ことの発端は、ハタ坊から舞い込んできた依頼だった。
「怪盗から売上金を守って欲しいんだじょ」
六つ子たちとチビ太さんの屋台を訪ねた夜のことだ。
住宅街には似つかわしくない黒塗りの高級車で乗り付けるなり、呆気に取られる私たちに向かって冒頭の台詞を吐いたのである。
「みんなにしか頼めないんじょ」
相変わらず感情の読めない表情で、ハタ坊は淡々と告げてくる。
「警察行きなよ。間違ってもクズニートに頼んでいい案件じゃない」
「…辛辣すぎやしないか、ハニー」
傍らで、カラ松くんがツッコんでくる。辛辣じゃない、れっきとした事実だ。
「えー、でも探偵って格好いいー。洞察力とか観察眼があればいいヤツでしょ?まさにボクら向きの仕事じゃない?」
目の据わったトド松くんがカウンターで頬杖をつきながら、ニヤニヤと言ってのける。ほら、図に乗る酔っぱらいが出てきた。
仮に真剣な依頼だとしても、既に出来上がった酔いどれ野郎しかいない場での交渉は論外だ。真面目に議論ができる場と時間帯を選定して、出直すべきじゃなかろうか。ここで今シラフなのはチビ太さんぐらいなものだ。
「怪盗、か。しかも僕らがそいつから大金を守る?
何それ、すげぇ主人公感ある!キラキラしてる!イイ!」
頼みの綱のチョロ松くんだったが、バッサリと切り捨てるかと思いきや、目を輝かせる。
「あはー、チョロ松兄さんまたキラキラファントムストリーム発症してるー」
「──てかさ、ハタ坊」
まだ半分ほど残っているグラスをカウンターに置き、おそ松くんがゆらりと立ち上がる。酔って頬は上気しているが、声は落ち着いたトーンだ。
「怪盗とか売上金とか俺らにしか頼めないとか、そういうことよりさ、もっと大事なことがあるだろ?」
「大事なこと?何だじょ?」
ハタ坊は首を傾げた。
「報酬いくら出す?」
そこか。いや知ってた。長男が金にもの言わしたら動くタイプのカリスマレジェンドだというのはよく分かってた。なのにミリ単位でも、この状況打破を期待してしまった自分が憎い。
「俺らも守銭奴じゃないからね、成功報酬でいいや。要は怪盗ってヤツからハタ坊の金を守ればいいんだろ?生死は問わず」
殺る気満々のデッドオアアライブ。
「…カラ松くん、これいいの?まだ何も聞いてないのに受ける方向なんだけど」
慌てて彼の服の袖を引き、耳元で囁く。
「危ない仕事かもしれないよ」
「ユーリ…ひょっとして、オレの身を案じてくれてるのか?」
「当たり前でしょ」
私は眉を吊り上げて語気を強める。
おそ松くんたちはハタ坊がもたらした非日常感に酔っているが、警察や警備員といった専門部隊ではなく、時間に自由が効く程度しかメリットのないニートの六つ子に頼むあたり、裏があるに違いないのだ。看過できない。
「フッ、ドントウォーリー、マイハニー!
