悪魔の六つ子に関われば、災厄が容赦なく降り注ぐ。
彼らを知る者は上記のような主観の下、まともな思考の持ち主ならば極力接触を絶とうとするし、悪知恵の働く輩は彼らを狡猾に利用しようと策略を巡らせる。事件は日常的に勃発し、平穏な日々は刹那にて消滅する───そう思っていることだろう。
しかし実のところ、トラブルは日々頻発しているとは限らない。些末な兄弟喧嘩程度でお茶を濁すことも多いし、何なら六人誰一人として激昂せず就寝時間を迎える日だってある。
これから語るのは、起承転結もなくひたすらダラダラと過ぎていく私とカラ松くんのある一日の風景の記録だ。
その日の逢瀬は我が家への訪問から始まった。
約束の時刻より少し前に玄関のインターホンが鳴って、モニターにカラ松くんの顔が映る。すぐさま玄関を開け、嬉々として彼を出迎えた。
「今日はコールドだな。風が冷たくて参った」
寒気で赤くなった鼻をすんと鳴らして、カラ松くんは靴と上着を脱いでリビングに入る。私の部屋の訪問も慣れたもので、以前は緊張感を伴って体を強張らせていたが、今や第二の我が家といった体で悠々とソファにもたれた。我が家には、彼の定位置がある。
「窓閉めてても風の音がするくらいだからね。今日はどうする?どっか行く?」
今日の予定は、私の家に集まってから考えようという話だったので、腰を下ろしてカラ松くんに尋ねる。彼は眉をひそめてふるふると首を振った。
「財布には帰りの電車賃くらいしかない」
「え、何に使ったの?」
「最近はユーリと会う以外ではほとんど使ってないぞ。インカムがなければ当然の流れだ」
「これだからニートは」
「パチンコは行った」
「それだ」
収入がないのに支出ばかりが嵩むとはどういう了見だ。消費者金融からの借り入れがないだけマシと思うべきなのか。
「…まぁいいや。じゃあ外も寒いし、うちでダラダラする?」
「遠出する計画でも立てないか?それに合わせて今後は資金繰りする」
「資金繰り、ねぇ…」
私は懐疑的な目を向ける。
「何だ?」
「どうせパチンコとか競馬とかで、楽して稼ぐっていうんでしょ?」
私が言えば、カラ松くんは我が意を得たりとばかりに双眸を輝かせて指を鳴らした。パチンと高い破裂音が室内に響く。
「イグザクトリー!察しがいいな、さすがはユーリだ。しかし──」
カラ松くんは唐突に私の片手を取って、自身の口の高さまで持ち上げる。
「マイプリンセスユーリがギャンブル嫌いというなら、真っ当な方法で稼ぐさ」
ポーズだけならかしずく従者さながらだが、いかんせん台詞にロマンのロの字もない。ただの駄目男。私は騙されないぞ。
「趣味の範囲内でも私が快く思わなかったら?」
まるで試すような言い方になった。私と仕事とどっちが大事なのなんて、比較にならない対象を比較するみたいな、不毛な問い。
けれどカラ松くんは躊躇なく答える。
「そこはネゴシエーションだ。ただ…ハニーが本当に趣味の範疇でも嫌なら、潔く止める」
私は瞠目した。ギャンブルは彼らニートにとって絶好の暇つぶしであり、運次第では労せず万単位が稼げる手段だ。それを私の一声で捨てる決意があると、彼は言う。
「カラ松くん…」
「──かもしれない」
知ってた。
「コーヒー入れてくる。ユーリもいるか?」
そう言ってカラ松くんは腰を上げた。
「うん、貰おうかな」
「分かった。待っててくれ」
柔らかい微笑みを私に投げて、彼はキッチンへ向かう。
一人暮らし用の、決して大きいとは言えないキッチンスペース。カラ松くんは慣れたもので、ケトルで湯を沸かす間に、色違いのマグカップの中にインスタントコーヒーを入れる。ポーションとスティックシュガーも、迷わず収納棚から取り出した。片手を腰に当てながら鼻歌まじりに湯を注ぐ様子はリラックスしきっていて、まるで自宅だ。
