眠れない夜は、意外に身近なものだ。いつ自分の身に降りかかるやもしれない。
例えば極度の緊張下に置かれて神経が過敏になったり、就寝すべき時間外にたっぷりと惰眠を貪った日には、睡魔は待てども待てども来たるべき時間にやって来ない。
さて、なぜこんな話をしたかというと、今日私は夜更かしを決意したからだ。
理由は、前述したうちの後者である。週末の金曜日、一週間の仕事を終えて帰宅した後、ベッドの上で仰向けになりスマホを眺め、そのまま寝落ちしたのだ。
次に目が覚めた時は、三時間が経っていた。
「そんなわけで、今日は眠くなるまで起きてるつもり。明日は雨だから家から出ないし、自堕落な一日を過ごそうと思って」
「レディにとって夜更かしはお肌の敵なんじゃないのか、ハニー?」
スマホを通して聞こえてくるのは、嗜めるようなカラ松くんの声。
軽く夕飯を食べた後にシャワーを浴びて部屋に戻ると、見計らったように電話がかかってきた。表示ナンバーは松野家の固定電話。パジャマ姿で玄関前に立つ彼を想像して、無意識に口角が上がる。
「寝れずに悶々とする方がストレス溜まってお肌に悪いよ」
「詭弁な気がしないでもないが」
「気のせい」
即座に突っぱねたら、受話器の向こうでカラ松くんは笑ったようだった。
「いやすまん、奇遇だなと思ったんだ」
「どういうこと?」
「オレも今日は明け方まで起きている心積もりだったんだ。一時くらいから昼寝をして、目が覚めたら七時だった」
ちょい待ち。異議あり。
仕事帰りのうっかり寝落ちと、ニートのだらしない昼夜逆転を一緒にしないでいただきたい。まぁ、言うだけ徒労なのだろうが。
「こういう時、カラ松くんがスマホ持ってたらいいのにね」
「スマホ?」
「うん。ビデオ通話できるでしょ?」
私が言えば、カラ松くんは、ああ、と納得した様子だった。
「カラ松くんがスマホ持ってて、松野家にWi-Fiが通ってたら、だけどね。お互いの顔を見ながら会話したり、飽きたらダラダラもできて便利だよ」
「しかし画面越しだろ?」
「まぁね」
電話越しにカラ松くんが唸る。そして──
「オレはユーリに直接会いたい」
あー、うん。
正直に言ってくれるのは嬉しいが、今はそういう話じゃない。論点ずらすな。
「今から会いに行くのは駄目か?
ユーリさえ良ければ、二十四時間やってるファミレスやファストフード店という手もある」
彼の提示にした案に、私は眉を寄せる。
「外だと周りに気を使うから、今日は家がいいな。全力でだらけて、眠くなったら寝るパターンでいきたい」
「なら、オレが会いに行くのは?」
「来る分にはいいよ。お酒はないけどね」
私は笑って応じる。終電はまだずいぶん先で、自堕落なニートの六つ子にとって今の時刻は活動真っ最中の時間帯だ。
「そうか、アルコールはなしか」
彼もまた電話口で笑い声を溢す。
アルコールで眠気を誘うことはしたくない気分だから、今夜はシラフを貫くと決めている。
私とカラ松くんが会うのは二日後の日曜。今夜いかに自堕落に過ごそうとも、明日生活リズムを元に戻せばいい。
でも───
「声聞いてたら、カラ松くんに会いたくなっちゃったな」
この言葉を、彼はどう受け止めるのか。反応を見たくて、投げかけた。
「…ユーリ…っ」
万感の想いを込めて私の名が呼ばれる。電話機の向こうで、カラ松くんはどんな表情をしているのだろう。
「ユーリ、オレは──」
「ごめんごめん、変なこと言っちゃった。明後日楽しみにしてる。…あ、これから観たいドラマ始まるから、そろそろ切るね。お休み」
強引に会話を打ち切って、スマホをテーブルに伏せた。
長い夜の始まりだ。
九時開始の二時間ドラマが中盤を迎えた頃、突然インターフォンが鳴った。
私は驚くでもなく腰を上げ、通話のボタンを押す。画面には、予測していた人物の顔が映った。
「ちょっと待ってて」
