雲ひとつない満天の星空の下や、月光が鏡面のように映り込む穏やかな波打ち際といった、いわゆる幻想的な情景に、憧れていないと言えば嘘になる。極彩色に彩られた世界の中で、きらびやかな衣装に身を包んで主役を演じられたら、さぞかし胸が弾むことだろう。
しかし所詮、自分には無縁だと思っていた。
砂糖菓子を頬張ったような甘美な時間を過ごすなんて、あり得ない、と──あの時までは。
「クルージングパーティ?」
「ユーリちゃんにも是非来てほしいんだじょ」
街中で偶然再会したミスターフラッグことハタ坊から、突然週末のパーティに誘われた。
箔押しの高級感漂う封筒を手渡され、中の招待状を広げてみれば、表れたのはこれまた上質なコットン紙にゴールド箔のカリグラフィ。結婚式の招待状さながらの、洗練された気品が漂う。
楷書体で印字された内容に目を走らせると、大型クルーズ船を一隻貸し切っての大規模な船上パーティとある。私は思わず目を瞠った。
「子会社や関連会社の従業員たちの親睦会だじょ。堅苦しいことはしないし、美味しい物たくさん用意するから、ユーリちゃんにも楽しんでほしいじょ」
子どものような口調で語るハタ坊は小柄で顔立ちも幼いが、都内の一等地に巨大な自社ビルを構えるほどのやり手の経営者である。頭の旗は刺さっているのか生えているのか、それだけが気がかりだ。
「お誘いは嬉しいけど、ハタ坊の仕事関係なんでしょ?私が参加してもいいの?」
ドレスコードの存在するクルージングパーティなんて敷居高すぎて吐きそう。気軽に参加するレベルを遥かに超えている。
「みんなも招待してるんだじょ。だから大丈夫なんだじょ」
みんなというのは、松野家六つ子たちのことを指しているのだろう。奴らは、配慮が必要ないと判じた他人には心臓に剛毛が生えた図々しさを発揮するから、緊張の緩和剤にはちょうどいいかもしれない。
予定のない週末、豪華な船上パーティ。抗いがたい誘惑に打ち勝てる材料を私は持たない。
「そっか、ありがと、ハタ坊。それじゃあ参加させてもらうね」
この承諾が、全ての始まりだった。
クルージングパーティ当日。
乗船場所である湾に停泊していたのは、数百人規模の乗船客を収容可能な、四階建て構造の大型レストランシップだった。ディナークルーズなどでよく見かけるタイプの、威風堂々とした豪華客船である。それを貸し切ってのパーティというのだから、フラッグコーポレーションの業績の良さが窺える。
乗船の受付を済ませてから、船内で不要な手荷物やコートをスタッフに預けてパーティ開始まで適当に時間を潰すことにする。
開始半時間前ということもあり、多くの参加者たちがロビーや会場で各々の時間を過ごしていた。彼らの堂々とした立ち居振る舞いに気後れしつつ、化粧直しをして装備を整える。
今日の装いは、ノースリーブのブルーの膝丈ドレスと、ブラックカラーパンプスのパーティ仕様だ。光の加減によって光沢感を感じさせる柔らかな生地で、胸元はカシュクールデザイン。スカートにはたっぷり生地が使われ、動くたびにひらひらとギャザーが揺れる。首元はピンクパールの三連ロングネットレスで彩り、高めのヒールで華やかさを一層強く印象づけるフル装備。
慣れない服装に早くも気疲れしつつ、化粧直しを終えてトイレを出た。
注意力が散漫になっていたせいで、角を曲がった瞬間に、真正面から人に衝突してしまう。
「…あっ、す、すみません!」
「いや、オレの方こそ───って、ユーリ!?」
聞き慣れた声だ。
