ニートと社会人それぞれの時間

このお話は、不本意な出会いと再会に関連する内容が随所に含まれています。





「一瞬で、世界が姿を変えた」

ユーリを強く意識するきっかけになったのは、街中で再び彼女と会った時だった。
瞬きをした直後にユーリの姿を脳が認識した、その僅かな時間があれば十分だった。心を奪われるのは、本当に一瞬だ。
けれど今思えば、時限爆弾が仕掛けられていたような気もする。
カフェで本を読むユーリを知覚して、可愛い子だとぼんやり思った。本を読むために伏せがちな瞳と、形の良い唇から目を離せなくなった。ときどき見せる気の緩んだ表情にさえ、愛嬌を感じたのを覚えている。
数多の女性がカラ松の視界を通り過ぎた中で、ユーリだけが脳裏に焼き付いて離れなかった理由は、実は今もよく分からないのだけれど。
財布を落としたと声を掛けられた時は、一年分の運と引き換えに手に入れた幸運だと真剣に思ったものだ。
初めて言葉を交わした際に胸に広がった感情の名を、この時のカラ松はまだ知らなかった。答えを知りたいと願い、精一杯気取って、どうにか接点を作ろうと足掻こうとした矢先に、ユーリは風のように去ってしまう。
その時はまだ、運がなかったと容易く諦めがついた。導火線に火はついていたが、火薬にまでは辿り着いていなかったのだろう。

カラ松の世界がユーリを中心に回り始めたのは、それから僅か数日後のことである。背景と化した群衆に紛れて、髪を靡かせながらユーリが横切ったのを目で捉えた、その瞬間からだ。
世界が姿と色を変えた──一切の誇張なく、そう思った。

「ハニーと出会ってから、もうずいぶん経つんだな。
横断歩道で再会した時のことを覚えているか?あの時、ハニーをハニーとして認識するのは、一秒もかからなかったんじゃないかと思う」
白い湯気が立ち上るカップを片手で持ち上げ、カラ松くんは遠い目をする。
買い物帰りに、たまたま私たちが出会うきっかけとなったカフェに立ち寄ったことで、話題は自然と二人の出会いに関するものに移った。
「私は気付かなかったんだよね。カラ松くんサングラスしてなかったし、服装も全然違ったから」
強いて言えば、再会時の印象は薄かった。それが今や笑顔ひとつで軽く息の根を止めてくる━━被害者は十割私だが━━推しへと進化しているのだから、人生何が起きるか分からないものである。
「個体として認識できない群衆が行き交う交差点で二人が再び巡り合う…まるでドラマみたいだと思わないか───なぁ、レディ」
わざとらしく目を細め、カラ松くんはほくそ笑んだ。初めて出会った時に私を呼んだ、懐かしい呼び名と共に。
「あんな一瞬でよく気付いたなぁ、っていうのが正直な感想かな」
「相手がユーリなんだから当たり前だろ」
つまらないことを問うなとばかりにカラ松くんは鼻白んだが、やがて戸惑いがちに指先で鼻を掻いた。

「…今度こそ、必ず会える約束を取り付けたかったんだ」

核爆弾落ちてきた。
「…今だから言うが、ユーリを呼び捨てするのだって、本当はすごく緊張したんだぞ」
「ん、んんッ!?」
私は眉間に皺を寄せて、大きく咳払いする。日常会話にぶち込まれた会心の一撃で私は早くも瀕死だ。今日も推しが可愛さの限界値を更新してくる。
「ああいう誘いをするは初めてで、正直スマートだった自信はない。でもユーリの前で自然体でいられたのも本当で…あの時、勇気を出して良かった。
おかげで、今もこうしてハニーと会えてる」
情熱的な眼差しが向けられる。
「人生何が起こるか分からないもんだね」
時に人は、個々に定番化された行動パターンの範疇を超え、物語の進行方向を大きく変える。舵を取るのは他の誰でもない、いつだって自分自身だ。
「ユーリとは生活圏が被るから、頻繁に街を歩いていればいつかは出会える可能性は高かったんだろうが…再会は早ければ早いほどいい」
「そうなの?」
「会うのが遅くなるほど、ユーリと二人で作るメモリーが減るだろ?
一つだって、逃したくないんだ」
例えそれがほんの一瞬のことだとしても、と。
また会ってくれないか。赤く染まった顔で振り絞られた懇願が、不意に脳裏に蘇った。
「そのうち記憶が薄れて、気付かなくなる可能性もあるね」
「それはない」
間髪入れずに否定されてしまい、私は肩を竦める。
「自信満々だなぁ」

