秋の夜長の肝試し

「無理だって!帰ろう、今すぐ帰ろう!
っていうか肝試しって夏が定番だし、秋の深夜に肝試しとか季節感ないし寒いし面倒なだけだよ。絶対楽しくないって!」
八人乗りのワンボックス内に、悲鳴に近い私の大声が響く。
しかし返ってくるのはことごとく私の意に反する、曖昧な宥めすかしや苦笑いばかりで、次第に無駄な抵抗であるという諦めが胸に広がっていった。


肝試しをしよう、突然そんな提案をしたのはおそ松くんだった。
週末の金曜日、安いチェーン店の居酒屋で、全員に程よく酔いが回った頃のことだ。たまには一風変わったイベントで心機一転、そんな今思えば最高に意味不明な理由付けで、常時暇を持て余したニートたちはもちろん、連勤終わりで気が緩んでいた私も彼の提案に賛同した。近所の墓地一周、という絶妙な緩さもまた、拒否感を抱かなかった理由の一つだ。

『人里離れた山奥の廃病院』が目的地と知っていたら、私は絶対に来なかった。

翌日の夜、イヤミさんから強奪した車のハンドルを握るのは、じゃんけんで負けたチョロ松くんである。時折カーナビに目を向けながら、目的地に近づくにつれて獣道とも呼べそうなほど荒れた道を、車体を揺らしながら前進させていく。
「往生際が悪いぞ、ハニー」
隣の席から私の抵抗を見ていたカラ松くんが、溜息と共に苦言を呈してくる。味方によるまさかの裏切り。
「カラ松くんまで…ッ。みんな乗り気だし、四面楚歌すぎる何これ!」
私は両手で頭を抱えた。車で山に入って半時間以上経っており、既に徒歩で帰れる距離ではない。車道には街灯もなく、明かりもなく下山するのは命を危機に晒すようなものだ。
「ははは、エイトシャットアウトだな」
私をフォローするどころか、あろうことか火に油を注いできやがった。反射的にカラ松くんの胸ぐらを掴み上げてメンチ切ると、ひゅ、と彼は息を飲んで目を瞠った。
「この場で抱くぞ」
「怖っ!」

当初は、墓地の周りを散歩するだけのはずだった。
しかしいざ車に乗り、トド松くんが肝試し人気スポットの話題を持ち出したところから歯車が狂い始める。赤塚区から車で一時間足らずの山奥に、廃墟マニアに人気の廃病院があることを知ったおそ松くんの目が輝き、急遽カーナビの行き先を変更。他の六つ子たちは遠出になることを多少面倒くさがりながらも、長男の意向に逆らわない姿勢を見せた。
そして冒頭の私の叫びに繋がる。私が言いたいのはアレだ、廃病院はアカン。
「こちとら一人暮らしなのに何でガチな所行かせようとするの!トラウマになったらどうしてくれる、鬼か!」
懲りずに怒鳴る私に対し、カラ松くんは人差し指を下唇に当ててから、ふむと声を出す。

「その時はオレが一緒に暮らす」

真顔で断言きた。
「養ってくれ」
「私に嫌な思いさせないモットーどこ行った」
もはやかわいこぶったり取り繕うのも面倒になって、私は舌打ちと共に吐き捨てる。
「肝試しに行くのはユーリもオーケーしただろう?」
「お寺の敷地内で管理されてる墓と、完全無法地帯の廃病院じゃ恐怖指数の桁が違う!
墓地は死者の亡骸の保管場所というだけで、命を失った場所そのものではない。無機質な墓石の列挙や、手入れの行き届かないものに関しては、見目の不気味さがあるだけだ。
病院は真逆だ。生命が失われた場所そのものであり、多くは余りある恐怖や後悔、耐え難い苦痛といった負の感情を抱き続けたまま亡くなったと推測される。病院で須らく幽霊目撃談が多いのも、地縛霊という言葉で納得できる。