オレは必ずや死地から生還し、ハニーの目に浮かぶ涙を拭ってやるからな!」
あ、こいつも駄目だ。
旧友を窮地から救うヒーローなオレ、心配する女を慰めるオレ、危機的状況から生還するオレ。どれもこれも彼のドリーマー思考をくすぐる要素でしかない。そんな今回の依頼を松野家次男が無下にするわけがなかった。下手こいた。
もう知らん。私は早々に匙を投げた。
詳しく話を聞こうか。そうおそ松くんがハタ坊に促し、事実上の受諾となった。
「週末に、各国の主要取引先を招いて親善パーティをするんだじょ。ハタ坊が用意した大型客船でカジノなんだじょ。
その船に積んだ売上金を狙うと予告状が届いたじょ」
ハタ坊は胸元から、ポストカードサイズのカードを取り出した。そこには日本語で日付と共に『戌の刻、フラッグコーポレーションのカジノ船から、売上金を頂戴する 怪盗I』と印字されている。
「だから警察通報案件」
私は再度、これ以上ない的確な解決策を提示する。
「ユーリ、それを言うと話が進まないだろ。ハタ坊は他でもないオレたちを頼ってるんだぞ」
それが問題だっつーとろーが。
「でもさ、イタズラってこともあるんじゃないの?今どき予告状出して盗む奴なんている?」
一松くんが気怠げにハタ坊に尋ねた。ナイスアシスト、四男。
しかしハタ坊はかぶりを振る。それについては、彼の後ろに控える秘書らしき男──頭に旗が刺さっている──が答えた。
「怪盗Iは、被害届が出せないような物…つまり盗品などを盗むのです。被害が明るみにならないから、予告状があっても警察もイタズラと判断するしかない。
我社のネットワークを駆使して調べた結果、予告状の端に書かれているIという字の筆跡から、本人と特定しています」
「ん?じゃあさ、ハタ坊のも被害届が出せないような売上金ってこと?」
チョロ松くんがいいところに気が付いた。私が続ける。
「日本ではカジノは非合法だからね。カジノの売上金守るってことは、犯罪の片棒を担ぐことになるんだよ」
「パーティは、あくまでもカジノという体だじょ」
カジノという体。
「じゃあ売上金って…」
「別の売上だじょ」
最高に嘘くさい。
「まぁ金づる坊…じゃなかった、ハタ坊たっての頼みだし、断るってのもなぁ」
致し方なしといった体を演じながらおそ松くんが言う。
「フレンドの頼みを断るのは男じゃないぜ」
「これも人助けだよね」
「暇だし、パーティってことはいいもん出るんでしょ?」
「怪盗をやっつけるぞー!」
「パーティの衣装は映えるの用意してよね」
六つ子の返事を聞きながら、カウンターの奥ではチビ太さんが憐憫の眼差しを私に向けていた。お縄にはなりたくないので、聞かなかったことにしよう。私はこの場にはいなかった、はい解散。
六つ子と無関係を装っておでんを頬張る私の傍らに、いつの間にかハタ坊が立っていた。ぎょっとする私をよそに、彼は小声で告げる。
「みんなには正装を用意するんだじょ」
悪魔の囁き。
推しのタキシード姿、だと?
「ユーリちゃんには好きなドレスをプレゼントするじょ」
「喜んで行かせていただきます」
困ってる友達を見捨ててはおけないよね。
予告状で指定された、パーティ当日の夕刻。
ブラックタイのタキシードに身を包む六人の悪魔と共に、ハタ坊からの招待状を手に船に乗り込む。衣装は全てハタ坊からの提供で、しかもオーダーメイドという大盤振る舞い。
ウエストが絞られたデザインが卑猥。
物憂げな推しの横顔と体のラインが出るブラックスーツの組み合わせは、姿勢の良さも相まって、最の高としか言えない。
「……エッロ」
そりゃ声にも出る。私は眉間に寄せた皺に指を当てた。
「あ、あの、ユーリ…聞こえてるから…」
カラ松くんは顔を真っ赤にして、そっぽを向いた。相変わらず初なところもムラッとくる。スマホの写真フォルダは早くもタキシードの推しでいっぱいだ。
出で立ちそのものは露出のろの字もないのに、正装によるストイックさを纏ったカラ松くんからは大人の色気が漂う。
てかさー、と話題転換を試みるのはおそ松くん。
「ユーリちゃんの服装の方がエロくない?」
「は?」
