S寄り次男と優しいデートを

今日のカラ松くんは優しい。

否、彼はデフォルトの状態で私に対しては温厚で思いやりがあるので、そう表現するのは厳密には語弊がある。正確を期すると、今日は一段と優しい。異性に対して紳士であろうとする範疇を超えて、王族にかしずく従者の如き忠誠心さえ垣間見える。
なぜか。その理由を私が知るのは、少し先のことだ。




駅のロータリー前で待ち合わせだった。多くの場合カラ松くんが先に現地で待っていて、約束の数分前に私が到着するのがお決まりの流れになっている。
それが今日に限って、私の乗る電車が踏切の点検による緊急停車で、大幅な遅延が発生した。つまり、約束の時間に辿り着けなくなったのだ。
カラ松くんは携帯を持っていないから、不測の事態に連絡する手段がない。車内で待機させられた数十分は、居ても立っても居られないほどに業を煮やした。

私が駆けつけた時──カラ松くんは、約束の場所にいた。

建物の壁に寄りかかり、両手をアウターのポケットに突っ込んだ姿で。紺のモッズコートに細身の黒いデニム、足元はベージュのエンジニアブーツ。完全に一軍の様相を呈している。
地面に目線を落とした憂い顔には、チラチラと好意的な視線を向ける女性もいるのに、彼はまるで気付かない。
私が調教したセンスの服に身を包むうちの推しを、君も存分に推してくれてええんやでと私は誇らしい気持ちになる。

「ユーリ!」
声をかけようしとた矢先に、視線を上げたカラ松くんが私を呼ぶ。当推しは本日も笑顔が眩しい。
「お待たせっ、遅くなってごめんね!点検で電車が遅れちゃって」
駅のホームからロータリーまでの短い距離を走っただけで、少し息が切れた。口から吸い込む空気が冷たい。
「ユーリが無事なら構わない。体は冷えてないか?レディは体を冷やしてはいけないんだぞ」
「私は大丈夫。むしろカラ松くんの方が待ちぼうけで冷えてるよね。
とりあえず、カフェ入らない?遅れたお詫びに何か奢る」
建物の中にも入らず、吹きさらしの屋外で半時間以上も待っていてくれたのだ。カラ松くんに風邪を引かせるわけにはいかない。
けれど彼は穏やかな笑みをたたえたまま、緩くかぶりを振った。
「平気だ」
「でも…」
「ユーリがオレとの約束を守るために、こうして急いでくれた。それだけでいい」
今日は攻めてくるなぁ。
被せて辞退されると、それ以上強引に誘うのは憚られる。かといって平然と割り切れるほど図太くもない。そんな私の複雑な胸中は、きっと顔にも出ていたに違いない。
「ああ、しかし──」
私の葛藤を察したのかどうかは分からないが、カラ松くんが私の頬に触れる。

「ユーリの頬が冷たくなってしまってるのは、いけないな」

スパダリの降臨か?


駅から徒歩数分のカフェに向かう道中、強風にあおられて髪やスカートを慌てて手で押さえる女性たちを幾人も見かけた。緩やかなウェーブの髪は乱れ、薄い生地のロングスカートは舞い上がろうとする。
そんなに風が強いのかと、彼女たちを見て私は初めて気付く。私の髪もコートも穏やかな風を受けるばかりで、寒さもさほど感じなかったからだ。
しかし局地的強風でもなかろうと横に手を伸ばしたら、勢いよく空気が流れていく。風は──前から吹き付けてくる。

そして私のすぐ前方には、カラ松くん。

まるで壁だ、と私は思う。今日は珍しく隣に立たないことを不思議に思っていたが、そういうことか。
「カラ松くん、風が…」
「ん?」
振り向いたカラ松くんの前髪は後ろに撫で付けられている。鼻は赤い。
「…ううん、何でもない」
気付いたことを告げるのはきっと、野暮なのだろう。私は首を振って、薄く微笑んだ。




