無理なものは無理

苦手なもの、不得手なもの、そういった自分にとって扱いにくい類は誰しも一つや二つ持っているものだ。それらへの向かい合い方も千差万別。努力の末に克服するケースもあれば、弱点として受け止め共存する道を選ぶ者もいる。正解はなく、克服した者が一概に優秀かと言えば、そうも言い切れない。
けれど、先へ進むために対峙せざるを得なくなった時、悪足掻きせずに覚悟を決める者は美しい。


「やっぱり…無理だ」
苦痛に顔を歪めたカラ松くんが、私の肩を押しのけようとする。
「してほしいって言い出したのは、カラ松くんだよ」
両親と兄弟は出払い、静寂の漂う松野家二階。開け放たれた窓の外から聞こえる小鳥の鳴き声が、時の流れを告げるかのようだった。
「それは、そうなんだが…」
「後悔してる?私に頼んだこと」
問えば、カラ松くんは躊躇いなく首を横に振る。
「するわけない。他ならぬユーリだから…ユーリにしか頼めないことなんだ」
落とした視線、苦々しく唇を噛む仕草、私の肩に触れる形だけの抵抗。
家の前の道路を横切る他人の笑い声が、ひどく遠いものに感じられた。切り取られた箱庭の中で足掻くのは、一体。
「でも」
そう言って、彼はキッと私を見つめた。

「やだっ、無理無理無理無理、絶対痛い!こんなの絶対入らない!」

一際高い声で泣き叫ぶ次男坊の目に映るのは──『目薬』を片手に振りかぶる私

「入るから売ってるし病院で処方されるの。痛くないよ。仮に痛くても一瞬だから、すぐ慣れるって、大丈夫」
目薬は目薬でも、キャップを外して今すぐにでもさせる臨戦状態の目薬だ。じりじりとカラ松くんとの距離を詰めようとすれば、彼は同じ分だけ後ずさる。
「何で!?何を根拠に!?いくら相手がハニーでも、これはハードルが高すぎる!」
「すぐ終わらせるから」
「やーだー!」
二十歳超えたいい大人が駄々っ子の如く手足をバタつかせる様は痛々しいことこの上ないが、いかんせん当推しは可愛いから困る。
「でも、やらなきゃいけないんでしょ?あっという間だよ」
「だって、異物挿入だぞ!絶対痛い!」
「だから挿入じゃないし、このやりとり耳かきの時もしたよね。混乱してるからって誤解を生む発言は控えて

事の発端は、数日の前に遡る。
カラ松くんの右目にものもらいができたのだ。しかし前述のように目薬を忌避し、自然治癒力に任せていたら病状は悪化。おばさんに追い立てられて眼科に行き目薬を処方されたものの、自身ではさすこと適わず、かといって兄弟にも頼めず、私が召喚されたという経緯である。いい迷惑だぞマジで。

目薬の厄介なところは、一日に複数回、それも治るまでは数日に渡ってささなければならないことだ。一回点眼できたからといってクリアではない。
「自分から頼んでおいて嫌って、じゃあもうおそ松くんに頼んで。私は帰る、あばよ
晴れ渡る外出日和の休日、やることはいくらでもある。一進一退の攻防で消耗するのは体力精神力の無駄遣いだ。
「わーっ、やだやだ!ごめんなさい!やって!やってください!ユーリじゃないと駄目っ」
なのに私が腰を上げると、すかさずカラ松くんがプライドをかなぐり捨てて縋り付いてくる。鬱陶しさと愛らしさが混在して、非常に悩ましい。ムラッとくる。
「おそ松くん耳かき上手かったんでしょ?ちゃんとやってくれるって」
「あいつ、一回耳かき頼んで以降は、オレが耳かき持った瞬間に真っ青な顔して逃げるんだ。頼んでも本気で嫌がられる」
よっぽどのことがあったのだろうなと察しがつく。六つ子と付き合い始めて、小さなことでは疑問も抱かなくなってきた。