顔を上げれば、驚愕を顔に貼り付けたカラ松くんがそこにいた。水色のスーツに身を包んで。
「どうしたんだ、ドレスなんか着て…というか、何でこんな所に!?」
ああ、と私は頬の筋肉を緩める。そういえばカラ松くんには、パーティに参加することを話し忘れていたっけ。
「ハタ坊に誘われたんだよ」
「ハニーもか?何だ、それならそうと言ってくれれば、今日だって迎えに行ったのに。水臭いぞ」
カラ松くんは不服そうに眉をひそめた。招待状を受け取ってから間がなく、その間に連絡を取っていなかったから、伝えそびれてしまったのだ。
「いや、そんなことはいい。何ていうか、ユーリ…その、ええと…」
けれど私が謝ろうとするのを遮るように、カラ松くんが切れ切れに言葉を発する。目尻が上気して、赤い。
「──綺麗だ、すごく」
囁くような声音だった。
「いつものユーリももちろん誰よりキュートなんだが、ドレスアップした姿は一段と華やかで輝いて見える」
うっとりと目を細めて。
「…あ、ありがと」
気障のバーゲンセールさながらの前フリなく饒舌に褒められて、思わず動揺してしまう。痛い要素喪失したらただのイケメンじゃないか、アイデンティティは大事にしろ。
「それにその色…オレを意識してくれたと自惚れてしまいそうだ」
ドレスのカラーを指しているのだろう。
「今日のパーティの主役と言われてもおかしくない。実にチャーミングだ。ハニーの隠しきれない魅力の前では、恋のキューピットが放つ矢もきっと効果を失ってしまう」
詩人が現れた。
まぁ、そんなことより──
「カラ松くんこそ、何でそんなにスーツが似合うの?」
「…オレ?」
「分かってたよ、間違いなく似合うっていうのは想像で十分察してた。なのにこうして目の前にしたら、予想を軽く凌駕するエロさ。ネクタイも緩めず上着のボタンも全部留めて、肌の露出が一切ないストイックさがむしろ官能的だよね。泣かせながら乱したい」
これは逆転の発想だ。着崩したスタイルがベーシックだからこそ、相反する誠実さを全面に押し出されるとギャップ萌えの境地に至る。
「ちょっ、あ、あの…ユーリ?」
「似合いすぎてビックリしてる。私のドレスとかどうでもいいから、スーツ堪能させて」
推しのスーツ姿を見れただけでも、今日のパーティに参加した甲斐がある。
しかし様々な角度から舐め回すように凝視していたら、突然肩を掴まれて中断を余儀なくされた。
「は、ハニー…ここは人目もあるから、そういうのはまた後にしてくれないか?」
拒絶ではない提案が、戸惑いがちに紡がれる。彼にとっては最大限の譲歩だ。冷静さを取り戻して辺りを見回すと、ロビーに佇む参加者たちからの好奇の視線が突き刺さって、私は慌ててカラ松くんの手を取り足早にその場を後にした。
「お、ユーリちゃんじゃん!てか何そのドレス、すっげー可愛いんだけど!」
六つ子たちと合流を果たすや否や、おそ松くんから直球でお褒めの言葉を頂いた。こういう時の彼のストレートな物言いは、好ましく感じる。
「うんっ、今日のユーリちゃん、めちゃくちゃ可愛い!」
「メイクもいつもと違うよね。ドレスも大人っぽいし、大人の女性って感じ。似合うね~」
十四松くんとトド松くんに両サイドを囲まれて、嬉しいやら気恥ずかしいやら。肩を竦めて浮かべた笑みは、少々ぎこちないものになってしまった。
「みんな、そろそろ始まるみたいだよ」
背中を丸めた一松くんが会場を一瞥して、ぽつりと溢す。ロビーにたむろしていた参加者たちも、ぞろぞろと列をなして会場へと向かう。
