クリスマスが終われば、あっという間に年の瀬である。
師走という字面に相応しい忙しなさで日々が過ぎ、職種によっては仕事納めをして、来る新年を迎えるべく身の回りを整える。
私こと有栖川ユーリも昨日無事年内の仕事を終え、冬季休暇へと突入した。
そんな大晦日の午後、私は松野家の玄関を叩く。
カラ松くんを始めとする六つ子たちからの、新年の幕開けを共に過ごさないかと魅力的な誘いを受けたためである。何かと忙しい時期だからと辞退しようとしたら、松代おばさんからも是非にと請われた。となると断る理由はなく、私は胸を弾ませながら彼らの元を訪れる。
「ごめんねユーリちゃん、僕らの買い物付き合わせちゃって」
チョロ松くんが眉尻を下げて言った。
「私がついていきたいって言ったんだから、気にしないで」
チョロ松くんとカラ松くんに挟まれるようにして、スーパーまでの道を歩く。
玄関先で私と鉢合わせしたのは上記の二名で、ちょうどおばさんに頼まれて食材の買い出しに出るところだったらしい。荷物持ちは多い方がいいだろうと参戦を希望したところに、チョロ松くんからの謝罪だった。
「マミーからは後で小言を言われそうだな。ハニーに何をやらせてるんだって」
ジャケットのポケットに両手を突っ込んだ格好で、カラ松くんが眉をひそめた。
「もし二人が何か言われたら、私がどうしてもって言ったって話してよ。八人分の食材だとどれだけ買うのか実際見てみたかったんだよね」
「──九人だ」
不服そうにカラ松くんが訂正する。
「今日はユーリの分も含めた買い出しだぞ。オレたちと年越しするプロミスを忘れたわけじゃないだろう?」
それは揚げ足取りじゃないのかと反論しようとして、止める。駄々っ子のように口答えする推しも可愛い。
「女の子のいる年末って、大人になってからは初めてだよ。去年は不甲斐なく一年を過ごした自分にひたすら自己嫌悪してたからなぁ」
反省も後悔もしたという割には引き続き自立する気配もなく、兄弟同様にニートに甘んじているあたり、自意識ライジングの名は伊達じゃない。来年の抱負を尋ねたら、何と答えてくるか興味はある。
「ユーリは実家に帰らなくていいのか?」
「元旦に顔は出すよ。でもみんなと一緒に過ごした方が絶対楽しいと思うから、こっち優先」
にこりと微笑んでそう答えれば、カラ松くんとチョロ松くんは赤くなった顔を両手で覆った。
童貞ほんとチョロい。
ずっと疑問だったんだけど、という前置きでチョロ松くんは口火を切った。
「カラ松とずっと一緒にいてよく飽きないよね」
「飽きる理由がない」
「喧嘩したりしないの?僕なんか毎日一回はイラッとしてるのに」
「え」
マジかよ、と言わんばかりに驚くカラ松くん。
「喧嘩…したことあったっけ?」
推しの言動全てが愛らしいの極みなので、憤る理由がない。故に、大抵のミスや無作法は私の導火線に火を付けることさえ敵わないのだ。
「ハニーが本気で怒ったのは一回くらいじゃないか?」
「ああ、カラ松くんの態度が素っ気なさすぎて理解不能だった時ね。そういえばそんなこともあったかな。
私はカラ松くんにはよく怒られてるよね」
え、とチョロ松くんは瞠目する。
「ユーリちゃんを怒る…?愚かにも程がある。カラ松お前調子乗んなよ?」
「せめて理由を聞いてから暴言を吐くんだ、ブラザー」
理由によってはこの場で処すると言わんばかりの顔でメンチ切るチョロ松くんに、カラ松くんは腰を引きながらも抗議する。
「オレだって厳しいことは言いたくないが、ユーリが自分の魅力を過小評価した結果、他の男に安々と隙を見せるからだろ」
耳にタコができるほど聞き飽きた小言だった。私は唇を尖らせる。
「なるほど、そういうクソナンパ野郎は東京湾に沈めていい。全力でやれカラ松」
三男は三男であっさり掌返し。立てた親指を逆さにして勢いよく振り下ろした。何こいつら怖い。
「──っていう感じでうちの次男はモンペ成分も多分に含んでるけど、嫌気が差さない?」
モンペ具合はお前も大概では?この会話まだ続くの?
