酒に飲まれて酒を飲む

憎からず思っている異性との宅飲みは、童貞にとって心躍る特別なイベントだ。

二人きりで相手の自宅で過ごすシチュエーションは、それだけ互いに心を許している証拠に他ならないし、酔いが回ることで思わぬ本音が聞けることもある。そして万一何らかの事態が発生しても、アルコールのせいにできる特典つきだ。
いずれにせよ、ユーリから彼女宅での飲みに誘われて断る理由は、世界中探したって、カラ松には──ない。
あわよくばという不埒な願望も、ないと言えば嘘になる。年頃の男女が密室で二人きり、ほろ酔いの高揚感も手伝って、艶めいためくるめく展開があったらいいなぁ、なんて。

だからこそ、浮き立つ気持ちで玄関を開けた時、泥酔したユーリが現れた時は言葉を失った


「…ユーリ?」
カラ松の前に現れたのは、フロントジップの丈の長いパーカーに細身のデニムレギンスを合わせた部屋着のユーリ。その顔は首から額まで上気しており、ドアノブを掴む手も赤みが差している。
そして極めつけに──
「カラ松くんらぁ、いらっしゃぁい」
回らない呂律。
「おいたが過ぎるぞ、ハニー。オレが来るのを待ちきれなかったのか?どれだけ酒を飲んだんだ?」
玄関口でカラ松は腰に手を当て、溜息をつく。
大人っぽいあわよくばを期待はした、少々酔いが回ることも想定内だった。しかし出だしから泥酔は予想外、最初からクライマックス
「ひっどぉい、お酒なんて飲んでませんけどぉ。カラ松くんが来るのを今か今かと待ってただけだよ」
完全に酔っている。シラフのユーリなら、不自然に語尾を上げたりしない。
「飲んだだろ。…いや待て、質問を変えよう。オレが来るまでに何を飲んだ?」
「ノンアルを一缶だけ」
「ノンアルで酔ってたまるか」
即座に否定すれば、ユーリは無言で頬を膨らませた。カラ松が抱いていた淡い期待が一瞬で消滅したのは嘆かわしいことだが、いかんせん可愛い。酔っていなければ絶対にしないであろう仕草の愛らしさに、油断すれば目尻が下がる。

玄関を開け放ったまま問答を続けていても不問だ。カラ松は家に上がり、ユーリが飲んでいたと証言するノンアルコールを確認することにする。
「仕事終わってすごくお腹すいてたんだけど、喉も乾いてたから一気飲みしちゃったんだよねぇ」
これこれ、とユーリはにこにこしながら、シンクに置かれていた空き缶を手渡してくる。
ストロング缶だった。
もはや溜息も出ない。無言で冷蔵庫を開ければ、ユーリがカラ松との宅飲みのために購入したビールやチューハイの缶たちが最初に視界に入る。そしてその中には、ストロング缶のデザインによく似たノンアルコールの缶が鎮座していた。謎は全て解けた。
「ハニー…」
「んー?」
きょとんした顔で首を傾げないでもらいたい、ソーキュート。
「空腹でストロング缶を一気飲みすれば、酔って当たり前だ。ハニーがそんな初歩的なミスをするなんて、らしくないぞ」
一般的なビールやチューハイのアルコール度数が平均5%で、このストロング缶は9%。安価で手軽に酔えると謳われているものだ。
しかしユーリは証拠を突きつけてもなお白を切ろうとする。
「だからノンアルしか飲んでないってば」
「あのなぁ…」
「そりゃ確かにさぁ、早くカラ松くん来ないかなぁ、一緒に飲みたいなぁってソワソワしてたけど、さすがにそんな間違いはしないよぉ」
「……っ」
へらりと、何でもないことのように言うユーリとは対照的に、カラ松は唇を引き結ぶのに必死だった。嬉しくてニヤけてしまいそうで、慌てて口元を手で押さえる。
「と、とにかくだ、ユーリはまずは水を飲む。いいな?アンダスタン?」
ガラスコップに水道水を注いで渡したら、ユーリは怪訝そうにしながらも頭を垂れた。
「よく分かんないけど、まだ喉乾いてるからいいや。あ、でもこれ飲んだらね
そう言った彼女の右手には、いつの間にか二缶目のストロング缶が出現している。蓋は既に開いていて、ユーリは満面の笑みで一気にあおった
「ストオオオオォォオップ!今の今まで何を聞いてたんだ、ユーリ!オレの話のどこをどう解釈したらストロング缶二杯目という暴挙に行き着くんだっ!?正気か!?」
すぐさま取り上げたが、数口は飲まれてしまった。
「だからノンアルだって」
「違ぁう!」
先ほどから自分たちの会話は一見成立しているようだが、色々と破綻している。

