「もうすぐハロウィンだな、ハニー」
何気なく投げかけられたカラ松くんの言葉で、その日が間近に迫っていることに初めて気が付いた。
雑誌から顔を上げてスマホを手に取り、日付を確認した私は目を瞠る。
「本当だ。来週ハロウィンかぁ、早いなぁ」
「何だ、気付いてなかったのか?」
カラ松くんは驚いた様子だった。私と並んでソファに腰掛け、ギターの弦に指を添えている彼は、つい今しがたまで新譜の練習に勤しんでいた。
「ハロウィンったって、私にはほとんど関係ないよ。平日だし、そもそも仕事だし」
仕事終わりに仮装して夜の街に繰り出すのは、気力底なしパリピの担当だ。一般人は帰って飯食って寝るに限る。
「松野家は毎年ハロウィン何かしてるの?」
深い意味のない、何気ない問いかけのはずだった。
「イヤミの家を襲撃して、家財から家の柱まで一切合切を強奪してる」
しれっと返ってきたのは、衝撃的な発言。私が言葉を失っているにも関わらず、カラ松くんは平然と続ける。
「ブラザーたちも金欠だし、せっかくのハロウィンだ、今年もやるか。いい金になるんだ」
ハロウィン免罪符にすんじゃねぇ。
「昔からイヤミさんと確執があるのは聞いてたけど、それはさすがに…」
「ノンノン、ユーリ。確執なんて優しいものじゃない、奴は親の仇も同然だ」
親どっちも生きとるやん。
カラ松くんもやはり悪魔の六つ子の一員だと認識を新たにしていたら、彼は私が納得したと思ったのか、ニヒルに笑った。
「それに、イヤミから日頃被っている損害は取り返さないと駄目だろ?」
「それたぶんイヤミさんも思ってるよ」
どっちもどっちだ。
ハロウィンはヨーロッパ発祥の祭り事だ。
秋の収穫を祝うと共に、先祖の霊を迎えて悪霊を追放するのを目的とされてきた。日本でいう盆のようなものである。
「古代ケルトでは、十月三十一日は大晦日だったんだって。大晦日には、先祖の霊が家族に会いに戻ってくるんだけど、一緒に悪い霊もついてきちゃう。そつらは子どもを攫ったり悪いことをするから、驚かせて追い払うために、今でいう仮装を始めたらしいね」
どこかで聞きかじったうんちくを披露すると、カラ松くんは感慨深げに頷いた。
「日本では宗教的な意味合いのないイベントだよな」
「起源や由来を知っている人は、今ではむしろ少数派かも」
「ハロウィンの仮装に、魔女やフランケンといった西洋の妖怪が多いのは、その理由で合点がいくな」
「悪霊を怖がらせるのが目的だからね」
近年はメジャーなキャラクターに扮する人も増えてきた。ハロウィンというイベントの趣旨自体が様変わりしつつある。
「ま、余談だったね──耳かきするんでしょ?とっとと寝て」
私が自分の膝を叩くと、カラ松くんは見目にも明らかなほど動揺し、こめかみから滝汗が流れ落ちた。
「だ、だって怖い!」
「自分から頼んでおいて今更抵抗しないの。ちゃちゃっと終わらせてあげるって言ってるでしょ」
松野家を訪ねるなり、カラ松くんから頭を下げられた。耳かきが怖いからやってほしい、と。
顔を赤らめながら小声で告げる推しは最高にエロい、という個人的な感想は横に置くとして、恥を忍んで、私を信頼してこその頼み事と気付いたから、二つ返事で了承した。
なのに今になって涙目で両耳押さえるとか、何だこいつ可愛いかよ。
「本来物を入れるためじゃない穴に異物挿入だぞ!?怖いに決まってる!」
「言い方」
「細長い棒がオレの耳の中を蹂躙するとか想像したただけで無理っ」
「わざと?」
イケボの無駄遣いをするな。
「じゃあやっぱりおそ松くんにやってもらう?」
「そ、それは…」
以前おそ松くんに頼んで散々な目に遭ったと聞いている。まぁ、耳かきごときでこれほど抵抗されたら、対応がおざなりにはなるのは仕方ない。長男の気持ちは理解できる。
「異性に耳かきしてもらえるってだけで、十分贅沢なことだと思うけど。しかも膝枕の豪華オプション付き」
生足やパンストなら断固拒否しただろうが、デニム生地を隔てた上からなら許容範囲だ。
「うっ…ユーリの膝枕は確かにかなり魅力的だ。それは是が非でもお願いしたい」