「今日は何か、いいことあった?」
暖房の効いたカフェの店内で上着を脱ぎながら、私は雑談のように問う。
一人がけのソファが向かい合わせに設置されたテーブル席、カラ松くんは私の問いかけに目をぱちくりさせながらコートを脱いだ。インナーはVネックの薄手ニット、程よい鎖骨の露出が罪深い。さらに座りながらニットの袖を捲り、無骨な手首を見せてくるのはもはやフェロモンの暴力
「いや、いつもと変わらないが」
「そう?」
それにしては機嫌がいいように見受けられるのだが、私の勘違いなのか。
メニューを開いたら、季節のオススメというタイトルと共に温かい飲み物の一覧が目に飛び込んでくる。冷たいドリンクは選択肢から自然と外すようになってきた。自分の行動の変化にも、冬の到来を感じる。
「それより、今日はどうする?行きたい場所があれば、どこにでも連れて行くぞ」
コーヒーを二人分注文し、店員が去った頃にカラ松くんがにこやかに言った。
「うーん、そうだなぁ」
私は軽く腕を組んで考えを巡らす。行き先や目的を決めないままの待ち合わせだったのだ。
最近は、今回のような比較的軽いノリでカラ松くんと会うことも増えた。とりあえず会ってから考えよう、何もしなくてもそれはそれで楽しいのだから、と。
「行きたい場所っていうか、やってみたいことはあるかな。カラ松くんにお願いをすることになるんだけど」
お願いの言葉に、カラ松くんは目を輝かせた。
「オレにおねだりか…フーン、ノープロブレムだぜハニー。ユーリが望むことはどんなことでも、ランプの精のように鮮やかに叶えてみせようじゃないか!さぁ、遠慮なく言ってみるんだ」
両手を広げる大仰な仕草で、カラ松くんは歓迎の意思を示す。
「どんなことでもいいの?」
「もちろんだとも!胸が高鳴るロマンチックなデートでも、大人の雰囲気漂うアダルティなデートでも構わないぜ!」
言質を取った。

「おそ松くんに向けるような口調と態度で、今日は接してほしいな」

「ほぅ、おそ松に向けるような───んんッ!?
顎に手を当てたポーズのまま硬直するカラ松くん。
「な、何を言い出すんだ、ユーリっ!オレの態度が不満なのか!?」
彼の動揺が振動となってテーブルに伝わる。店員が運んできた湯気の立つカップとソーサーが、ガチャリと音を立てて揺れた。
「そうじゃないよ。私の言い方が悪かったかな、ごめんね。
カラ松くんが気を使ってくれてるのは嬉しいし、私にとってはそれが自然なんだけど──たまには雄みのある推しを存分に眺めてみたい日もあるじゃない?
「ユーリだけじゃないか、それ?」
カラ松くんは呆れたように背もたれにより掛かる。ああそれだ、そのジト目、いい
通常運行でサドっ気要素を振り撒かれたら、私も負けじと応戦して壮絶な地位争奪戦になるのは目に見えているが、たまに逆転する分には新鮮でいいスパイスになる。
「だからお願いしてるの。こんなツンとしてるけど、普段は私に組み敷かれて赤面するくらいエロいんだぜってギャップを味わいたい!
「そういう願望はせめてオブラートに包んで発言してくれ」
「いつの時代もギャップ萌えは鉄板!」
「…それがおそ松へ向けた態度だと?」
「うん!ぜーんぜん違うでしょ。あれはあれでほんと美味しいっていうか、おそ松くんさまさまっていうか、トップオブ眼福
一軍さながらの服に袖を通した私目線でイケてる推しが、普段とは真逆の、見ようによっては突き放した態度で接してくる。つまり、ジト目と低音イケボが見放題聞き放題
その魅力を教えてくれたクソ長男万歳
私の引き下がらない情熱を感じたのか、カラ松くんはテーブルの上で両手を組み、眉根を寄せた。
「…結構辛辣でもいいのか?」
「バッチコイ」
十四松の真似は止めろ。ということは、要は…ハニーをおそ松のように思えばいいんだな?」
長い息を吐き出して、カラ松くんはコーヒーのコーヒーカップに口をつけた。観念した、そんな雰囲気が漂う。
「分かってくれた?理解が早くて助かるよ」
「ここを出る時から努力はしてみる」
私の笑顔とは裏腹にカラ松くんは当初こそ渋々といった体だったが、やがて「よし」と意気込むように小さく呟いて、両手を握りしめた。
舞台の幕は、上がった。