仕方なく、中断していた作業を再開する。カラ松くんはカーペットで正座して上を向き、私は膝を立てて上から覗き込む格好だ。
「か、カウントダウンしてくれ!カウントダウンのカウントダウンだぞ!分かるか!?」
「しません」
オレへの配慮おおぉおぉ!せめて悩んで!」
左手でカラ松くんの瞼を持ち上げようとするが、手は振り払われこそしないものの、意地でも開けまいと瞼は閉じられたままで、液体を差し込む僅かな隙間もない。
「こら、抵抗しない!」
一度瞼から手を離して、彼の頬を両手で引っ張る。黒い瞳がぱちくりと私を見つめた。鼻先が触れそうな距離まで顔を寄せると、カラ松くんの顔が一瞬で朱に染まる。
「ち、ちょ…っ、ユーリ!」
「抵抗されるといつまでも目薬させないよ」
「そんな卑猥な目薬のさし方だと無理に決まってるだろ!」
上から見下ろす体勢が卑猥ときた。
「かなり一般的なやり方だけど」
「顔が近すぎる!」
「そこか」
別の意味でも逃げ腰になるカラ松くん。逃走しないよう首四の字固めでガチガチに拘束してやりたいが、私の力では一瞬ですり抜けられるだろう。力技は通用しないとなると、正攻法で攻めていく他ない。


カラ松くんの両手を取って、私の腰に添えさせる。
「動かないように。手を離すのも禁止」
当初こそカラ松くんはギョッとして服の生地に触れる程度だったが、禁止事項を告げてからは慌てた様子で力を込めた。
「…細いな」
そういう感想はいらんのですよ。
「んー、手を置くだけだと遠いし固定になってないか」
私の腹部に顎をつけるくらいのことはする必要がありそうだ。
立ち上がり、ソファに座る。カラ松くんを手招きで呼び、膝を立てた格好で私の腰に両手を回すよう指示し、密着させる。開いた足の間に彼の体が収まり、顎が上を向く。
「うん、これで良し」
「え…そ、その、この姿勢でいいのか?」
まぁ、戸惑うのも無理はない。
「いいよ。これで目薬させるならね」
一刻も早くこの茶番を終わらせられるなら、安い代償だ。
カラ松くんは蕩けるような潤んだ瞳で、じっと私を見上げてくる。卑猥はどっちだ。
私は微笑んでから、親指と人差し指でもってカラ松くんの右目の瞼を開く。抵抗は感じるが、想定内の弱々しいものだった。
「いい子だから、そのままね」
耳のすぐ近くで囁くと、彼はこくりと頷いた。ここまで順調だ、スムーズに事が運んでいる。あとは目薬が一滴落ちさえすれば──

しかし案の定というべきか、カラ松くんは即座に目を閉じた

それはもう本当に一瞬で、疾風の如き素早さだった。
貼り付けた笑顔が若干引きつりそうになったが、気を取り直して次はフェイントをかけて試す。落とすと見せかけて止め、諦めた体を装っては仕掛けるを何度か試みるが、恐るべきは鉄壁の防御。ステータスは瞼の防御に全振り。
「フェイント効かないってどういうこと!?まさか落ちるの見えてる!?カラ松くんの動体視力どうなってんの!」
「知らん!オレに言うなっ」
「ここにきて逆ギレ!」




一旦休戦だ。
手土産として持ってきたクッキーと、いつでも勝手に飲んでいいとトド松くんから許可を得た紅茶をトレイに載せ、二階の部屋に戻る。自覚はしていなかったが喉が乾いていて、一杯目の紅茶はほぼ一気飲み同然のスピードで胃に消えた。
「っていうか、怖いとか無理とか言ってる場合じゃないんだよね」
実施頻度の低い耳かきとはわけが違うのだ。恐怖を克服しなければ意味がない。気軽に引き受けてしまったが、なかなかの難題である。
「私が無理だった場合、チョロ松くんにでもバトンタッチしようか」
彼を選出した理由は、一番器用そうな気がするからだ。
「それは…嫌だ」
肩を竦めながら、しかし強い意志の感じられる声でカラ松くんが拒否の姿勢を取る。
「嫌?どうして?」
「…何というか、ブラザーたちに格好悪いところを見せることになる、だろ?」
私はいいんですか、そうですか。
「今日明日は土日だからできるだけ私がやってあげるとしても、その他の日はどうするの?」
「ユーリの家に通う」
馬鹿か。あ、言っちゃった」
本音がうっかりだだ漏れた。
カップに注がれた琥珀色の液体に反射する自分の顔には、いつにない疲労感が漂っている。
「今日明日で何としても克服しなきゃね。できなかったら、おそ松くんに頼む」
「すまん、ハニー…その案は全力で拒否する
弱者に拒否権があると思うなよ。