「耳かき自体、下手じゃないと思うよ。痛くない痛くない」
宥めるように言えば、カラ松くんは物言いたげな目をする。
「…人にやったことあるのか?」
「ない」
「不安倍増!いや、他の男にやったことあるとか言われたらそいつに殺意しか沸かないけど、逆はそれはそれで不安要素でしかない!」
面倒くさい奴だ。おそ松くんよく耐えたな。
長男の気の長さを感心すると共に、私の中の嗜虐心がくすぐられる。
「いいね、反応がいちいちたまらない。言葉攻めする側の気持ちってこんな感じなのかなぁ」
「は、ハニー…っ」
目尻に涙を浮かべるカラ松くんの顎に、人差し指を添える。クイッと軽く持ち上げて彼を戸惑わせる私の顔は、きっと恍惚としているに違いない。
「一気に突っ込むから痛いんだよ。入り口で十分慣らしてから入れたらいいの」
「表現が卑猥すぎるぞ、ユーリ!」
叫ぶカラ松くんを無視して、顎から離した手で彼の耳朶を優しく撫で上げる。彼がぞくりとしたのが、下唇を噛む仕草で伝わってきた。
「あの…普通、立場逆じゃないか?」
「私の耳かきじゃないと満足できないくらい、気持ちよくしてあげるから。ね?」
攻めるって楽しい。
「あ、じゃあさ──トリック・オア・トリート」
「え?」
「ハロウィン近いし。お菓子くれたら、耳かき止めてあげる」
どうする?とにこやかに小首を傾げて尋ねる。
カラ松くんは耳に触れる私の手に自分のそれを重ねて、一層顔を赤く染め上げた。僅かに俯いて逡巡する気配を見せたけれど、魅惑の誘いを難なく拒絶できるほど人生経験ないのが、松野家六つ子だ。
「……止めないで、ください」
「りょーかい」
カラ松くんが恐る恐る私の膝に顔を乗せる。
恐怖に引きつる表情は見せたくないのか、顔を外側に向けられてしまったのは遺憾だが、位置を固定するために片手を頭に置いただけで、びくりと体が揺れる。艷やかな黒髪は、持ち上げようとした私の指からさらさらと零れ落ちていく。
「い、入れる時は入れるって言ってくれ」
「入れる」
「早い!心の準備させてっ」
いつになく高い声で叫ばれた。
「緊張時間長い方が神経すり減るよ」
「ヤダ!怖いものは怖いの!」
格好つけのキザな松野カラ松が行方不明。
「いきなりズボッてやったりしないから。痛くないよ」
子どもをあやすように頭をポンポン叩きながら、努めて穏やかな声音で囁く。それから私がカラ松くんの耳に差し入れたのは、手渡された耳かき棒ではなく──子ども用の細長い綿棒だ。
柔らかな脱脂綿で、穴の周りを優しく撫でる。抵抗感を示さないのを確認して、くるくると円を描きながら、少しずつ穴へ侵入させていく。
「…んっ」
ぴくりと肩が強ばると同時に、恐怖とは異なる種類の声がカラ松くんから上がる。
「ち、ちょ…ユーリ…ッ」
行き場なく上がる片手と、上擦る声。顔を見れないのが辛すぎる。絶対、エロい。
「ね、気持ちいいでしょ?」
私はほくそ笑みつつ、綿棒の先端で外耳道の皮膚を擦る。
「…い、ぁ…!」
そそる。
しかし長く続けてはいられない。耳掃除なんて、穴の入り口を軽く拭う程度でいいのだ。耳かき棒を奥まで突っ込む必要はない。
「はーい、こっちはおしまい。次は反対側ね」
新たな綿棒に持ち替えて、私はにっこりと微笑んだ。
ぎこちなくカラ松くんが体を回転させる。私の腹に顔を向ける形になって、見下ろしていたら視線が重なった。気恥ずかしさと居心地の悪さの相俟った表情で、そっと私から目を逸らす。可愛い可愛い、私の推し。
さて、反撃を許さぬ私のターン開始だ。
「えッ…ちょ、ユーリ…っ、ぁ…」
下手に動けば耳が死ぬから、声で衝動を緩和するしか彼が取る術がない。信じられないとばかりに、驚愕に瞠られた双眸。タコみたいに赤くなった耳を、彼の言葉を借りるなら蹂躙して、存分に堪能する。
「どうしたの?痛い?」
「痛くな、い…っ」
「すぐ終わるからねー」
耳掃除が気持ちいいのは穴の中に迷走神経があるためだ。性感帯とも言えるかもしれない。それにしても敏感すぎやしないかと、私は内心で苦笑する。さすがは新品。
信じられないだろ、たかが耳かきなんだぜ、これ。