「他のガールズ相手ならともかく、ユーリのことだからな。
どれだけ時間が経っても、ユーリがオレを覚えてなくても、きっと声をかけたはずだ」

独白のような呟きだったが、芯の通った力強ささえ感じられて、咄嗟に気の利いた反応ができなかった。
言葉を探していたら、カラ松くんは私が呆れていると勘違いしたらしく、口をへの字にしてテーブルの上で頬杖をつく。
「…信じてないな、ハニー?」
「えっ、ごめん、違う違う。私とは今かなり自然に一緒にいられてて、そういう軽口も言えるってことは、慣れてくれたのかなって思って」
誤魔化すように笑えば、カラ松くんは双眸を輝かせながら大袈裟な手振りで前髪を掻き上げた。
「フッ、夜空を彩るスターであるハニーを華麗にアテンドできるのは、ガイア広しと言えどオレくらいなものだ」
さよか。
下手に否定すればより面倒な展開になるので、私は苦笑するに留める。
「──と言いたいところだが、まだ慣れたとは言い難い。今だって、少し緊張してる」
心なしか音量が下がって、微かに頬を染めた顔でカラ松くんは私から視線を外した。
「嘘だぁ」
「嘘じゃない」

ほら、と。
テーブルに置いていた私の右腕が突然掴まれて、引き寄せられるまま手のひらがカラ松くんの胸に触れた。
「……え」
胸の鼓動が、布越しにダイレクトに伝わってくる。
「な?言った通りだろ?」
首を傾げて、同意を求めるその表情は、さながら頭を撫でられるのを待つ犬のようだ。
松野家次男による天然タラシ発動。
これ揉んでいいの?遠慮なく鷲掴みにしていいやつ?

これが世間でいうところの誘い受けってヤツかと鼻息を荒くしたところで、私は手を離さざるを得なくなる。私が手を動かすより先に、カラ松くんが自分の大胆さに気付いてしまったからだ。チッ。




「たった十分でも、見逃せない」

郊外へ出掛けた帰りの道中で、半時間ほど電車に乗ることになった。幸い座席を確保できて、私とカラ松くんは並んで座る。窓の外は鮮やかなオレンジ色に染まり、太陽は水平線の彼方へと沈もうとしていた。
席に腰を下ろして数分が経った頃、カラ松くんが船を漕ぎ始める。ゆらゆらと頭が前後に揺れ、一段と下がったところで弾かれたように顔を上げる動作を、何度か繰り返す。
「カラ松くん、眠そうだね」
口元に手を当てて、私はくすりと笑った。彼を襲う眠気の原因は、待ち合わせ場所にやって来て早々に聞かされた。六つ子による『翌日デートに出掛ける次男を眠らせてたまるか大作戦』なるものが決行され、明け方まで麻雀に付き合わされたのだそうだ。中学生か。
出掛けている最中は、程よい緊張感や移動もあって覚醒していたが、電車の不規則な揺れは寝不足でない者の眠気をも誘う、抗い難い誘惑である。
「す、すまん、ユーリ…退屈とか疲れてるとか、そういうのじゃないんだが…」
「寝てていいよ」
「え?」
「電車で寝るのって気持ちいいもんね」
分かるよ、と私は感慨深げに首を縦に振る。
「しかし…」
「大丈夫、着いたら起こすから」
安心させるつもりで口にした言葉は、彼の望む回答ではなかったらしい。
「違うんだ。ここで眠ってしまったら、その分ユーリと過ごす時間が減ってしまう、から…」
言いながらもカラ松くんの瞼は徐々に重みを増して、やたらとあくびを繰り返す。限界は既に間近だ。
「うん」
意図して、新たな話題を振らずに相槌のみに留めた。腕と足を組み、うつらうつらと睡魔と戦うカラ松くんの姿が、窓ガラスに映る。幾度となく抗って覚醒を試みるも、不安定に上下していた頭はやがてがくんと落ちたまま微動だにしなくなった。