「そっかぁ、ユーリちゃんお化け怖いんだね」
からからと明るい声で、助手席のトト子ちゃんが笑う。六つ子がダメ元で肝試しに誘ったところ、あっさり了承してやって来た。私がいるなら、ということらしい。
「いざという時はその辺のクソニート共餌食にして逃げればいいよ。六人もいるから一人くらい減っても平気平気☆
「さすがにそれは気が引けるような…」
「そう?六人から五人は誤差の範疇だよ
相変わらずトト子ちゃんは六つ子に手厳しい。
しかし後部座席では、一松くんや十四松くんがトト子ちゃんの吐く毒を恍惚の表情で聞き入っている。幸せそうで何よりだ。


私の抵抗も虚しく、車は目的地に到着する。
かつては広い駐車場であったらしい一面のアスファルトは、至るところに亀裂が入り、何年も手入れされていないことを物語っていた。割れた隙間からは雑草が生い茂り、不気味さを冗長している。
絶望に打ちひしがれながら車を降りると、にこやかなトド松くんに肩を叩かれた。
「ほら見て、ユーリちゃん。廃墟マニアっぽい人も来てるよ。今日来てるのはボクらだけじゃないみたい」
彼が指差す先に目を向ければ、白い軽自動車の傍らに立つニット帽を被った若い男女。あちらも私たちの存在に気が付いたようで、互いにばつが悪そうに会釈する。
この場にいるのが私たち八人だけじゃない、他人の存在という安堵が私の緊張を僅かに解した。




満月の空の下、朽ちた城の残骸は、異様な薄気味悪さをたたえて私たちを迎えた。
白い外壁は大半が剥がれ落ち、剥き出しの下地。入り口のガラスは無残に割れており、意図的に隙間を作らずとも侵入は容易かった。地面に散らばるガラス片を踏みしめて、私たちは玄関をくぐる。
「ぐるっと館内一周したら帰ろうぜ」
懐中電灯で行き先を照らしながら、おそ松くんが指先で鼻を擦る。
「どうせ何も出ないって。こういうのは雰囲気を楽しむもんなの」
壁掛けの館内案内図を頼りに、肝試しのルートを決める。朽ちかけたそれは、書かれた文字こそ解読できないものの、レイアウトを把握するには十分だった。
「ユーリちゃん顔色悪いよ。大丈夫?」
十四松くんが不安げに私の顔を覗き込んでくる。
「まぁ廃墟の雰囲気のせいかもしれないけど…何か変に冷えるっていうか、気持ち悪さはあるよね。無理そうならユーリちゃんは車で待ってなよ」
「それ一番最初に死ぬ被害者の行動パターン」
一松くんの気遣いは嬉しいが、集団から外れて単独行動する時点で完全に死亡フラグだ。
「この病院五階建てらしいけど、まさか全部回るつもりじゃないだろうな?」
「当たり前じゃん、チョロ松。一番出そうなのはやっぱ病棟だろ?──ってことで、四階の病棟コースね」
案内図によると、一階に総合受付、二階は各科外来、三階に手術室と幾つかの病室があり、その上は病棟という一般的な作りだ。
落胆してがっくりと落とした私の肩を、心配そうな表情を浮かべたカラ松くんが優しく触れる。
「ユーリ…」
「一番出そうなとこピンポイントで選ぶとか、鬼の所業すぎる…」
「でもおそ松はああ見えて結構なビビリだぞ」
「ビビリのくせに難易度ナイトメアのコース選ぶの?救いようがない」
「ああうん、それは何か…すまん」
謝るくらいなら長男止めろ。
「それと…さっきも言いすぎてすまない。ユーリがここまで怖がるのは想像してなくて、冗談かと思ったんだ。無理だと思ったらすぐ言ってくれ」
砂埃の舞う足元に視線を落としていた私は、その言葉に顔を上げた。八方塞がりの極限状態に一筋の光が差す。
「…うん、そうする」