時間にして、僅か一分二分ほどのことだったと思う。
耳かきが終わる頃には、私は満面の笑み、カラ松くんは引き続き頬を朱に染めたまま涙目で耳を押さえていた。
「楽しいねぇ、耳掃除!膝枕くらいならするから、月イチでやらせてくれない?」
「…考えさせてくれ」
「何で?カラ松くんも気持ちいいし、私も楽しいし、Win-Winだよ?」
「別の意味で怖い」
失礼な。
使い終えた綿棒をゴミ箱に放り込んでから、私はカラ松くんに爪切りの保管場所を訊く。
「爪切り…?何でそんなものを」
「爪もちょっと伸びてるから。サービスで切ってあげる」
ギターを弾くのに邪魔でしょう、と言えば、カラ松くんは指を内側に折って自身の爪を確認する。
爪切りを渡されて、人によってはギターを弾くのに適切な長さとがあるらしいことをふと思い出した。こだわりはあるかと問えば、カラ松くんはかぶりを振る。
「…短めでいい。ユーリに触れた時に、万一にも傷をつけない長さで頼む」
スパダリの降臨。
さっきまで喘いでたのはどこのどいつだ。
ん、と差し出された手を取るのは、まるで姫をエスコートする王子みたいで。それこそ立場が逆だなと、笑ってしまいそうになる。片手で手の甲を掴んで、もう片手で爪切りを握った。
「こうやって比べると、男の人の手って感じだね」
繋いだ手をまじまじと眺めることはあまりなかったから、目に見える高さに二つの手が重なるのを見るのは不思議な感覚だった。無骨で筋張った、大きな手。
「ユーリの手は、細いな。しなやかで、柔らかくて、マシュマロのようだ」
この次男ナチュラルに誘惑してくる、助けて。
「手を繋いでる時も何となく思ってたんだが…こう、まじまじと見ると、改めてそうなんだなって感じてる」
「そう、だね」
「──首も、こんなに細いんだな」
音もなく伸びた手が、私の首を包み込む。
「力を入れたら折れてしまそうだ」
開け放たれた窓から冷たい秋風が吹き込んで、私の肌を撫でた。私は真っ直ぐにカラ松くんを捉えて、軽快な口調で笑う。
「いつから悪戯する側になったのかな?呪文、まだ聞いてないよ」
「…すまん、冗談が過ぎた。ユーリに危害を加えるつもりは毛頭ないんだ」
それから一呼吸置いて、カラ松くんは言う。
「オレは、ハニーにとってのジャック・オー・ランタンさ」
「カボチャの?」
「ああ。滑稽な顔をして、悪い霊を追い払う役だ」
どこか自嘲気味に聞こえた。ボディガードの大役を担う自負ではなく、その座に甘んじる己への嘲りのようにも。
「滑稽かなぁ?愛嬌あって可愛いよね、ジャック・オー・ランタン」
パチンパチン、と爪を切る音がやけに反響する。
「私は、好きだよ」
爪切りを終える頃になっても、ハロウィンの話題は続いていた。
「ユーリは仮装しないのか?」
「うーん、しないかな。特に予定もないし、そもそも仮装用の衣装持ってないし」
「それはいただけないな」
「は?」
呆気に取られていたら、カラ松くんが突如指笛を吹いた。高らかな音色が室内に響く。
「カラ松、呼んだ?」
そして襖を開けて現れたのは──チョロ松くんだった。三男召喚しおった。普通に呼んでこい。
「聞いてくれ、チョロ松。現世に生きるミロのヴィーナスであるユーリが、ハロウィンに何の仮装もしないらしい」
「それは聞き捨てならないな。可愛いのにちょっと悪ぶった、おもっくそ性癖くすぐってくる女の子の仮装がハロウィンの見どころなのに」
チョロ松くんは悩ましげに腕を組む。こいつら、ハロウィンを何だと思ってるんだ。
「で、ユーリちゃんに似合う衣装を見繕えというわけか。分かったよカラ松」
物分り良すぎる三男怖い。
「でも急に言われてもなぁ…女の子用の衣装でパッと浮かぶのは、デリバリーコントで使ったジュウシテルやトド松の赤ずきんかな」
押入れから該当の衣装を引っ張り出すチョロ松くん。そして両者間ではさらっと流されたが、デリバリーコントとかいうパワーワード。
「それはどっちもデザインがイマイチだ。ユーリの魅力が翳ってしまう」
「あとはそうだなぁ、釣り堀で僕が着た泉の女神なんかは?