「差すわけないよ。こちとら推させていただいてる身だからね。担降りなんて考えたこともない」
これは正直な気持ちだ。
未来がどうなるかなんて誰にも分からないから、絶対なんて軽々しく口にはしないけれど、今歩く道がこの先も続けばいいなと思っている。
大晦日だというのに、スーパーは平日同様の混雑ぶりだった。否、大晦日だからこその混み具合なのかもしれない。
自動ドアを通って中に入ると、カラ松くんが率先してショッピングカートを引き、流れるようにチョロ松くんが買い物かごをセットする。互いに無言で視線さえ合わさない。にも関わらず、示し合わせたかのような一体感を感じさせる動作に、私はしばし呆然とする。一卵性のコンビネーションの良さというものを目の当たりにした瞬間だった。
「…どうしたんだユーリ、ボーッとして」
「ユーリちゃん?」
彼らは六つ子なんだな、と再確認する。
「あ、ううん、二人とも仲いいんだなぁって」
「は?ケツ毛燃える」
「仲良くはない」
真顔で全否定を食らう。そういうとこだぞお前ら。
「で、何を買うの?」
私の問いかけに対し、チョロ松くんはデニムのポケットから二つ折りのメモを取り出す。彼らしい几帳面な文字が羅列している。
店内では早くも正月の定番BGMが流れていた。琴による厳かな調べが耳を抜けていく。
「年越しそばと、餅用のきなこと海苔。あとは酒とつまみとカップラーメンとかかな」
内容だけ聞けば、何だその程度かと拍子抜けするのが一般的だろう。多くの場合、買い物かご一つで十分事足りる量だ。
「それを八…いや、九人分」
しかし松野家の場合、一種類ごとの数が須らく多くなる。僅か数種類の買い出しでも、結構な大仕事だ。
「フッ、酒を持つのはオレに任せろ。好きなだけ買ってくれていいんだぜ、ブラザー&ハニー」
「頼むぞ脳筋」
「頼りになるー」
前髪を掻き上げて気取るカラ松くんには目も向けず、私とチョロ松くんは棒読みで応える。
「おばさんはもうお節作ってるの?」
「うん。昨日から仕込みしてて、今朝は早くから台所で戦ってる」
「そっか。エプロン持ってきたから、邪魔じゃなければ後で手伝わせてもらおうかな」
何しろ一般家庭のほぼ倍量を作らなければならないのだ。余計な手立しだとしても、一応お伺いは立ててみよう。
「何かいいな…こういうの」
すぐ傍らで、カラ松くんがぽつりと呟いた。チョロ松くんは先導するように数歩先にいるから、聞こえたのはおそらく私だけだ。
「みんなで買い物することが?」
「ああ」
照れくさそうに目を細めて。
「ユーリが家族になったみたいだ」
ときどきそのイケボを最大限活用してしれっと爆弾を落としてくる。努力の方向性を間違えなければ異性の関心を得ることなど容易いのにと、私は不思議でならない。
両手に買い物袋を下げて松野家に戻れば、玄関が開け放たれている。
「あ、兄さんたちお帰りー」
内側からひょっこりと顔を覗かせたのは、両手に雑巾を手にした十四松くんだった。
「ユーリちゃんも、ようこそ!楽しみに待ってたんだよ~」
成人男性とは思えない無邪気さで私の訪問を歓迎する。足取りも軽快で、跳ねるように私の前へとやって来た。
「十四松、大掃除は進んでる?」
「進捗駄目です。おそ松兄さんとトッティに喝を入れるので、半時間くらいかかっちゃった」