懐中電灯は、六つ子の偶数組と長男が握る。割れた窓ガラスの隙間から差し込む月の光以外に明かりのない廃墟の中では、その人工的な明るさだけが頼りだった。
おそ松くんとチョロ松くんを先頭に、トド松くんとトト子ちゃん、その後ろに私とカラ松くんが続く。私たちから少し離れた後方からは、ハッスルハッスルと十四松くんの威勢のいい掛け声が聞こえてくる。
おそ松くんとトト子ちゃんが軽やかな談笑を交わす傍らで、私はカラ松くんの服の裾を強く握りしめながら無言で歩を進める。そしてそんな私を、カラ松くんは顔の筋肉を弛緩させてうっとりと見つめていた。
「やっぱり怖いか?」
優しい声音で問われる。
「怖いよ。今もそれなりだけど、知らないうちに何か連れて帰って、一人になった時に襲われたらとか考えると無理。むしろカラ松くんが何で平気なの?」
「怖がるユーリが可愛い」
愛しくてたまらないという、愛玩動物にでも向けるような眼差しで。
話を聞け。
「こういう庇護欲掻き立てる一面もあるんだな。正直、新鮮すぎて感動している。ハニーが可愛すぎてオレはどうすればいいんだ
カラ松くんは苦悶の表情で眉間に皺を寄せる。本気で言ってるならシバきたい。
私が下唇を噛んで苛立ちを隠さないでいると、カラ松くんは一層笑みを強くして両手を広げた。

「分かった、こうしよう。約束する。万一の時オレは、何があってもユーリを助ける」

「約束ったって…」
「幽霊だってオレが退治しよう」
胸を張って力強く断言される。
「霊能力でもあるの?」
「ない」
「ないのかよ」
真剣に聞いて損した。私が長い溜息を溢すと、カラ松くんはそれでも笑みを浮かべたまま続ける。

「でも言霊はあるんじゃないか?
『松野カラ松は、もし有栖川 ユーリが幽霊に襲われた時は、必ず助ける』──どうだ?」

言霊は、古から言葉に宿ると信じられてきた霊的な力だ。発した言葉を叶えるに相応しい結果をもたらすとされる呪力。一笑に付すには、あまりにも自信に満ちた声音に乗って。
「…期待してる」
「しててくれ。終わった後もまだ怖かったら、ボディガードとして雇ってくれればいい。ハニーの家は居心地がいいしな」
にかっと白い歯を覗かせる彼につられて、私も少しだけ笑った。
けれどあまり軽口を叩きすぎると、後ろの一松くんから叱責を食らいそうだ。そう思い不安げに背後を振り返って、私は絶句した。

一松くんと十四松くんの姿が───どこにもない。

「あれぇ、一松くんと十四松くんは?」
私の不穏に気付いたトト子ちゃんが、手をひさし代わりにして辺りを見回す。
「え、いないの?集団行動乱すなよなぁ、もう。あいつらのことだし、どうせ野良猫でも追っかけてんじゃないの?」
腰に手を当て、チョロ松くんはやれやれと首を振った。
彼らの身を案ずる声がないのは、四男と五男は自らの意思で輪を抜けたと、誰もがそう思っているからだ。私たちが通ってきた道には、漆黒の闇だけが広がっている。
「兄さんたちスマホ持ってないんだから、迷子になると困るんだよね。ボク、ちょっと見てくるよ」
「暇だし、トト子もついてったげる」
トド松くんとトト子ちゃんが踵を返して来た道を戻る。懐中電灯の光と、高らかなヒール音が徐々に遠ざかっていく。何やってるの、さっさと戻っておいで、そんな叱咤が飛ぶのを心待ちにしていた。
なのに──

彼らもまた、いつまで経っても戻ってはこなかった。


しん、と静まり返る廊下。
「…ヤバくない?」
恐る恐る発されたチョロ松くんの呟きに、私は戦慄する。
「ずっと二人を見ていたんだが、遠ざかったというよりは、光も音も突然消えたような感じだった…」
カラ松くんは二人が消えた方角を見据えたまま、彼の服を握る私の手首をそっと掴んだ。
「いやいや、分かってんだから、俺。どうせアレだろ、俺らが気を揉んで探しに行ったら驚かすパターンだろ?」
はははと乾いた声を上げるおそ松くんのこめかみから、一筋の冷や汗が流れる。
「迷子にしろ神隠しにしろ、これ以上は分散しない方が良さそうだな。ユーリちゃんも、いざという時はカラ松犠牲にしていいから気を付けて」
何気に、チョロ松くんの次男の扱いがひどい。
状況はまさに、前門の虎後門の狼である。進むにしろ戻るにしろ、私たちを待ち受けるのは得体のしれない恐怖だけだ。誰もが明言を避け、その場に立ち尽くす。