思わず苦虫を潰したような顔をするが、おそ松くんを筆頭に六人全員が深く頷いた。
「普通のブルードレスだよ」
「いやいや、上半身のシースルーと脇チラだけで十分危険なのに、背中も見えるって何!?エロいよ!」
「しかもスカートは膝が見える」
珍しく手首を出している十四松くんが、感慨深げに唸った。
「そうかなぁ…デザイン気に入ってるんだけど」
私はドレスのスカートを摘んで、ひらひらと揺らす。
上半身はチューブトップの上に透け感のあるオーガンジーで、肩を大きく露出したアメリカンスリーブ。下は、前が膝上、後ろが膝下までのアシンメトリーのティアードスカートという個性的なデザインだ。背中に関しては指摘通り、オーガンジーの中央に大きなスリットがあり、多少肌は見える。
「うん、その…似合う、似合うんだ、ハニー。そのドレスはユーリにとてもよく似合っている。さながら船上に佇むきらびやかなフェアリーだ。ただ──」
「ただ?」
戸惑いがちに紡がれるカラ松くんの言葉、その先の結論を促す。
「脇チラ時に見える肌の範囲が広すぎて、童貞にはキツイ」
知るか。
聞いた私が馬鹿だった。
貴賓室で作戦会議が開かれる。
今は傍らに秘書もいない。室内にはハタ坊と私たちだけだ。
カジノについては、会合の特殊性故に参加者全員に箝口令を敷いている。怪盗が船の売上金を知っているということは、裏切り者か密告者がいる可能性も否定できない。
「今更だが、怪盗Iはどう見分ければいい?というか、日本人なのか?」
カラ松くんの問いに、ハタ坊は首を捻った。
「分からないんだじょ。
素顔は誰も見たことがなく、変装の達人で、言葉は現地人と見分けがつかない流暢さで話すと聞いているじょ」
もうそれルパンやん。
「客として紛れ込んで怪盗を捕まえる、か。うわぁ、何か俺ら秘密工作員みたいじゃね?」
おそ松くんがうっとりと頬に両手を添えた。
「でも捕まえるったって、どうやって?相手が戦闘慣れしてたら、僕らじゃ太刀打ちできないだろ」
「武器は用意してあるんだじょ」
言うや否や、どこからともなく取り出したジェラルミンケースの蓋を開ける。その時点で嫌な予感しかしなかったが、中に敷かれたクッションに鎮座していたのは───銃だ。
「あー、これなら戦えるかも」
驚きもせず真顔で頷くチョロ松くん。
「安全装置外して狙いを定めればいいんだよね?」
「そうだよ。久し振りなのに安全装置のことよく覚えてたね、さっすが十四松兄さん」
安全装置を知っていることも驚きだが、その言い草は使ったことあるんですかおのれら。
「ハタ坊、さすがに銃刀法違反はちょっと…」
「麻酔銃だじょ」
「無資格で無届けだから犯罪では?」
「治外法権だじょ」
治外法権とは。もはや暖簾に腕押しだ。いちいちツッこむのが馬鹿らしく感じてくる。
「ハンドガンか、いいね」
一松くんは手慣れた様子で銃のマガジンを抜き、再び差し入れた。ガシャッと高い金属音が響く。やだもうこいつら絶対手練だ。
「ユーリちゃんの分は──」
おそ松くんがケースからデリンジャーに似た小型の銃を出し、投げて寄越そうとする。断固拒絶の姿勢を提示しようとした、その時。
「必要ない」
カラ松くんが静かな声音で長男を制する。
「ユーリはオレが守る」
脇下に銃が収まるホルスターを装着し、彼は上からジャケットを羽織った。私の方を見ることもなく、当然の流れだと言わんばかりに。
「心配するな。ユーリがパーティを楽しんでいる間に終わるさ」
そう言ってようやく、彼は私を見つめ穏やかに微笑んだ。
イケメンがいる。
犯行予告時間は戌の刻、つまり午後七時から九時の間である。
船内は大広間がカジノフロアで、スロットマシンや各ゲームの卓が至るところに配置されている。いずれの卓にも襟付きシャツのベストを着用したディーラーが配置され、本格的だ。
総勢百人近い人数が集う親善パーティは六時に始まり、主催者であるハタ坊の挨拶もそこそこにも、参加者たちはカジノを嗜む。
参加者の中には、チビ太さんやデカパン博士たちの姿もあった。例の如く、友達枠なのか。
カクテル片手に壁に寄りかかり、私は傍観を決め込む。