カラ松くんは、もう何年も目薬を使ってないという。確かに飲み薬や塗り薬と違って、人によっては世話になることが少ないタイプの薬ではある。
視力は平均程度で運転も裸眼、ドライアイや眼精疲労とも無縁の松野家次男。
「でもカラコンつけた経験はあるんだよね?おそ松くんが言ってたし」
「あれは気合いでやった。ただ装着時と取り外した時の記憶はないから、今後つける予定もないが」
オシャレに文字通り命かけたのか、こいつは。私はもう、呆れてものも言えない。

「カラ松くんは、どうすれば目薬させると思う?」
私の問いかけに、彼はなぜか目尻を赤くする。
「ユーリからのご褒美があれば頑張れる…かも」
「ご褒美…」
彼の望みを反芻して、それからフッと微笑んだ。自然に浮かんだ微笑だった。

「いやいや、ご褒美はこっちが欲しいくらいだから!何で私が頑張ってやる気にさせにゃならんのだ!逆だ、逆っ!

激しい剣幕で私は声を荒げた。カラ松くんはビクリと肩を震わせてから、だよな、と苦笑い。分かってるなら言うんじゃない。
けれど、ふと私の中に名案が浮かんだ。ピコンと電球に明かりが灯る。あ、と単語を溢して、私は上目遣いでカラ松くんを見た。
「抱かせてくれる?」
「は?」
「抱かせてくれるなら本気出すよ」
カラ松くんは、お前は何を言ってるんだと言わんばかりに、苦虫を潰したような顔になった。
「無理だろ」
情事への誘いとその拒否は、もはや様式美になりつつある。
「じゃあ胸揉むのでもいい」
「じゃあって何だ、じゃあって。…というか、毎度の常套句になりつつあるが、そういうのは普通男が言うものじゃないのか?」
「まな板なのは気にしない。十分理解した上で言ってる」
「誰が胸の大きさの話をした?」
私に対するツッコミの速度と腕は、確実に上昇傾向にある。
カラ松くんは片手を顔を覆い、盛大な溜息を溢した。眉間に刻まれた皺は深い。いちいち指摘をするのも億劫という胸の内が伝わってくるようだ。本人目の前にして失礼すぎではなかろうか。
けれど。
「…一回だけなら」
私の憶測に反して、彼はそんな言葉を続ける。
容赦のないツッコミを受け、この話題には終止符が打たれたと認識していた私は、小声で吐かれたその台詞を聞き取れなかった。
「え、何か言った?」
二杯目の紅茶を飲み干して、悠然と聞き返す。
「…い、一回だけならいいと言ったんだ!二度も言わせるんじゃないっ」
カラ松くんは顔を真っ赤にして叫ぶ。恥じらう推しもまた至高であると言わざるを得ない。
脳内の私が全力でガッツポーズを決める。
あくまでも表面上は穏やかに、緩い微笑みに留めて。
「安心してカラ松くん、目薬への恐怖克服なんて簡単なことだから。この依頼、私のプライドにかけて完遂してみせる」
「プライド誇示すべきところを盛大に間違っている気がするが」
「体を売るほど切羽詰まってるってことだもんね」
「語弊がありすぎる」




六つ子たちと両親が帰ってくるまでには、まだ幾分か猶予がある。私はスマホで目薬のさし方などを検索し、成功事例の多いものから手当り次第に試すことにした。下手な鉄砲数撃ちゃ当たる作戦である。