それからコーヒーを嗜みつつ雑談している間は、普段通りのカラ松くんだった。穏やかで、時に大仰な言動で気取ってみせたり、時に眉を下げて相好を崩したり、気取った仕草で私に呆れられたりもして。先程の約束が幻にさえ感じられた。
カップの中身が空になり、今後の予定が大まかに決まったところで、カラ松くんが上着を手に取る。
「ハニー、そろそろ行くか?」
「あ、ちょっと待って」
私は片手を伸ばして彼を制する。何気なく目をやったメニュー表に、心惹かれる写真が載っていたためだ。
「今月限定のスイーツだって。えー、これ見逃してた。ほら見てよ、美味しそうじゃない?」
嬉々としてカラ松くんの眼前にメニューを突きつける。
ざっくりとした予定は決めたが、別段急ぐ必要もないし、臨機応変に変更しても双方に差し支えはないのだ。追加でスイーツを注文したところで、今後に支障は出ない。そう判断しての提案だったが───

「太るぞ」

カラ松くんから投げられた言葉は、手厳しいものだった。出だしからいい攻撃するじゃないか。
「カラ松くんには関係ないでしよ」
メニューで口元を隠しながら、私はニヤリとほくそ笑む。
「関係ある。隣を歩くオレの身にもなれ」
たまらねぇ。
鋭い眼差しを向けながらの切り捨てるような痛烈な物言い、実に素晴らしいカウンター。期待通りだ。
「んー、分かった、今回は我慢する。行こっか」
小手調べは上々だ。私は満足げな笑みを浮かべて、柔らかなソファから立ち上がった。


会計を済ませて外へ出ると、冷たい風が容赦なく吹き付ける中、カラ松くんが私の前に立った。
「ん」
短い言葉と共に、何かを促すように手を出してくる。意味が分からなくて首を傾げれば、彼は手のひらを一層広げた。
「荷物」
単語で会話、何というクールガイ!
これもうツンデレキャラじゃねぇか、いやでもこれはこれで美味しいです。私は目頭を押さえる。
「じゃあ任せちゃう、ありがと」
礼を言いながらショルダーバッグを手渡すと、カラ松くんは、あ、と声を出す。
「…こ、こんな感じでいいのか?」
不安げに上目遣いで私を見やる。
唐突に素に戻るのは止めていただきたい。真正面から痛恨の一撃を食らってしまった。これこそギャップ萌えの真髄。わざとか、わざとなのかこれは。
とりあえず私は無言で親指を立てた。




