カラ松くんが悩みを抱えていることは、その日会った当初から気付いていた。
二人でいても、心ここにあらずといった体でぼんやりしている場面も見受けられ、私が離席した際には溜息を溢すことさえあったのだ。いつも私の視線を追いかけて、気を抜かないよう意識している彼を見慣れているから、その姿は特に奇異に映った。明るく振る舞う表情も、心なしか翳りを帯びている。
何か嫌なことがあったらしい。そう察するのに時間はかからなかった。
「ねぇカラ松くん」
「ん?どうした、ハニー?」
地面に伸びる黒い影が長い、夕暮れの帰り道。私はカラ松くんに声をかける。
「まだ時間ある?良かったら、これからちょっと飲みに行かない?」
「え」
私からは珍しい飲みの誘い。カラ松くんは意外そうに目を瞠った。
チビ太さんは、団地近くのドブ川沿いを拠点にして屋台を構えている。私が彼の店を訪ねるのは少し久しぶりだ。
営業時間に決まりはないと聞いていたが、日が暮れる頃に立ち寄ったところ、ちょうどチビ太さんが暖簾を掛けるところだった。一番客らしい。
「ようお二人さん、いらっしゃい」
「こんばんは、おでん日和のいい夜ですね」
長袖一枚では肌寒い秋の夜、温かなおでんと冷たいアルコールは最高の組み合わせだ。世辞ではない本心を語ったら、チビ太さんはにかっと笑った。
席について早々瓶ビールを注文し、二つのグラスに注ぐ。意気揚々と進行役を買って出る私にカラ松くんは呆気に取られている様子だったが、気にせずグラスを一つ差し出した。黄金色の液体がしゅわしゅわと音を立てて、グラスの中で踊る。
「今日は私の奢りだから、食べ放題飲み放題だよ」
「…え……えっ?」
「何なら帰りのタクシー代も出しちゃう、出血大サービス!」
「ユーリ…?」
勢いに押されてグラスを受け取ったカラ松くんが、戸惑いがちに言葉を溢した。何の脈絡もなく突如始まった宴会に当惑している。私は笑みを作ったまま、努めて軽い口調で言う。
「嫌なことがあったんだよね?」
「…ッ」
びくりと揺れる肩。
「カラ松くんが私に弱音吐きたくないの知ってるから。今日はパーッと飲んで忘れちゃえ。朝まで付き合うぞ~」
かんぱーいと軽快な口調でグラスを鳴らして、私は冷たい液体に口をつけた。チビ太さんが微苦笑顔でおでんを出してくれるので、カラ松くんから視線を逸して割り箸を割った。
彼はしばらくの間微動だにせず、ビールの注がれたグラスを凝視していたが、大きく深呼吸したかと思うと、グラスの中身を一気に煽った。
「ハニー、もう一杯頼む!」
「はいはい」
お代わりを注げば、カラ松くんは間髪入れずに飲み干してしまう。
酒に強くない彼の頬には早くも朱が差して、それから憮然とカウンターに頬杖をついた。カラ松くんが不機嫌さを顔や態度に出すのは珍しく、私は面白半分に横目で眺める。
「…ユーリ、これは…」
それから自分の皿に盛られたおでんに目を留めて、彼は目を見開いた。
「おう、さすがに気付いたか、カラ松。
仕込みのときにユーリちゃんが電話くれてよ、今日はおめーのために牛すじ多めに用意してやったぜ」
そう、彼の皿には定番の具の他に、松野家に巣食う悪魔の数だけ牛すじ肉の串が載せられている。
「チビ太さん、こういうのは黙っておくからオツなんですよ」
「おっといけねぇ。すまねぇな、ユーリちゃん」
私とチビ太さんのやり取りを唖然と見つめていたカラ松くんは、牛すじを口に含んで咀嚼しながら、目尻にじわりと涙を浮かべた。それは次第に大粒の涙となり、ぽろぽろと膝の上に溢れていく。涙脆い属性も推せる。ギャップ萌えが著しい。
「──お疲れ」
そう言って背中を擦ったら、噛み締めていた唇から堰を切ったように声が漏れる。最後の砦は脆くも崩れて、カラ松くんは文字通り号泣した。
人気のない河川敷に響くカラ松くんの声が止む頃、真っ赤に腫らした目で、すっかり冷めてしまったおでんの具を頬張り始める。悩み事の詳細は語られないまま。とはいえ、ニートで童貞で実家暮らしの彼が影響を受ける対象は自ずと限られているから、原因はお察しだ。
「さ、飲も飲も。何なら熱燗いっちゃう?」
お猪口を口に運ぶ仕草で誘えば、カラ松くんはようやく───笑った。