ソファに座った私の膝に、カラ松くんの後頭部を載せた。彼はソファに横たわり、私に膝枕をされる姿勢になる。私に危害を加えることはしないはずだから、頭部さえ固定すれば勝算はある、かもしれない。
「…さっきから少々大胆じゃないか、ユーリ?」
私が前屈みになると、彼の顔に影ができる。カラ松くんから見れば、頭上から胸が迫ってきている感覚だろう。どうでもいいが。
「手段を選んでたら成功率が下がるからね。別に圧迫してるわけじゃないんだから、息苦しくもないでしょ?」
「ま、まぁ…そう、なんだが」
目のやり場に困るとばかりに、カラ松くんの視線は揺れる。
「警戒しなくても大丈夫だよ。何もこのまま襲おうってわけじゃない」
「おそ…!?」
カラ松くんは頬を紅潮させたまま絶句する。
私は顔には出さず、ああ、そうか、と思い至る。これは絶好の襲撃のチャンスだったか。自分で言って自分で気付くパターン。
「こ、こんな時に冗談は止せ、ユーリっ」
「目薬がなければ本気だったかもよ」
わざと苛立ちを誘発するように言い返す。案の定、カラ松くんは顔に不機嫌を貼り付けた。顔はそのまま、眼球だけ私から逸して。

「…オレだって、こんな時じゃなかったら真面目に応える」

「あ」
「えっ」
私が声を上げて階段に続く襖を凝視し、カラ松くんの瞳が追随する。
絶好のチャンス到来。躊躇わず、目の中に目薬を落とした
「よっ──」
「あああぁああぁあぁぁぁぁあッ!いっだああああああぁぁぁ!」
よっしゃという歓声とガッポーズは、カラ松くんの絶叫で掻き消える。私はギョッとして体を強張らせた。
「な、何───…あ」
両手で顔を覆い声を漏らしたその理由は、私の手中にあった。私が手にしていたのは、処方薬を無駄遣いしないようにとカラ松くんが持ってきた、いわゆる練習用だったのだ。しかもどうやら清涼感の強いタイプだったらしい。刺激の強いものは、目薬を使い慣れている人間でも、それなりにダメージを受ける。目薬に苦手意識のある者なら、なおさらだ。
「えー、何で自分を貶めるような物用意するかなぁ」
呆れ声で呟けば、カラ松くんは今にも涙が溢れそうな目を開けた。
「未開封のはこれしかないって…そんなに強くないからって…っ、そう言われたのにー!」
「誰から貰ったの?」
「…トド松」
なるほど。暇あればスマホを使用する末弟なら、眼精疲労用の清涼感マシマシタイプは使い慣れていても不思議ではない。両者の認識の相違が生んだ悲劇と言えよう。
しかし、ものもらいで負傷している目に刺激は厳禁だ。状態異常による防御力低下時に、会心の一撃を受けたダメージは計り知れない。

とはいえ、成功のぬか喜びを一瞬でも感じてしまった私の精神的ダメージも大きい。
カラ松くんの関心を目薬から私に移行させ、さらに瞬間的に意識を総ざらいして仕掛けた攻撃が、不可抗力で失敗に終わったのだ。
処方された抗菌目薬は刺激をほとんど感じないものだから、ほら平気だったでしょうと安心させる心積もりだった。しかも失敗に導いたのが、他ならぬ本人。殴ったろかな。