卓上には、色分けされた幾つかのチップが山のように積まれていて、勝負が終わるたびに大きく移動する。
「チップは最低でも一枚一万らしいぞ」
いつの間にか、私の傍らにカラ松くんが立っていた。
「それが毎分数十枚単位で動く…フッ、胸が震える極上のエンターテイメントだと思わないか、ハニー?」
「お金持ちならではというか、別世界って感じ」
自分の月給など、山積みになったチップの数枚に過ぎない。その何倍のも金額が、たった一度のゲームで動くのだ。現実味がない。
「こういう滅多にできない体験は楽しんだ者勝ちだ。ブラザーたちを見ろ、ハタ坊の金だからやりたい放題だぞ」
カラ松くんが視線を向けた先には、スロットを回すおそ松くん、ポーカーに興じるチョロ松くん、一松くんと十四松くんはルーレットの卓に向かい、トド松くんに至っては若い女性ディーラーと談笑し、各々がカジノを満喫している。ハタ坊から一人頭百万相当のチップを貰い受け、負けても懐が痛まないためだ。
「壁際で静かに佇むユーリも美しいが、勝利の女神になり得る輝きを隠しておくのはもったいないんじゃないか?」
何か言い出した。
「それに、招待客なのにカジノをやらないのは不自然だ」
逆に目立つぞと指摘を受ける。甚だ不本意だが彼の言う通りだ。
カラ松くんはコホンと咳払いをしてから、恭しいポーズで私に右手を差し出した。
「お手をどうぞ、青いドレスを纏った美しいレディ。この松野カラ松に一夜の栄光を授けてくれ」
私は笑って、彼の手を取る。
「大袈裟だなぁ」
「そうか?今日のパーティの主役と言っても過言じゃない輝きだぞ」
「その台詞、二倍にして熨斗つけて叩き返すよ」
「んー?」
理解できないとばかりにカラ松くんは額に縦皺を寄せた。腰に片手を当て、重心を片足にかけるポーズが様になっている。
「ゲームに気乗りしないなら、オレの隣にいてくれるだけでいい。オレがリードする」
ほらもう、油断するとすぐスパダリになる。帰るまでに私の理性が保つか、それだけが心配だ。
参加者はハタ坊の主要取引先のトップというだけあって、正装した金持ちばかりだ。相応に年を重ねた彼らは女性のエスコートも手慣れたもので、自然な手つきで異性を引き寄せ、気遣いを欠かさない。
彼らに倣うように、カラ松くんは私の腰に手を回して誘導する。立ち止まった先は、トランプが広がる卓だった。
「ブラックジャック?」
「シンプルイズベストだ」
「松野カラ松様ですね」
ディーラーが側のボーイに目配せするや否や、私たちの前にチップの山が置かれる。ハタ坊が用意したものだろう。大金代わりのチップを前に肘をつき物憂げなタキシードの推し、良き絵面──と思ったのも束の間。
「プレイスユアベット」
ディーラーの掛け声に合わせて、参加者たちがチップを出す。
カラ松くんは何を思ったか全チップを投入。馬鹿なのか?
「か、カラ松くん…」
「ハッハー、男は黙って一回勝負だぜ、ハニー!勝利のヴィーナスがオレに微笑む様、とくと見届けるんだ!」
カラ松くんがカジノに向いてないタイプだというのを、今更ながらに思い出す。そうだ、こいつはこういう男だった。
そして、結果はというと───
「…負けた」
がっくりと項垂れる当推し。
「調子に乗ってカード追加するからだよ。私の制止を聞いてたら引き分けで済んだのに」
「ブラックジャックを狙うのが男のロマンだろ。ノープロブレム、ハタ坊の金だ」
なお悪いわ。
とは言え、一回の勝負で有り金を使い果たした敗者は退席するしかない。カラ松くんが腰を上げようとするから、私が引き止める。
「…ユーリ?」
「まだ私のチップがあるよ」
にこりとディーラーに微笑めば、彼はこくりと頷く。
「有栖川ユーリ様のチップをご用意させていただきます」
カラ松くんが失ったのと同額のチップが積まれる。他の参加者が積み上げる数に比べれば大したことはないが、勝負に参加する権利はまだ所有している。
「プレイスユアベット」
私は躊躇なく全チップを差し出した。他のプレイヤーから二度目のどよめきが起こる。
「ちょ…何を考えてるんだ、ユーリ…っ」
「ロマンは男の人だけのものじゃないってことだよ」