それから六つ子の誰かがパチンコの景品として持ち帰ったクッキーを皿に盛り、合わせてリビングに運んでくる。
「ふふ」
「どうした?何か面白いことでもあったか?」
ソファで膝を抱えながら私が笑うと、カラ松くんが傍らに膝をついた。
「カラ松くんの家にお邪魔したみたいだな、と思って」
「場所を提供してくれてるからな」
これくらいの対価は当然だ、と彼は言う。
「…うーん、そういう意味じゃなくて」
「ユーリだってうちで同じようにするじゃないか」
「それはおばさんがいいって言うからだよ」
親戚以上の頻度で訪問する私を、おばさんは嫌な顔一つせずいつも歓迎してくれる。食器の配膳や片付けを手伝ううちに、台所の使用に関して管理者の許可制が廃止された。私への信頼の証なのだろうが、外堀が徐々に埋まってきている恐怖もまた感じている。
「もうハニーは客人じゃないからな。ブラザーたちにとってもブラザー…じゃなくて、シスターみたいなもんか」
どちらの意味合いで受け取るべきか一瞬悩んで、彼の無邪気な笑みからすぐに察する。頭に浮かんだ言葉を、ただ口にしているだけなのだ。
「それ、口説き文句にもなるよね」
「…え?」
カラ松くんはきょとんして首を傾げた後、ようやく私の意味するところを理解したのだろう、一瞬にして顔が赤く染まる。
「ッ…え、あ、あの…ハニー、オレは別にそういうわけじゃ……ない、ことも、その」
言葉に詰まらせる様子を、私はマグカップに口をつけながら横目で見つめる。
いつも私が助け舟を出していた。彼が私への好意を無意識に吐露する時、中断させるのは私の役目だった。言わなくていいよ、からかってごめんね、と。
でも、たまには最後まで聞いてみてもいいかもしれない。この空間には、私とカラ松くんしかいないのだ。
「だ、だから、つまり…」
目が逸らされて、時間稼ぎの接続詞が続く。我知らずニヤけていたかもしれない。やがて視線を戻したカラ松くんは赤面した顔のまま眉根を寄せた。
「…趣味が悪いぞ、ユーリ」
低く絞り出された声に、危うくコーヒー吹くところだった。トップオブ可愛い。
「で、もし遠出すとしたらカラ松くんはどこに行きたい?」
「もし、じゃない。行くんだぞ」
決定事項とばかりに彼は言い切った。私と色違いの青いマグカップでコーヒーを飲みながら。どうせ何度も来るからと二人で買い揃えたものだ。
「距離があればあるほどお金かかるけど、大丈夫?
躊躇なく出せるくらい支払い能力の高い私と違って、カラ松くん無職なんだよ?」
「心配すると見せかけて容赦ないオレへのディスり」
「事実でしょうが」
「確かに」
不承不承といった顔で、カラ松くんは腕組みをする。
実施前提の候補地選出という名の下、スキー、テーマパーク、神社仏閣巡り、中華街、動物園といった定番の観光スポットが候補に挙がる。スマホやタブレットに映し出される魅力的な写真や情報には心が躍った。
「資金が限られてるから、費用面優先にして考えた方がいいかな」
「オレはユーリと一緒なら、何でも楽しいぞ」
そういう話じゃない。
「まったく、そうやって前提を引っくり返さないで。それならもう家で良くない?家でひたすらダラダラするの、自堕落万歳」
投げやりに答えたつもりだったが、カラ松くんは真剣な表情で顎に手を当てる。
「なるほど、それもいいな」
お前は毎日飽きるほどやっているじゃないかという毒は飲み込んだ。言っても詮無いことだ。
「ずっと私と二人きりでカラ松くんは飽きない?