応答するなり、小走りで玄関へ向かう。近隣の迷惑にならないよう極力音を立てないよう意識するが、気が逸って上手くできない。
玄関ドアを開けた先で私が出迎えたのは──いつものパーカー姿で、コンビニの袋を下げた松野家次男坊。
「来ると思ってたよ」
いらっしゃいと歓迎の言葉に続けて、私は言う。
「勘がいいな。ハニーのおねだりに応えにはるばる来たぜ」
前髪を掻き上げる気障ったらしいポーズ。その背中にはリュックが見えた。
「あ、これか?着替えを持ってきた。親愛なるハニーと優雅にミッドナイトを過ごすには、パーカーでは味気ないからな」
まさかバスローブじゃなかろうな。それは危険極まりない、カラ松くんの貞操が。
「夜更しする気満々でいいね。夜はこれからだもんね」
私はドアを開け放ち、彼を中へ招き入れた。
部屋に入るなり、カラ松くんは脱衣所で服を着替える。
パジャマでも着てくるのかと思いきや、白いラインの入った紺のジャージだった。上着のファスナーは全開にして、中は白のティシャツ。程よい緩さが一段と推せる。
テーブルに置かれたコンビニの袋に入っていたのは、麦茶のペットボトルとつまみだった。アルコールは摂取しない私に倣う心積もりらしい。
「ところで、ユーリ」
ソファに座り、麦茶の蓋を開けたところでカラ松くんが口火を切った。
「…電話でああいう言い方はズルいぞ。オレが来ないパターンは想定しなかったのか?」
どの言葉かすぐに予測がつく。
隣に腰を下ろして、私はかぶりを振った。
「しなかった。きっと来てくれると思ってたよ」
カラ松くんの頬が赤く染まる。けれど直後、慌てて居住まいを正し、つけてもいないサングラスのズレを直す仕草をした。
「つまりオレは、ハニーの仕掛けたトラップにまんまとかかったというわけか」
「ひどいなぁ。お互いに夜更ししたいっていう利害の一致でしょ」
「まぁ、それは否定できん。
…実を言うと、ブラザーたちが寝入った後にどう時間を潰すか悩んでたんだ。ユーリからの誘いは渡りに船だった」
「ほら、やっぱり」
「───ただ」
少し間があって、カラ松くんは急に眉をひそめて真剣な眼差しになる。
「深夜に男を招き入れる不用心さは、感心できないからな」
耳にタコができるほど聞いた台詞だ。私は肩を竦める。
「いい加減信頼してほしいなぁ」
「警戒心のなさ以外には全幅の信頼を寄せてるさ」
何だこの絶妙なアメとムチ。呆れながら笑う顔も可愛くて、ほんともう真剣に抱かせてほしい。
「おそ松くんたちには何か言われなかったの?」
深夜に外出となると、いかに相手が二十歳超えた大人であろうとも、外出先くらい訊かれるだろう。正直に行き先を告げたところで、快く見送ってくれる兄弟ではない。
不思議に思っての問いだったが、彼の返事は案の定と言えるものだった。
「一階に水を飲みに行くフリをして出てきた」
「あー」
それは悪手じゃないか。唖然としたのも束の間、私はベッドの上で振動するスマホを手に取る。ディスプレイにはトド松くんからの二桁の着信とメッセージ。ストーカーか。
カラ松くんが来た旨を入力したら、即座に既読になり、『やっぱり!最悪!』とシンプルな罵倒が返ってきた。
私はカラ松くんの傍らに並び、インカメで撮った二人の写真をトド松くんに送る。写真のカラ松くんは、口を半開きにしてきょとんとした表情だ。
「なぁハニー…それ、火に油を注いでないか?」
「夜更しするだけだから、一時間ごとに証拠写真送るねって伝えたよ。あ、ほら、それならオッケーだって」
トド松くんから届いたメッセージを見せながら、私は言う。
松野家の五人も今から麻雀に勤しむらしい。雀卓を準備している写真が送られてきた。
二時間の映画を一本観終え、日付が変わった頃。
冷蔵庫から新しい飲み物を出したり、座ったままストレッチをしたりとおのおので休憩を挟んだ後、私はスマホをテーブルに置いた。