居心地の悪い静寂を破ったのは、雨音だった。
ぽつぽつと降り出した雨が一分も立たずに本降りになり、数多の滴が窓ガラスに叩きつけられる。雨粒は割れたガラスの隙間からも吹き込んで、私たちの足元を濡らす。
「ここにいても雨に濡れるだけだ。場所を変えよう」
カラ松くんが私の手を引いて、雨が吹き込む窓ガラスから遠ざける。それから彼は、おそ松くんとチョロ松くんが顔を見合わせて私たちから視線が外れた瞬間を見計らうように、空いているもう片方の手で私の頭をゆるりと撫でた。

「大丈夫だ。ユーリにはオレがいる」

目線はおそ松くんたちの方に向けたまま。
雨音は次第に激しさを増して、雨が窓を叩きつける音に、自分の足音さえ掻き消されてしまう。ガラスの向こうで瞬いた稲妻に、私は一層恐怖心を募らせた。
「ひとまず、どこかの部屋に入ろうか」
戸惑いがちなチョロ松くんの提案の直後、間近で大砲でも撃ったような大きな雷鳴が轟いた。
「わぁっ!」
「っ…ユーリ!?」
反射的にカラ松くんの胸に顔を埋めてしがみつく。
稲光から落雷までの間隔は短かった。近くに落ちたらしい。
「だ、大丈夫か…?」
私の両肩に、彼の手が触れた。服越しに伝わるカラ松くんの体温だけが、紙一重で私の正気を保たせている。
「───ッ!か…カラ松くん…っ」
しかしそれも長くは続かなかった。

彼のすぐ背後に立っていたはずのおそ松くんとチョロ松くんが、いなくなっていたのだ。

「おそ松…チョロ松…」
広い廊下と、診察室に続くドアがあるだけの直線。彼らから目を離したのは落雷の一瞬だった。仮に雲隠れするために遁走したのだとしても、気のそぞろな私はまだしも、冷静なカラ松くんが気付かないはずがない。
「これもう間違いなく霊障だよね?
十四松くんが分裂したり、花の精がいたり、女体化する薬がある世界だし、幽霊だけがいないなんて馬鹿げてる。むしろ隣人と言っても差し支えない。幽霊はお隣さん
「落ち着けハニー」
切迫した状況下にも関わらず、真顔でカラ松くんに諭される。




八人部隊は、ついにカラ松くんと二人だけになってしまう。
彼は私の手を引きながら、廊下のガラス窓のクレセント錠や診察室のドアを開けようと試みるが、接着剤で固定されているかのようにびくともしない。ドアやガラスに至っては、拳で叩いてみても鈍い反応があるばかりで、まるで分厚い板だ。
そして極めつけは、周りには人どころかネズミ一匹いないのに、何らかの気配を感じる気がする過酷な現状。
脳筋のパワーさえも封じてくる怪奇現象ハンパない。これでカラ松くんとはぐれたら泣くかも」
「悲観的になる必要はないぞ、ハニー。約束したじゃないか」
「でも、さすがに今回ばっかりは…」
口を開けば泣き言しか出てこない。
けれどカラ松くんは呆れるでもなく、悲観する私をどうにか救い上げようとする。
「心配性だな、ユーリは。オレが今までユーリとのプロミスを違えたことあるか?」
「ある」
えっ!?
…い、いやしかしだな、今回ユーリを巻き込んだ原因はオレにもあるから、今回は絶対だ──オレを信じてくれ」
臆することのない眼差しが、私を見つめる。
カラ松くんを信じるに値する根拠なんてない。でも、少なくとも私に対しては、どこまでも真摯に向かい合う人だ。
「…信じてるよ。だから絶対私の側から離れ──」
そう言った、刹那の出来事だった。

