして何より、長年横一列だった序列が崩壊し、取り残される恐怖を感じる。
カラ松にも、ユーリと会う時にだけ見せる顔があることを最近知った。言い換えれば、ユーリにしか向けない顔だ。

「オレに服の買い物に付き合ってほしい…ナイスなチョイスだぜ、トッティ」
玄関を出て早々に、決め顔のウインクを投げられて、人選を誤ったかと後悔しそうになるトド松。
「荷物を持ってほしいってだけだから。そこ勘違いしないでよ」
「フッ、恥ずかしくて本心は言えないというわけか。了解だぜ、シャイボーイ」
締め上げたい。
まぁいいや、とトド松は息を吐いて、スニーカーに足を入れる。
「とりあえず行こう。早く行かないと、約束の時間に遅れちゃう」
「約束?他に誰か来るのか?」
「うん、ゲストが来るよ。服のコーデをお願いしてるんだ。たまには他人の視点も必要でしょ」
ふむ、とカラ松は納得したようなそうでないような、複雑な表情をする。
最近のカラ松のファッションは、ユーリの教育もあって、比較的まともだ。もちろん彼一人で出掛ける時は例によってセンスのない服を好んではいるが、普通の服を着ろと指示をした今日に至っては、認めるのは悔しいが──悪くない。
七分丈の黒いテーラードジャケットと、同色の細身のパンツ。インナーに鮮やかなオレンジシャツを配置することで、重たくなりがちな印象を緩和している。トレードカラーの青は、シルバーバングルの中央に埋め込まれたブルートパーズだ。

「カラ松兄さんのその服も、ユーリちゃんの好み?」
「ん…まぁ、な。変か?」
「ううん、全然。癪に障るだけ
「え?何で?」
その顔が、と理由は言わない。ユーリの名を出しただけで、光が差したみたいに明るくなる。

商店街の入り口に着いたところで、トド松はスマホで時刻を確認する。約束した時間五分前だ。
「ところでトッティ、誰と約束してるんだ?」
「ああ、うん、実は──」
答えようと口を開いたところで、人混みの中から待ち人が姿を現した。トド松の姿を視認するや否や大きく手を振って、駆けてくる。
「お待たせー」
聞き慣れた声。
カラ松の目がみるみるうちに大きく瞠られる。

「ハニー!」

「カラ松くんも、おはよう」
ユーリがにこりと微笑む。明朗快活で分け隔てない彼女の明るさは、トド松から見ても好ましい。だからこそカラ松にとってはきっと、より一層。彼の顔に浮かぶ戸惑いは刹那に消え、代わりに表層に現れるのは、浮き立つようなニヤケ顔。
「まさかトド松の言うゲストって、ハニーのことか…?」
「トド松くんから聞いてなかったの?荷物持ちしてくれるって話だよね?」
「…とんだサプライズだぜ。トッティに是非にと請われて来てみれば、麗しのハニーが豪華ゲストとはな」
カラ松は前髪を指先で巻き取るポーズをして、やれやれとばかりに首を振る。しかし直後、目を細めてぽつりと呟く。

「まぁ何だ、その…ユーリに会えて──嬉しい」

「私も二人と買い物するの楽しみにしてたんだ。コーディネートは任せてよ」
「ああ、ハニーの審美眼は信用に値するからな」
完全に心を奪われている。末弟の存在さえ失念したかのように、カラ松にはユーリしか見えていない。蕩けるような表情を作る兄を、トド松は知らない。
「ちょっとぉ、今日はボクの荷物持ちで来たってこと忘れないでよ、カラ松兄さん」
トド松は頬を膨らませて、カラ松の腕を取る。
「ん?はは、もちろんだトッティ。弟のエスコートもオレは一流だぞ」
「カラ松くん、弟の前ではほんとお兄ちゃんって感じだよね。お兄ちゃんしてる推しも、どちゃくそ可愛い
口元に手を当てて、ユーリはくすりと笑う。台詞と表情の対比がすごい。