「ユーリ、これ何本だか分かるか?」
カラ松は一メートル離れた場所に立ち、右手の人差し指を立てた。相手が酔っているか否かの判断に用いられるテストの一つだ。正しく回答できないなら、宅飲みは即座に切り上げなければなるまい。
「一本でしょ?やだなぁ、それくらい分かるよ~」
「そ、そうか…」
躊躇なく答えるユーリに、カラ松は安堵する。ということは、視界は一応正常らしい。
「ノンアルとストロングの区別くらいつくって。だからそのノンアル返して
前言撤回、これは駄目だ。




ユーリとは、もう何度も酒を飲んだ。
深酒にならないよういつだって酒の量を調節して、自分たち兄弟が崩れても最後まで背筋を正し、必要に応じて介抱もしてくれた。男所帯で紅一点だから自衛するのは当然としても、カラ松と外で飲む時でさえ同様だった。
泥酔したユーリを見るのは、そういえば初めてのことだ。

リビングのローテーブルには、仕事帰りにスーパーで買った巻き寿司やピザといった主食と、つまみ系の惣菜と菓子がパックのまま置かれている。箸と取り皿を並べ、ユーリには水を入れたコップを突きつける。
「宅飲みはまだスタートさえしてないんだぞ。飯で腹が満たされるまでは、ユーリはアルコール禁止だ」
「えー、横暴ー」
眉をひそめつつも、ユーリはコップを手に取った。
「悪酔いして明日に差し支えたらどうする。ハニーの貴重な休日を二日酔いにさせたくないんだ」
仕事に家事にと忙しない日々を、ユーリは十分に頑張っている。そんな休息すべき大切な日をカラ松と過ごすために費やしてくれることには、感謝しかない。だから、泥酔はユーリ自身の非とはいえ、カラ松の目が光る場所でこれ以上悪化させるわけにはいかないのだ。
やれやれと脱力しながらビールの缶のタブを開けたら、目を見開いてカラ松を凝視するユーリと目が合った。
「…ユーリ?」
何か失言をしただろうか。
カラ松の不安をよそに、ユーリはゆっくりと微笑みを浮かべる。
「カラ松くんはほんと、私に優しいねぇ。そういうの…すごく嬉しい」
はにかみながら、耳にかかる髪を指先で掻き上げた。袖から覗く白い手首と、伏せられた長い睫毛にカラ松は不覚にもドキリとする。血色のいい唇には、ピンクのグロスが映える。
「…ま、まぁ、その…相手が他ならぬユーリだからな」
「ふふ」
意味深に笑って、ユーリはコップの水で喉を潤した。透明なグラスの縁に、唇の跡が残る。
「あ、乾杯がまだだった、ごめんごめん。
ねぇカラ松くん、最初の乾杯が水じゃ味気ないから、その時くらいはお酒持ってもいいよね?」
「ん?ああ、そうだな、乾杯だけなら」
カラ松が飲みかけのストロング缶を渡すと、ユーリはそれをカラ松の前に突き出した。無言で応じて、アルミの缶を触れ合わせる。

「──乾杯」

レモンのみずみずしさと清涼感を感じさせるデザインの缶の奥で、ふにゃりと表情を崩すユーリ。
無性に、彼女に触れたくなる。腕の中で抱きしめて、髪一本さえ他の誰にも渡したくない衝動に駆られる。抵抗を力づくで押し込めて、欲望を発散させるだけなら今すぐにだってできるけれど、衝迫を幾度となく押し殺してきたのは、欲しいものがユーリの体だけではないからだ。本当に欲しいものは、違う。