私の視界から、懐中電灯ごとカラ松くんが消えた。

瞬きをした一瞬で、懐中電灯と、手首に触れていた温もりごと。
「カラ、松…くん…?」
誰が冗談だと言ってくれ。重苦しい暗闇と静寂の中、私の呟きは震えていた。
「待て待て、これもう無理ゲーじゃん
詰んだ。
そして誰もいなくなったパターン?それ何てアガサ・クリスティ。
叩きつける雨音と、自分の手元さえ見えない漆黒。慌ててバッグの中からスマホを取り出し、ライトを点灯させる。明かりとしては心許ないが、ないよりはマシだ。
私は大きく深呼吸して、絶望の淵に向かってしまいそうな自分自身を律する。
なぜなら───

私を独りにするような真似、カラ松くんは絶対にしない。

約束したじゃないか。必ず助けてくれるって。絶対だ、って。私が信じなくてどうするのだ。
気力を奮い立たせ、仲間を探しに、そして出口を探すために奥へと進んだ。




スマホのライトを頼りに、私たちが足を踏み入れた入り口や一階の総合受付付近をくまなく捜索したが、カラ松くんたちの姿はやはり見当たらない。ドアというドアには頑丈なロックがかかっているし、人が通れるほどの隙間があったはずの入り口に至っては、水槽のような分厚いガラス貼りに姿を変えていた。当然私の力では、打ち破ることができない。
外は変わらず強い雨が降り続いている。
スマホの充電残量が心許ないが二階に上がるかと腕を組んだ時、どこからともなく泣き声が聞こえた。人の、子どもの声だ。
逸る気持ちを抑えながら、恐る恐る声のする方角へと向かう。

「誰かいるの…?」
ライトが照らす先にいたのは、床に座り込んで泣きじゃくる小学生低学年とおぼしき少年だった。七分袖のシャツとジーンズというラフな格好。
「ど、どうしたの!?こんな所で迷子…っ!?」
駆け寄れば、涙でぐしゃぐしゃになった顔が恐る恐るといった体で上がる。
「お母さんと…ここの病院に来たんだ。でもお母さん、いつの間にかいなくて…」
親子で深夜に肝試しとかDQNが過ぎる。
「ずっと一人で怖かった…」
「もう心配ないよ、これからはお姉ちゃんが一緒にいてあげるし、お母さん探そう。あ、私ユーリ、よろしくね」
彼もまた私たちと時を同じくして閉じ込められたらしい。廃病院入り口付近で若い男女を見かけたのを思い出す。彼らの子という可能性もある。
私は少年に手を差し出した。
「ここにいても仕方ないから、とにかく病院の中を探してみようよ」
彼は頷いて、私の手を取った。
薄手の上に雨で気温が低下したせいもあって、触れた手は冷たい。寒さで風邪をひかなければいいのだが。

「…一緒に、お母さんを探してくれるの?」
ハンカチで少年の頬を濡らす涙を拭ったら、まだ幼い顔が目を瞠った。
「もちろん。一人でいても怖いでしょ?
実を言うとも、お姉ちゃんもちょっと怖いんだ。でも…きっと何とかなると思う」
必ず助けてくれると、約束した人がいるから。
「見つかるまで、一緒にいてくれる?」
「うん」
「一人でいるのはすごく怖いんだ。だから約束して。お母さん見つけるまで僕といるって」
少年とまともに視線がぶつかった次の瞬間、視界がぐにゃりと歪む。頭の中に霧がかかったみたいに朦朧として、目も霞む。足元は不安定で、気を抜けば膝から崩れ落ちてしまいそうだ。
困っている子がいるのだ、助けるべき相手が眼前にいるのだと己を奮起させるが、一瞬でも力を抜けば意識を失ってしまいそうなほど、どうしようもなく頭が重い。
「…うん、約束す──」