「サイコロトークしようよ」
スマホの画面に映し出されるのは、何の変哲もない白いサイコロが一つ。
「サイコロトークってアレか…出た目に対応した話題を話すっていう」
「そうそう。何が出るのか分からない緊張感があって、面白そうでしょ。カラ松くんからいこうか、サイコロタップしてみて」
言われた通りに彼が画面に触れる。平面上でサイコロが転がるモーションの後、出た目は四だった。サイコロの下にお題が表示される。
「…『最近考えさせられたこと』?」
ふむ、とカラ松くんは顎に手を当てて思案顔。
けれどすぐに手を離して、私に向き直った。
「これから先のことを、たまに考える」
いつになく静かな声音で。
「だいぶ前に、ブラザーたちと同級生の結婚式に…正確には式と披露宴だな、それに参列した。
あの時は、何て茶番だと思ったんだ。たった一日のために大金はたいて、もったいないとさえ感じてた。
食べたコースの食材とか、結婚以前に同棲は無理だとか、でも子供はいいなとか、帰りにそんな話をしたのを今も覚えてる」
カラ松くんは苦笑する。劣等感故の負け惜しみ、それに近い感情に翻弄されたのだろうと察しがつく。
「一人の相手と何十年と一緒に暮らす、そんなことができるのか…そもそもイメージさえつかなかった。だから当時のオレの答えは、ノー、だった」
「当時ってことは、今は違うの?」
ソファの背もたれに背中を預け、先を促すつもりで尋ねた。
「フッ、愚問だぜ、ハニー。何人たりとも、この松野カラ松を縛ればしない!カラ松イズフリーダム!」
両手を広げて恍惚の表情を浮かべるから、私はローテーブルに頬杖をついた。訊くまでもなかった、失策。
相変わらずだなと呆れた矢先、カラ松くんはゆっくりと両手を下ろす。その顔にはもう、根拠のない多幸感は映ってはいなかった。
「…以前のオレなら、そう言っただろう」
グラスに注がれた烏龍茶で唇を湿らせて、彼は微かに微笑んだ。
「今なら、結婚したあいつの気持ちが分かる。
自分の人生全部捧げてもいいくらい誰かに夢中になるっていうのは、そういうことなんだな」
「…カラ松くんにも、結婚願望はあるんだね」
何だか意外な気もした。
人生設計なんて高尚なものは思考から排除して、いかに親のスネをかじり続ける期間を延長するかに力を尽くすとばかり思っていたからだ。成功者に対する妬み嫉みを悪しざまに口にしながらも、現実から目を逸らしてぬるま湯に浸かる日々を望んでいる、と。
カラ松くんは照れくさそうに私を見る。
「そうだな、今は…ある、な」
尊い。
「その…ユーリは?結婚願望とかあるのか?」
そうだなぁ、と私は声に出して天を仰ぐ。見慣れた白い天井が視界いっぱいに広がった。
「結婚すると、その人に何か起こった時──例えば入院した時とかに、側にいられる権利があるんだよね。
普段一緒に楽しくいられるのも大事だけど、万一の時には側にいたいから、そういう意味でも、好きな人とは結婚したいな」
結婚は契約だ。相手の人生に責任を持つという。権利と義務はいつだって紙一重で存在する。
「現実的だな」
「ロマンだけで飯は食べていけないしね」
それだけの覚悟を持って婚姻届に署名をしても、止むに止まれぬ事情で別離を選ぶ人もいる。未来が確約されない点では、ギャンブルにも近い。婚姻の誓いを結んだ人たちは様々な事象に折り合いをつけ、破綻の芽となり得る危険分子を排除し、均衡を取りながら毎日を生きている。
「幻滅しちゃった?」
大袈裟に肩を竦めてみせたら、カラ松くんは微笑みながら首を振った。
「いや、むしろもっと好───って、ええと、何だ、そういう意味ではなくてだな、こう…あの…」
みるみるうちに、茹でダコみたいに顔が赤くなっていく。
「すごくいいと…思う」
曖昧で遠回しな表現に行き着いた。