「お前ら、パーティの礼儀はもちろん分かってるよな?」
腰に手を当てたチョロ松くんが、兄弟をぐるりと見回して言い聞かせるように言う。
「開始直後が勝負だ。高級食材から手をつけろ、旨い酒はボトルごと確保して兄弟間で消費しろ──以上!」
ドクズがいる。
そして真顔で敬礼する松野家のチームデビル。仲間だと思われたくない、逃げたい。
会場内では、ドアから最も奥まった場所にステージがあり、部屋の中央にはビュッフェ形式の豪華な料理が並んでいる。料理を囲むようにしてクロスで覆われた丸テーブルとイスが各地に配置され、華やかな装花とシルバーのカラトリーが会場を美しく装う。ステージ上部に掲げられた懇親会の垂れ幕がなければ、披露宴会場といっても通用する絢爛さだ。
「今日は、集まってくれてありがとうなんだじょー。みんな楽しんでほしいんだじょー」
ハタ坊の乾杯の音頭を皮切りに、クルージングパーティは幕を開けた。
グラスを掲げる乾杯もそこそこに、一目散に料理テーブルに駆けつけ、料理と酒に手をつける六つ子たち。トド松くんは持ち前のコミュ力を生かして同世代と思わしき女性と意気投合、おそ松くんとチョロ松くんはトト子ちゃんやチビ太さんと合流し、一松くんと十四松くんは一心不乱にビュッフェを貪る。
この懇親会を機に関連会社間の交流を深め、人脈を広げておこうとするビジネスマンたちとは対称的な、異質な存在。
「情けないブラザーたちめ。紳士たるもの、パーティでは常に優雅な立ち居振る舞いでなくてはな」
私の隣で悩ましげに首を振って、前髪を掻き上げるカラ松くん。
「料理山盛りの皿片手に言う台詞じゃないよね」
しかもローストビーフや唐揚げといった、肉ばかりだ。扇状に盛り付けられた薄切りローストビーフを端から端までトングで掻っ攫った時は、全力で他人のフリをした。
「ノープロブレムだ、ハニー。全部食べるぞ」
そういう問題じゃない。
まぁ、ある意味予想通りではあるのだ。格式の高い場でも彼らは通常運行に違いないと踏んでいたから、落胆も失望もなくむしろ清々しいくらいなのだが、期待を裏切ってほしい願望も僅かにあった。
「いいじゃないか。オレたちはパーティを楽しむのが目的で来たんだ」
「そうなんだけど…フラッグコーポレーション関連の人たちと顔見知りになっておけば、いつか仕事でプラスになるかも、とかはやっぱ考えちゃうんだよね」
業種問わず事業拡大をしているから、将来的に仕入先や得意先になり得るのではと、取らぬ狸の皮算用だ。
意識を完全に切り替えられなくて、他の参加者たちを羨望の眼差しで見ていたら、突然カラ松くんの顔が視界いっぱいに飛び込んでくる。
「ユーリ」
「わっ、ビックリした」
「仕事絡みとはいえ、そんな情熱的な眼差しを他の男たちに向けないでくれないか?」
馬鹿を言うなとかぶりを振ろうとしたら、カラ松くんは目線を落として続けた。
「…妬けるだろ」
私は瞠目する。
他の参加者たちの会話に掻き消されてしまうくらい、小さな声だった。独白のつもりだったのかもしれない。けれど、私の耳に届いてしまった。
確かに、スーツ姿の推しを視姦しまくれる絶好の機会を蔑ろにしてまで優先すべき事柄でもない。推しこそが至高。私が間違っていた。
「そうだね。せっかくのパーティ、楽しまなきゃね」
「しかし、もしハニーがここで人脈を広げたいと言うなら、マネージャーとしてオレも同行する。一人で行くのは危険だ」
たまに次男が度を越して過保護になるのはどうにかならないものか。私は辟易して溜息をついた。