「あいつらまたサボろうとしてたのか」
チョロ松くんが顔を歪めた。どうやら長男と末弟の掃除サボりは常習らしい。
「十四松くん、掃除私も手伝うよ」
腕まくりをするポーズで笑ってみせれば、カラ松くんが自分の口元で人差し指を振った。
「ありがたいがノーセンキューだ、ハニー。ゲストのユーリに汚れ仕事をさせるのは男が廃る。掃除は自業自得なブラザーたちに任せて、ユーリは…そうだな、オレと正月飾りの設置でもしないか?」
「カラ松の言う通り、ユーリちゃんは無理しなくていいから。っていうか、そもそも手伝わなくていいんだからね」
「みんな準備してるのに、一人だけのんびりもできないよ。それに一人暮らしだから、家事は慣れてる」
私が譲らないことと理解したらしいカラ松くんとチョロ松くんは、苦笑して顔を見合わせた。
二階からは、一松くんの怒号とトド松くんの叫び声が聞こえてくる。
台所で死闘を繰り広げる松代おばさんに挨拶をしてから、カラ松くんと共に再び玄関へ向かう。彼は物置から、胸元の高さほどはあろうかという門松を一対玄関へ運び出す。門松の中央に設置された赤い縁のプレートには、迎春の筆文字。
しかし立派な外見とは裏腹に、その重量は私でも持ち上げられる程に軽く、設置そのものは一瞬だった。松野家の門口が華やかな装いへと姿を変える。
「門松を飾る家も少なくなったよね。でもやっぱりこういうのはお正月って感じがして、趣があるなぁ」
道路に出てスマホで写真を撮る。門松を撮るという名目で、推しを。事前に撮影を告知するとだいたい気障なポーズを決めてくるから、自然体を収めるには盗撮くらいがちょうどいいのだ。腕組みをして満足気に門松を見つめる推し、良き。
「門松を飾る理由を知ってるか、ハニー?」
「厄除けだっけ?」
そうだ、とカラ松くんは薄く微笑む。
「玄関を清めると言われている。鬼や邪気を追い払い、新年を司るゴッドの依代ともなる霊験あらたかな縁起物だ。
門松を飾る家が少なくなった?フッ、ゴッドの加護を受けるライバルが減るのは、こちらとしては願ったりじゃないか」
恩恵が門松を置く家に均等に配分されるとしたら、分母が少ないほど取り分は多くなるという考えだ。面白い解釈だと笑ったら、カラ松くんは門松の位置を微調整しながら、私に後頭部を向けたまま呟く。
「オレはいいから、その分ユーリに加護があるといいな」
「カラ松くん…」
「まぁ、大晦日ギリギリに出すのは一日飾りといって、ゴッドに喧嘩を売っているわけなんだが」
「前提が今までの会話全てを覆してきた」
ちょっとほのぼのした私の感情を返せ。
「今年の大きなイベントごとは、全部ユーリと過ごした気がするな」
脚立に乗ってしめ縄飾りを玄関に下げながら、カラ松くんが言った。門松としめ縄飾りが揃うと、築年数の経った玄関に厳かな雰囲気が漂う。
「カラ松くんと会ってからは、実際過ごしたと思うよ」
「ユーリの側にいる、その任を仰せつかることができて光栄だ」
ひらりと軽い身のこなしで脚立から飛び降りる。
「できるなら来年も、そうであってほしいな」
そうであってほしい、その言葉に彼の意思はこもらない。環境や立場といった外的要因と運任せの発言を、私は受け止めかねた。
「カラ松くんの気持ちとしてはどう?」