「そう?」
「あ、ああ…うん、いいと思うぞ。ユーリの伴侶に選ばれる男は間違いなく──幸せだ」
話を戻そう、と彼はわざとらしい咳払いを一つした。
「改めて思えば、いい式だった。チャペルの中に牧師がいて、新郎と新婦が誓い合うんだ」
カラ松くんは言いながら、再現するように私の左手を自分の手のひらに載せた。もう一方の手を上から重ねて、私の左手は優しく包まれる。
真っ直ぐ向けられる強い視線。ここが自分の部屋だということを一瞬忘却しそうになる。
「松野カラ松は、病める時も健やかなる時も、富める時も貧しき時も、有栖川 ユーリを妻として愛し、敬い、慈しむことを誓います」
愛おしむように言い放たれる誓いの言葉と、細められた双眸と。
私は口を半開きにして、さぞかし間抜けな顔をしていたことだろう。なぜなら──
「いや、それ牧師が問いかける台詞」
「オレが言った方がセクシーだろ?」
何か言い出したよ、この人。
「うん、それについては同意しかない。録音するからお代わりお願いしてもいい?」
「駄目だ」
「えー、何で?サービス精神旺盛なカラ松くんはどこ行ったの?」
異議を唱えても、彼は頑なに首を縦に振らない。
「何度も言うと有難みがなくなるだろ」
そうなんだけど、そうなんだけども!
「…未来によっては、何度でも聞けるさ」
しかしカラ松くんがそう呟いた声は、苦悩する内なる自分を律するのに必死で、私の耳には届かなかった。
「え、ごめん、聞いてなかった。何?」
「何でもない!」
サイコロを振って私が出した目は六だった。題目は『最近のニュース』。
私は腕を組んで眉根を寄せる。ニュースというニュースはあるし、何なら彼に語って聞かせたいと目論んでもいた。提示する時期を見計らっていた頃に、このサイコロの目。
「本当はもうちょっと内緒にしておきたかったけど…」
思いの外もったいぶった言い方になってしまった。
きょとんとするカラ松くんを尻目に、私はキッチンから白いティーカップとケトルを運んでてくる。
「紅茶か?」
カップに入ったティーパックを覗いて、カラ松くんが訊く。
「惜しい、ハーブティーだよ」
「ハーブティーが最近のニュースなのか?」
戸惑いがちに投げられる問い。意味が分からないとその顔は物語る。私はふふと笑った。
「青い色のハーブティーです」
カラ松くんの目が僅かに瞠られる。
「この前お茶の専門店で見かけて、可愛いパッケージに一目惚れしちゃった。カラ松くんと一緒に飲もうと思って」
沸いたばかりの湯が入ったケトルを持ち上げて、ティーカップに注ぐ。
「これ見た瞬間、カラ松くんだぁって思ってさ」
今の私はきっとだらしない表情をしているに違いない。カラ松くんを驚かせたくて用意していたのに、一週間以上言及を避けていたのだ。やっと口にできる開放感と、彼が示す予想以上の反応に顔が綻んで仕方ない。
「ユーリ…」
「ほら、見て見て」
袋に封入された茶葉が揺れ、鮮やかな青が溶け出していく。透明だった液体が、数秒後には淡い水色に染まった。
「うん、やっぱり青が似合うね」
「ハーブティーに青なんて色があるんだな」
「珍しいよね。しかもこれ、どんどん色が変わっていくんだよ」
話しているうちに、ティーカップの中身は水色から薄紫へと色を変え、やがて琥珀色が広がった。
「え、何だ、これ。普通にすごい…」
刻々と色変わりしていく様子を目の当たりにして、カラ松くんは唖然としている。
私自身は店員から聞いていたため衝撃はさほどでもないが、それでも鮮やかな青が琥珀へと移り変わる様はうっとりと見入ってしまった。
「でしょー!これが一緒に見たかったんだー」
夜明けの空が、白いティーカップの中で再現される。両手に収まる小さな世界で流れる時間を、天空から見つめているみたいに。
何度か息を吹きかけてから、カップの縁に口をつけた。カラ松くんもこわごわと私に倣う。