私は三百六十度から推しを視姦し続けられるから全然いいけど」
「え、しか…何?」
何でもないです。
カラ松くんは訝しむような鋭い視線を私に向けたが、にこにこと笑みだけを返したら、すぐに穏やかな表情に戻る。
「ユーリがいいならオレも構わない…というか、そうしたい」
これもう恋人同士の台詞だよな、というツッコミを今までに何百回脳内で行ったか知れない。そろそろツッコミ通り越してスルースキルが発動しそうだ。しかし都度恥じらうカラ松くんの姿が眼福すぎるので、止める気はない。
「でも正直アクティビティも捨て難いよな。もうすぐ春だし」
「うん、それは同意。気温が下がってめっきり拝めなくなった腹チラの早期再開を切望してる」
「…またそういうことを言う」
「見たいものは見たいの」
「こら、腰を凝視するな!」
パーカー越しにウエストを見つめていたら、慌てて両手でガードされた。カラ松くんが着るパーカーは、決して体のラインや肌が出る類のデザインではないが、妙な色気があると私は思っている。まぁ、要は推しなら何でもいい。
「捲くってみてもいい?」
「お、おい、ユーリ…っ」
にじり寄って裾を摘んだら、カラ松くんから腕を掴まれた。けれど私がもう少し力を込めたら容易く強行できるくらいに、抵抗する力は弱い。顔は朱色のままだ。
「私と一緒なら何でも楽しいんじゃないの?」
「それは屁理屈だぞ!」
「そっか」
頷いて、青い布から手を離す。元いた位置に座り直す私を、カラ松くんは拍子抜けした様子で見つめていた。あっさり引き下がったことに驚愕していると、その表情は物語る。
「本気で嫌がることはしないって決めてるから」
無理矢理すれば犯罪だしな、という本音は隠しておく。隠匿こそ美徳。
「…嫌じゃ、ない」
俯いた顔から漏れた声。
「ユーリに触れられるのは決して嫌なわけじゃないんだが、何というか…」
ああ、と私は思う。彼は歩み守ろうとしている。断固とした拒絶を貫いていた当初からは、大きな譲歩だ。
「うん、カラ松くんの許容ラインがあるよね。いつかいいと思ったら教えてほしいな、私は虎視眈々と狙い続けるだけだから」
「ハニー、そういう発言はせめてオブラートに包んでくれ」
そんなものは知りません。
撮り溜めたドラマを観たり、各々自由に過ごしたりするうちに、いつしかカーテンの向こうに広がる景色に闇の帳が降りる。冬は日が暮れるのが早い。時計の針はまだ五時を過ぎた頃だ。
私はスマホから顔を上げて、カラ松くんに尋ねた。
「カラ松くん、晩ご飯食べていく?」
「え、いいのか!?もちろんだぜハニー!」
「何食べたい?」
「肉!」
一瞬の迷いもなく言い放たれる。冷蔵庫の中身を思い返して思案するも、彼を満足させる食材はあいにく在庫がない。
「どうせならステーキでも食べよっか。私もお腹すいてるし」
私が答えると、カラ松くんは目を輝かせたが、すぐに不安げな表情になる。
「しかしユーリ、ステーキは高くつくんじゃないのか?その、オレは金が…」
「外国産の安いお肉買うし、一人千円もしないよ。晩ご飯代は体で払ってくれたらいいから」
「へっ、か、体…!?」
カラ松くんは戸惑いがちにじっと自分の腹部を見る。
「そっちの体でもいいっていうかむしろ熱烈歓迎だけど、配膳と皿洗いと後片付けって意味だから」
「あっ、そ、そうだよな。フッ、いいだろう、その条件で引き受けようじゃないか!」
最寄りのスーパーは程よく混雑していた。休日の夕方、夕食の材料の買い出しに訪れたであろう客が後を立たない。
私とカラ松くんは肩を並べて自動ドアをくぐった。恋人同士か夫婦に見間違えられてもおかしくない距離感で、買い出し用のメモを覗き込む。
「スープも追加しようか。湯煎タイプのレトルトでいいよね。せっかくカラ松くんもいるし、ディナーっぽい感じで揃えたいな」
「湯を注ぐだけでいいインスタントの方が安くないか?マミーはいつもそっちを業務スーパーで買うぞ」
ただでさえエンゲル係数が高い松野家では、パウチのレトルトを人数分買うのは非経済的なのだろう。