「ッ…ユーリ…まったく、君というレディはいつも…」
朱が差した顔を隠そうと額に手を当てて、カラ松は苦笑した。けれど当のユーリは気にも留めず「本当のことだよ」と畳み掛けてくるから、やがてカラ松も彼女につられ、声を上げて笑った。
兄弟として倦厭するほどいつも近くにいるのに、まだ知らない面なんてあるのだなと、トド松は驚くばかりだ。
カラ松は、こんなにも幸せそうに笑える人だったのか。
どちゃくそ可愛い発言に照れるのは、さすがにどうかと思うが。




「そういえばカラ松お前さ、何でユーリちゃんはハニー呼びなの?」

世間では休日のある日の午後。余暇を持て余したおそ松が、明らかに暇潰しと分かる興味のない口調でカラ松に質問を投げた。一松がソファに置き忘れた猫じゃらしを、退屈そうに振り回しながら。
意図的なのか無意識なのか、おそ松はときどき、核心を突く問いを何でもないことのように振ってくる。トド松は離れた場所で無関係を装いつつも、耳を傾けた。
「なぜって…ハニーはハニーだろ。ダーリンの方がいいか?
呼び方の問題じゃない。トド松は内心でツッコミを入れる。
「うんうん、英語ではダーリンハニーに男女の区別がないもんな──って、そんな知識のお披露目は置いといて」
お前もよく知ってるな。
「ずっとお前のユーリちゃんに対する呼び方が気になってたけど、ツッコんだら負けな気がしてたんだよね。でもハニーってほら、恋人に使う呼び方じゃん?」
「フッ、ユーリはオレのスウィートハートだからな」
何を今更、とカラ松は気取った溜息。
「何がスウィートハートだよ。片思いなのに?
「…えッ!?あ、いや…かたおも…うん」
普段は平然と痛い台詞を撒き散らすくせに、現実を直視させられると途端に萎縮する傾向にあるらしい。カラ松は背中を丸めて、言葉を濁す。
「そもそもユーリちゃんのこと呼び捨てだしね。
チキン松極めたお前にしてはすごい進歩だと思うんだけど、初っ端から女の子呼び捨てってパリピくらいの気軽さないと無理なんじゃないかなと思っててさ。…ああ、そういやユーリちゃんはハニー以前に呼び捨てだよな。何で?」
「な、何で…って」
さすが空気を読まないことに定評のある長男、グイグイ切り込んでいく。頑張れ特攻隊長。トド松は手に汗握る。
「幼馴染のトト子ちゃんですらちゃん付けじゃん」
彼女を比較対象にするのは、いささか強引ではないか。トト子ちゃんを呼び捨てにしようものなら、きっとボディーブローでは済まない。我ら六つ子は彼女にとって、ちやほやされて承認欲求を満たす手段に過ぎないのだ。
「だって、その、ユーリはユーリというか…」

「私がどうかした?」

噂をすれば何とやら。唐突に障子が開け放たれて、話題のその人が部屋へ足を踏み入れる。
「ユーリ!」
「お、ユーリちゃん。いらっしゃい」
対象的な出迎え方をする二人に笑みを向けながら、こんにちは、と挨拶をするユーリ。
「ちょっと早く来すぎちゃった。っていうか何、私の噂話でもしてたの?」
カラ松の服装が外出仕様なのを鑑みるに、松野家で合流して二人で出掛ける算段だったのだろう。
「ユーリちゃん、いいとこに!今ちょうど、カラ松のユーリちゃんの呼び方について熱い議論を繰り広げてたとこなんだよね」
「えー、なになに、気になる。私も混ぜてよ」
瞳を輝かせて、ユーリがカラ松の隣──彼女にとっての定位置だ──に座る。カラ松は戸惑いがちに視線を彷徨わせるが、議論中止の要求はしなかった。ユーリの本心を知りたいような知りたくないような、複雑な胸中が察せられる。