「ハーブティーって飲んだことある?」
「ない。こういうのはトッティの専売特許だ」
「そんな格式高いものでもないと思うけど」
「──あ、美味い」
ぽつりと溢される感想に、私はにこりと微笑む。
「ハーブティーというから独特な味かと思ったら、そうでもないな…飲みやすい」
「癖もないし、ほっこりするよね。リラックス効果もあるカモミールが入ってるから、そう感じるのかも」
カフェインも入っていないから、深夜に罪悪感なく飲めるのもメリットだろう。
「天然の素材でこんな神秘的な青が出せるって、本当すごいことだよね。
青い色は一瞬だったけど、やっぱりカラ松くんに似合うって確信が得られて良かった。この組み合わせなかなか推せる」
深夜テンションも相まって、私は知らず知らず饒舌になる。ついでにトド松くんには定時連絡ついでに、青いハーブティを見下ろす推しという最高の写真を数枚に渡って送りつけた。
彼からの返事は『データ通信量の無駄遣い』とにべもない。相変わらず兄弟に対しては辛辣を極める。
ハーブティーのおかわり持ってくるねと、ユーリの姿がキッチンに消える。
カラ松は片手で口を覆った。油断すれば口から声を発してしまいかねなくて、高鳴る鼓動を落ち着けるため呼吸を整える。
ユーリはズルい、本当にズルい。
否、油断していた自分にも非があるかもしれない。ニュースというから、自分には無関係な案件と決めてかかっていた。
そんな状況で彼女から投下された爆弾はあまりに大きく、挙動不審にならなかっただけ成長したと自分を褒めてやりたい気分だ。
キッチンからは、ケトルに水を追加する流水音が聞こえてくる。どうかもう少しだけ戻ってきてはくれるなよと、カラ松は内心で祈った。
ふと目を向けたユーリのスマホの画面には、サイコロアプリが立ち上がったままだ。何気なく触れたら、画面の中でサイコロが転がる。出た目は、五。浮かぶ文字は──『今までで一番幸せだと思ったこと』。
「これこそ愚問じゃないか?」
カラ松は笑う。
「ユーリに出会えたこと、かな」
でも、とカラ松は思い留まる。
幸福度の度合いで言えば、ユーリと再会して次の約束を取り付けたあの瞬間よりも、つい今しがたカラ松のトレードカラーのハーブティを嬉々として披露してくれたことに、より一層せを感じている。いつ切り出そうかと胸を踊らせていたであろう心境を思うと、ユーリがたまらなく可愛く、愛しい。自立した大人の見た目とは裏腹に、子供みたいな純真さも秘めていて。
幸せなのは間違いなく、今この瞬間の方だと断言できる。
会うたびに、惹かれていく。昨日よりも今日、今日よりも明日、際限がないくらいに。
「…ユーリに会っている時は、ずっと」
幸せを、更新し続ける。
私がキッチンから戻ってきた時、カラ松くんは顔の筋肉を弛緩させた状態で遠くを見ていた。その姿はさながら酔っぱらいで、アルコールは一滴も嗜んでいないのにどうしたのかと驚いたものだ。
明かりの灯るスマホの画面と、表示されていたサイコロの目で、何か思い浮かべたらしいことまでは察したが、尋ねたところで本人は決して口を割らないだろう。私も敢えて問わない。
「今更なんだけどさ」
二杯目のハーブティーを飲み干した頃、ふと浮かんだ疑問を切り出す。
「どうした?」
「カラ松くんってダブルスタンダードじゃない?いわゆるダブスタ」
「だぶす…え?」
ポカンとする彼の横で、私はテーブルの上に組んだ両手の上に顎を載せる。
「私には深夜に男を部屋に入れるなとか言うくせに、自分は深夜に女の人の部屋に入り浸るんだもんね」
「……あ」
数秒間の沈黙の後、カラ松くんはハッと我に返る。私の発した言葉の意味を、正しく理解したようだった。
あたふたと忙しなく両手を動かし、え、あ、と単語にさえならない声を発する。
「す、すまん…完全に軽率だった」