「価格を抑えるなら確かにそっちだね。後でカップスープのコーナーも寄ろう」
付け合わせ用の野菜を手に取って、カラ松くんが持つカゴに入れる。
入口入ってすぐの生鮮食品を過ぎて辿り着くのは、精肉売り場だ。他には目もくれず牛肉コーナーの前に立つ。
「ステーキ肉は…うおっ、和牛のサーロインは千円を余裕で超えてる!え、これ高すぎないか?これで正規価格?」
「国産はサシが入ってて柔らかいから、そりゃ高いよ。私たちが買うのはこっち」
私が笑いながらすぐ隣に置かれているタッパを手に取ると、カラ松くんが興味深げに目を向けた。
「アメリカ産ロースステーキ…」
「そう。それも厚切り肉」
厚さ二センチ近い分厚いステーキ肉で、価格は平均千円以下。今日は運良く広告掲載商品だったらしく、一人前で七百円未満とお得な価格帯だった。二パックをカゴに入れ、サービスで置かれている牛脂も貰っておく。
「ワオワオ、最高に豪勢な晩餐じゃないか!イカしてるぜ、ハニー!」
「外でラーメン食べる値段でステーキが食べられるんだから、お得な感じがするよね」
「ユーリの手作りだから、より一層、だな」
感慨深く呟いてから、カラ松くんはハッとして私の顔を見た。
「なぁハニー、ついでにビールもどうだ?ビール代くらいはオレが出す」
最高のお誘いきた。
「いい案だけど、カラ松くん電車賃なくならない?」
「ギリギリだ」
財布事情は隠そうともしない。あけっぴろげというか素直というか。
「分かった。じゃあビールも買おう」
答える私の笑みに呼応するように、カラ松くんは破顔した。
マンションへの帰り道、ビニール袋を下げてカラ松くんはご機嫌だ。
「いいな、こういうの。
外で食べるのももちろん楽しいんだが、ユーリの家でユーリの手料理を食べるハピネスは、プライスレス…ッ」
演技臭い台詞だが、照れ隠しなのは百も承知。
「私も、普段は自分のためにしか作らないから、誰かのための料理って気合い入るよ。カラ松くんは美味しく食べてくれて、作り甲斐あるし」
目を瞠って歓声を上げたり、染み入るように声を漏らしたり、表現の仕方は様々だけれど、私のどんな料理に対しても「美味しい」の反応をくれる。元々大袈裟にしがちな彼の癖が効果的に作用して、需要と供給のバランスが上手く保たれていると言っていい。
「フッ、ミショランの三ツ星に引けを取らないハニーの手料理を食すことができるのは、専属ナイトの特権だな。選ばれし…オレ!」
無意識の、間接的な鼓舞。腕を振るいたいと相手に思わせる絶妙な手腕だが、きっと本人は気付いていないだろうから、黙っておくことにする。
帰宅後、エプロンをつけて料理開始だ。
炊飯器は買い物前に仕掛けていて、あと数分で炊きあがる。メインは最後に取り掛かる必要があるため、付け合わせの野菜とスープの準備から取り掛かった。キャベツ、玉ねぎ、にんじんといった水分の少ない野菜を塩コショウで焼くだけだ。シンプルだが、野菜の味が引き立つし、ステーキソースと絡まっていい味になる。
一通りの段取りを考えてから作業に移る私の視界には、双眸を輝かせて待つカラ松くんが時折映って、つい笑みを溢しそうになる。
完成した焼き野菜を皿に移し、室温に戻していたステーキ肉の調理にかかる。肉のパックを手にしたら、カラ松くんが立ち上がって私の傍らに寄ってくる。
「ハニー、どんなマジックを使うんだ?」
「魔法ってほどじゃないよ。先人の知恵を借りるの」
「先人の知恵?」
首を傾げたカラ松くんに、私はにこりとスマホを見せる。
画面に映るページのタイトルは『外国産の安売りステーキ肉を最高の美味しさで焼くカンタンな方法』。そしてその下には、肉汁滴るミディアムレアに焼き上げられた、厚切り肉の断面図の写真。
「何だこのギルティな肉の断面は…!ジーニアス…っ」
「でしょ?」
口の中でとろける高級な国産牛も美味だが、適度な歯ごたえと肉をたらふく食べた充足感は厚切り肉に軍配が上がる。
肉の筋を切り、これでもかとフォークで穴を開け、片面にブラックペッパーと塩を振る。一般的な胡椒を代用しても差し支えないだろうが、ステーキには黒胡椒特有の刺激が最適だと私は思う。