「…ビールがいい。チビ太、お代わり」
「おう、じゃんじゃん食ってけよ」
牛すじ肉が多めに盛られた皿からは、白い湯気が立ち上る。出汁のいい香りが鼻孔をくすぐった。
「──ユーリ…その、気を使わせてしまってすまない…」
「謝らないの」
もう何度目かのビールを注いで、カラ松くんに差し出しながら。
「こういう時はね、お礼を言ってもらった方が嬉しいよ」
「そうか…ああ、そうだな」
カラ松くんは頷き、真っ直ぐに私を捉えて、もう一度柔らかな微笑みをたたえた。泣き腫らした後の残る痛々しい顔で、嬉しそうに。
「ありがとう、ユーリ」
仄暗い底から引き上げるのに成功したら、後はずっと私のターン。
「っていうかさ、せっかくだし私の悩み聞いて慰めてよー。こういう時、カラ松くんしか話せる人がいないんだよねぇ」
背中を丸めてクダを巻き始める私。え、とカラ松くんは驚きの声を上げたが、グラスを両手に抱えて満更でもない顔になる。
「日頃何だかんだ言う割に、おそ松くんたちもカラ松くんのこと頼ってるし、ホント頼り甲斐があるよね。聞き上手だし褒めてくれるし、クソ優しい」
一語一語を溜めて言い放てば、カラ松くんの頬が酒とは別の影響で赤くなる。
「いや、そんなことは…」
「カラ松くんよっぽどのことがないと怒らないから、みんなも甘えちゃうんだろうね。でも分かるなぁ、余裕のある大人の包容力っていうのかな、相談しやすいし」
謙遜を許さず畳み掛ければ、いつの間にかカラ松くんの口角が上がっている。
「フッ…そうだろうとも!隠しきれないほどに寛大なハートで老若男女問わず慈悲深い、オレ…っ!ユーリやブラザーが、オレの前ではついついセルフィッシュになるのも致し方ない!なぜならっ、オレはいつだってみんなを想っているから…っ」
大袈裟な身振り手振りで演説するカラ松くん。調子が戻ってきたようで何より。
「さぁ、何でも話すんだユーリ。
ゴッドにも引けを取らないオレの広ーい懐で、ハニーの不安や苦しみを包み込んでやろう!」
一昔前の少女漫画の登場人物さながらに瞳を輝かせて、私を促す。自信に満ちた声のトーンと、血色のいい顔と。これならもう大丈夫だと、私は安堵する。
それからカラ松くんはどこかうっとりとした眼差しで、ヒールが半分ほど残ったグラスを揺らした。
「…オレは、ユーリの一番の理解者でありたいんだ」
君がオレを理解してくれているように、と。
カラ松くんがトイレに行くために離席した時のこと。
それまで口を挟まず部外者に徹していたチビ太さんが、おもむろに口を開いた。
「すげぇなユーリちゃん。あいつの扱いをよく分かってるじゃねぇか」
すっかり元気になりやがって、と呆れたように腕組みで溜息のチビ太さん。ふふ、と私は笑い声を溢した。カラ松くんに付き合って酒が進み、私も少し酔っている。
「どうしたらいいかなって、いつも考えてるんです」
だって。
「笑ってるカラ松くんが一番だから」
定時で仕事を終えて自宅に着いたその日、トド松くんから一本の電話があった。
「やっほー、ユーリちゃん!今うちで兄さんたちと宅飲みやってるんだけどさぁ、良かったら来なーい?」
異様にテンションの高い声と軽快な口調で、既に出来上がっているのは明白だった。下品な笑い声と騒々しい物音が彼の背後から響いてくる。どうせ、酒の席に女っ気がないのは寂しいからユーリちゃんでも誘おうぜ、そんなやりとりが交わされたのだろう。
「いいよ。今帰ったところだから、晩ごはん買っていくね」
幸いにも明日は休日だ。一人寂しく食事を摂るよりは、騒々しい六つ子たちと騒ぎ倒す方が有意義かもしれない。その時私は、そう思ったのだ。
そして、私はその決意を早々に後悔することになる。
松野家を訪れると、予想通り六人は完全に酔っ払いの様相を呈していた。
「くっさ!野郎六人が呑んだくれた部屋、めちゃくちゃ臭い!」
アルコールと、畳に散乱したパーティ開きの各種ポテトチップス。火のついた煙草は、灰皿の上でゆらゆらと煙を立ち昇らせている。どう好意的に見ても、不平不満を共有して膨張させるだけの生産性のない憂さ晴らしだ。