「でね、この赤いカーディガンが可愛くてさぁ。原色に近いからクリスマスカラーにもなるし、ちょっと高いけど奮発しようかなぁって悩んでるんだ。カラ松くんはどう思う?」
とりとめもなく語り合う他愛もない話で、冬のファッションに話題が移った。欲しい服があるのだが、手を出すには抵抗のある高価格帯で、参考までにカラ松くんの意見を伺おうと思ったのだ。スマホでブランドサイトの画像を表示して、画面を見せる。
「止めておけ」
一刀両断で切り捨てられた。カラ松くんの返事はにべもない。
「似合わなさそう?」
「そうじゃない、形はいいしユーリのスタイルには合うだろう。ただ、赤は駄目だ。青でいいじゃないか」
「青いのは、似たようなのもう持ってるんだよ」
「…だったら、もし買ったとしても絶対うちには着てくるなよ。勘違いする面倒な輩が約一名いるからな
言いながら、眉間に皺が寄った。
「今さらすぎない?そんなこと言ったら、着れる服かなり限定されるんだけど」
赤に限らず、緑や紫に始まり、六つ子全員のトレードカラーの服はもう幾度も彼らの前で着ているのだ。
「…ん、まぁ、そうなんだが」
カラ松くんは言葉を濁して、親指と人差し指で自分の前髪を摘む。
「しかしクリスマスが近づいてそこはかとなく殺気立ってるブラザーたちの前で、餌をチラつかせるのはデンジャーだぞ。奴らは手負いと見せかけた獰猛な猛獣だ
実の兄弟へのディスりが容赦ない。
「…とにかく、特にこの時期は誤解を招く服は禁止だ。いいな?」
一見確認の形式ではあるが、有無を言わさない威圧感が漂っていた。程よい束縛感は、なかなか味がある。いつにないその様子がおかしくて、私はくすりと笑ってしまう。普段私を気遣ってできない態度を、今が好機とばかりに取っているような、そんな気もして。
この状況を楽しんでいるのは、もしかしたら私だけではないのかもしれない。


「ハニー、こっちへ行こう」
建物の角を曲がったカラ松くんが突然足を止めて、振り返る。そして指差したのは、進行方向とは真逆の迂回路だった。私たちが訪ねようとしている店までは少し大回りになる。
「いいけど、遠回りになるよ?」
「先月オープンしたばかりのセレクトショップがあるのを思い出したんだ。時間があるなら覗いてみたいんだが、構わないか?」
ああ、と私が合点がいく。
「もちろん、行こう行こう。よく場所覚えてたね」
「フッ、最先端の海外輸入クローズがオレに纏われるのを待っているんだ。行かないなんてチョイスはないだろう?」
ポジティヴで素晴らしい。
名の知れた複合商業施設の近くだというので、カラ松くんが先導して先を行く。後をついていこうとして、私はふと自分たちが本来通るはずだった道を覗き込んだ。深い意味はなく、限りなく気紛れ故の行動だった。

次の瞬間、私は唖然とする。
視界に飛び込んできたのは──見るからにガラの悪そうな若者が数人、数メートル先で道を塞ぐように中腰でたむろしている姿。

アスファルトには、彼らが捨てたとおぼしきゴミが散乱している。死角になっていたから、気付かなかった。
カラ松くんはその光景を見て、だから───
私は急いでカラ松くんの背中を追う。彼が振り返って、私の行為に気付いてしまわないように。
「カラ松くんってさ」
音を立てずに素早く元の位置まで戻り、息を整えてから声をかける。
「ん?」
「優しいね」
脈絡も何もない唐突な台詞のはずなのに、カラ松くんは、なぜ、とは問わなかった。笑みを浮かべて、私の頭を乱暴にくしゃりと撫でる。
「オレはいつでも優しいだろ」
「…うん」
そうだね。でも、本人が思っている以上に、きっと。
「ユーリ、何をニヤついてるんだ」
「べっつにー」


辿り着いたセレクトショップは、小さな個人店だった。規模でいえば六つ子の部屋よりも一回り広いくらいの小ぢんまりとした店内に、国内外問わず様々なブランドの服や雑貨が陳列されている。ディスプレイや商品をざっと見た限りでは、ベーシックなアメカジスタイルという印象だ。
カラ松くんから離れて、私も店内を見て回る。ウエストを絞ったネルシャツなんて似合いそうだ。腰から尻にかけてのライン見せはいいぞ、エロい。
「ハニー、これ良くないか?」
声をかけられたので寄れば、カラ松くんがハンガーにかけられたトレーナーを胸元に掲げた。
「え、あ…それ?」
取り繕うことを忘れて私は眉をひそめる。
フロント全体が彩り豊かなスパンコールギラギラで目が痛い。お前の前世はカラスか何か?
オシャレなセレクトショップなのに的確にダサいものチョイスしてくる壊滅的センスは、ここまでいくと尊敬する。その鋭いアンテナは別の方面に活かせ。
「トレーナーなら、シンプルな方が色々合わせやすいよ。カラ松くんは細身の服が多いから、オーバーサイズ感のあるトレーナーとかどう?」
私は棚からをグレーのトレーナーを取って、カラ松くんに合わせてみる。胸元にロゴが入っただけの、極めてスタンダードなものだ。
「あ、似合いそう」
「フッ、シンプルなトレーナーさえ華麗に着こなしてしまう…オレ!」
「うんうん、いいね、脱がしやすそう
「…は?」
「とても脱がしやすそう」
「そこは何でもないと誤魔化すところだろ。わざわざ聞き直したオレの配慮が無駄死にした
正直でごめん。