「でしょ?」
「ユーリに会える口実になると思ったら、その…」
私は目をぱちくりとさせる。推しのリップサービスがすごい。
「すぐ帰る!そ、そうだよな、ミッドナイトに年頃のレディの部屋に居座るなんて、紳士のすることじゃ──」
「待て待て、もう終電ないよ。タクシー代だって持ち合わせないんでしょ?」
慌てて立ち上がろうとするから、服の裾を掴んで引き止める。
「…うん」
やたら殊勝だ。半泣きで背中を丸める姿が素晴らしく可愛い。
「何も帰れって言ってるわけじゃないの。私の都合が合えば、カラ松くんはいつでも来てくれてもいいんだよ。今まで、ずっとそうしてきたでしょ」
「しかし…」
「カラ松くんは帰りたいの?」
その問いには、全力で首を横に振ってくる。
「思ったことない!ハニーといて、帰りたくないとは思っても、帰りたいとは、一度だって!」
ならば。
「私が言いたいのはね、台詞と言動には一貫性を持とうってことだよ」
「…分かった、気をつける」
こんなやりとりを、もう何度も私たちは交わしている。舌の根も乾かないうちに同じことが繰り返されるのだろうが、根気よく伝えていくしかない。
不意に話題が途切れて、私は何とはなしにアプリのサイコロをタップする。コロコロと画面上を回って、一が出る。題目は『自慢話』だ。
額を突き合わせるようにして覗き込んだカラ松くんが、ふぅと大きな溜息をつくのが聞こえた。
「ハニーの自慢話なんて、一つしかないじゃないか」
みなまで言うなと、憂い顔。
「オレという唯一無二のダイヤに出会えたこと、だろ?」
片手を自身の胸に、もう片手を横に広げて、カラ松くんは力強く言い放つ。私は目を剥いて彼を見る。
「よく分かったね」
「へ?」
耳にかかる髪を人差し指で掻き上げ、私は頷いた。
「松野カラ松という人が私の世界を広げて、もっと楽しいものにしてくれた…ううん、現在進行系で、今この瞬間もしてくれてる──これが、私の自慢」
自分の言葉で告げることに多少の気恥ずかしさもあったが、紛うことなき事実だ。辛いことも苦しいことも、彼の笑顔一つで帳消しになり、紡がれる言葉は日々の糧となる。
私が享受する分と同じだけ、彼に返したい。カラ松くんがずっと幸せであるように。
「自慢…ほ、本当に?」
「推しだよ。そこは自信持ってよ」
「え、あ…そう、なのかな…」
「他の人がどう思おうが、私にとっては自慢できる人なんだから」
私が言葉を重ねるたび、カラ松くんの頬の赤みは濃さを増していく。
「ユーリ…」
「熱く語りすぎて引かれる傾向にあるのが難点なんだよね」
「職歴のないニートを推してるんだからその反応は至極当然だと思うが」
すっと表情を消した顔で間髪入れず吐き捨ててくる。
「本人が言っちゃう?」
「なかなかの諸刃の剣だぜ」
眉間に皺を寄せ、吹き出てもいない汗を拭うポーズ。自分の発言でダメージを食らったらしい。
実は、とカラ松くんが戸惑いがちに首筋を掻く。
「さっきユーリがキッチンに立った時、サイコロで『今までで一番幸せだと思ったこと』が出たんだ。真っ先にユーリの顔が浮かんだ。
オレの独りよがりじゃないかと恥ずかしくて言い出せなかったんだが、表現こそ違えど同じ思いだと分かって、その…すごく、幸せだ」
最後は消え入りそうなほど音量が絞られた。テレビを消した無音の空間だからこそ聞き取れたが、よそ見をしていたら聞き逃していたかもしれない。
「でも、やっぱり来なきゃ良かったとも思ってしまうな」
「何で?」
私が問えば、カラ松くんは困ったみたいに微苦笑する。困らせないでくれとでも言いたげな面持ちで。
「…こうして二人きりでいて、ユーリに触れないでいるのは拷問だ」
熱に浮かされたような潤んだ瞳と、上気した頬と、蠱惑的な言の葉。
あれ、これひょっとして据え膳?抱いてくれっていう遠回しな誘い文句?