カラ松くんに至っては早くも酩酊していて、私を視認しても目が据わったままである。隣に腰を下ろして彼の眼前で手を振っても反応がない、ただの屍のようだ。
「カラ松くん…おーい?」
「あー、カラ松は、見ての通り飲みすぎ。酒弱いくせに度数高いチューハイ飲んでたんだよね」
そう教えてくれる一松くんも、顔が赤い。ひゃひゃひゃ、と笑い声は高らかだ。
「おい豚野郎ども、我らが女神ユーリ様のご降臨だぞ!頭が高い!」
「ははー!」
一松くんに一喝された四人は、恭しく両手を前へ差し出して頭を垂れる。崇めるな、ひれ伏すな。
「だってさ、ぶっちゃけユーリちゃん本人とどうこうならなくても、おこぼれに預かれるかもしれないしね」
「うんうん。女友達紹介してもらえるかもって一縷の望みは捨ててない」
おそ松くんと十四松くんがビール缶に口をつけながら、最高にゲスい発言。今日も六つ子が通常運行で安心した。
「でもさぁ、ユーリちゃんと僕らがどうこうなってくれた方が手っ取り早いのは確かなんだよね」
「分かる。今更初見の女子と一から関係性築くハードルの高さに心折れそう。その点ユーリちゃんは偏見ないし気楽でいい」
続くチョロ松くんと一松くん。いくら何でもぶっちゃけすぎじゃないか諸君。
「みんなひっどーい、ユーリちゃんのこと都合のいい女みたいな言い方!」
呆れ半分で眺めていたら、トド松くんが頬を膨らませて抗議する。
「そういう本心は極力隠さないと。いいツラしてこそメリット享受できるってもんでしょ」
末弟が一番腹黒い。
底の浅い六つ子たちは放置して先に晩ごはんを食べてしまおうと、テイクアウトで買ってきた弁当を広げたら、突如隣のカラ松くんがくくくと笑う。横目で見やれば、悩ましげに片手を額に当てるポーズ。
「どうかした?笑い上戸にでもなった?」
割り箸を割りながら興味なさげに問えば、よくぞ聞いてくれたとばかりにカラ松くんの瞳が輝いた。顔から手を離して、両手を広げる。
「誰だと思う!?───カラ松さぁ!」
「よく存じ上げております」
何だ今更。私はもう驚かなかった。
かろうじて肌色露出の発生しない下ネタトーク満載の飲み会で、断固として酔うわけにはいかない。今回はガードマン担当のカラ松くんが泥酔していて、役に立たないからだ。しかししばらくすると私の存在を認識したようで、気障になりきれない不敵な笑みで私を見つめた。
「やぁユーリ、今宵もミロのヴィーナスのように美しいな」
肩はふらふら揺れている。
「…できれば今日は、あまり飲まないでくれ」
「どうして?」
「飲みすぎたせいで、ブラザーたちからユーリを守れないかもしれない」
眠気を堪えるように目はとろんとしているが、少しは正気を取り戻したらしい。
「こんな時まで気を使ってくれるんだね。ありがと、気をつける」
私が頷けば、へらりとカラ松くんは笑う。
「オレにとってはハニーの安全が一番だからな。ハニーを守れるなら、この場でブラザーたちを殲滅したって構わないぜ。
んー?その目、オレを信じてないな、ユーリ。よーし分かった、なら証拠に今からあいつらを──」
「待て待て、事件を起こすな」
カラ松くんがゆらりと立ち上がり、どこからともなく取り出したマシンガンを構えるので、手を出して制する。
前言撤回、まだめちゃくちゃ酔ってた。
六つ子たちの下品なテンションに巻き込まれまいと、いつものようにソフトドリンクをメインに据えて、酒の量を調整する。カラ松シールドが使用不能の今、酔いが回れば命取りだ。
しかし、危機は突如として訪れる。彼らの下ネタトークや際限ない愚痴に参加しながら、ちまちまとアルコールに口をつけていたら、不意にチョロ松くんが肩に手を置いた。
「ちょっとユーリちゃん、さっきからぜんっぜん飲んでないじゃないですかぁ」
絡み酒きた。
「えー、それは聞き捨てならないな、ユーリちゃん。一人だけノリ悪いのは、お兄ちゃん悲しいよぉ」
反対側からはおそ松くんが出現し、私の肩に肘を載せた。両サイド至近距離に成人男性を侍らせる格好になった私は、ひたすら彼らの酒臭さに辟易する。
「つか酔ってないよね?ほぼシラフだよね?僕らだけ酔ってるとかフェアじゃなくない?」
何の?