この場には、私たちしかいないから。声の音量を僅かに落とした私の意図を察したのか、カラ松くんは片手で首筋を掻いた。
「オレは──来年も変わらず、ユーリの側にいたいと思ってるよ」
その後室内に戻った私は、エプロンを装着しておばさんの手伝いを買って出る。
お節料理の中身はあらかた出来上がっていて、皿に盛られたそれぞれの料理を彼女の指示通りに重箱に詰めていく。お節の重箱といえば三段重が一般的だが、松野家は四段重だ。それでもおばさん曰く一食で空になってしまうというのだから、成人男性六人が寄生する家庭のエンゲル係数の高さは想像を絶する。
「四段目はもう煮物を流し込む感じでいいわ。どうせあの子たちは花より男子だから」
「もったいないですよね。今どき四段重なんて珍しいし、おばさんのお節料理こんなに綺麗なのに」
苦笑しながら、私は煮しめを詰めていく。にんじんは花形に抜かれ、れんこんは周囲に切り込みを入れた飾り切りと、見た目も楽しめるよう手の込んだ仕様だ。
「ありがとう、そう言ってくれるのユーリちゃんだけよ。
ほんっと、ニート全員解雇してユーリちゃんに扶養に入ってもらおうかしら」
「ええと…お気持ちは嬉しいんですが、扶養から外れる程度には稼いでますから」
「若くしてその経済的自立っぷり、有能すぎる」
どんな返事をしても私アゲが半端ない。助けて。
最上段となる重箱に紅白のかまぼこを交互に並べていたら、おそ松くんが盛大な溜息と共に台所にやって来た。
「ちょっと聞いてよユーリちゃん!チョロ松が俺のこと冷遇するの、ひどくない?俺真面目に掃除してるのに!」
愚痴を溢しながら冷蔵庫を開け、お茶の入ったピッチャーを取り出す。
「無事に進んでる?」
「今終わったとこ。てか、このクソ寒い時期に窓拭きとか正気の沙汰じゃないよな。寒すぎてマジ無理」
「でもちゃんとやったんだ?偉い偉い」
「でっしょー?もっと褒めて。俺超頑張ったよ」
ガラススコップに注いだお茶を一気に飲み干したかと思うと、おそ松くんはなぜか不思議そうな目で私とおばさんを見やる。
「おそ松くん、どうかした?」
盛り付けの手を止めて、私は顔を上げる。彼は気恥ずかしそうに鼻の下を指先で擦った。
「…あ、うん、何ていうか…うちに姉貴がいたらこんな感じなのかな、って」
これは外堀が埋まってくる感じなのかと、顔には出さず警戒する。しかしおそ松くんが私と
カラ松くんとの関係に進展を望むのは妙だ。私は彼の出方を待った。
「カラ松とユーリちゃんが結婚したら──ユーリちゃんが妹になるんだよな?」
着眼点が百八十度違った。
だがこれはこれで危険な匂いしかしない。
「ユーリちゃんが何て?」
そこに気怠げな一松くんが現れて、私はもう好きにしてくれと全てを諦める。駄目なパターン入った。
「お兄ちゃん大発見、聞いて驚け一松!もしカラ松とユーリちゃんが結婚したら、ユーリちゃんはお前の姉さんになるんだぞっ」
「何、だと…」
愕然と目を見開く一松くん。おばさんに至っては、馬鹿が何か言い出したわね、と気にも留めず重箱に料理を詰めていく作業に徹する。
「ということは、つまり……ユーリ姉さん?」
「ちょっ、いちまっちゃんってば、その響きエロすぎるだろ!背徳の香りがする!」
間違いなく気のせいだ。
「しかもさ、俺はカラ松より上だろ?