下ごしらえができたら、後は焼くだけだ。スーパーで貰ったキューブ状の牛脂を温めたフライパンに置き、溶けたら肉を投入。焼き目がついたらひっくり返す。両面を数分焼いたら、アルミホイルで包み余熱で火を通す。
「匂いだけで白飯一杯は余裕でいけそうだ」
換気扇を回しているとはいえ、肉とソースの香ばしい匂いがキッチンに充満している。
「あと少し待てば完成だから、カラ松くんはお茶碗にご飯よそって」
「オーケーだぜ、ハニー!」
おどけるように敬礼して、カラ松くんは炊飯器の蓋を開けた。その間に私は、大皿に焼き野菜を添え、スープカップにお湯を注ぐ。最後にアルミホイルから肉を救出してソースと絡めれば出来上がり。
あれよあれよとリビングのテーブルに料理が並び、私たちも腰を下ろして手を合わせた。
「いただきます」
さぁ、存分に肉を食らおう。
一口大に切った肉の歯ごたえを十分楽しんで嚥下したカラ松くんは、しばし感動に言葉が出ない様子だった。皺を寄せた眉間に指を当て、苦悶の表情を作る。
「旨すぎる…!ユーリ…オレに隠し事はノンノンだぜ。前職はやはりミショラン三つ星店のシェフだったんだろう?」
いやいやそれはさすがに言い過ぎじゃないかね、もっと言って。
「ふふ、それほどでもあるけど…なんて。検索のトップに表示されるレシピだけあって、美味しいね」
「まだ一切れしか食べてないのに、ステーキを堪能したと言っても過言ではない充足感…っ。まだ九割残ってるんだぞ、いいのか!?」
いいんじゃないでしょうか。
ステーキを堪能することに罪悪感を感じる必要性をむしろ知りたい。
いや、彼が抱くのは背徳感なのかもしれない。上等な肉を誰と奪い合うこともなく、周囲を警戒せずとも悠々と食すことができるこの時間に対する。どちらにせよ至極どうでもいいが。
「ユーリの料理だから何を食べても旨いのは当然としても、千円もいかないあの肉が、こんなに程よい噛みごたえの旨さになるとは…!」
そう言って、二切れ目を噛みしめるように頬張るカラ松くん。推しの餌付けは着々と進行している。
二センチ近い厚切り肉を一枚ぺろりと平らげ、私が差し出した一切れもあっという間に胃袋に収めて、カラ松くんは十分に満足した様子だった。今夜の食費を私が負担する代わりに後片付けを担う役目も嬉々として果たし、仕上げにシンクを拭き上げて、彼は食後のコーヒーと共にリビングへと戻ってくる。
「何時くらいに帰る?」
時刻は七時半を回り、テレビにはゴールデンタイムのバラエティ番組が映っている。
「そうだな、九時には出る」
「あと一時間半くらい、か。今日もあっという間だったなぁ」
さっき訪問してきたばかりのような気がするのに、もう帰る時間を気にしなければならないのか。
「…オレもだ。楽しい時間ほど過ぎるのが早く感じるな」
「本当に」
「やることなくてボーッとしてる時のあの長すぎる体感時間を、ユーリと一緒にいる時に感じたいもんだ」
ギャンブルに興じる軍資金を持たず、入り浸っていたコンビニのイートインコーナーは出禁になり、自宅で過ごせば退屈で気が狂いそうになるという。時間が潰せて収入も得られる一つの選択肢は常に彼らの眼前に提示されているけれど、彼らは『仕事』からは目を逸らし続ける。客観的に見れば、正真正銘のダメ男ども。
深入りすれば間違いなく被害を被ると気を引き締めたところで、カラ松くんからの熱のこもった視線に気付く。
「別れ際はいつも後ろ髪を引かれてるんだぞ」
蕩けるくらい優しく細められた瞳と、意図的に感情を抑えた声音。
「そうなんだ?」
私は微笑んで、カラ松くんの傍らに移動する。それから彼の肩口に自分の頭をのせた。ぴくりと肩が揺れて、動揺が伝わる。
「こういうことしたら、特に?」
柔軟剤と肌の匂いが混じって、私の鼻孔をくすぐる。男臭いだろうとカラ松くんはいつも苦笑して、そのたびに私が否定する。いい匂いだよ、と。
「…当たり前だ」
頭上から声がかかる。
「──というか、こういうことをされると、もう帰りたくない以前の問題だぞ、ユーリ」