「うん、フェアじゃないよな、チョロ松。こういう場は男も女も等しく酔い潰れるのが醍醐味ってもんじゃん。ほらほらユーリちゃん、もっと飲んで」
「お言葉だけど、六対一の時点でフェアじゃないからね。自分の身くらいは自分で守らないと」
「いやいや、何ていうかさ、女の子一人楽しい気分にさせられない自分の不甲斐なさに絶望しそうなんだわ俺ら──だから飲んで、酔ったら介抱するから」
介抱されたくないから飲まないのだが。しかしまぁ、酔っぱらい相手に正論が通じるとも思えない。
「ちょっと、二人ともいい加減に…っ」
両側からほらほらとアルコールの缶を突きつけてくる長男三男に嫌気が差し、眉間に皺を寄せた──次の瞬間。
おそ松くんとチョロ松くんが、同時に後ろにひっくり返った。
「…え?」
何事かと硬直する私の傍らで、宙を舞う缶を一松くんと十四松くんがそれぞれ見事キャッチする。
「あーあ、怒らせちゃったよ」
窓際に背をもたれて苦笑いするのはトド松くんで。彼の視線を追うように、私は背後を振り返る。
そこには──二人のパーカーのフードを引くカラ松くんの姿があった。
「おいたが過ぎるぜ、ブラザー。
いくらブラザーたちといえど、親しげにユーリに触れないでもらおうか」
青筋を立て、いつにない低音で告げられる警告。冗談では済まさないと、その目は語る。敵意を向けられたわけでもないのに、一瞬息ができなかった。
呆然としたままの私を、カラ松くんは正面から力強く抱きしめる。もうわけが分からない。
「あー…」
スルメを噛みちぎりながら、溜息とも取れる吐息をトド松くんが溢した。
「出たよセコム」
「いや、むしろモンペじゃない?」
言い得て妙な代名詞で、一松くんが追撃する。
「カラ松兄さんモンペ!」
あははー、と十四松くんは楽しそうに肩を揺らす。畳に後頭部を打ち付けた長男三男に至っては、億劫そうに上半身を起こして仏頂面だ。
そして私はというと、突然の抱擁に反応しきれずに思考が停止する。抵抗するのはカラ松くんに気の毒だし、かといって歓喜するのも違う。彼の方から次の行動に出てくれるのが理想なのだがと思ってたら、カラ松くんの表情が次第に柔和なものに変化していく。
「俺はハニーのナイトだぞー」
カラ松くんの声がいつものよりも近く、耳元で聞こえる。
「あの、カラ松くん…」
「うん?心配しなくても大丈夫だぞユーリ、もう怖くないからな。…ああ、そうだ…なぁ、オレちゃんとユーリを守れたんだ。偉いだろう?」
私を抱きしめたまま、蕩けるような表情で、褒めてくれと言わんばかりの口調。まるで従順な忠犬のようだ。シラフのカラ松くんからは考えられないほどの積極性である。
「うん、偉い偉い。ありがとう」
助けられたのは事実なのでそう返したら、彼は顔の筋肉を弛緩させる。腕に込められた力が少し緩んだのを機に、私はカラ松くんに視線を合わせた。
「だから、とっとと離して」
背中に突き刺さる好奇の目と殺意に、そろそろ耐えられそうにない。
空になった缶の数を数えるのが億劫に感じ始めた頃、気が付けば六つ子のうち五人は床の上で寝息を立てている。かろうじて意識を保っているのは、最後までビールを煽っているおそ松くんだ。私も瞼が重い。
「今日は何かごめんねぇ、ユーリちゃん」
アルコールで目尻を赤く染めたおそ松くんが、苦笑いで言う。
「っていうか、何でユーリちゃん呼んだんだろ」
そこからか。
「ま、いいよ。特に予定なかったし、みんなに会うの好きだしね」
「へへ、そう言われたら勘違いしちゃうよぉ。ほら、何せ俺ら童貞だから」
愉快そうな顔で、一ミリだってそんなこと思ってないくせに。
「しかも一名に至っては、ユーリちゃんの膝の上で寝るという大胆かつ巧妙な手口」
おそ松くんの言うように、私の膝の上でうつ伏せになり熟睡している人がいる。青いパーカーを着た、松野家次男。その両腕は私の背中に回されて、がっちりと固定されている。そんな格好でよく眠れるな、というのが正直な感想だ。