地平線の向こうに太陽が沈む頃、紺青から群青にかけるような美しいグラデーションが空一面に広がる。日没と黄昏の間、限られた時間にだけ見ることが叶う、透明感のある青。
ふと肩に何かが触れる感触があって、驚いて見やれば、カラ松くんの頭だ。口を半開きにした無防備な寝顔で私にもたれ掛かっていた。
電車内において一度でも睡魔に身を委ねようものなら、耳障りな走行音さえ子守唄になる。否、そもそも日頃から野郎六人横並びで就寝する彼には、走行音など無音に等しいのかもしれない。他愛ないことを考えながら支え役を担っていたら、自然と口角が上がった。


「…ユーリ?」
車内アナウンスが次の駅の到着を予告すると同時に、カラ松くんが意識を取り戻したようだった。もたれた体勢のまま顔を上げて私と目が合い、飛び跳ねるように姿勢を正す。
「もう起きたの?まだ十分くらいしか寝てないよ」
「い、いや…すまん、まさかハニーにもたれ掛かってるとは…ッ」
カラ松くんの頬が上気して、心なしか声が上擦る。
「自然とそうなっちゃうよね。寝てるカラ松くん、もうちょっと見たかったのにな」
「か、からかわないでくれ!」
押しに弱い推し──シャレにあらず──クソ尊い。世界一可愛い生き物がいここにいます。
「だって、寝てたのたった十分くらいだよ」
区間にして僅か二駅ほどだ。お世辞にも寝不足解消に十分とは言えない。
「十分か…でもさっきも言ったが、仮に五分でも十分でも、寝てしまった分だけユーリと過ごす時間が減ってしまうだろ。それはオレの意に反する」
「物理的には増減してないけど。感覚的なものってこと?」
「居眠りして過ぎた時間は、記憶が抜け落ちたのと同じだ」
分かるような、分からないような。私が唸って腕を組めば、カラ松くんが薄く笑う。

「誰に対してもじゃないぞ──あくまでもユーリ限定だ」

特別感を漂わせる甘い口説き文句。計画的かつ意図的に紡ぐことができれば、今頃彼女の一人や二人いてもおかしいないのだけれど。
「もう寝ない?」
「おかげで目が覚めた」
猫みたいに手を丸くして、カラ松くんは目を擦る。無防備すぎるだろ超絶可愛い。私の語彙力はもう行方不明だよ。
「家帰るまでもつかな?今日はゆっくり寝なきゃね」
「…麻雀、逃げ出してでも参加しない選択をすべきだったかもしれないな」
顎に手を当てて思案顔になるカラ松くんに、私はかぶりを振った。
「いやぁ、無駄な抵抗だと思うよ。不参加表明したって、どうせ強制させられるんだから」
何せ相手は五人の悪魔だ。狭い室内に安全地帯は存在しない。抵抗すればするほど奴らの嗜虐心をくすぐり、自体は悪化の一路を辿るのが目に見える。

間髪入れず私が断言したのが意外だったのか、カラ松くんは僅かに目を瞠ってから、声を上げて笑った。
「ははは、すっかりオレたちのことに精通してきたな、ユーリ」
限りある記憶力はもっと有効に活用したいものだが。
「まぁ、期間は短いけど、濃厚なお付き合いだからね」
「の、濃厚…っ!?」
カラ松くんが仰け反る。瞬時に察する聡明な私。うん、そういう意味じゃない。今の話の流れは、どう考えても接触頻度の話だろう。
「でも、知らないこともまだまだ多いんだなって感じてるよ」
「そうか?ユーリに隠すようなことは特に何もない気がするんだが。近頃のブラザーたちにしても、ユーリがいる時でもフリーダムだしな」
釈然としないとばかりにカラ松くんは眉をひそめた。
あいにく、知り合ってたかだか数ヶ月で相手を理解していると胸を張れるほど、自惚れてはいない。私たちは互いに、表層の一部を垣間見ているだけに過ぎないのだ。
見えているものが全てと、ゆめゆめ思うなかれ。