しかし私が提案したトレーナーも満更ではないらしい。姿見に映るカラ松くんの口角は上がっている。
「大きめのマフラー巻いたら、冬の装いって感じだね」
カラ松くんのインナーとパンツは寒色が多いので、差し色として明るい色を持ってきても映えるだろう。そう思って、赤をベースにした大判のマルチチェックマフラーを彼の首に巻き付ける。首元にボリューム感のある結び目を作るため顔と手を近づけたら、カラ松くんの体が僅かに硬直した。
「は、ハニー…顔が、近…っ」
「態度」
「あ、そ、そうか……ユーリ、顔が近い。離れるんだ」
合間に、大きな深呼吸が入った。たまに素に戻ってしまうタイプのギャップもいいな。今すぐ腰引き寄せて可愛がりたい。




「ハニー、休憩するぞ」
セレクトショップを出て数分ほど経った時のことだった。突如カラ松くんが立ち止まり、片手を出して私の進行を制する。
数メートル先には、住宅街に囲まれた小さな公園があった。滑り台やブランコといった定番の遊具と、木製のベンチが数台見受けられる。
「え、でもまだカフェ出て一時間くらいしか経ってないよ?」
「休憩するんだ」
有無を言わせない圧と眼力に、私には従う以外の選択肢がなかった。

背もたれつきのベンチに、私たちは並んで腰かける。カラ松くんは腕組みをして、眉間に皺を寄せていた。
「いつからだ?」
「いつ?」
「その靴ずれ、いつから我慢してる?」
膝の上に置いていた拳に、我知らず力がこもる。咄嗟に気の利いた言い訳が出てこなかった。
原因は、下ろしたてのパンプスである。試し履きした時は平気だったからと履いてきたのが失敗だった。右足の踵に負った傷はズキズキと強い痛みを主張して、今やフットカバーソックスは一部が赤く染まっている。
黒いパンツの裾が踵を隠して、外からは見えないだけで。
「…気付いてたの?」
「誰よりもユーリのことを見てるんだ、オレを見くびるな」
極力平然を装っていたつもりだったが、負傷した右足を無意識に庇っていたのかもしれない。しかし、だとしても、まさか気付かれるなんて。
「ちょっと待ってろ」
カラ松くんはそう言い残して、公園を後にした。
口調が違うだけで、別人と接しているような錯覚に陥りそうになる。靴ずれを正直に吐露できなかった要因も、そこにあるかもしれない。
カラ松くんが去った後の公園には、静けさと共に漠然とした違和感と寂寞感が残った。