顔を赤くしながら抵抗する姿もご馳走だが、躊躇いがちに誘ってくる積極的な推しも、イイ。今日は新境地開拓記念日にしよう、ありがとうございます。
「あ、ええと、ま、まだ出てない目があったよな。何だろうな」
沈黙に耐えきれなくなったカラ松くんが、不自然なほど軽い声音で話題の転換を試みる。こういうところで後ずさりする彼の癖が、一線を超える障壁になっているとも言えるだろう。
視線をスマホに戻すと、サイコロの三が示すのは『怖い話』だった。
「怖い話…」
反芻した私と、こくりと頷くカラ松くん。スマホの時計が示す時刻は、午前二時を少し回った頃合い。
「今から?」
「ちょうど丑三つ時だな、タイムリーと言わざるを得ない」
「電気消してやるべき?」
「ガチ勢か。しかし、こういうことをすると、ほら…呼ぶって言わないか?」
百物語しかり。閉め切られたカーテンの向こうは、静寂を纏う闇。マンションの周辺は住宅街ということもあり、しんと静まり返っている。
目を潰ってシャワー浴びられなくなるのは困ると私が告げるより先に、カラ松くんが続けた。
「オレは帰るから関係ないけどな」
鬼か。
その後、怪談話は強制的にお蔵入りにさせ、明け方までDVDを観たり六つ子にまつわる思い出話に花を咲かせた。
時間は穏やかに過ぎ、カーテンの向こう側からは少しずつ明かりが漏れさす。沈黙が増え、うつらうつらと船を漕いでは懸命に目を開いたりを繰り返す。
「さすがに眠い…」
「オレもだ」
「時間はえーと…五時、か。お昼くらいまで寝る?」
「贅沢な時間の使い方だな、麗しのハニーと共に休日の朝を自堕落に過ごす…オレ」
こいつまだ余裕あるな。
私はというと、ツッコミを入れるのも億劫でスルーを貫く。
「起きたらご飯食べよう。チャーハンくらいなら作るし」
「頼もしいぜハニー」
褒め言葉に投げやり感がすごい。
立ち上がり、重い体を引きずりながら炊飯器に白米と水をセットする。起きたらすぐに料理に取りかかれるように。
予約ボタンを押して元の位置に戻ると、カラ松くんはソファに倒れ込むようにして寝息を立てていた。掛け布団を引っ張り出し、彼の上にかけてやる。
寝顔を写真に撮って、『限界なので寝ます』とトド松くんに定例報告の終了を告げる。つい数十分前まですぐに既読になっていたメッセージはいつまでも未読のままで、私は大きくあくびをする。
そういえば、サイコロで一つだけで出てない目があったことを思い出し、何気なく画面をタップする。最後の目、二が出た。
『恋の話』
私はスマホを口元に寄せ、笑った。
「さて、これは幸か不幸か」
眠るカラ松くんの頭を撫でながらぽつりと呟く声は、誰にも届くことなく。
こうして私たちの深夜談話は、ひっそりと幕を下ろしたのである。