呼吸を整えてビールを嚥下したところで、ユーリがストロング缶で喉を鳴らしている光景が目に飛び込んでくる
何という清々しい裏切り。
「ハニイイイイィイィ!?」
「えー?」
「えー、じゃない!それを返すんだっ、今すぐにっ、ハリーアップ!」
引ったくるように奪って、カラ松は険しい表情でユーリを睨みつける。
「ユーリは、食べる、飯!酒、駄目!」
あまりの衝撃に単語しか出てこない。泥酔もいいところだ、たちが悪い。
「あー、そっかぁ、ご飯先に食べる約束だったねぇ」
強く叱られても動じる様子もなく、巻き寿司のタッパを開けて手で摘む。それから大きく開けた口に、一つを放り込んだ。
蕩けそうな瞳と赤みの差した頬は、カラ松には刺激が強い。首からデコルテにかけて露出している肌も同じく上気して、ひどく扇情的だった。
「あのな」
いい加減、釘を差しておかなければ。

「男と二人きりだということを忘れるなよ。オレも男なんだぞ、ユーリ」

いつか我慢が効かなくなる時が怖い。だからこれは、自戒の意味を込めての発言だった。
「それくらい知ってるよ。
あれぇ…ということは、カラ松くんはそういう意図があってうちに来たってこと?」
「そ、そういうわけでは…」
「無警戒なのは、相手がカラ松くんだからだよ」
もう何度も聞いた台詞だ。自分たちは、そんな甘美な言葉を駆け引きの一環のように交わし合っている。
「フッ、そうだろうとも。ハニーに忠誠を誓った忠実なるナイトであるこのオレに、全幅の信頼を寄せるのは英断だぜ。ガイアに生きとし生ける者全てがエネミーとなっても、オレはミッションを全うするさ」
カラ松は悩ましげなポーズで前髪を掻き上げてから、ふと真顔に戻る。
「──と言いたいところだが、今日は素直に受け取るべきか悩む」
「あはは、それは残念」
ユーリはからからと笑って、空になったグラスの縁を人差し指でゆるりとなぞる。

「でも…カラ松くんももっと警戒すべきなんじゃないかな?」

蠱惑的な眼差しが向けられて。
「ハニー、何を…」
ユーリはカラ松の問いには答えず、ふふ、と意味深に笑うだけだった。
しかしカラ松はすぐに、その意味を身をもって知ることになる。




漫画やドラマでは、普段酒を制限している者が度を超えて摂取した場合、往々にして意外性のある結果をもたらす。願望を加味して言うなら、やたら積極的になったり色っぽく迫ってくるのも定番の一つだ。
今日のユーリの部屋着も、そういった展開におあつらえ向きにフロントジップのパーカー。中はキャミソール一枚らしく、前屈みになった際にチラリと胸元から覗くレースが実にエロい
「暖房強すぎかなぁ?ちょっと暑いね」
ユーリは片手で仰ぎながら、もう片手で服の胸元を掴んで前後に揺らす。
「は、ハニー…ッ」
「ん?」
無防備さを窘めようと口を開いたら、上擦った声が出た。カラ松の視線に気付いて、ユーリはいたずらっぽく口をへの字に曲げる。
「どこ見てんの」
「ち、違っ、見てない…ことはないが、ハニーがそういうことをするから…っ」
童貞への刺激の強さを考慮されていない仕草は、カラ松にはダメージが大きい。際どい部分はどこも見えていなくてもチラリズムだけで容赦なくクリティカルを食らうから、カラ松は慌てて目を逸らした。