足を組み直し、姿勢を正す。チャンスは一度の真剣勝負だ。
「ノーモアベット」
感情のこもらない平坦な声で、賭けが締め切られた。
カードが各プレイヤーとディーラーの前に配られる。プレイヤー側のカードは全て表向きで、ディーラー側のカードは一枚が裏返しの状態。私たちは表向きに提示されている数字からディーラーの動きを予測し、自分の数字との折り合いをつけることになる。
私のカードは、ダイヤのクイーンとスペードの六。合計十六と微妙な数。カードを追加すると失格になるリスクも高いが、この数で勝てるのはディーラーが二十一点を超えた場合のみ。
スタンドか、それともヒットか。
「…どうするんだ、ユーリ?」
「ディーラーのカードはハートの八でしょ。伏せてる方を十と仮定すると、現状では勝率は低いんだよね」
左右のプレイヤーたちがカードを追加したりと動きを見せる。英語でディーラーと軽いやりとりを交わす者もいた。
「有栖川様は、いかがなさいますか?」
ディーラーのにこやかな笑みが私に向けられた。
「…そうですね」
数秒の思考の後、私は人差し指の関節を曲げて軽くテーブルを叩く。ヒット──カードを追加する合図──だ。
「っ、ユーリ…」
「こういうのはね、確率論なんだよ」
カードが一枚配られ、表向きに返される。現れた数字は───
クローバーの五。
「ブラックジャック」
発した声は微かに震えた気がした。
伏せられていたディーラーのカードはキング、合計で十八。私の勝ちだ。
「──やった、のか…?」
「うん、勝ったみたい」
「おお、すごいじゃないか、ユーリ!幸運の女神は今夜はユーリに首ったけだな!」
力強く肩を抱き寄せられて、自分のことのように喜ぶカラ松くんの顔がすぐ近く。互いの鼻先が、あと数センチで触れそうなくらいに。
しかし彼はすぐさまハッとして、顔を赤らめながら手を離す。
「あっ…す、すまん…つい」
「負けた分取り返せたし、ちょっと休憩しよっか。ロマンもいいけど、私はカラ松くんとのんびり楽しみたいな」
男のロマンと私の願いを秤にかけたら、どちらに傾くかなんて明白だ。
「…ハニーのおねだりにはノーと言えないな」
ほら、そうやって。彼は決まって頬を赤くして、蕩けるくらいに甘く目を細める。
チップを高額のものに変えて枚数を減らしてもらい、私は席を立った。
「ドリンク貰ってくるから、端の席で待ってて」
バーでカクテルを注文しようとした矢先、紫のスーツに身を包むイヤミさんが広間を出ていくのを目撃する。きょろきょろと周囲を見回しながら扉を開閉する姿は、さながら人目をはばかるようで、違和感を覚えた。
私は片手を上げ、右耳に装着したカナル型のインカムのスイッチを入れる。通信手段用としてハタ坊が用意してくれたものだ。ボタン押下中だけ通話ができる。
「イヤミさんが広間の右ドアから出ていったよ。こそこそして怪しい感じ。一応注意した方がいいかも」
「オーケー、ユーリちゃん」
即座におそ松くんから応答がある。
「おいお前ら、フォーメーションAでいくぞ」
何ぞそれ。
陣形なんてあるのか。しかも複数パターン。いつの間に作戦会議が開かれたのか。
背後を振り返ると、つい今しがたまで卓に座ってゲームに興じていた六つ子たちは全員揃って忽然と姿を消していた。こういう時の団結力だけは天下一品だ。
「すぐ戻るから、いい子にして待ってるんだぞ、ハニー」
そして唐突に推しのウィスパーボイス。危うく変な声出すところだった。
元々討伐隊からは除外されていたので、私は手持ち無沙汰になる。スマホで時刻を確認すると、午後八時を少し過ぎた頃。怪盗が予告した戌の刻の内だ。
夜風にでも当たろうとオープンデッキに出る。空は生憎の曇り空で、星一つ見えない。ロマンチックからは程遠い夜空のせいか人気はないが、静かに過ごしたい私には好都合だ。そう思って歩を進めると、見知った顔があった。
──イヤミさんだ。
「あれ?」
つい先程逆方向へと向かっていたはずだが、戻ってきたのだろうか。彼は木製の杖に体重を預け、ぼんやりと夜の海を眺めていた。
「こんばんは、イヤミさん」