「電車でうたた寝するカラ松くんを見たのは、今日が初めてだよ」

だからこそ、新しい一面を知るたびに胸が躍る。それが僅か十分でも、見逃せない時間は今も多くある。これからだって、きっと。
私たちを乗せた電車は、がたごと音を立てながら、終着駅を目指して進んでいった。




「もう一週間だぞ」

風呂上がりにかかってきた電話に出るなり、カラ松くんの口から怒号のように飛び出した言葉がそれだった。
スマホの画面に映し出された松野トド松の文字。トド松くんからの電話は珍しく、緊急の用事でもあるのかと応じたら、末弟のスマホを握っていたのは次男だった。
「たった一週間だけど」
小さく溜息を溢して、私が答えるのは──私たちが会っていない期間。
私の仕事の繁忙期とカラ松くんの金欠が重なり、仕事終わりに会う選択肢がまず失われた。かといって電話をかける理由も見つからず、漠然とした寂寞感を感じながらも、カラ松くんからの連絡がないことをこれ幸いと、体力回復に専念していた。言い訳になるが、それだけ余裕がなかったのだ。
週末は週末で、松野家が一家揃って親戚の法事参加のため他県に遠征し、逢瀬の延期を余儀なくされる。
カラ松くんから電話がかかってきたのは、そんな週末を終えた翌日の夜ことだ。
「一週間というのは今日の時点で、だ。次の休みまで会えないなら、二週間も会わないことになる。そんなに長く会わないなんて、今までなかったじゃないか」
非難するようにカラ松くんは言うが、私は連日の残業で貯蓄された疲労感で、当面は休息が最優先なのだ。
それに──

「トド松くんに写真とか送ってもらってたから、離れてる感覚なかったよ」
推し成分の摂取には不自由していない。
直に触れずとも、膨大な写真や動画で栄養補給し、脳内妄想で活力を得られるレベルに達している私の自給自足力を侮ってもらっては困る。もちろん、推し本人を眼前にした際の破壊力には到底及ばないのは当然として。
しかしカラ松くんは納得するどころか、しばらく画面の向こうで無言だった。

「…ハニーと連日のように連絡を取ってたトド松に、今ほど殺意を感じたことはない」

しくじった。
地雷はどこに埋まっているか分からないから厄介だ。末弟の無事を祈る。
「文字だけのやり取りだと、時間選ばずにできるんだよね。カラ松くんの近況を教えてもらったりもしてたよ」
「んー、隠し事はノンノンだぜ、ハニー。自撮り写真を頼まれたりもしてたじゃないか」
「…っ!?」
なぜそのことを知ってるのか。
週末、法事前の気怠げな兄弟を写した写真がトド松くんから送られてきた。彼らを労い、私自身は自宅で体を休めていることを告げたら、写真でも送ってよと言われて、スッピン部屋着で限りなくやる気のない様子の自撮りを返したのだ。

「ちなみに自撮りを送ってほしいと頼んだのはオレだ」

「…は?」
私は言葉を失った。何しとんねんお前は。思うままぶちまけようと口を開きかけたが、私も私でその後推しの単体写真を追加発注したので人のことは言えない。送られてきた写真はイラつくキメ顔の投げキッスだったが、秒で保存した


「ユーリが元気なのも忙しいのも知ってたが、会うどころか声も聞けないのは辛い」
嬉しいことを言ってくれる。
「週末はちゃんと会いに行くよ」
何だか遠距離恋愛みたいな言い草だ。いい子で待っていてね、なんて慰めたくなる。
「カラ松くんもスマホ買ったらいいのに。格安スマホなら、お小遣いで賄えるんじゃない?」
「フッ、離れている間もオレを独り占めしたい?ガイアのカラ松ガールズを敵に回す覚悟はできているんだな、ハニー?」
スマホを地面に叩きつけたくなる衝動を必死に堪える。双眸を輝かせてポーズを決めているのが容易に目に浮かぶ。
「私は別に支障ないから、どっちでもいいんだけどね」
「え…は、ハニー…怒ったのか?」
興味なさげにぶっきらぼうに答えたら、急にトーンダウンする小心者のカラ松くん。
「怒ってないよ。カラ松くんは相変わらずだなぁと思ってるだけ」
「そ、そうか…?面白くない冗談だったな、すまん。そんなことを言うために電話したんじゃないんだ」
画面越しに、深呼吸する音が聞こえた。
「…実は、ユーリに折り入って頼みがある」
真剣味を帯びた声音に、私は自然と背筋を正した。
「どうしたの?」