「さっき、カラ松くんも警戒した方がいいって話をしたよね?」
「…へ?」
カラ松の体を覆うように落ちる黒い影。ユーリの声が間近から聞こえたと認識するより先に、背中の中央に伝う細い指先の感触にびくりとする。
「うわっ!な、何っ!?」
僧帽筋辺りから腰にかけて、真っ直ぐに直線を描かれる。反射的に仰け反ったら、今度は手のひらが腰を撫でてくる。
「カラ松くん、暑くない?暑いよね?そのスタジャン脱いだ方がいいよ
決めつけてきたし、脱衣を提案したかと思いきや、既に服に手をかけて強制的に脱がそうとしてくる。違う、こういう方向に積極的になってほしいんじゃない。逆、真逆。
「ち、ちょちょちょちょおおおぉぉっと待て!ウェイトっ、ウェイトだ、ハニー!」
「無理は良くないよぉ」
「無理してないからっ、これ着ててちょうどいい感じだからっ、こらこら脱がそうとするんじゃない!」
「でも実際暑いし──あ、分かった、じゃあこうしよう」
ユーリはカラ松の上着から手を離し、名案が浮かんだとばかりにポンと両手を打った。

「自分で脱いで」

脱ぐか脱がされるかの究極の二択。脱がないという選択肢は与えられないらしい。どう足掻いても絶望。
「でなければあの手この手で脱がす」
やはり。あの手この手って何だ。
「わ、分かった、脱ぐ、脱ぐからっ───ほら、これでいいんだろう?」
スタジャンの下はVネックの半袖だ。脱いだ上着を半ば放るようにユーリに渡せば、彼女は破顔してそれを受け取った。笑顔が究極に可愛いから、怒りたいのに怒れないジレンマに陥る。
「わぁー良いー、尊い、有り難い、エロい、セクシーの化身、生ける神」
ユーリの語彙力が猛威を振るう。一部本人としては同意し難い形容が混じっているが、反論するタイミングが掴めない。
「あの、ユーリ…?」
こういう時どんな顔をするのが適切なのか分からない。戸惑いがちに名を呼んだら、なぜかローソファに押し倒された

「ええっ!?」
「はーい、おめでとうございます。松野カラ松くん一名様ごあんなーい」
何が。否、何に。一体何に当選したというのか。
「いやもう、久し振りに拝んだ二の腕とか細いウエストとか腰から尻のラインとか、ヤバイの何のって。どれくらいヤバイかというと、こうしてうっかり押し倒しちゃうくらいヤバイ」
「うっかりで押し倒されるオレの身にもなれ!」
「ごめんねぇ」
「悪いとは微塵にも思ってないだろ、それ!」
「まあねぇ」
口先だけで中身が伴わない典型的な応酬だ。トド松上級互換のドライモンスター現る。
ユーリは仰向けになったカラ松の腹の上にまたがり、片手はカラ松の右手首を押さえつける。もう片手は優しく耳朶に触れた。酒のせいで高まった彼女の体温が、皮膚から伝わってくる。
カラ松はユーリをキッと見据えた。
「力でオレに敵うと思ってるのか?」
「あ、抵抗しちゃう?いいよぉ、強気な推しを強引にっていうのもソソるよねぇ」
警告のつもりが、燃料投下しただけだった助けて赤塚先生。
「あの、ユーリ…その、せ、せめて上下は逆パターンで」
「却下」
「検討の余地!」
「ないでーす」
いつになく高い声音で笑い、ユーリはストロング缶に口をつけた。強制的に摂らせた水や食事は焼け石に水だったようだ。酔いを覚まさせようと尽力した自分の苦労は一体何だったのか。