先程は、我ながら最高のタイミングだった。今後カラ松くんは一層警戒するだろうから、もうこの手は通用しなくなる。
「カラ松くんのせいでハードル上がっちゃったよ、もう」
「え、オレのせい!?トッティじゃなくて?」
「清涼感強いか弱いかくらい、ちょっと調べればすぐ分かるでしょ?
トド松くんの言葉を鵜呑みにして確認しなかったカラ松くんも悪いよ」
彼の目尻から溢れ落ちそうになる涙をティッシュで拭ったら、カラ松くんはくすぐったそうに僅かに身を捩る。
「…ふふ」
それから不意に、笑った。
「どうしたの?」
「いや何、不謹慎だが…幸せだな、と思ったんだ」
目を細め、持ち上げられた右手の甲が私の頬にそっと当たる。
「こうやってユーリと触れ合っていられる」
「カラ松くん…」
うちの推し、可愛すぎない?
イケボで無自覚に口説いてくるわサービス過剰だわ、これで欲情するなという方が無理な話じゃなかろうか。
「そんなこと言ったって、もう目薬しなくていいよ~とはならないからね」
「バレたか。ディテクティブさながらの鋭い洞察力だな、ハニー」
カラ松くんはおどけて肩を竦める。
「でもどうせ触れ合うなら、そのことだけに集中できる環境にした方が楽しいと思わない?懸念事項はさっさとなくして、さ」
艶めいた微笑みと仕草を意識する。顎からこめかみにかけてのラインを指先でゆるりと撫で上げると、カラ松くんは息を呑んだようだった。

「…ユーリがお望みなら、オレは喜んでその望みを叶えよう」

これにて覚醒、目薬への恐怖なんて何のその、克服して大団円──なんてことには決してならないのが、松野カラ松が松野カラ松たる所以である。
私は鼻で長めの息を吐き、スマホを持ち上げた。
「スマホで目薬のコツ調べてみるから、ちょっとだけ待ってて」
「フッ、信じてるぜ」
キメ顔で信頼を寄せられても困る。というか全部私任せか、いい度胸してるなこいつ。
床に落ちていた誰かの情報誌を膝枕のカラ松くんに渡して、私は検索サイトで目薬のコツを検索する。

しばらくの間は、パラパラと紙面をめくる音が聞こえていたのを覚えている。
スマホの画面を凝視して、私は思案する。先端恐怖症でもないのに、目薬の何が苦手なのか。やはり異物を無防備な箇所に入れる行為への嫌悪課、恐怖感だろうか。
というか、そもそもご褒美で目薬が克服できそうと言える程度なら、気の持ちようの問題なのかもしれない。
まぁ、原因が分かったところで私は克服させる手段を粛々と実行するだけなのだけれど。

さてどうしようか。ふと画面から視線を外したら、雑誌を胸に置いて目を閉じるカラ松くんが視界に飛び込んできた。すやすやと寝息を立てて、胸は規則正しく上下している。
「カラ松くん?」
声をかけども反応はない。そんなに長時間思案に耽ってしまっていたのか。頬を軽く叩いても起きる気配はなかった。
知り合ったばかりの頃は顔を見合わせることにも緊張を示していた彼が、今や人の膝で無防備に寝落ちする始末。それはつまり、私たちの関係性が深まったことを示している。カラ松くんは気付いているのだろうか。
試しに指先で瞼を持ち上げる。反応はない。抗菌目薬のキャップを外し、中の液体を眼球に一滴落とす。成功。呆気ないほどに容易く。
「…うーん、でもこれは克服じゃないよなぁ」
子供に目薬をさす方法の一つとして、寝入った後に実行する記事があったが、その場しのぎでしかない。

「カラ松くん、起きて。目薬の続きやるよ」
今のはノーカンにして、私は彼の肩を揺すった。




先程練習用の目薬で成功したのは、目薬以外のことに気を取られていたからだ。目薬の存在さえ瞬間的に失念していたに違いない。その状況が再現できれば、あるいは。
オフィシャルから胸を揉む権利を得たものの、割りに合わない気もしてきた。貴重な休日に私は何をやっているんだろう。
「ね、カラ松くん。さっき、ご褒美があったら頑張れるって言ったよね?」
私は背中を丸めて、彼の顔を覗き込んだ。
「え?…ああ、うん、言ったな」
「どんなご褒美がいいの?」
私に意識を向けさせる。目薬から、私へ。
「…ユーリ?」
視線が重なった。双眸には驚きの色が浮かび、困惑げに私の名が呼ばれた。
「いや、あれはその…売り言葉に買い言葉というか…」
「キスとか?」
「え!?」
うん、と私は口角を上げて。