「ユーリ!」

どこからともなく聞こえた呼び声に、ハッと我に返る。
睡魔が去ったみたいにクリアになる視界と、重りが消えて自由に動く体。突如眩しい明かりに照らされて、私は思わず目を閉じた。
何が起こったのか分からず頭を真っ白にさせていた私の体を、誰かが思いきり引き寄せる。抱きしめられたと気付くのは、少し経ってからだった。嗅ぎ慣れた匂いが鼻をくすぐると共に、目に映るのは──見慣れた、青。
「カラ松、くん…?」
「ユーリは駄目だ」
掻き抱くように私を腕に閉じ込め、彼は語気を強めて言い放つ。
「何を──」

「オレの大切な人なんだ…頼む」

カラ松くんは両手で私を抱いたまま、少年と対峙する。懐中電灯を向けられた少年は眩しさに顔を背けるでもなく、今にも泣き出しそうな顔でカラ松くんを見やった。
「…どうして邪魔をするの?」
少年の言葉に、私は耳を疑った。
「お姉ちゃんは、お母さんが見つかるまで一緒にいてくれるって言ったんだ。約束だ、って…」
「まだ約束したわけじゃない。ユーリは言い切ってない」
だから無効だ、とカラ松くんは言う。
「君の両親は、家にいるんだ。家で、ずっと君の帰りを待ってる。ここから出れたら、必ず連れて行ってやる。だから…ユーリには触れないでくれ」
話の展開に理解が追いつかないが、軽々しく口を挟める状況ではない。けれど冷静になって初めてようやく気付くことがあった。少年の足元に影がない、と。
彼は僅かに目を見開いた後、口元に小さな笑みを浮かべた。
「そっか…お母さんたち、家にいるんだね。最初から、帰れば良かったんだ───ごめんね、ユーリさん」
「君の家は…」
「覚えてるよ。一人で帰れる」
微笑む少年に、カラ松くんが懐中電灯を右手に持ち替え、左手をスッと差し伸べた。人差し指のゴールドのリングが、きらりと光を反射する。
少年がカラ松くんの手に触れると、足元から徐々に体が透け始め、やがてドライアイスのように跡形もなく姿が消えた。
結局、名を聞かないままいなくなってしまった。




幼い子どもの消滅を見届けてから、カラ松くんは私からゆっくりと手を離した。彼からはどことなく名残惜しそうな、離れがたいような空気を感じるから、妙に意識してしまう。これ幸いと尻でも触っておけば良かった。完全に機を逸した。しくった。
「遅くなってすまない、ユーリ」
「急に出てきたからビックリしたよ。どこにいたの?」
「ハニーと同じ、ここだ。廊下で急にハニーの姿が見えなくなってから、ずっと探してた。
しばらくして奥の方で何かが光ったと思ったら、ユーリが子どもの霊と一緒にいるのが見えたんだ。居ても経ってもいられなくて、手を伸ばしたら──」
同じ場所の、異なる次元にいたということなのか。
ということは、ひょっとしたら他のメンバーも同じように彷徨っているのかもしれない。
「そっか…無事で良かった」
私が胸を撫で下ろす仕草をすると、カラ松くんは首を横に振った。
「こんな時までオレの心配をしないでくれ。ハニーは連れて行かれる寸前だったんだぞ」
「本気で迷子だと思ったんだよ」
まだ幽霊と対峙した実感がない。夢を見ていた気がする。

「オレは生きた心地がしなかった。ユーリを失うなんて考えたくもない」

今は、彼の好意が素直に嬉しい。
自分自身冷静なつもりでいたが、本当は不安や恐怖に無理矢理蓋をしていただけなのだろう。カラ松くんに再会した安堵で、蓋は再び開いてしまった。