「カラ松くん、泥酔だったからなぁ。明日絶対覚えてないヤツだよね」
「どかす?今ならもれなく簀巻きにして屋根から吊るすオプションがつけられるよ」
「ナイス」
私は真顔で指を鳴らす。
しかし──
「まぁいいや、しばらくはこのままで」
寝かせといてあげようよ、と。私は笑って、カラ松くんの頭を撫でた。いつも釣り上がった眉が、今は穏やかに下がっている。
結局、カラ松くんを膝に載せたまま私も寝落ちしてしまった。幸いだったのは、元々膝を伸ばした状態だったことと、背中をソファに預けられていたことだ。それでも煌々と電気のついた室内で深夜に目で覚めた時、荷重のかかる足に不快感を覚えた。
さすがにいい加減どかさなければ私の足が死ぬと彼のカラ松くんの肩に触れたところで、私の腰から腕が離れた。
「んー…」
瞼を擦りながら、そろそろと緩慢な動作で起き上がる。眩しくて開けられない目のせいで眉間に刻まれた皺は深い。
「目が覚めた?」
私が声をかけると、睨むような視線を寄越す。
「ユーリ…」
「うん」
「…喉乾いた」
ぽつりと溢された言葉に私は少しばかり目を瞠ったが、すぐにテーブルから未開封の麦茶を取って手渡した。サンキュ、という礼と共に口をつけて、それから彼は不思議そうに私を見つめた。
「──どうしてハニーがうちにいるんだ?」
え、そこから?
「呼ばれたから遊びに来たんだよ」
私の返事には、そうか、とだけ答えてカラ松くんは笑う。疑問を抱かないあたり、まだまだ立派な酔っ払いである。
快活な笑みはやがて気恥ずかしそうなものへと変わって、カラ松くんは目線を落とした。
「なぁハニー、今から言うことはユーリには内緒だぞ」
五人の寝息だけが響く深夜の一室。話を聞く私の頭の回転に支障はなく、視界に淀みもない。酔っていないことは、誰よりも私自身がよく分かっている。
「ふふ、いいよ。何かな?」
酔っ払いの戯言と聞き流すだけの余裕があったのかは、定かではないけれど。
しかし私の返事は彼にとって好意的なものだったらしい。カラ松くんの口から安堵の息が漏れる。
「ユーリと会える日、オレはすごく幸せになるんだ」
「うん」
「これからもたくさんデートをしたい。色んな所へ行きたい。もっとユーリを知りたい」
「うん」
これ聞いちゃ駄目なヤツじゃなかろうか。
けれど安らかな寝息を立てている五人がいつ起きてくるやもしれない緊張感の中、どうすればいいのか見当もつかない。
「知ってたら、教えてほしい──オレに、ユーリは何を望んでると思う?」
「え」
「オレにしてほしいことや望むこと、何かあるんだろうか。どうすれば、もっと近づけるだろう。ユーリには幸せでいてほしくて、できれば少しでも幸せにしたいと…そう思ってるんだ」
「望むこと…」
反芻して時間を稼ぐのは、深入りを避けようする意識的な行為だった。少なくとも、今聞いてはいけない。こんな場面で交わすべき言葉じゃない。なのに、反射的に手を伸ばしてしまいそうになる。心の深淵に触れるのは、麻薬のような感覚だ。
茶化して聞かなかったことにしてしまおうかとも思った。しかしそれは、酔っているとはいえ本心を曝け出してくれているカラ松くんに失礼ではと諌める自分もいる。
私は僅かに肩を竦めて、畳の上に置かれたカラ松くんの手に自分のを重ねた。
「きっと…カラ松くんがそう思ってくれてるって知るだけでも、すごく嬉しいと思うよ。いつも側にいてくれて、守ってくれて、何があっても味方でいてくれるのって、本当に心強いんだよ」
ユーリの一番の理解者でありたい。
先日おでんを食べながら語られたカラ松くんの台詞が脳裏に蘇る。
「そう、だろうか…?」
「私が保証するよ」
力強く頷けば、カラ松くんの相好が崩れる。嘘や誇張のない、純粋な笑顔だ。
「それじゃあ、これからもオレはユーリの側にいていいんだな?