「目薬上手くできたら、キスしてあげよっか?」

囁くように、カラ松くんにだけ聞こえるよう音量を絞って告げた。ゆっくりとしたスピードで、抑揚をつけながら。言葉を理解するまでに時間を要するよう仕掛ける。
案の定、カラ松くんは目を見開いた。
「き…っ」
上擦ってままならない声───今だ。

私は素早くその瞳に目薬の液を落とした。

ぽたりと、小さな滴が眼球に広がる。
「……あ」
「ほら、痛くないでしょ」
私が訊けば、彼はぱちくりと幾度か瞬きをした後にこくりと頷いた。
「痛く…ない」
片手を持ち上げて自身の目に触れようとするので、それを遮るように目尻をティッシュで拭う。
「反対側も一応やっておくね」
もうカラ松くんは抵抗しなかった。指で瞼を広げてもされるがままで、注入は至極スムーズだった。数時間にも渡る激闘は功を奏したわけだ。
「恐怖克服できたみたいだね、良かった良かった。私が帰るまでには、一人でできるように一回練習してみよっか。この調子なら、すぐできると思うよ」
一仕事を終えて穏やかに今後のスケジュールを語る私とは裏腹に、カラ松くんは血相を変えて飛び起きた。
「は、ハニーッ…さっきの、その…ご褒美は!?」
「ん?」
「ユーリが言ったんだろ!目薬うまくできたら…き、キスしてくれるって!」
頬だけでなく耳まで赤い。羞恥心を誤魔化すために勢いをつけて声を荒げているのだろう。
ああ、と私の口からは吐息が漏れる。
「あれはね、気を逸らすための口上。実際、驚いて目薬どころじゃなかったでしょ?」
「騙し討ちか!卑怯だぞっユーリ、ご褒美欲しい!
最後に本音がダダ漏れている。
「人聞きの悪い。戦術だよ。それに私は問いかけただけで、返事も聞く前だったし、確約したわけでもない」
ここまでくると詭弁のようだが、れっきとした事実だ。
だがカラ松くんは本気に受け取ったらしく、普段以上に眉を吊り上げて抗議の構え──なぜか正座で。怒りと懇願とが混じった複雑な感情を持て余しているらしいのは、自ずと察せられた。

「欲しいー!ご褒美欲しいー!オレ頑張ったのにーッ」
「よしよし、よく頑張りました」
私の膝に顔を埋めて叫ぶ次男坊の頭を、宥めるように優しく撫でる。
「こんな子供騙しで懐柔できるほどオレは安くないからな、ユーリ!」
「はいはい」
「でも…これはこれで、もう少し続けてほしいというか…」
チョロい。
うっとりと恍惚の表情を浮かべるカラ松くんを見下ろして、私は突然の尊さ襲来に下唇を噛んだ。
指通りのいい黒髪に載せた自分の手を眺めながら、犬みたいだなぁなんてことを思う。機嫌よく左右に振る尻尾が見える気さえする。




次の週末に、カラ松くんが我が家にやって来た。屋外の施設に赴く予定だったが、晴れの予報を清々しく裏切り雨が降ったため、急遽私の家で過ごすことにしたのだ。
「今日も麗しいな、ハニー。レインがもたらすアンニュイさも、ユーリを前にすると一瞬で吹き飛んでしまう」
ドアで出迎えるなり、装着しているサングラスの縁に手をやって、挨拶代わりのリップサービスを放つカラ松くん。
「いらっしゃい。
外暗いんだから、サングラスはつけなくてもいいんじゃない?」
私は笑いながら部屋に戻る。
「ノンノン、ユーリ。レイン如きでは隠しきれないオレの神々しさが、道行くカラ松ガールズたちを一網打尽にしてしまっては困るだろう?」
寝言は寝て言え。
「何言ってるの。サングラスつけてない方が断然可愛いのに
溜息混じりに私は反論する。サングラスは当推しを構成する要素の一つではあるが、チャームポイントを隠してしまうのは解せない。
「か、かわ…っ!?」
「サングラスつけてると確かにカラ松くんって感じするけど、目が見えてる方が───あ、もしかしてものもらい悪化したから隠してる?」
だとすれば合点がいく。眉根を寄せてカラ松くんに顔を近づけると、彼は反射的に背を後ろに反らせた。
しかし予想外だったのは、直後にカラ松くんがほくそ笑んだことだ。
「フッ、その逆だ、ハニー」
右手でサングラスの縁に触れ、気障ったらしい仕草で外す。