声をかけると、弾かれたように振り返る。
「…ああ、ユーリちゃんザンスか。キレイなドレスザンスね」
私は目を瞠る。イヤミさんからの世辞なんて、ついぞ聞いたことがなかった。
「あ、ありがとうございます」
ピンときた。ははーん、さては良からぬことを企んでいて、誤魔化そうとしているのだな。
「イヤミさんこそ、素敵なスーツですね」
「タダでいいというから参加してやってるだけザンス」
ケチなところは相変わらずだ。
「ハタ坊が友達思いなのはいいけど、イヤミさん含めてみんな個性あるから、迷惑にならないといいんですけど」
友達枠参加組による粗相で取り引き中止もあり得る話である。巨額の金が動く企業間においては、信頼がものを言う。
私が溜息混じりに溢すと、イヤミさんは私を凝視した。
「…チミは、普通ザンスね」
「はい?」
何を言い出すのかと思ったら。
「ミーの交友範囲の中で、チミだけが一般的な枠にいるザンス。いや…普通だからこそ、特別なのか」
彼が何を言わんとするのか想像もつかない。
肌を撫で付ける潮風がひどく冷たい。ベタついて、不快だ。
返す言葉を見つけられない私の耳に、突然インカムを通して十四松くんの信じられない言葉が届く。
「イヤミ確保ー!」
遠くからは、抵抗して叫ぶイヤミさんの聞き慣れた声。
「ワインセラーから高いワインを盗もうとしてたから、お縄にしたよ!」
「え、ちょ、十四ま──」
「イヤミが怪盗かは分かんないけど、とりあえずガチムチの警備員に引き渡すね。すぐ戻るから、ユーリちゃん待っててー」
何が何だか分からない。
「あっ、あの、ちょっと失礼します!」
とにもかくにも事実確認が必要だ。イヤミさんの側を離れ、彼に背を向ける。呼吸を整えてから、背中を丸め気味にして通話ボタンを押した。
「十四松くん、聞いて。おかしいよ。だって、だってイヤミさんは今──」
不意に、黒い影が私を覆う。
反射的に後ろを見ると──杖を振り上げ、ひどく冷淡な双眸で私を見下ろすイヤミさんの姿。
「…あ」
こういう時どんな反応をすればいいか頭では分かっているのに、体が動かない。
目をこれ以上なく見開いたまま、私の体は石のように硬直する。彼が私に危害を加えるはずがないと、夢を見ているみたいな浮ついた感覚。
そして、眉一つ微動だにしないまま杖が振り下ろされる。
けれど、その杖が私に当たることはなかった。
彼の体が勢いよく横に吹っ飛んだからだ。
「間一髪だったな」
イヤミさんに飛び蹴りを叩き込んだ人物が、蹴りの反動を利用して軽やかに地面に着地する。タキシードの上着の裾が、ひらりと舞った。
「カラ松くん…っ」
「無事か、ユーリ」
鋭い視線をイヤミさんに向けたまま、カラ松くんが私を案じる。
「…う、うん」
「そうか…なら良かった」
ふっと口角を上げて、ほんの少しだけ浮かぶ微笑。
「どうしてここが…」
「愚問だ」
カラ松くんが吐き捨てる。
「本物の怪盗なら、オレたち素人に容易く気付かれるミスを犯したりしない。それでもしやと思って戻ったら、これだ」
カラ松くんは片手でインカムに触れた。
「おいお前ら、敵は甲板だ。急げよ」
いつになく低い声音で兄弟に集合をかけてから、カラ松くんは胸の前で拳を鳴らす。その甲にはくっきりと筋が浮かんでいた。
「さて、ハニーに危害を加えようとした代償は高く付くぞ、怪盗とやら」
私を背中で守りながら踏み出す一歩は、重い。抑揚のない声は、怒りを制御しているが故にも感じられた。
イヤミさんの姿を模した怪盗は地に膝をつき、頬の汚れを腕で乱暴に拭う。それから甲板に唾を吐き捨て、ゆるりと立ち上がった。
「手荒い挨拶ザンスね」
「イヤミの真似は止めろ」
「とんだ誤解ザンス。ミーが偽物?冗談も休み休み言うザンス」
肩を竦めて苦笑しながら、彼はカラ松くんと私に近づく。射程距離に入りカラ松くんが臨戦態勢に入った刹那──怪盗は懐から取り出した丸い球状の物体を床に叩きつけた。
それが煙幕だと気付いたのは、彼を包み込むようにして白い煙が周囲一帯に充満してからだった。
「…ッ」
咄嗟のことで思いきり吸い込んでしまい、咽る。