「ちょっと飲み物を取ってくる。ハニーも何か飲むか?」
山盛りの料理をぺろりと平らげたカラ松くんが、不意に私に向き直る。
「ありがとう。何かソフトドリンク貰おうかな」
「分かった。すぐ戻る」
だからそこから動かないでくれよと釘を刺される。過剰なガードは今だ継続中。
しかし、私と離れた直後に事件は起きた。
ドリンクをトレイに載せて運ぶボーイを呼び止めようとカラ松くんが手を上げた刹那、彼の隣を横切ろうとした女性が体勢を崩して衝突。手にしていた赤ワインが、水色のスーツを赤く染め上げる。
唖然として固まるカラ松くんと、萎縮して何度も頭を下げる若い女性。慌ててハンカチで拭きながら、衣装室があるからそこで着替えをと促している声が、かろうじて聞こえてくる。
「おや、奇遇だスな、ユーリちゃん」
「久しぶりだよーん」
カラ松くんに合図を送ろうと口を開きかけたところで、背中に声がかかった。反射的に振り返れば、デカパン博士とダヨーンだ。
「ああ、こんにちは」
「ユーリちゃんは一人で来たんだスか?」
「六つ子は一緒じゃないのかよーん?」
「おそ松くんたちはその辺に散らばって自由にやってるよ。私はここでカラ松くんと──」
そう言って背後を向いた時、カラ松くんの姿は会場から消えていた。
席に戻ってしばらく帰りを待ったが、カラ松くんが戻るよりも先に、余興の開始時間となった。
ステージに立つ司会者からゲームの趣旨を告げられて、大勢の参加者の中から無作為に選ばれた男女そぞれ三十名がステージ前に集合する。選出メンバーには私も含まれていて、女性陣は進行役のスタッフから、ピンクのハート型南京錠を手渡された。男性たちがそれぞれ握るのは、親指サイズの小さな鍵だ。
「それでは、ドキドキ☆南京錠鍵開けゲームを開始します!」
ルールは至極簡単、南京錠をいち早く解錠できた男女ペアが勝利というわけだ。勝利条件説明の時点では恥じらう様子を見せる参加者たちだったが、上位三位までには豪華賞品が贈呈されると聞いて、途端に色めき立つ。メンバーを見回せば、六つ子からはチョロ松くんと一松くんが参戦らしい。
「ユーリちゃん、お願い!」
開始の合図と共に二人が一斉に駆けてきて、私の持つ南京錠に鍵を差し込んむが、生憎どちらも合わず、揃ってがっくりと項垂れる。
「クソがっ!初見の女の人に自分から声かけられりゃ、この歳で童貞やってねぇよ!」
一松くんが鬼の形相で咆哮した。確かに。
しかし景品狙いのためか相手の方から積極的な誘いがあって、慌てふためきながらも三男と四男は健闘する。安堵したところで、私も動くことにした。
「すみません、お願いしていいですか?」
一歩踏み出したその時、二十代とおぼしき男性から声をかけられる。
「はい、もちろんです」
手始めの相手にはちょうどいい。そう思いながら差し出した南京錠に鍵が差し込まれた、その瞬間。
カチャリと──ツルが、外れた。
「…え」
「あ、開きましたね」
顔を綻ばせた男性は片手を高く挙げて、スタッフに終了の合図を送った。既に上位二組が嬉々とした顔で壇上に上がっている。私たちは、かろうじて三位に駆け込めたようだ。
「三位、テーマパークのペアチケットらしいですよ。あそこ、最近新しいエリアができたから、当たってラッキーですね」
景品の入った封筒を受け取ってステージを下りる際に、にこりと微笑まれる。無造作感のあるマッシュショートの髪型と、口元から覗く八重歯に愛嬌のある爽やかな笑顔。イケメンの部類に入る、いわゆる一軍の人だ。
「どちらに勤務されてます?