「あの子の親が家で待ってるなんて、よく知ってたね」
「ここに来る道中、車内でトッティがこの廃病院にまつわる噂や幽霊の目撃談を調べてたのを横で見てたんだ。その中に、あの子の写真があった」
噂ではなく、数年前に実際に起こった事故として。
先天性の疾患を抱える小学生の少年が、母親と病院へ向かう途中で車に撥ねられるという痛ましい事故だった。制止する母親を振り切って道路に飛び出したらしい。
病院へ向かう目的だけが残留思念として残り、病院が廃墟になった今でも母親が後追いでやって来るのを待っていた、つまりはそういうことか。
「カラ松くんの言葉で安心したんだね」
「えっ!?あ、いやー…」
「どうして遠目でも幽霊だって分かったの?」
率直な疑問を投げたら、急に彼の歯切れが悪くなる。
返事を待つために口を閉ざしていたら、カラ松くんは幾度か私をちらりと見やり、やがて居心地が悪そうに私から視線を外し、ぽつりと呟いた。
「実は…肝試しをするとデカパンに話したら、除霊効果があるゴーストバスターズリングの検証を頼まれた」
「ゴーストバスターズ」
あの軽快なテーマ曲が私の脳内で自動再生される。
「一回限りの消耗品だが、有名な霊能力者監修の物で、いざとなったらだいたいの霊は消せるからって」
胡散臭さハンパない。なのに効果あった、ムカつく。
「腑に落ちた。そのリングを持つ自分たちは安牌だったから意気揚々と来たわけか
どうりで誰も肝試しにノーと言わなかったはずだ。トト子ちゃんを誘ったのも、霊障に乗じてイチャつく機会を窺っていたのか。とんだ茶番だと、青筋立ててカラ松くんを睨みつける。
「す、すまん…どうせ何も出ないと思ってたんだ」
「そうだとしてもさ」

「それに、何があっても、ユーリのことを守るつもりだった。
信じてもらえないかもしれないが、もしデカパンのリングの効果がなかったら、その時は…いざとなったらオレが代わりに──」

「ストップ」
彼の胸元に手を伸ばして、私は続きを制する。
「カラ松くんを身代わりにするくらいなら、助けなんていらない。自己犠牲はいらないよ」
「ハニー…」
「何はともあれ、助けてくれてありがとう。カラ松くんが来てくれるまでの辛抱だと思ってたから、一人でも何とかなったよ」
結果的に、自分の身を危険に晒すことになってしまったが。
「ユーリが信じていてくれてたから、抜け出せたのかもしれないな。フッ、ハニーの信じる力の効果は絶大だ」

カラ松くんの言葉の威力だとばかり思っていたが、私自身もまた彼への信頼を口に出していた。一人になった時だって、信じて疑わなかった。
言霊というのは、本当にあるのかもしれない。




「あ、何だお前ら、そんなとこにいたの?」
捜索を再開してすぐに、おそ松くんたちとの合流を果たす。六人勢揃いで、やいのやいのと騒いでいる姿は、神隠しに遭ったのがつい先程だなんて信じられないくらい賑やかだ。
「ほんっと、みんな勝手にどっか行くんだから。探すの苦労したんだからね」
仁王立ちで頬を膨らませるトト子ちゃん。
「えー、ひどいよトト子ちゃん。一番最初にぼくら置いてどっか行っちゃったくせに」
十四松くんが唇を尖らせる。
「てか聞いてよ、ユーリちゃん。俺とチョロ松、マジもんの幽霊に遭遇しちゃった!」
「え、実はおれたちも」
「そうなの!?すごい高確率、ボクらもだよ」
嬉々として報告してくるおそ松くんの背中で、一松くんとトド松くんが挙手して続く。幽霊遭遇率高すぎる。
「俺たちの場合、ドアの開いてた病室で賭け狂いのアル中おっさんと麻雀して惨敗したら、気を良くしてついでに成仏したんだよな」
何て?
「いや、あれは納得いかない僕らがおっさんの肩揺すったせいだろ。デカパンのリングの効果」
「ボクらは白衣の執刀医っぽい人だったよ。手術ばっかりでソロプレイする暇もないってくらい欲求不満らしくて、でも襲いかかったトト子ちゃんにカウンター食らって失神って感じ?
とどめはボクが刺したけど、もしかしたら必要なかったかも」
トト子ちゃん、マジ逞しい。
「おれたちは女の子だったな、十四松?」
「うん!ずっと寝たきりで病院から出たことなくて、動物触ったことなかったんだって。一松兄さんが野良猫を呼んでモフモフ天国で成仏!」
女の子可愛かったよね、と顔を見合わせる四男と五男。お前らもうノーベル平和賞ものじゃねぇか、爆ぜろ。