数十センチ先も見通せない。手探りでカラ松くんがいた方角へ進もうとした時──誰かに手首を掴まれた。
目まぐるしい展開に思考が追いつかず、声が出ない。視界が真っ白になる。
「大丈夫だ、ユーリ」
刹那、耳元で聞き慣れた声がして、それからすぐに掻き抱くように強く抱きしめられた。
「…カラ松、くん…?」
「すぐに終わらせる」
声の主はそう言った直後に体を捻り、高く上げた右足を前方へ突き出した。
「──ぐぁッ!」
くぐもった悲鳴が背後から聞こえたと思うと、何か重量感のあるものがどさりと落ちる音が響く。
「やれ、十四松!」
続いて、遠くで一松くんが声を荒げた。
「あいあい!」
呼応する五男。煙幕の煙が薄れていく視界の端で、十四松くんが高らかに飛翔する。落下した先は、地に伏せて意識を失う怪盗の上だ。彼の顔面には、見事なまでにくっきりと赤いフットスタンプが広がっていた。
「ユーリ」
カラ松くんが駆け寄ってきて、私の左手を見る。
「手首、跡残ってないか?すまん、とにかく守らないとと思って…加減ができなかった」
「何ともないよ。ちょっとビックリしただけ」
「もっとスマートにやれたと思う。でもユーリを危険な目に遭わせたこいつが許せなくて、冷静でいられなかったんだ」
耳に心地いい声質と、真摯な眼差しと、真っ直ぐな想いと。
一切合切を向けられて、私は無意識のうちに笑っていた。
「よーし、よくやった十四松。戻ったらビュッフェ好きなだけ食べていいぞ」
腕組みをしたチョロ松くんが、任務終了の合図とばかりに毅然と言い放つ。
「銃、必要なかったな」
ホルスターに収めた麻酔銃をおそ松くんが未練がましく見つめた。格好良く発砲するのを楽しみにしていたような言い草だ。
「ま、うちには前衛ゴリラが二匹いるからしょうがないか」
「えー、ボク使ってみたいなぁ。せっかくだしおそ松兄さん犠牲になってよ、ね?」
「トッティからは殺意しか感じないから無理」
せっかくって何だよ、とおそ松くんは全力で首を振った。
ハタ坊の護衛に怪盗が連行されていくのを、私たちは無言で見送る。
「ハニー、あいつには何もされてないか?」
兄弟の視線がハタ坊に移ったところでカラ松くんが尋ねるので、かぶりを振った。
「その前にカラ松くんが来てくれたよ」
「本当か?何かされたなら正直に言ってくれ。今からでも奴を始末してくる」
本気の目だ。
私には決して向けない険しい顔で、カラ松くんは怪盗の後ろ姿を睨みつける。物騒だと思う反面で、嬉しさを感じる自分もいた。
結果的に、怪盗の捕獲と売上金を守る任務を完遂した。
ただの一般人とニート六人組、百戦錬磨の怪盗と対峙するにはどう好意的に見ても力不足の連中が、である。表立って刑罰に処すのが困難なことから、ハタ坊が秘密裏に処理するらしい。新聞沙汰にはならないだろうが、自分が立ち会ったのは実は歴史に残る一大事件だったのではないかと、遅ればせながら痛感しているところだ。
「ユーリが一番の功労者だな」
カジノのバーカウンターで私と肩を並べるカラ松くんが、ぽつりと言った。
「グッドガールだぜ、ハニー」
にこやかな笑みに救われる。
しかし実際にところ、怪盗相手に二発も叩き込み、戦闘不能に追いやった彼が間違いなく今日のMVPではある。けれど今その言葉を返すのは、きっと無粋だ。
「…ちょっと楽しいと思った自分が嫌だな」
だからこの場では、本心を語る。カラ松くんだけには知っていてほしい、私の心の内を。
「嫌?なぜ?」
「怪盗捕まえるなんて真似、一般人は一生に一回も経験しないんだよ。
でもこういう非常識で奇想天外なことに慣れてきちゃって、カラ松くんたちに毒されてきた気がするんだよね。もう純粋な頃には戻れないかも」
私は両手で自分を包むポーズを取った。怪盗から突きつけられた真実を、冗談めいたオブラートに包む。
住む世界が違うと、否定された気がした。カラ松くんの傍らにいることさえも。何も知らないあんな奴に。
「オレから見れば、出会った頃からずっとユーリは純粋で綺麗だ」
モヤがかかる私の心境をよそに、カラ松くんは何でもないことのように、笑う。