…本当は、もっといい男がいくらでもいることだって分かってるんだ。でも…オレがユーリといたくて」
「他人と優劣比較するようなことしないよ。推しは別枠」
「分かってる、オレが勝手に気にしてるだけなんだろう、きっと。…誰にも奪われたくないのにな。それに、オレだってユーリ以外のレディは、そもそも…全然──」
口調がペースダウンしたと思ったら、直後カラ松くんはそのまま倒れるようにソファに体を預けて意識を失った。部屋に静寂が戻る。
泥酔者の世迷い言、夜が明けたら当然のように忘却されている些末なワンシーン。
頭では分かっているのに、頬に集中した熱がなかなか下がらなくて、困った。
勢いをつけて六つ子の部屋に繋がる襖を開け放つ。
「朝だよー!いつまでも寝てないでそろそろ起きなさい、ニートたち!」
私の掛け声に、畳で雑魚寝している六色のパーカーがぴくりと反応を返す。大きなあくびをしながら上半身を起こす者、窓から差し込む朝日の眩しさに目を細める者、全員がそれぞれ異なる格好で意識を覚醒していく。
「あ、おはよう、ユーリちゃん」
襖のすぐ側の壁に背を預けていた十四松くんが、ぱっと飛び起きた。
「おはよう、十四松くん。ご飯冷めちゃうから、早めに下に降りてきてね」
「ユーリちゃんから漂うこの匂い…もしかしてユーリちゃんの手作り?」
「おばさんのお手伝いとしてだけどね」
その台詞を聞くや否や、今まで緩慢な動きだった他の面子がガバッと音を立てて立ち上がった。
「何っ、ユーリちゃんの手料理!?」
「急げクズども!」
既に身支度を整えた私に朝の挨拶を投げて、入口に近い人から順に部屋を出ていく。
「カラ松くんも、おはよう。二日酔いになってない?」
三男から六男までの四人が階段を降りた頃、私はカラ松くんに声をかける。
「えあっ!?あ、その…ああ、少しだるいくらいで平気だぞ、ハニー」
大袈裟なほどびくりと肩が尖って、私の方がぎょっとした。何か変なことをしただろうか。
「本当に大丈夫?カラ松くん、昨日かなり酔って──」
「な、何でもない!本当にっ、平気だ!」
私の言葉に大声で被せてくる。しかし唖然と口を半開きにする私に、しまったと思ったのか、目をあちこちに動かした。
「いや、すまんっ…そうじゃなくて…と、とりあえずブレックファーストを食べよう。ハニーの料理はデリシャスだから楽しみだぜ」
指先を顎に当てて感慨深げなポーズを取る。そして階下からチョロ松くんに早く来いと呼ばれたのをこれ幸いと、慌ただしく私の側を離れていく。
ああ、これはきっと、おそらく。
「──あー、覚えてるパターンか」
私の肩からひょっこりと顔を覗かせて、おそ松くんがニヤリとほくそ笑む。
「うん、分かりやすすぎる」
「でも言わないんだな、あいつ。ほんと馬鹿だねぇ」
私は黙って、困ったような笑みを返す。おそ松くんが預かり知らぬその後の展開も含めて、言及しにくい気持ちは何となく理解できるからだ。
「もっと上手く嘘をつけたら、器用に生きられるのにね」
見送った後ろ姿から見えた耳は、赤かった。
チビ太がカラ松とユーリを見かけたのは、彼らがハイブリッドおでんを訪ねて幾日か過ぎた頃だった。
赤塚区の商店街のアーケードを、こめかみに手を当てて顔を歪めるカラ松と、それを気遣いながら苦笑いを浮かべるユーリが通る。最初にチビ太に気付いたのは、ユーリだった。にこやかな笑顔で、ひらひらと手を振ってくる。