見せ方によってはドレスみたいになるかも」
言いながらチョロ松くんが畳の上に広げるのは、白いドレスと月桂樹を模した葉の冠。
「いや、これ片乳ポロリするよね?仮装どころか猥褻物陳列罪でお縄だよね?」
「中は白いチューブトップで隠せるからさ」
「ガチめのアドバイスいらない。ハロウィンに女神って色々おかしいから、完全に浮くから」
「そうかなぁ、露出もいい感じにあって、この中では割とまともだと思ったんだけど」
他にないか探してくるよ、とチョロ松くんは席を立って一階へと下りていく。
部屋には、私とカラ松くんが残された。
「あ、衣装といえば、今すぐできる仮装が一つあるよね」
名案とばかりに私が手を叩けば、カラ松くんは不思議そうに首を傾げた。
「カラ松くん、ジャージとサングラス貸して」
「え?あ、ああ…」
彼は言われるがまま、黒いシャツの上に着ていた青いジャージと、愛用のサングラスを私に渡した。私は服の上からジャージに腕を通して袖を捲り、サングラスを装着する。視界に灰色のフィルターがかかった。
「待たせたな、カラ松ガールズ」
盛大に指を鳴らして、勝ち誇ったような笑みを浮かべれば完璧だ。
ぽかんと口を開いたまま硬直するカラ松くんに、ひょいっと肩を竦めて私は声を上げて笑った。
「──なーんてね」
「は、ハニー…っ!?」
なぜか前屈みになる次男───察した。
「え、何で今勃つの?どういう性的趣向してんの、逆に怖い」
「ちょ、まっ…そういう不意打ちは止めてくれ、ユーリ…ッ!」
顔どころか耳まで朱色にして、それ以上接近するなとばかりに片手で私を制する。
「あー、でも仮装じゃないね、これ。完全に内輪ネタ」
「そういう問題じゃない!」
怒られた。
「チョロ松にユーリのその姿は見せたくない。早く脱いでくれ」
そう言ってカラ松くんは、私が着るジャージの襟元を掴んで引き下げようとする。
「何で?カラ松くんのジャージ着ただけだよ」
「だから駄目なんだ!」
「そんなことより、このジャージいい匂いするね──カラ松くんの匂い」
カラ松くんの手ごと襟を持ち上げて、鼻先に近づけた。いわゆる皮脂の匂いなので、一般的に好ましいものとは言い切れないが、私にとっては嗅ぎ慣れた、安心する香りだ。
「ごめんなさい、脱いでください」
私の素直な感想は童貞ニートには刺激が強すぎたらしい。少しばかり反省して、カラ松くんの手に動きに合わせて体を捻り、ジャージを脱ぐことにする。
とその時、部屋に続く障子が開いた。
「お待たせー。にゃーちゃんのステージ衣装があったよ。これなら制服だし、ユーリちゃんも──」
だがその台詞は最後まで紡がれなかった。
チョロ松くんの手から、ぱさりと衣装が落ちる。彼の瞳に映るのは、ジャージを二の腕まで下ろされた私と、服に手をかける次男の姿。
「…何やってんの?」
「見ての通り、脱がされてるの」
無表情なチョロ松くんの顔に青筋が立った。
「んー、ハニー、確かに説明は正しいが…待て待てチョロ松、殺意を向けるな、誤解だ、これには事情がある、話せば分かる」
その後、私も釈明に加わって事なきを得たが、異性の服を脱がそうとした事実には三男から厳重注意を食らうカラ松くんだった。
「ユーリは仮装禁止だ」
すったもんだの挙句、辿り着く極論。見たいって言ったのはお前だというツッコミは無意味ですかそうですか。
それからの数日間は、あっという間だった。
家と職場の往復で、流れるように一日が過ぎる。ハロウィン当日にしても、取り立てて変化もない、平凡な日々の続き。ルーティンを繰り返すように定刻に帰路に着く。