「他人の評価なんて当てにならないだろ。気にすることないさ。色んな憶測があるとしても、オレとユーリはこうしてすぐ側にいる、それが真実だ」
タンブラーグラスに注がれた、ブルーのグラデーションが美しいノンアルコールカクテル。カラ松くんの無骨な指がグラスの外側に付着した水滴をなぞる。
「ハニーにはオレたちのようにはなってほしくないが…でも、少なくとも───」
反対の手が、カウンターに置いていた私の右手に重なる。
「もうオレからは手放せない」
細めた瞳が、私の視線と絡む。まだ一滴もアルコールを飲んでいないのに、赤らむ頬。重なった手は、心地よい熱を孕んでいた。
「カラ松くん…」
「だからユーリ、オレは──」
直後、ガチャリと鳴る複数の金属音。
カラ松くんを取り囲むように、五人の悪魔が一斉に銃口を突きつけてきた。
「フッ…銃のフラグを無理矢理回収しようとしなくていいんだぜ、ブラザー」
座ったまま両手を挙げ、それでもなおカラ松くんは格好つけようとする。多勢に無勢だ。
「一人でいいとこ全部持っていこうとすんじゃねぇよ」
おそ松くんは眉間に皺を寄せ、吐き捨てた。他の四人は長男に倣い、黙ったまま頷く。
「正月に気を利かせてくれた優しさはどこへいったんだ、おそ松」
「悪いな、カラ松。全部俺の気分次第なんだよ」
何となくそうだろうとは察していたが、本人が言い切りおった。
片側の口角を上げて嘲笑するおそ松くんは、悪役さながらの貫禄を纏っていた。
その後しばらくは六つ子に付き合い、彼らが酔っ払って前後不覚になった辺りでカラ松くんと大広間を出る。広い廊下の窓際にはソファが複数置かれていて、談笑や酔い醒ましのために腰をかける者がちらほら散見された。
生憎大広間近くにソファの空きがなく、席を求めて階下へと向かう階段の途中。
「怪盗にね、私だけが普通だって言われたんだ」
私の言葉の意味を咄嗟に理解できなかったカラ松くんは、首を傾げた。
「イヤミさんの交友関係の中で、私だけが普通、って」
彼に扮するにあたり、乗船する可能性のある人間関係を探るうちに、私にも行き当たったのだろう。
数歩先を行くカラ松くんは、私を見上げて気恥ずかしそうに指先で頬を掻いた。
「オレが言うのも何だが…オレを推してる時点で、ユーリは全然普通じゃないと思うぞ」
何ということでしょう。
青天の霹靂とは、まさにこのこと。
「本当だ…っ!」
同じ顔が六つ横一列に並ぶ職歴なしのニート童貞、その中でナルシストかつサイコパスと名高い現役中二病患者。そんな人間を心の底から推している私が普通だと?笑わせるな。
「今、すごくスッキリした気分」
「怪盗もそこまでは調べなかったようだな。調査不足だ」
パーティの数時間を乗り切れればいいのだから、個人の趣味趣向といった詳細は必要なかったのかもしれない。
カラ松くんは、私に向けて片手を差し伸べる。
慣れないハイヒールで階段を下りるのに手間取っているのが、どうやらバレてしまった。
「普通だとか普通じゃないとか、そういう視点でユーリを見たことがない。
ユーリは世界で一人しかいない、ユーリの代わりになるレディなんてどこにもいないんだ──それじゃあ、駄目か?」
彼の手を取って、ゆっくりと一段ずつ下りる。
「…ううん、いいこと言うね。私が純粋な乙女だったら、今頃カラ松くんの胸に飛び込んでるよ」
「オレの胸はユーリのために二十四時間開けてるんだ。いつでも使ってくれ」
「じゃあ後で借りる」
「えぁっ!?」
カラ松くんが足を滑らせ、危うく私まで転倒しかける。幸いにも手は添えていただけなので、階下で尻もちをつくのは彼一人だった。
「あーあ、大丈夫?」
「ハニーが驚かせるからだろ!」
尻をしたたかに打ち付けたらしい、前屈みで痛みを堪える表情が猥褻。
「あれ、冗談だった?」
「冗談で言うもんか。なら、その…今は、駄目か?」
姿勢を正し、改めて手が伸ばされる。今度は、私を求めるように。
「今?」
「…今なら、誰もいないし」
六つ子も他人も、私以外は誰も、目の届く範囲にはいない。
「お願いします」
「よし、どんとこい」
階段を駆け下りて、私はカラ松くんの胸に飛び込んだ。