「──ね、だから警告したでしょ?」




カラ松のシャツをたくし上げて事に及ぼうとする魅惑の誘いを──もちろん拒否して、力づくで引き剥がす
断固として、けれど暴力的にならぬよう細心の注意を払って。腕力では、圧倒的にカラ松が優位だ。
「…サーセン」
ユーリは腕を組み、唇をこれでもかと尖らせて謝罪の言葉を口にした。
「それが人に謝る言い方か、ハニー」
「悪いと思ってないもん」
「正直」
気を揉んで疲弊したカラ松は、すっかり冷たくなったピザを一切れ頬張った。ビールで流し込んで、ユーリに向き直る。
あの時、警告したでしょうと耳元で甘く囁かれたあの瞬間、もういいかと諦観の気持ちもなかったわけではない。手に入れられるなら他の何を代償にしてもいいと思い詰めるくらいには、焦がれて、想い続けて。
けれど断固として受け入れなかったのは、最高に酒臭かったからだ。こういうシチュエーションはもっとこう、せめてもう少しくらいはロマンチックでありたい。正気を保っていて良かった、でもぶっちゃけ危なかった、ギリギリ中のギリギリ。
「そもそも誘ってきたのはカラ松くんだよね?」
「誘ってないし、普通立場と台詞が逆だし、ツッコミどころ満載で持て余すんだが
ツッコミ役は荷が重い。
「乱れた衣服を直す推しの姿が、誘ってないとでも言うの?」
「誰のせいで乱れたんだ」
「私かな」
「そうだ。だから──」
「だから責任取って抱くしかないよね」
「え、会話の無限ループ入った?」


ユーリに昏々と言い聞かせ、大人しく酒と食事を楽しむことを確約した。ようやく身の危険を感じる必要がなくなり、買い込んだ食事も九割が腹に収まった。
ローソファに並んで座り、他愛ない会話も交わせるようになった頃。
「あ」
醤油を入れていた小皿にユーリの手がぶつかり、テーブルに溢れる。
「ごめん、ティッシュ取ってくれる?」
「分かった」
ティッシュケースはカラ松の手の届く距離に置かれていた。ユーリに背を向けて一枚取ったところで──背中から両手が回される。
またか。小一時間前に諭したばかりだというのに、まるで反省してないようだ。油断して背中を見せた自分も悪いが、やはり酒は取り上げなければ。カラ松が長い溜息と共に口を開こうとした、刹那。

「カラ松くんって、いい背中だよね」

「へっ?」
「ほんっと、背中のこのラインがどストライクなんだよねぇ。触り心地も匂いもサイズも理想的すぎる、私の腕にシンデレラフィット。推しが放つエロス万歳
玄関入ってからずっと感じていることだが、酔っているせいで普段よりひどく饒舌だ。口を開けば推してくる。
「ユーリ、いい加減に──」
咎めるべく声を出したら、ユーリはカラ松の腹の前で組んだ両手にぐっと力を入れた。

「…こうやって甘えるのも、駄目?」

先ほどまでの、息を吐くようにすらすらと述べた称賛の言葉とは裏腹に、かろうじて聞き取れるほどの小さな声だ。
カラ松はハッとする。貞操の危機を脱することばかりに目が向いていたせいで、あわよくばと望んでいた甘い触れ合いがこれでもかともたらされていることに、今になってようやく思い至ったのだ。
というか、何で背中なんだ。こういうのは正面から堂々と来てほしい。そうすればユーリの顔を見つめながら思う存分抱きしめられるのに。腹に回されたしなやかな両手に、鼓動が高まる。顔が熱くてたまらない。
「…誘ってるのは、ユーリの方じゃないのか?」
必死で平静を保ち、カラ松は言う。
「いやいや、圧倒的にカラ松くん」
「何をどうしたらその結論に辿り着くんだ」
「でも事実だからなぁ」
間延びした声だ。ユーリが今なお深く酔っていることは一目瞭然だった。だから、今発せられている言葉は本心ではないかもしれない。明日になればユーリ自身が忘却している可能性だって十分ある。
でも──
「楽しいか?」
「とても」
「そ、そうか…ユーリが楽しいなら、まぁ仕方ないな…うん」
ビール缶を取って、ちびちびと飲む。テーブルの上には空になった缶とフードパックが秩序なく置かれていて、宅飲みが終盤であることを静かに物語る。