ってことはだよ、俺はユーリちゃんにとって義兄になるわけで…ユーリって呼び捨てにできる権限があるってことじゃん!?」
そんな権限は未来永劫ない。
「いやいや、呼称としてはユーリ姉さんの方がどう考えてもいいでしょ。姉さんって響きだけで強くなれる気がしたよ」
唐突に有名曲の歌詞引用してくるの止めろ、スピッツか。
「そう考えたら、カラ松とユーリちゃんが付き合うのもアリって思うよな」
「うん、アリ中のアリ。おれたちへのメリットもでかい」
腕を組んで頷き合う長男と四男。
「本人置き去りにして勝手に話進めるの止めてくれる?」
年の瀬だというのに、胃が痛い。そもそもカラ松くんとは付き合ってすらないのに、この飛躍しすぎた会話は何なんだ。
「ニートたちの戯言は気にしない方がいいわよ」
「おばさん…」
優しく肩を叩かれて、私は救われたように彼女を見る。
「──でも確かに、ユーリちゃんにお義母さんって呼ばれるのは魅力的だわ」
松代の追撃に心が挫けそう。
私たちが買ってきた年越しそばは、夕食の一品として円卓に出された。
日付が変わる直後まで放送される毎年恒例の長時間バラエティと共に、松野家の居間にはそばを一斉に啜る騒々しい音が響く。去年はどのコーナーが面白かったとか、六人の笑いのツボが微妙に違うこと、私の仕事の業務内容など、とりとめもない話題が行ったり来たりして、時間はあっという間に過ぎていく。
番組が終盤に近づく頃、テレビの画面を通して除夜の鐘を聞きながら、私たちは外へ出る準備を整えた。
「ユーリ、眠くないか?」
上着を羽織りながら、カラ松くんが心配そうに私の顔を覗き込む。
「大丈夫だよ」
「そうか。ゲストだというのに色々手伝わせる結果になってしまったから、もし疲れたらすぐに言ってくれ。新年早々ユーリに辛い思いをさせるわけにはいかないからな」
「そこまで動いてないから今は平気だけど、ありがとうね」
その気遣いが嬉しい。微笑んで応えたら、カラ松くんは目尻を朱に染めて目を細めた。
おじさんとおばさんに見送られ、私たちは初詣のために近所の神社へと向かう。徒歩圏内とはいえ所要時間は半時間を超える上、都内の初詣人気ランキング上位に入るが故に大晦日から新年にかけては人出が多く混雑することで有名である。
巨大な銅製の鳥居をくぐり、広大な境内を本殿目指して進む。その一本道は距離にして百メートルに満たないが、足の踏み場もないほど人でごった返している。本殿前に設置されている賽銭箱も縦一メートル幅数メートルと巨大で、参拝者の多さを物語る。
「神社も見たし帰ろうか」
人気アーティストのライブ会場かと見紛うほどの人混みを目の当たりにした一松くんが、着くなり撤退を提案する。
「待て待て」
制止の言葉は反射的に私の口をついて出た。来たばかりの最後列で弱気な発言はいただけない。
「兄さん、帰るにしてもまた半時間以上歩くんやで」
四男の肩を叩き、真顔で言い放つのは十四松くん。
「こっから賽銭箱まで何分…いや、何十分かかるか。…あ、そうだ、何分で辿り着けるかお前ら賭けない?」
「年始早々くらい賭博から離れろ。そもそも夜に初詣行こうって言い出したのお前だろ?」
チョロ松くんがおそ松くんを嗜める。
「いやだって、深夜だと人目を気にせずイチャつくウザい学生カップル少なそうじゃん?」
「その代わりDQNやパリピの巣窟になるけどね」
最善の手を選択したと過信するおそ松くんに、末弟からの容赦ない駄目出し。
「じゃあ何時頃だったら安息の地になるんだよ」
「んー、二日以降の夜とかは?絶対数が少なくなるだろうから、比例してカップルが視界に入る率も低そう」
「それは初詣感薄れるからナシ。何だよ、二日以降の夜って。トド松お前、一年の計は元旦にありって言葉知らねぇの?」