彼が駆け足で向かったのは、道路を挟んで向かいにあるコンビニだった。一分もしないうちに戻ってきたカラ松くんの手には、絆創膏の箱。点と点が繋がり、あ、と思わず声が出た。
それからカラ松くんはおもむろにベンチの前で片膝をつき、私の右足からパンプスを脱がせて膝の上に置いた。
「あ、あの…ズボンが汚れるかもしれないから──」
「汚れたら洗濯すればいい」
公園の水道で濡らしたティッシュで、傷口の血を拭われる。じわりと滲んだ血液は、白いテイッシュを赤く染め上げていく。
「オレが気付かなければずっと黙ってるつもりだったのか?」
靴ずれの手当てをする手つきからは優しさしか感じないのに、口調には怒りが滲んでいる。
「限界来たら、言うつもりだったよ」
「それじゃ遅すぎる。傷が残ったらどうするんだ。ユーリにとってオレは…そんなに気を使う相手なのか?」
「そんなこと…」
「オレに気を使うな。強がる必要なんてない」
踵に絆創膏を貼って、それで終わりかと思いきや、地面に置いたパンプスを履かせてくれる。膝を立てて頭を垂れるようなその仕草は、忠誠を誓う騎士にも似て、ひどく嗜虐心がくすぐられたのは秘密だ。
押し倒して鉄仮面を剥ぎ取り泣かせることができたらさぞかし恍惚だろうなんて、今このロマンチックなシーンで暴露したら、間違いなく拳骨が振ってくる
「あー…それでだな、ユーリ」
かしずいた格好のまま、カラ松くんが躊躇いがちに私を呼ぶ。

「こういうのは、もう止めよう」

大きな溜息を吐き出される。降参とばかりに彼は両手を上げた。
「ユーリが喜ぶのならと思ってこの態度を頑張ってはみたものの、オレのハートがブロークン寸前だ。
おそ松に対しては確かに遠慮も気遣いも不要だが──ユーリは、そうじゃない。優しくしたいし、笑ってほしいし、自然でいてほしい」
「カラ松くん…」
関係性の違いによる様々な打算は、誰の胸の内にもあるだろう。即物的な損得勘定ではなく、長く続くであろう取引や交渉を円滑に行うための手段として。
今日私が彼に望んだのは、一方的な利益の獲得。カラ松くんにとっては不利でしかない条件を、強引に飲ませたようなものである。許容範囲を超えれば、契約を切られても文句は言えない。
「うん、じゃあ閉幕にしよう。無理なお願いに付き合ってくれて、ありがとう」
「ハニーの頼みはいつでも歓迎だが…何が楽しいのか、オレにはよく分からん」
ギャップ萌えについて小一時間ほど語るべきか、私はちょっと悩んだ。




「歩けそうか?」
立ち上がって、カラ松くんが私に手を差し伸べる。その手を取って、私はベンチから腰を上げた。彼の周りを歩いてみても、痛みはほとんど感じない。
「うん、もう痛くないよ。ありがとう、カラ松くん」
「そうか、良かった」
カラ松くんがホッとしたように目を細める。ああ、私のよく知る松野カラ松が戻ってきたなぁ、なんて心の隅で思う。
「色々と予定が狂ったな」
「本当はどこか行きたい所あったの?」
「いや…」
言葉を区切って、カラ松くんはバツが悪そうに私を見た。

「今日は特別ハニーに優しくするつもりだったんだ」

意図が読み取れなくて、一瞬頭が真っ白になる。けれどすぐにそれが、待ち合わせ場所で私が覚えた違和感の正体だと気付く。
「どうやったらユーリが笑ってくれるかずっと考えていて、今日はいつもよりジェントルに接する算段だったんだが…まさかユーリから態度の変更を所望されるとは思わなかった。
もし気に障るようなことを言っていたら、すまん。現実というのはソーディフィカルトだな」
カラ松くんが苦笑いを浮かべるので、私は大きくかぶりを振った。
「優しかったよ」
「え」
「カラ松くん、ずっとすごく優しかった」
目に見える言葉と態度だけが、優しさを示す尺度ではない。
けれど当の本人に思い当たる節はないらしく、笑みは困惑げなものに変わっただけだった。ときどき、私がどうしようもなく釈然としない気持ちになるのは、彼のこういう性質に由来するのかもしれない。この人は本当に、どこまで可愛いのか。
「そう、か…?」
「ひょっとして自覚なかったの?
今日みたいなデートされたら、恋にも落ちるよね。私以外の女の子にやったら、彼女なんかすぐできちゃうよ、きっと」
カラ松くんは膝の土を払い、手にしていた絆創膏の袋を強く握り締めた。くしゃりと紙が折れる音が響く。表情はそのままに、カラ松くんはゴミ箱に向かって腕を振る。