日も暮れて夜を迎える頃、大通りで派手な仮装に身を包んた男女のグループとすれ違う。交わされる会話から、どうやらハロウィンのナイトパレードに繰り出すらしい。それからも仮装をした人々をちらほら散見して、ハロウィンであることをようやく身近に感じ始める。
多少の羨望を眼差しに込めて、私は帰宅して休む選択肢を選ぶ。
道中コンビニに寄って購入した棒付きの飴を鞄から出して、口に咥えた。甘いイチゴ味が口内に広がる。
帰路の途中。
ふと視界に入った、物憂げに視線を落として柱に寄り掛かるドラキュラに目を奪われた。
クラヴァットをリボンのように結んだ白いシャツに金の装飾が施された黒マント、両手には白手袋と、十八世紀アメリカの中流階級を彷彿とさせる格好。
カラ松くんがああいう格好をしたらさぞかし似合うだろう。そう思って見つめていたら、何のことはない───カラ松くん本人だった。
「カラ松くん…っ!?」
「ユーリ!」
思わず名を呼んだら、ドラキュラはハッと顔を上げた。目が合って私を認識するなり、端正な顔にぱぁっと明るい笑みが広がる。
尊すぎない?うちの推し、可愛すぎない?
ひらひらとマントをたなびかせて、カラ松くんが駆け寄ってくる。
「仮装したの?ドラキュラすごく似合ってるね。一瞬、誰だか分からなかったよ」
「せっかくのハロウィンだしな」
目の下は暗いグレーのシャドウで塗り潰され、にこりと破顔した口からは鋭い牙が覗いた。本格的な仮装だ。
「イヤミの家を襲撃した帰りなんだ」
今年もやったのか。そういうとこだけ有言実行。
「ブラザーたちは質屋に向かった」
悪魔だ。
開いた口から飴が零れ落ちそうになって、慌てて手で棒を掴む。
「トリック・オア・トリート」
に、と八重歯みたいな牙を見せて。
「…えー、困ったなぁ、今は渡せるようなお菓子ないんだよね」
私は肩を竦めて、お手上げのポーズを取る。
「ああ、もちろん構わないさ。言ってみただけで──」
「だからさ、お菓子じゃなくて、一杯どう?」
くいっとグラスを口元へ運ぶ仕草をしてみせれば、カラ松くんは私に顔を近づけた。探るように細められた瞳がいつになく鋭いのは、冷たい印象をもたらすメイクのせいか。
「ドラキュラの好物は美しいレディの血だぜ、ハニー」
「仕事で疲れてるから、ドロドロで不味いよ」
「ユーリのだから所望しているんだ」
今日はやたら押しが強い。持ち前の演技力か、それとも自覚がないのか、判断がつかない。口説き文句を制する意味も込めて、私は人差し指をカラ松くんの唇に当てた。
「そういうこと言っちゃうんだ。可愛いね」
そう返せば、彼は途端に唇を尖らせる。僅かに覗く白い牙に、どうしようもないほどの愛嬌を感じて、私の心は自然と浮き立ってしまう。
「…可愛いじゃなくて、格好いいと言ってくれないか、ユーリ」
「不満?」
「不満、というか…」
カラ松くんは目を伏せて逡巡する。
「…ユーリに可愛いと言われて嬉しくなる自分が、ちょっとヤだ」
拗ねたみたいに眉根を寄せるが、声音からは一切の不快感を感じない。どちらというと、気恥ずかしさ、照れくささ、そんな感情が読み取れた。
そういうとこだぞ。
「あ、お菓子あった」
吐息から香る甘さに、自分が飴を片手に握っていることを思い出した。
「ん?」
「食べかけだけど、お菓子なら───って、いや、ごめん、そういう問題じゃなかった」
誤魔化すように私は苦笑する。相手がカラ松くんといえど、考えなしの発言には気を付けなければ。