「ユーリの今から十分間を、オレにくれ」

改まって何かと思えば、そんなことか。疲れている私を気遣っての時間制限なのだろう。
「十分って、時間のことだよね?」
「ああ」
「寝るまでにはまだ時間あるからいいよ。何話そっか?」
肩の力を抜いて笑いながら、私がそう答えた──次の瞬間。

玄関のインターホンが鳴った。

まるで見計らったようなタイミングで。
電話がかかってきた時から私の前に提示されていた、幾つかの真実と小さな違和感が一つの線で繋がる。家の固定電話からでなく、トド松くんのスマホから電話をかけてきたのも、まさか。
視界の先には、暗がりにひっそりと佇む玄関ドア。
弾かれように私は立ち上がった。もつれそうになる足を奮い立たせて、廊下を走る。
「ユーリ」
優しい呼び声が、スマホを通してだけではなく、すぐ近くからも聞こえてくる。疑惑は確信へと姿を変える。
解錠してドアを開けたその先に待ち受けていたのは───電話の相手、その人。

「エンジェルの翼を借りてはるばる飛んできたぜ、ハニー」

耳からスマホを離し、柔らかな笑みを浮かべて。
「十分って、もしかして」
「──玄関口でいい。ユーリの顔を見ながら、ユーリの声が聞きたい」
くっそ、何だこの過剰すぎるサービス精神、今すぐベッド連れ込みたい。
私は両手で顔を覆い、天を仰いだ。
「すぐ帰るから」
私を気遣うその言葉を、素直に受け取るわけにはいかない。
「馬鹿言わないでよ。わざわざ来てくれたのを数分で追い返すなんて、できるわけないでしょ」
「いや、しかし…」
カラ松くんが辞退しようとするのを遮って、私は玄関を開け放つ。
「入って。この通りスッピンだし部屋着だし、何のお構いもできないけど、三十分くらいなら時間取れるよ」
端から延長させる魂胆だとしたらとんだ策士だが、戸惑いがちにふにゃりと相好を崩すカラ松くんを見たら、本当に十分で帰る気だったのが分かるから。
正直者には、福が来るのだ。




「一分でも一秒でも長く、いっそ永遠に」

カラ松くんは、袖を捲くった青いパーカー姿だった。いかに繁忙期を乗り切るかばかりに意識が囚われていたせいで、平和な日常の象徴である彼の普段着は、私に一時の安らぎをもたらす。
「勝手に来ておいて何を言っているんだと思うかもしれないが…その、迷惑だったらすまない。ユーリには仕事があるのに、配慮が足りなかった」
私が差し出したマグカップを受け取りながら、唐突に殊勝なことを言う。
「少しくらいなら平気だよ」
わざわざ会いに来てくれて嬉しいというのが正直な気持ちだったが、下手に吐露すれば、カラ松くんを調子づかせるだけだ。
「夜遅くに突然レディの部屋を訪ねるのは、紳士のすることじゃなかったな」
「カラ松くん以外の人だったら通報してたかも」
冗談を返したつもりだったが、カラ松くんは私を見つめたまま硬直した。カップに注がれたコーヒーから白い湯気がゆらゆらと不規則に立ち上る。

「それは…ハニーにとってオレは、他の男とは違う、と思っていいのか?」

不安げに揺らぐ声。
私は唇に指を当てて思案する素振りを見せたが、己の感情を隠し立てする必要性はどこにもない。
「うん、いいよ。というか、他に受け取り方ないでしょ」
「…えっ、あ、そ、そうか……うん、そうか」
噛みしめるように反芻して、カラ松くんは目を細める。アルコールが入ったわけでもないのに目尻に朱が差すから、すぐ傍らで直視する私は少しくすぐったい。