「私だけガチで危機一髪だった!幽霊ガチャの差が激しすぎる!
「まあまあ、ハニー」
慟哭する私の背中を、宥めるようにカラ松くんが擦る。
「肝が試されたのは私だけってか、肝試しだけに?やかましいわ!」
「ユーリ、帰りに何か奢るから、いったん落ち着こう。な?」




無事に廃病院の外へ出る頃には、深夜二時のいわゆる丑三つ時を回っていた。
踏みしめる土は乾燥して固く、土砂降りの雨なんてなかったとばかりに輝く夜空の星空に、落雷さえも霊障だったのかと私たちは驚きを新たにする。
「そういえば、駐車場で会ったカップルは大丈夫だったのかな?一応探した方が…」
「あ」
私が彼らの無事を案ずると、トド松くんが何かを思い出したように突然声を上げた。
「若いカップルっていえば、本当かは分からないけど、変な噂がSNSにあったよ。この病院の屋上から、患者でもない若い男女が飛び降りて───」
トド松くんの説明が最後まで紡がれることはなかった。

どさり。
米俵くらいに重量感のある物体が、私たちのすぐ背後に落下した音がしたからだ。
それも、一つではなく──複数。

まるで人が落ちたようだと、頭の片隅にぼんやり浮かぶ感想。到着した当初に会釈を交わしたカップルの顔が──なぜだか、どうしても思い出せない。

「な、なぁ、トッティ…振り返って、何が落ちたか確認してくんない?」
前を向いたままおそ松くんが言う。
「ちょっ、何でボクが!?おそ松兄さんが見ればいいじゃん!」
「二人とも落ち着けよ。き、きっとアレだ…屋上のフェンスが腐って落ちたとか、そんなんだって」
「ははは、怖がりだなブラザーたちは。オレたちにはゴーストバスターズリングがあるじゃないか」
「全員使い切っただろうが!お前振り向いて確認しろクソ松」
「無理!」
辛辣なチョロ松くんに対し、カラ松くんは速攻で首を振る
「じゃあぼくが」
「すっこんでろ十四松。お前が出しゃばるとややこしくなる」
十四松くんと一松くんのお決まりのような掛け合いがあって。
誰もいないはずの背後から強い視線を感じ、私はぞくりとする。

「そういえばトト子聞いたことあるんだけど、今みたいに背中から気配を感じて、でも振り向いても誰もいないってことあるでしょ?
ああいう時って、背後じゃなくて頭の上にいるらしいよ
トト子ちゃんが笑顔で何気なく放った言葉が、全員にとっての引き金になった。

逃げたのだ、脱兎の勢いで。私たちは前方を凝視したまま一目散に駐車場へ走り、車に飛び乗った。
「飛ばせチョロ松!」
後部座席から手を伸ばしてバックミラーをへし折りながら、カラ松くんが叫ぶ。イヤミさんの車だから遠慮がない。
「誰だよ肝試しなんてしようって言った奴!ざっけんな!」
お前らだよ。
声を出しておそ松くんにツッコむ気力もなく、私は引き続きカラ松くんの服の裾を掴んで、一刻も早く明るい街中に戻れることだけを祈った。こいつらとの肝試しは二度と行くものか、そう誓いながら。


「落ちた二人、また病院の中に戻っていったよ」

無事街へ戻り、トト子ちゃんを自宅へ送り届けた時、ぽつりと彼女が溢した。ついてきてないから大丈夫、と朗らかに笑うトト子ちゃんは間違いなく今日のMVP。
しかし怖いことに変わりはないので、おそ松くんたちがオールで飲み明かすのに付き合うことにしたのだった。