うちの会社で君みたいに可愛い子がいたら、覚えてないはずないんだけどな」
息を吐くように好感度上げてくる、さすが一軍。
「私はハタ坊の…じゃなくて、ミスターフラッグの友達です。このパーティも、街中でたまたま会った時に誘われたんですよ」
「えっ、友達!?すごいなぁ──ああ、申し遅れました、もし良ければ名刺交換させて貰ってもいいですか?」
彼は胸ポケットから名刺入れを取り出す。その姿は様になっていて、これまでに数多くの異性を虜にしてきた輝かしい戦歴を彷彿とさせた。
「すみません、仕事じゃないから名刺持ってきてなくて…」
「あ、そうなんですね。じゃあこうして会えたのも何かの縁ですし、一杯飲みません?」
「ええと、それは──」
私は目を伏せて尻込みする。むかっ腹を立てるカラ松くんの姿がありありと脳裏に思い描かれたからだ。
とはいえ、大勢の目がある会場内で、酒を一杯付き合う程度で問題が起きようはずもない。カラ松くんもまだ戻らない。
「…まぁ、一杯だけなら」
「良かった。断られるんじゃないかって、実はちょっと緊張したんですよ」
大袈裟に胸を撫で下ろすポーズが、カラ松くんと重なった。
会場の一角に、カクテルコーナーが設置されている。
テーブルや背後の棚には英語表記のボトルが並び、何人かのバーテンダーが客の注文に合わせて軽やかにシェイカーを振る。
「美味しいカクテルがあるんですよ。持っていくので、そこで待っててもらっていいですか?」
彼が示した指先を目で追うと、カクテルコーナーの傍らに壁に向かって設置された、カウンターテーブルと数脚のハイスツール。
言われた通りに座って待っていたら、しばらくして細長く背の高いグラスが私の前にそっと置かれる。
「お待たせしました」
グラスに注がれているのは、スライスレモンが添えられた琥珀色の液体。
「これは…」
「紅茶が一滴も入ってないのに紅茶みたいな味がする、不思議なカクテルです。飲みやすいから、グイッといってください」
色合いは確かに、コーラやアイスティーのそれによく似ている。
「へぇ、そんなの初めて聞きました。ありがとうございます」
「それじゃあ、三位入賞に乾杯」
ロックグラスをぶら下げるように揺らしながら、彼は微笑んだ。レモンの爽やかな香りに惹かれて、私もグラスに口をつけたようとした───その時。
横から伸びた無骨な手が、私のグラスを奪った。
声にならない驚嘆と共に顔を上げたら、鋭い眼光を男性に向けるカラ松くんが、そこにいた。私には目もくれず、これ以上ない嫌悪を込めた双眸が真っ直ぐに相手を捉えている。
私が驚いたのは、カラ松くんの出現はもちろんだが、それ以上に彼の出で立ちに対してもだった。特別に仕立てられたような、上品なネイビースーツ。スーツと同系色のネクタイが、中の白シャツを一層際立てる。ストイックさレベルアップで最高にエロい。
「ロングアイランドアイスティーか。確かに飲みやすい。ただ──」
「カラ松くん…?」
グラスを鼻先に近づけて、彼は忌々しげにハッと嘲笑する。
「四大スピリッツ全て入ったアルコール度数二十五度前後、通称レディキラーと呼ばれるものを、オレの連れに飲ませてどうするつもりだ?」
え、と声を上げて私は思わず手を引っ込めた。反射的に爽やかイケメンに目を向けると、バツが悪そうな顔で私から視線を逸らす。
「軽々しく手を出せると思うなよ」
カラ松くんは音も立てずにグラスをテーブルに戻し、表情はそのままにもう一度口を開いた。
「もう一度言う、ユーリはオレの連れだ。お引き取り願おう」
凄みのある眼力だけでイケメンを追い払った後、無言のカラ松くんからノンアルコールのブルーハワイを手渡される。透明感のある青が、グラスの中で氷と踊る。まるで所有権を主張されてるみたいな色だ。雄みの強い推しも好物です。