「──ということは、オレに彼女ができるのはまだまだ先のようだ」

絆創膏のゴミが弧を描いて、ゴミ箱の中に落ちた。


理想実現を阻む現実への落胆は尾を引いているらしく、気を取り直してのデート再開に対してもカラ松くんは憂い顔だ。ここは私が一肌脱ぐところだろうか。それこそ気を使うなと叱られてしまいそうでもあるけれど。
「今日のカラ松くん、いつもと違った雰囲気で良かったよ」
彼の視線が私に向く。
「ちょっとドキドキした」
少々大袈裟に片手で胸を押さえてみせると、カラ松くんの目が僅かに瞠った。
「そ、それは…オレが格好いいから、という──」
「サドっ気のあるカラ松くんを押し倒して泣かせたら、ギャップがすごくて性欲マックスになる予測もできたのは収穫」
「は?」

「どんなカラ松くんでもたまらないんだけど、やっぱり見慣れない姿にはゾクッとさせられるんだよねぇ」
「…ユーリ?」
やがて彼の顔に広がるのは、先の展開が読めない戸惑いだった。
「倦怠期打破ってわけじゃないけど、たまには趣向の違うことするのも新鮮で楽しいね」
相手の出方の予測が立たない。未知の領域に踏み込んだ私たちにもたらされたのは不安と、ある種の高揚感だった。まるで初デートに挑むような、緊張感も伴って。
けれど心の中に渦巻くのは変わらず推しへの性欲であったり、澄ました面をいかに泣かすかの算段だった。表層を変えたところで、内側はいつもの私なのだ。
カラ松くんもきっと──そうだったのだろう。

「再依頼は検討してもらえそう?」
その発言はカラ松くんにとって意外だったらしく、え、と肩が強張った。うーんと唸り声を出しながら腕を組み、眉間にはいつになく深い皺が寄る。
しかしそれも数秒のことで、渋々ながらもカラ松くんは首を縦に振った。
「オレだけ接し方を変えるのはフェアじゃない。ハニーが可愛く甘えてくれるなら、前向きに考えてもいいぞ」
そう言ってフフンと鼻を鳴らす。私が条件を飲むのは無理と踏んだか、はたまた自分も恩恵に預かりたい画策か。
「あ、そんなんでいいんだ、オッケー」
「いいんだ!?」
カラ松くんは目を剥いた。どうやら彼の思惑は前者だったらしい。
私は一度小さく深呼吸した後、カラ松くんの腕を両手で取って顔を擦り寄せた。想定外の対応にカラ松くんは反応しきれず、頬が紅潮する。しかし、それも一瞬のことで───

「ねぇねぇカラぴっぴ、ユーリお腹すいちゃった☆今から駅前でタピりたいなぁ♪」

上目遣いと猫撫で声で分かりやすい甘えを表現してみたら、カラ松くんは顔を歪めた。
「気持ち悪い」
低いトーンで呟かれる。あ、これマジなヤツだ。
「可愛く甘えた結果がこの仕打ちか」
「…やっぱりいい──というか、わざとだろ、それ」
「可愛いは作るものでしょ?」
「オレが求めてるハニーの可愛さはそうじゃなくてだな、もっとこう……んー、いや待てよ、ハニーはスタンダードが可愛いの極地だから、もっと可愛くしろというのはリミットを超えろという意味になってしまうのか?それはさすがに無理難題じゃないか?」
私に聞くな。
「前言撤回だ。やっぱりハニーはそのままでいてくれ」
「そう?」
彼の腕からパッと手を離して、私は少し長めの息を吐く。それからカラ松くんの顎に人差し指を添え、力を込めて僅かに持ち上げた。

「その言葉、後悔しないでね」

囁くように、けれど聞き取れなかったと言い逃れさせないくらいには明瞭に。
選択を誤った。そんな感情が、カラ松くんの表情にはありありと浮かんでいた。