背後から抱きしめられたまま、とりとめもない会話を幾つか重ねて、いつしか話題が途切れた。甘美な眠気に抗い、垂れそうになる頭を上げ、飲み干した缶をテーブルに戻す。
「ユーリ?」
ついに、名を呼んでも返事をしなくなった。振り返っても視界に入るのはユーリの後頭部だけで、表情は読めない。
「ユーリ、起きるんだ。終電までに帰らないと、ブラザーたちが心配する…というか、なし崩し的にレディの家に泊まるのはこう、さすがにプロブレムだろう?」
もう半年以上前に、ユーリ宅前で高熱を出して立っていられなくなった時、熱が下がるまで世話になったことはあるが、緊急事態だと双方で言い訳ができた。しかし、今は。
「…なぁ、ユーリ」
答えて。でも、答えないで。相反する感情が入り乱れて、カラ松は頭を抱える。
腹の前で組まれた手を強引に解くのも忍びない──というのは建前で、本当はカラ松自身がこの場から離れたくない。

ユーリが目覚めたら終電で帰ろう。万一間に合わなかった場合は、言い訳材料にユーリを利用させてもらうしかない。ユーリにしがみつかれて離してもらえなかったという大義名分を、一つ用意して。
抱きしめられた格好のままソファの背もたれに体を預け、カラ松も目を閉じた。




「───くん、カラ松くん」
優しい呼び声に、意識が覚醒する。
煌々と室内を照らす照明に目を細めながら、カラ松は声のする方へと顔を向ける。焦点の合わないぼんやりとした視界に、不安げな顔のユーリが映った。
「…ハニー?」
「ごめん、私のせいで帰れなかったね」
「あ…」
そうだ、終電。しかしユーリが手にするスマホのディスプレイが示す時刻は、丑三つ時。もうずいぶん前に電車はなくなってしまった。
「そのままだと風邪ひくから、もし良かったらシャワー浴びてこれに着替えて。下着がなくて申し訳ないんだけど」
「い、いや、オレの方こそすまん…起こすのも悪い気がして、つい…」
「ううん、カラ松くんは何も悪くないよ。気を使ってくれてありがと」
手渡されたのは、トレーナーとジャージパンツ。

霧がかかったような頭のままシャワーを浴びてリビングに戻れば、メイン照明が消された薄明かりの中、ローソファには来客用の掛け布団が置かれていた。テーブルに散乱したままの缶やゴミが気にはなったが、起きてから二人で片付ければいいだろう。明日はユーリも休日で、決まった予定はないと聞いている。
そう思いリビングに足を踏み入れたカラ松は、ベッドの上で布団もかぶらず寝落ちしたらしいユーリの姿に愕然とする。

ユーリは、カラ松の上着を抱きしめた格好で眠っていた。

言葉にならない。
咄嗟に自分の口元を押さえ、込み上げる衝動を堰き止める。幾度か大きく深呼吸した後、眠るユーリの体に布団をかけてやった。

「上着じゃなくて…オレじゃ、駄目か?」

答えは返ってこないと分かりきっている。けれど問わずにはいられない。どんな表情で、どんな想いで、カラ松のスタジャンを胸に抱き寄せたのかと。
その後ソファに横になり布団に包まったが、しばらく眠れなかったのは言うまでもない


そして恐ろしいのは翌日のユーリだ。
酒に酔った己の失態に関する記憶を保持していたため、カラ松に頭を下げて謝罪こそしたものの形式的で、恥じらったり戸惑う様子は一切なし。
その上あろうことか「次はもっとムードを出すね」などと真顔でのたまったため、カラ松は当面ユーリ宅での飲み禁止令を出したのだった。
けれどユーリの寝起き姿や寝癖さえ愛しくて、運が良ければそんな無防備な姿を拝める宅飲みはメリットが大きく、すぐに解禁してしまいそうな自分が憎い。

のそのそと起き出して洗面所で顔を洗う。少々伸びた無精髭が、柔らかなタオルの繊維に引っかかる。
鏡に映る自分の顔を見つめながら、コンビニでカミソリを買うべきかと思案していたら、ふと視線を向けた首筋に何か付着していることに気が付いた。
「何だ、これ」
指で拭ったら、ぬるりとした感触。洗面台のライトが反射して、粒子のような小さな粒の集合体がキラキラと光る。まるでラメだ。そう、それこそ、昨晩ユーリがつけていたリップグロスのような──

「え」

背後を通りかかったユーリが大きくあくびをする姿が、鏡に映り込む。その唇を、昨晩と同じピンクのグロスが美しく彩っていた。