「こうやってハニーの時間を独占できるのは、正直…嬉しいんだ」
それが例え数分という僅かな期間だとしても、と。
「一分でも一秒でも長く、ユーリがオレのことを考えてくれたら、オレと共に過ごしてくれたらと、そんなことをよく考える。…あ、いや待てよ…自分で言っててアレだが、何か怖い考え方だな、これ」
言い終えてから、カラ松くんはバツが悪そうに苦笑いを浮かべて頬を掻いた。狭い室内に突如広がる静寂は、ピンと張り詰めるような緊張感を運んでくる。
「でも縛り付けたくはない、自由でいてほしい、笑っていてほしい。だからユーリの意思で選んでほしい──オレは、今まで通り正直な気持ちを伝えるまでだ」
いつになく神妙な面持ちだ。
私は少し深めの呼吸をして、不安に翳る彼の目を真っ直ぐに見据えた。

「私は最初から、自分の意思でカラ松くんと一緒にいるよ」

自信を持って断言できる。これは依存なんかじゃない。
間髪入れずに私が言い放つので、カラ松くんは唖然と目を剥いた。
「今まで通りでいいんだよ。私も、自分の都合のいい時にカラ松くんを誘ってるんだから。無理な時は無理って断ってるでしょ?」
「でも、いつも代替案を出してくれるし…」
「そりゃもちろん、カラ松くんと会うの楽しいからね。他に理由ある?」
快活に、明瞭に。すれ違って勘違いして、結果仲違いにでもなったら面倒なだけだ。すりガラスの向こう側が見えなくて不安だと言うなら、私が叩き割って連れ出してやる。

肥大した濃厚な寂寞感を一掃すれば、底に残るのは小さな希望。
「フッ、オレもだぜ、ハニー」
片方の唇を吊り上げるカラ松くんの声には、いつもの張りが戻ってくる。
「もし永遠があるなら、このままずっとユーリと──」
「え」

「…ユーリと、その……ふ、フレンズでいられたらいいなと思ってるぜ!

指を銃に見立てる決めポーズつき。
しばしの沈黙の後、あああああああぁぁぁあぁと声を荒げながら地面に突伏する松野家次男
さすがはフラグを全力でへし折っていくことに定評のある次男坊だ。幸せになれない呪いでもかかってるのか。
堪えきれず腹を抱えてひーひー笑う私と、涙目で落胆するカラ松くんの見事な対比。
途中まで勇気を振り絞ったであろう本人には大変申し訳ないが、いい息抜きをさせてもらった。多忙で投げやりになりかけていたが、まだまだこの世界は捨てたもんじゃない。




彼が望んだ十分なんてあっという間で、私が提示した三十分さえ刹那のように感じられた。玄関前まで見送って、別れを告げる。
「遅いから、気をつけて帰ってね」
「オレがゴーホームするからって、寂しさのあまり枕を濡らすんじゃないぞ」
先ほどの失態なんて何のその、最後の最後でカラ松節が炸裂する。
「んー、それは約束できないかもなぁ」
からかうつもりで、私はにやりと笑う。恥じ入る顔が見たいという悪戯心故だったが、なぜかカラ松くんは眉根を寄せて逡巡する様子を見せた。
「カラま──」
どうかしたのかと問うための彼を呼ぶ声は、中断せざるを得なくなる。カラ松くんが突然私の手を取ったからだ。

唖然とする間もなく、手の甲に口づけが落とされる。

唇が離れる音がやけに生々しく響いて、声が出ない。
玉座を前にした騎士が深紅のカーペットの上で跪くように、けれど眼差しに宿る感情は敬意や敬愛とはまるで異なる熱量を孕んで。

「仕事で疲れてるんだろう?ゆっくり休むんだ。今宵もいい夢を──マイハニー」

温かな手が離れて、カラ松くんの姿が暗闇に溶ける。目を逸らされたまま扉が閉じられて、私は一人夢現の世界に取り残された。
あまりの不意打ちに、しばらく玄関前から動くことができなかった。
軽率な発言で自分の首を締めるのは止めようと心に誓う。明日睡眠不足で仕事にならなかったら、あの次男は粛清しよう。

キスしたのが左手の薬指だったのは、間違いなく意図的だっただろうから。