「──完治したぜ」

瞳を輝かせ、台詞は溜めて言い放つ。わざわざサングラスで目元を隠していたのは、大々的に披露するためだったらしい。格好つけることじゃないと思うのは私だけか。
「本当?良かったね!」
「ほら、どうだ、ユーリ。もう跡形もなくなったぞ。松野カラ松に不可能はない
たかだかものもらい一つに何言ってるんだ。
けれど確かに、一週間前は赤みを帯びていた瞼は腫れは、今はもう見受けられなかった。

冷蔵庫からペットボトルのドリンクを出してきて、リビングのローテーブルに置く。
私はカラ松くんと並んでローソファに腰掛け、改めて彼の目をまじまじと見つめた。
「どれどれ」
あぐらを掻く彼の傍らで、両膝を立てる。
「ちょ、ユーリ…っ」
「治ってから病院は行った?」
「え?いや、行ってないが…」
「じゃあ、ちゃんと治ったか確認するから、よく見せて。中途半端なままにすると、すぐ再発するよ」
治った頃合いにまた見せに来いと医者に言われなかったのか。日頃暇を持て余しているくせに大事なところで不精なのは、六つ子らしい。
再発の言葉に眉をひそめたカラ松くんは、大人しく顔を上げた。私はそれを上からじっと眺める。
「目が開いてたら瞼のところ見えにくいよ。目閉じて」
彼は素直に指示に従う。少々強めに瞼を下げた。
目尻に指で触れて、ものもらいができていた箇所をじっくり観察する。皮膚は健康的な色に戻っていて、素人目ではあるが、赤みはおろか皮膚内に芯が残っている様子もない。完治と言って差し支えないだろう。
断固として目薬を拒否していた頃から考えれば、よく頑張ったと思う。
だから──

私はカラ松くんの目尻に、キスを落とした。

「…え」
パッと目を見開いたカラ松くんと、至近距離で目が合う。
「ユーリっ…な、何…っ」
みるみるうちに赤面するカラ松くんから離れて、私は首を傾げた。
「ご褒美」
「は!?」
「この間話したアレ。カラ松くん残念がってたから」
私がそう言うと、カラ松くんは何とも言えない複雑そうな表情をしてから、私の両肩を乱暴に掴んだ。
「そういうのは、するって言ってからしてくれないか!?心の準備とか色々…色々あるだろ!」
何で色々を二回言った?
「もう一回!
オレ頑張ったから、すっげー頑張ったから!目薬克服して、ユーリに言われた通り毎日サボらずに何回もさした!」
食い気味に早口で捲し立てられる。顔は相変わらず真っ赤なままだ。えー、何これ、ドチャクソシコい。イケボで頑張ったアピールは反則だろ。
「…もう一回だけだからね」
「オフコース!」
鼻息が荒い。

今度は頬に両手を添えて、上向かせる。
「するよ?」
事前に予告をお望みのようだったので、私は告げる。カラ松くはあちこちに視線を彷徨わせた後ぎゅっと目を閉じたが、私も私で少々気恥ずかしさがこみ上げる。

それから同じ場所に、もう一度口づけた。

目を開けたカラ松くんが、私の腹部にもたれかかる。
「深刻なトラブルが発生した…」
「何それ?」
「今夜銭湯で顔を洗えないかもしれん」
それは由々しき事態。
「ちゃんと洗わないとお肌に悪いよ」
「自信ない」
「駄目」
「ユーリ」
縋るような瞳を向けられても、私にどうしろっちゅーねん
「またものもらいできても知らないよ」
「…それはヤだ」
納得はしたようだったが、しばらくは悶々とした様子で、私の腰に両手を回したまま顔を埋めていた。


「ちなみに、清涼感のある目薬は新しいトラウマになったぞ
それは何かごめん。