カラ松くんは眉間に濃い皺を刻んだままテーブルの上で組んだ手に視線を落とし、私に見向きもしない。気不味い雰囲気だけが流れていく。
「イライラしてる?」
私が訊けば、カラ松くんは気怠げに頬杖をつく。
「…少し」
「私、対応不味かった?だとしたら、ごめん」
相手を軽く見ていた。百戦錬磨の一軍を、適当にあしらえると軽んじたのは失策だった。最初から手の内で踊らさせていて、挙げ句に間一髪だったのだから笑えない。
「ハニーに対してじゃない、さっきの男に対してだ」
いつになく声は低い。
「体の良いナンパだよ。たまたま相手が私だったってだけで」
「だから何だ?誠心誠意アプローチされたら靡いていたとでもいうのか?」
ブルーハワイを口にする私の手が止まる。カラ松くんからそんな発言が飛び出してくるとは予想だにしていなかったから。
「そんなことない。カラ松くんが来なくても、私は断ってた」
「あの酒を飲んで?」
「それは…」
二の句が継げない。
「控室にはベッドもある、鍵だって掛かる」
「あ…」
そこまで言われてようやく、カラ松くんの懸念が嫌というほど理解できた。
「…うん、そうだね。人が大勢いるパーティだからって油断して、危機感足りなかった──ごめんね、ありがとう」
私が頭を下げると、カラ松くんはようやく私に目を向けた。唖然と、目を見開いて。
「…すまん。ユーリに万が一のことがあったらと思ったら、我慢できなかった」
自身の髪に指を差し入れて、苛立ちを紛らわすようにくしゃくしゃと掻き回す。
仕立てのいいスーツが似合いすぎているせいで、どんな仕草もいちいち様になる。クルージングパーティという特別な雰囲気も加味されて、白昼夢を見ているような気さえした。
「ねぇ、それよりさ、テーマパークのペアチケット当たったんだよ」
私はバッグから封筒を取り出してみせる。
「カラ松くん、一緒に行こう!」
「──ッ」
カラ松くんは僅かに赤面して、それから溜息をつく。
「…ハニーには、さっきの男みたいな下心はないんだよな?」
探るような目で、私の口元を見る。
「あわよくば一夜のアバンチュール的な?うん、ない。推しが楽しむのを見たいだけ」
「それは…下心に入るんだろうか」
安堵と落胆が入り混じったみたいな複雑そうな顔で、カラ松くんは唸る。
「え、抱いてほしいの?ありがとうございます、喜んで」
「何でそうなる!ほしくない!」
即答かよ。少しは悩め。
幾つかの余興を経て、パーティも中盤を過ぎる。
次のゲームが始まるまでの時間に、松野家六つ子と私はハタ坊に呼ばれ、各国から取り寄せたという珍しい食材に舌鼓を打っていた。しかしすでにブュッフェである程度腹が膨れていた私は、真っ先に戦線離脱。
そっと会場を抜け出して、人気のないオーブンデッキへと出た。海風は冷たく、ストールを羽織っていても少し肌寒い。
目線を上げると、黒い夜空を背景に美しくライトアップされた東京ゲートブリッジが視界に飛び込んできた。人工的な創造物による、計算された幻想だ。
「酔ったのか?」
それが自分に投げられた言葉だと分かったのは、聞き慣れた声だったから。
「ずっと賑やかな場所にいたから、気分転換。カラ松くんは?」
振り返ると、彼はすぐ近くにいた。東京湾の夜景を背負って、きらきらと輝いている。視界に映るカラ松くんの姿は、スローモーションのように緩やかな速度で、私の脳内に映像として認識されていく。
「フッ、愚問だぜハニー。オレは夜の青い蝶に魅せられたミツバチさ」
「何それ」
「ユーリが外に出るのが見えたから、追いかけてきた」
何でもないことのように、彼は告げる。
「こんなにロマンチックなシチュエーションなのに、人が多くて二人きりになるチャンスがなかっただろ?