しかしカラ松くんは目尻を赤くして、私の手元を凝視する。
「…貰っていいのか?」
「んんっ!?だってこれ、食べかけだよ」
「菓子がある、と言ったのはユーリだぞ」
直接的な言葉こそ発さないが、引く気がないらしいことは伝わってくる。万一私に拒絶された時に、冗談だよとかわす逃げ道だけは残して。
飴を差し出せば、カラ松くんは躊躇いもなく手に取った。それから私と飴を交互に見やり、困惑したように笑う。
「ひょっとして無自覚なのか、ハニー?」
「言ってから気付いた」
「そうだろうと思った…」
溜息を吐いて、黒のマントを翻す。街灯の明かりの下、漆黒の闇に溶けてしまいそうな、足元に伸びる影と同化しかねない儚さを伴って。目の前にいるこの人は誰だったか、確固たる事実さえ曖昧になるほどに。
「心臓に悪い」
「っていうか、食べるなら早く食べてよ。いらないなら返して」
奪い返そうとしたら、カラ松くんはさっと手を挙げて私の攻撃を避ける。無駄な回避能力の高さ、腹立つ。
「フッ、ハニーのブラッドの代わりにしてはスウィートすぎるが、ドラキュラに相応しい色だとは思わないか?
ハロウィンの仮装さえ本物さながらに着こなしてしまう…オレ!」
「自己陶酔はいいから!」
もう一度手を伸ばしたら、あっさりと手袋を装着した左手に絡め取られて、カラ松くんの顔が近づく。ダンスが踊れるくらい至近距離まで体が近づいて、いたずらっぽい眼差しと共に赤く色づいた飴が彼の口に収まる。
世の理に背く生きた屍に誘われて、幻想的な夢を見せられているかのようだ。足元が不安定で、眩暈がする。
「マイレディ、今宵は二人きりの宴に付き合っていただけるかな?」
日が昇る、その時まで。恭しい、わざとらしい言い回しだ。なりきっているつもりなのだろう。
「最初に誘ったのは、私の方だよ」
「はは、確かに」
「まぁいいや…私で良ければ、喜んで」
応じたら、ドラキュラの手袋が外されて、血色のいい手が差し出される。触れれば温かくて、ああ良かったこの人は生きているんだ、なんてつい思ってしまうほどには、世界観に溶け込んでいる。飴を咥えて言うような台詞ではないけれど。
「それにしても、この飴美味いな」
突然、何を思ったかカラ松くんは口から飴を抜いて、透明感のある赤い球体をじっと見つめた。
天然か。
間接キスどころではない、間接唾液交換的な行為が我々の間で交わされた現実が、私の頭を沸騰させる。思い出させるなと忌々しげに睨んだら、逆効果だったらしくカラ松くんも同じ認識に至り、ハッと目を剥いた。
「えっ、あ…いや、そういうつもりじゃ──なくて…ユーリ、これはその……えッ!?」
え、じゃねぇ。
その後自宅で私服に着替えた私は、ハロウィン柄のパッケージのお菓子をカラ松くんに手渡して言った。たまたま買い置きしていた中に、おあつらえ向きな物があったのだ。
「ハッピー・ハロウィン」
「……ハニー?」
「あれ、知らない?
トリック・オア・トリートって言われたら、この台詞と一緒にお菓子をあげるんだよ」
順番は逆になってしまったが、せっかくのハロウィンだ、お決まりの様式に倣おう。
「そうか…ハロウィンっぽいな」
「ハロウィンっぽいね」
顔を見合わせて、私たちは二人で笑う。共に過ごしたい本音を、ハロウィンだからという大義名分に隠して。
そうして平凡な人間の女と一晩限りのドラキュラは、月明かりに照らされたアスファルトを踏み鳴らし、夜の街へと消えていくのだ。