おそ松くんの失笑を買ったトド松くんは、ハッと舌打ちに近い溜息を漏らす。
「童貞ニート穀潰しのカースト最底辺の分際で、元旦も二日もあるかよ」
「もうっ、おそ松くんもトド松くんも、その辺で終わりにしようよ」
私は両手を挙げながら、微苦笑で二人の間に割って入る。彼らの場合、兄弟の制止は効果がないケースも多いが、相手が異性だと成功率は爆上がりする。案の定、渋々といった体ではあったが二人とも口を閉ざした。
「清々しく元旦を迎えようって時に、カップルに遭遇しない確率論で喧嘩する虚しさ考えてマジで」
一触即発の空気を鎮めた後は、賽銭箱までの待機列の進行を待つのみである。辟易する人混みではあるが、満員電車のような密度ではなく、腕を動かせる程度の間隔が空いているのは幸いだ。
「ハニー、オレから離れるんじゃないぞ」
格好つけでも何でもなく、カラ松くんが険しい顔で言う。
「ちょっと端に寄ろうか。真ん中の混み具合よりはマシだと思うし」
チョロ松くんの指示で右寄りに歩を進める。密度の低いと思われる外側に誘導されると、幾分か息苦しさが緩和された気がした。
「あと少しだし頑張ろうね、ユーリちゃん」
「そうだね」
傍らに立つトド松くんに景気付けられて、私は笑みを作った。
賽銭箱への距離は残り約半分、人の流れに身を任せていればいつかは目的地に到達するだろう。気合いを入れ直すために一旦立ち止まった時、私の背中に何かがぶつかった。あ、と意味のない声が口から出る。
誰かの背負ったリュックが衝突したと気付くのと、バランスを崩すのが同時だった。
「──おっと」
前のめりになる私の肩を支えくれたのは、おそ松くんである。
「大丈夫?」
「あ…う、うん」
私の両肩に手を置きながら、彼は肩越しに睨みをきかせる。
「つーか、女の子にリュックぶつけといてシカトかよ、あいつ。転んで怪我させたらどう責任取るつもりなんだよ」
「おそ松くんのおかげで助かったよ、ありが──」
しかし私の感謝の言葉が最後まで紡がれることはなかった。
カラ松くんが、私とおそ松くんを強引に引き剥がしたからだ。
おそ松くんに対して咎めるような鋭い視線を向けながら、私の腰を片手で引き寄せた。自分の身に起きた出来事を理解する間もなく、服越しに彼と密着する体勢になる。
「おそ松、ハニーから手を離せ」
語気を荒げることもなく淡々と放たれる言葉。
「昼、オレによく叱られるとユーリは言ったよな?」
「ちょっと、今そんな話は──」
「オレがユーリに対して苛立つのは、こういう瞬間だ」
視線は依然としておそ松くんに向けられたまま、尖った声だけが私に刺さる。敵意を剥き出しにされるのは慣れているとばかりに、おそ松くんは苦笑しながらお手上げのポーズだ。
「今のはわざとじゃないから」
「だから、何だ?」
感情を抑えるみたいな低い声音。
「おそ松くんは、転びそうになった私を支えてくれただけなのに。そのイライラはお門違いだよ」
私の反論は想定の範囲内だったはずだ。しかし彼は眉間に刻んだ皺を一層深いものにする。
「ああ、そうだ。おそ松に非はない」
「だったら──」
「すまないが、他の男がユーリに触れること自体、許容できそうにない」
私は目を剥いた。
人混みの喧騒の中、一際際立って私の意識を捉える。
こじらせた童貞の面倒臭さここに極まれりというのが正直な気持ちだった。長男はとんだとばっちりだ。
「兄弟勢揃いの場で告白紛いのクサイ台詞吐くのはどうかと思うぞ、カラ松」
チョロ松くんが溜息をつきながら、カラ松くんの肩を叩く。三男による仲裁と全員の呆れた視線に気付いてようやく、カラ松くんは我に返った様子だった。
「あっ、え…こ、これはだな、その…」
顔どころか耳まで赤らめて、彼は弱々しく言い訳を試みる。