タイミングを見計らってユーリを誘おうかと思ってたんだが…その…何て誘えばスマートなのか分からなくて」
手すりに背中を預けて、カラ松くんは苦笑する。ああ、この人は、自覚がないのか。私はくすりと笑う。
「今の登場の仕方はドラマみたいで、かなりスマートだったよ」
「そ、そうなのか?待ち構えてたみたいで、オレとしては微妙なんだが…」
「そんなことない」
私は首を横に振る。
「一層そのスーツを脱がせたくなった」
「最高のスマイルで何を言ってるんだ」
包み隠さず本音を語っているのに、ツッコミが入ってしまう。
「なぁハニー、一つだけオレのわがままを聞いてもらえないか?」
僅かな逡巡の後、カラ松くんは突然そんな言葉を口にした。
「わがままって?」
内容によるかなと思いながら訊けば、大したことじゃないと彼は呟く。
「パーティが終わるまで、オレにユーリをエスコートさせてほしい」
かつて何度か向けられた台詞だった。異性の多い場所で、万一にも私に危険が及ばないように配慮するために、カラ松くんはその表現を使う。
何だか、まるでシンデレラだ。宴が終われば、魔法は解ける。エスコート役を買って出た王子も、灰かぶり姫の手を離してしまう。
「パーティが終わったら、夜も遅いよ」
「…え?」
「女の一人歩きは危険じゃないかな?優秀なガードマンがいてくれると助かるんだけど」
こういうのを駆け引きというのだろうか。
しかしカラ松くんは子どものように相好を崩して、自身の首に手を当てた。
「…はは、ユーリは本当にギルティなレディだ。そうやって愛らしいテンプテーションをかけるのは、オレに対してだけだよな?」
「そういうこと言うの、野暮だと思うな」
カラ松くんの傍らに並んで、正面から彼を見据える。街を彩るビルの明かりやイルミネーションによる輝きが、カラ松くんの双眸で反射する。綺麗な瞳だなと、月並みの感想が浮かんでは消えた。
「ああ、そうだな…すまん…今宵のハニーがあんまり綺麗で、調子が狂う」
不意に、沈黙が降りてくる。静寂は時に、終止符を打つ合図にもなり得るのだけれど、まだ会場に戻るには早すぎる。
「ねぇ、カラ松くんがスーツ着てるの、後で堪能していいって言ったよね?」
「え?ああ…うん。そういえば言ったな、そんなこと」
気まずそうにカラ松くんは口を押さえる。彼にとっては逃げ口上だったのだろうが、スーツ萌えに対する執着心を甘く見るなよ。
「ええと…オレは、どうすればいい?」
抵抗する素振りは見せても、最後は私を甘やかす。松野カラ松という男は、そういう人だ。
「──もう少し、ここにいようよ。夜の海がロマンチックだよ」
私の意図を察してか否か、溶けたバターみたいに蕩けた瞳を細めて、カラ松くんは私に寄り添う。肩と腕が、布越しに触れ合った。
甘い睦言も、狂おしい抱擁も、濃密な口づけも、必要ない。黙って側にいてくれれば、今は──それだけでいい。
程よく酒も入った宴の終盤、元々女性客の割合が少ない──若ければ若いほど特に──こともあって、一人になるタイミングで異性から声をかけられることがあった。
純粋に交流という意味合いの声掛けも、きっとあったと思う。複数人の塊よりも、個人の方が声がかけやすいのは、経験上私も理解している。
ただそういった類の方々も、松野家次男がモンペぶりを発揮して追い払ってしまい、本当に申し訳ない。そして浮ついた目的の相手には、カラ松くんの冷めた一瞥と、「彼氏と来ているので」の断り文句が効果てきめんだった。
「うーむ、ユーリが麗しいのは自明の理だとしても、こう何人も気安く来られるとフラストレーションが溜まるな…オレの」
自明の理とか、難しい言い回し使ってきおった。
場所柄と催事の内容を鑑みるに、声掛けの一つや二つあって不思議ではないことが童貞には分からんのですよ。
その上──
「イミテーションでも、薬指にリングがあれば抑止力にはなるよな」
名案とばかりに手を打って、衣装室へと指輪を探しに行こうとするカラ松くんを、私は全力で引き止めた。こんな所で指輪をはめられたら、ロマンチック成分摂取過多で致死量に至る。止めろ、一般人の許容量を考えろ。
ロマンチックに憧れるなぁなんて、冒頭で軽率なこと思ってすいませんでした。