「ユーリちゃん、カラ松兄さんにハニーって呼ばれてるでしょ?」
せっかくの機会なのでトド松も参戦する。
「そうだね」
「嫌じゃない?」
率直に訊けば、ユーリは目を瞠った。
「最初は驚いたし違和感もあったけど、今は別に何とも思わないよ。愛称だしね」
呼ばれすぎて慣れちゃった、とユーリ。その横顔を見つめていたカラ松の相好が静かに崩れていく。もしかしてのろけを見せつけられているのか?
「ユーリちゃん、慣れは危険だと思うよ、俺」
「その辺はまだ客観的に見られるから、たぶん大丈夫。そっち側には行かない
そっち側って何。
「つか、呼び捨てだよね」
「カラ松くんに限っては、今更ユーリちゃんって呼ばれる方が違和感あるなぁ。あ、でも…そういうプレイならあり
プレイの詳細は気になるが、聞くのは負けな気がしてトド松は踏みとどまる。
「えー、マジ?彼氏でもないのに?
リア充の方々って、男女関係なく呼び捨てあそばしてるもんなの?」
「おそ松兄さん、童貞無職非リアの妬みは醜い
「うるせ!」
おそ松とトド松の掛け合いに、ユーリは肩を揺らして笑う。それからカラ松へと体を向けて、優しい声音で告げる。

「だからカラ松くんは、何も気にしなくていいんだよ」

ああ、とトド松は感心する。
彼女は最初から質問の意図を理解し、カラ松の心情まで汲んでいたのだ。素直な意見という殻を被ったユーリの返事は全て、前提を踏まえた上で計算されたものだった。
「ユーリ…──フッ、わざわざ言わなくても、ハニーの熱いパッションは最初から分かってたぜ。オレとハニーはオールウェイズ以心伝心、だろ?」
思い出したように高らかに指を鳴らし、カラ松は気障なポーズを決める。
「そうだねー」
普段の調子を取り戻したカラ松に興味はないらしく、ユーリの返事は完全に棒読みだ。

ただ、再確認したことが一つある。
それは、やはりユーリはカラ松に好意的であるということ。次男に向ける感情の起因までは読み取れないが、少なくとも友人の域を超えているのは間違いなさそうだ。推しと言われればそれまでだし、童貞の濁りくさった目が当てになるのかと言われれば、まぁやっぱりそれまでなのだけれど。


「そろそろ出掛けるか、ユーリ」
壁掛け時計で時間を確認した後、カラ松が立ち上がる。
「俺たちの目の前でデートなんていい度胸だな、カラ松。俺も連れてって
「プライドないのか、お前」
「そんなもんニートの時点であるわけないだろ!バーカ!」
逆ギレか。
「おそ松くんとトド松くんも一緒に行く?紅葉見に公園ブラブラするつもりなんだけど」
「えー、競馬とかパチンコじゃないのー?今日新台入荷とスロットのイベントの日なんだよね。公園の何が楽しいんだか」
おそ松はソファの上でうつ伏せになり、退屈そうに唇を尖らせた。
「そうか?オレはユーリと一緒なら何でも楽しいが」
「カラ松のそういうド天然なとこ、俺嫌ーい」
構ってちゃんと察してちゃんを併発した、最高に面倒くさい態度で冷笑するおそ松を尻目に、トド松は自分のスマホをバッグに仕舞う。
「残念、ボクも今日は予定あって。これから囲碁クラブの人たちと会うんだよね」
「そっか。じゃあ行こうよ、カラ松くん」
「あ、待ってくれハニー。行ってくるぜ、ブラザー」
ユーリに手招きされて階下に降りていくカラ松の様子は、さながら幼い娘に催促される父親のようだった。彼がユーリに向けるのは、ただただひたむきな愛情。カラ松がカラ松たる所以である底抜けの優しさは、今は一切合切がユーリのものだと思い知らされる。




カラ松とユーリが松野家を出て、少し経った頃。
彼女が欲しいだの合コンしたいだのと際限なく愚痴を垂れる長男をいなしていたら、あっという間に囲碁クラブメンバーとの待ち合わせ時間が迫る。
荷物を持ち、玄関口で靴を引っ掛けたところで、戸の奥から人の話し声が聞こえて立ち止まる。松代が近所の主婦と立ち話でもしているのかと、トド松は忍ぶように引き戸を開けた。しかし玄関を出ても人の影はない。不審に感じながらも声のする方へと歩を進めると、木製のベンチに腰をかけて談笑するカラ松とユーリの姿が、トド松の目に飛び込んできた。