「カラ松兄さん、ユーリちゃんのこととなると豹変するよね」
トド松くんが長い息を吐いた。
正式な謝罪はなかった。混雑と人目もあって何となくうやむやになり、当初の目的である参拝の達成が再び私たちの最優先事項となる。けれど一度私の中に湧き上がった不快感は、小さなしこりとして胸に残った。
いつの間にか日付が変わって新たな年を迎えていたが、素直に祝う気持ちにはなれずにいる。淀みを心に溜めたまま清々しい挨拶を交わす気にもなれなくて、どうしたものかと思案した時。
「ユーリ、こっちが空いてる」
腕を引かれて、人の隙間を抜ける。眼前には、見慣れた後頭部と後ろ姿。抵抗を考えるより前に、瞬く間に賽銭箱の近くへと辿り着いた。
「な?」
得意げな微笑みが彼の顔に浮かんで、ほとんど条件反射的に私も笑ってしまう。やられた、と思った。
大きな賽銭箱にそれぞれ硬貨を投げて、手を合わせる。
私が参拝を終えて目を開けても、カラ松くんはまだ真剣な表情で両手を合わせていた。その横顔に、いつだって真っ直ぐに私と向き合おうとする彼の姿を思い出す。同時に、不器用で下手くそなことも。
「カラ松くん」
「ん?」
「長いお参りだったね。何をお願いしたの?」
「へっ!?あ、その、オレは…」
肩を強張らせて、私から視線を逸らす。しかしすぐに観念したかのように、緩く口角を上げた。
「オレの決意を応援してほしいと頼んだんだ」
童貞ニートらしからぬ発言に、私は驚きを隠せなかった。
楽して一生安泰に暮らせますようにとか、努力せず今年こそ異性とヤれますようにとか、そういう低俗な願い事だとばかり思っていた。正直ごめん。
「決意?」
「ああ。今年中に結論を出したいことがあるんだ」
「そっか。目標があるのはいいことだと思うよ、私も応援するね」
新年の参拝は、神頼みの場ではないとも言われている。己の名と所在を明らかにした上で、前年無事過ごせた感謝を述べるのが正しいとも。
「ハニーは何を願ったんだ?」
「私は、好きな人たちと今年も楽しく過ごせますようにって」
手を合わせて祈る参拝客たちを尻目に。
「──その中に」
「え」
「その中に、オレはいるか?」
希うような、縋るような、切実さを秘めた双眸。聞かずとも分かっているくせにと、一笑に付すことができない。
「もちろん。トップにいるよ」
「…そうか」
私の声は、彼に幸せをもたらすためにある。どうかその微笑みを絶やさずに、後悔のない一年を。
「じゃあ改めて──あけましておめでとう。今年もよろしく頼む、ハニー」
「うん、あけましておめでとう。こちらこそ、よろしくね」
自然と笑みが溢れる。
「あと…さっきは、すまん」
気まずそうに目線が地面に落ちた。カラ松くんから紡がれたその一言で、僅かに残留していたわだかまりが跡形もなく消えていくのが分かった。非を自覚して認めるのは、思いの外勇気を必要とする。
「分かってくれたならいいよ。でも良かった、このまま微妙な気持ちでカラ松くんと新年迎えるの嫌だったんだよね」
「勢いでうやむやにならないかと一瞬思ったんだが…ユーリに対して不誠実なのは、オレが嫌だ」
「うんうん、よくできました。花丸あげちゃおう」
私はにっこりと笑顔を作って、カラ松くんの頭を乱暴に撫でた。
「は、ハニー…っ、子供扱いは──」
「あっ、一松くんのフード発見!みんなあっちにいるみたい、行こう!」
私たちを探すように首を左右に振る五人に向けて手を上げたら、いち早く十四松くんが私を視認して手を振り返した。
カラ松くんの手を、今度は私が取る。人混みではぐれないように、離れてしまわないように。
「ユーリ」
駆け出そうとした背中に声がかかって、振り返る。
「今年は」
「うん?」
「今年こそは…」
「ユーリちゃん!カラ松兄さーん!」