「よぅユーリちゃん。カラ松は…おいおい、二日酔いかおめー」
「…よく分かったな、チビ太」
「昨日ちょっと飲みすぎちゃって。ほらカラ松くん、チビ太さんにも分かるくらいなんだから、やっぱり今日は家で休んでた方がいいんじゃない?」
「しかし今日は何も用事ないんだろう?だったら、オレはユーリと出掛けたい」
またそんなこと言って、と溜息をつくユーリだが、表情は満更でもなさそうだ。カラ松のストレートな好意を受け流しながらも、幾分かは素直に享受しているらしい。
「あ、私たちこれから映画行くんですけど、良かったらチビ太さんもどうですか?」
「お誘いありがとよ、ユーリちゃん。でも見ての通り、仕込みの買い出し中なんだ」
チビ太は両手に持ったビニール袋を掲げてみせる。誘いを断ったのは説明した通りで、決してカラ松の心底嫌そうな顔を見たせいではないことを釈明しておこう。
「そっか。じゃあぜひまた今度。屋台も近いうちに行きます」
「ああ、またな」
春風のような子だ、とチビ太は思う。
暖かな空気を纏い、殺伐としがちな六つ子の周りを優しく穏やかに流れていく。掴みどころがないのに、確かな存在感と確固とした意思を感じさせて、少しずつだが確実に彼らに変化をもたらしている。
去りゆく二つの影を見送ろうとしたチビ太は、ふと思い返して呼び止める。
「おい、カラ松」
カラ松は振り返り、チビ太の手招きに従い、ユーリをその場に残してチビ太の元へやって来る。
「何だよ」
「ユーリちゃんのこと、大事にしろよ」
小声で告げれば、カラ松は目を丸くする。
「…チビ太?」
「おめーのことあんなによく理解してくれる子、もう二度と現れねぇぞ」
カラ松の目の色が変わった。照れくささとひさむきさが入り混じった、何とも言えない顔で。
「──ああ、分かってる」
返されたそのたった一言に、ユーリへの愛しさが溢れている。厄介で疫病神な六つ子らしからぬ一面を垣間見た気がして、チビ太はいたたまれない。けれど同時に、たちの悪い悪魔が一人でも減ってくれれば僥倖だという腹の中もある。こういうのを捕らぬ狸の皮算用というのだろうか。
「笑ってるおめーが一番なんつー恥ずかしい台詞を、平然と言ってのけるくらいだしな」
「え…えぇッ!?は、ハニーが!?」
素っ頓狂な声を上げて、あからさまに挙動不審になる。後ろの方で、ユーリが不思議そうに首を傾げて、こちらに視線を向けた。
「あー、内緒だったかな、これ」
ひひ、と底意地悪くチビ太は笑う。
しかしもう、カラ松はチビ太を見ていなかった。
一目散にユーリの元へと駆けていく。
「ユーリ…っ」
「うん?チビ太さんとの話はもういいの?」
「話…あ、ああ、終わった。別に大したことじゃない───ええと、ユーリ…その…」
商店街を出るためにチビ太は出口へと向かう。さすがに気の利いた一言でも言えているかと背後を一瞥すれば、ユーリに向かい合いながらも気恥ずかしそうに首を掻いて俯く松野家次男の姿。やがていつもの気障な口調と態度で、心にもない尊大な台詞を口走る。この調子では、当面進展は望めそうもない。
「お似合い…ってわけじゃねぇよなぁ。お前にはもったいなさすぎるぜ、カラ松」
独白のように呟いて、チビ太は踵を返した。