「このルートで行く?そしたらゴールはここになるから、駅に戻りやすいと思うよ」
スマホの画面を指差しながら、ユーリが言う。公園散策のルートを決めあぐねているらしい。肩を寄せ合って同じ画面を覗く距離感は、やはり恋人同士のそれだ。
「少し迂回することになってしまうが、こっちはどうだ?
繁華街に繋がる道に出るから、近辺のカフェで休憩しやすいと思う」
「なるほど、それいい案。カフェの新規開拓もできるね。カラ松くんナイス!」
「ほ、本当か?」
嘘や誇張のない称賛を受けて、カラ松はふにゃりと顔を綻ばせた。ユーリの一挙一動に、振り子のように容易く揺れ動く心。秘密の花園を覗いたみたいな背徳感で、トド松の顔も心なしか熱くなる。

スマホをカバンに放り込みながら、そういえば、とユーリは話題を変えた。
「さっきの話を蒸し返すようだけど、みんな呼び方にこだわるんだね」
「新品だしな」
「そうでした」
得心がいったとばかりにとユーリは手を叩く。

「でも…少なくともオレには、理由がある」

「ハニー呼びに?
トト子ちゃんのこともそう呼んだことあるって聞いたよ。カラ松くんの場合は、仲のいい女の子がハニーなのかな」
赤塚区で開催された爆食い女王決定戦。トト子の応援として駆けつけた際に、愛してるぞハニー、と確かにカラ松は叫んでいたっけ。
意味ありげに微笑むユーリの胸中を、トド松は計り知ることができない。
「違…っ、確かに以前トト子ちゃんをそう呼んだのは事実だが──今は、ユーリにしか使ってない」
不安げに揺らぐ声音。けれどすぐさま居住まいを正して、カラ松は毅然と言い切った。
「へぇ、本当に?」
「…本当だぞ。今だけじゃない、これからも、オレにとってのハニーは──」
力の限りを振り絞って。

「ユーリだけだ」

あ、と意味を成さない言葉を発して、ユーリは肩を竦めた。
「ごめんごめん、そう追い込むつもりじゃなかったんだ。ちょっと聞いてみたかっただけ」
そう言って、聞き分けのない子をあやすようにカラ松の頭を撫でる。
「うん、でもそっか、呼び方ねぇ…」
黒髪の上に置かれていたしなやかな指が、緩やかな弧を描いて頬へと動き、やがてカラ松の顎をなぞりあげる。晴れやかな天気には似つかわしくないほど妖艶な仕草に、トド松は息を呑む。カラ松がごくりと喉を鳴らしたのを合図に、彼女の血色の良い唇がおもむろに開いた。

「カラ松」

囁くような甘い声音。カラ松の血液が沸騰したのが、傍目にも分かった。トド松もなぜか胸が締め付けられる。恋は、こんなにも強烈な感覚をもたらすものなのか。
「うーん、あんまり変わらない気もするなぁ。カラ松くんはどう?変な感じ?」
ユーリは指を離して、朗らかな表情を浮かべる。先ほどの艶っぽい目線は、幻とでも言うように。

そしてカラ松はというと、硬直したまま後ろにぶっ倒れた

「わーっ、カラ松くん!」
ユーリは慌ててベンチから立ち上がり、卒倒したカラ松に駆け寄る。後頭部をアスファルトに強打したのだから、良くて致命傷だろう
「今のどう考えても分岐点だったじゃん!自分からフラグ折るとか馬鹿なの!?」
トド松は物陰から躍り出て叫ぶ。突然の出現にユーリはびくりと肩を竦めて、ひゃあっと素っ頓狂な悲鳴を上げた。その拍子に、起こしかけたカラ松の体から手を離してしまい、再び次男は地面に叩きつけられる。
「えっ、あっ、ご、ごめーん!カラ松くん生きてる!?」
「カラ松兄さんは特殊な訓練受けてるから、心配しなくていいよ」
意識を失ったカラ松の傍らにしゃがみ込み、トド松は抑揚のない声で告げる。鈍器で殴打されても翌日には復活しているような男だ。


トド松の出した結論は以下の通り。
とっととくっつけとは思うけど、目の前でイチャつかれたら殺戮に手を染めかねないので、当面は現状維持をお願いしたい。妨害は徹底的にやる。