しかしその後に続く言葉は、十四松くんのはつらつとした声に掻き消されて、私には届かなかった。
参拝を終えてからひとしきり屋台に並んだため、初詣を終えて松野家に戻った頃には、いわゆる丑三つ時と呼ばれる深夜帯になっていた。帰り道は言葉数も自然と減り、私の瞼も徐々に重量感が増していく。
トド松くんが気を利かせてタクシーを呼んでくれ、私たちが松野家に戻る頃にはタクシーが玄関前でハザードを点灯させていた。
「ユーリちゃんと一緒に年越しできて良かった」
「帰りは気をつけてね」
六つ子たちに見送られて別離を告げる。
全員揃って玄関前でさよならかと思いきや、おそ松くんが一際大きなあくびをした。
「なぁ、お前らが何でこの歳までずっと童貞なのか、お兄ちゃんが教えてやろっか?」
気怠げに髪を掻いて、彼は続ける。
「──こういう時に気が利かないからだろ」
カラ松くんを除く四人が、目から鱗が落ちたとばかりに愕然とした。いや、君らの童貞はもっと根本的な問題だと思うが。
彼らは挨拶もそこそこに、我先にと慌てた様子で家に戻っていく。玄関前には、呆然とする私とカラ松くんが残された。そしてようやく長男の意図を察した次男が、顔を赤らめる。遅い。
「そういえば、さっき何を言おうとしてたの?」
「さっき?」
「初詣で合流する前に。カラ松くん、何か言いかけたでしょ?」
十四松くんの呼び声が重なって聞こえなかったから。
カラ松くんは、あー、と間延びした声を発した後、気恥ずかしそうに指先で頬を掻いた。場の空気感も状況も、先程とはまるで異なる。彼の中では区切りがついて過去の遺物となったものを、今更掘り返されるのは抵抗があるのかもしれない。
「あ、別に、大したことじゃないなら…」
無理に語る必要はないと言おうとした私の言葉を、彼は遮る。
「今年こそはユーリを幸せにしたい、そう言おうとしたんだ」
幸せ。
私もときどき口にするけれど、その境地に到達する基準は人によって大きく違うし、感じ方も様々だろう。発する方と受け取る方も、また然り。
「私を…」
反芻するように呟けば、カラ松くんは憂いを帯びた表情でフッと息を吐く。
「分かっているさ。このオレと出会ってハニーが幸せの頂にいるファクトくらいは、もちろん理解しているとも。
しかしハニーはまだ、オレの魅力の数パーセントしか知らないと言っても過言ではない。オレの本領はこれからだ。一年かけて、しかと刮目して目に焼き付けてくれ!」
「はいはい、楽しみにしてる」
呆れ半分期待半分で、苦笑しながら私は返事をする。
「後悔はさせないぜ!」
少女漫画の描写さながらに目を輝かせて、指を鳴らす仕草。絶好調だな。
タクシーの後部座席に乗り込んで、私はカラ松くんに視線を向ける。
「さっきの言葉、一瞬プロポーズみたいだと思ってビックリしたよ」
「そんなことをしたら、カラ松ガールズたちのジェラシーでハニーが針のむしろになってしまうじゃないか」
すごい自信だ。驚きを通り越していっそ感心する。
まぁ、たまにそういう突拍子もないナルシストぶりを発揮するのも、可愛い推しを構成する大事な要素ではある。
「何言ってんだか」
「…気をつけて帰るんだぞ、ユーリ」
「うん。じゃあまた明日連絡する──いい一年にしようね」
「ああ」
ユーリを乗せたタクシーが遠ざかっていく。彼女は途中後ろを振り返り、もう一度カラ松に微笑んで手を振ってみせた。
「プロポーズ、か…」
彼女の発言に深い意味はなかっただろう。何気ない会話の一部に過ぎす、浮上した感情を正直に吐露しただけで、カラ松を追求する意味合いなど皆無の、ただの感想。
「もしその通りだと言ったら…ユーリは、何て答えてくれた?」
誰に聞かせるでもない問いは空気に溶けて、カラ松の胸にもどかしさだけを残した。