角度を変えて見上げれば、赤面しながらも仏頂面のカラ松くんがすぐ間近。
「…ユーリは?」
「え、私?」
「ユーリは、オレが帰るときどんな思いを感じてる?」
抽象的な問いにも関わらず、カラ松くんが望む模範的な回答などすぐに予測がつく。けれど百点満点の答えを口にして彼を欲求を満たしても、空虚なだけだ。
「ちっちゃなカラ松くんをポケットに入れて持ち歩けたらいいなとは思う」
「は?」
カラ松くんの眉間に深い皺が刻まれる。想定外を通り越していっそ不愉快、そんな感情が読み取れたが、私は素知らぬ態度で続ける。
「推しが生きる原動力だからね。例えば理不尽なクレームがあっても、『そんな口きいていいのか?こっちは推しをポケットに入れてよろしくやってるんだぞ』って強気で戦える。二十四時間持ち歩きたい感じ」
そういえば昔、小さくなった恋人と同棲する漫画があったなと思い出す。原作の結末はトラウマ級の鬱展開で、ドラマ化で救済処置が施されたほどだ。
「訊いたオレが馬鹿だった」
私の思考が逸れたところで、カラ松くんがテーブルに頬杖をついて唇を尖らせた。真剣な問いを茶化されたと感じたのだろう、機嫌を損ねてしまったようだ。
でも本音だよと言ったら──彼は一層怒るだろうか。それだけ一緒にいられたら、という意味で。
「終わりを自覚するのは寂しいよ。
でも次があるって分かってるから、楽しみが待ってるのは、幸せかな」
コップに水が半分入っていた時に、まだ半分あると感じるか、もう半分しかないと感じるか、そこにあるのは捉え方の違いだけだ。
カラ松くんは手のひらの上から顎を離して、じっと私を見つめた。笑いながら再び寄り添う私の肩に、戸惑いがちに手が伸ばされた。
目線をカラ松くんの顔から自分の肩へ移すと、無骨な指が視界に入る。その指と、肩に触れいる感覚がリンクして、ようやく彼に肩を抱かれていることを認識した。
「ポジティヴだな、ハニーは」
「全力で推せる推しがいますので」
なるほど、とカラ松くんは頷いて。
「ということは、地上に舞い降りたヴィーナスの如きハニーに活力を与えるこのオレは、さしづめ砂漠のオアシスといったところか」
両目をこれ以上なく輝かせて悦に入るカラ松くん。ああ、うん、君も十分ポジティヴだと思うよ、私は。その語彙が瞬時に出てくる表現力にも感服する。
「そうかもねー」
「しれっとスルーするんじゃない」
「してないよ。そうかもしれないなって、自分の中で落とし込もうとしてるところなんだから」
「え…いつもならここはスルー案件だろう?どうした?」
ガチで心配された。普段適当にお茶を濁されていることは一応自覚あるんだな。
「まぁ、推しが癒しであることは周知の事実だけども。その点で言えば、オアシスは妥当な表現かもしれない」
「…ッ!と、唐突に持ち上げるのは止めるんだ、ハニーっ」
「何で?カラ松くんが自分で言ったんだよ。うん、でもそうか、確かに顔とイケボと写真と思い出で活力貰いまくってるから、これは疑いようもなく──」
「あ、うん、ユーリ、もういい。もういいです、図に乗りました、止めて」
カラ松くんは私を制し、片手で顔を覆った。ムラッとするので、そういう可愛い仕草は自重していただきたい。
それでも彼は、肩口に顔を寄せる私をどかそうとはしない。水を飲もうと姿勢を正した時、言葉なく淋しげな視線が向けられて、捨てられた子犬みたいだと思った。ちょっと離れただけじゃないか、そんな小言が口をついて出そうになる。
カラ松くんの感情には気付かなかったフリを装って、私は再び寄り添う。
「ユーリ」
私を呼ぶ声は、今にも溶けてしまいそうなほどに甘くて。
「うん?」
「何でもない。呼んでみただけだ」
「何それ」
「ハニー」
「ん」
「…何でもない」
そうは言うけれど、カラ松くんの表情は言葉よりも雄弁だ。
肩に載せられた彼の手に、僅かに力がこもった。
ただただ穏やかに過ぎていく時間。
事件が発生するでもなく、物語に必須の起承転結があるわけでもなく、一日は終わりゆく。悪魔の六つ子と名高い彼らだが、単体で適切に扱う分には、特筆すべき危険もない日だってある。