7人の運び屋(後)

ハタ坊に指定された時間は、午後八時。それまでは箱を持ってひたすら逃げ回るのが私たちの使命だ。
日も暮れた六時頃、私はショッピングモールの一階の専門店街を一人で闊歩していた。夕飯の買い出しを頼まれたのだ。他人を巻き込まないよう、車内で軽く済ませようという話になった。
ショッピングモールの一階は、専門店街と食品街に分かれている。車を停めた駐車場が運悪く専門店側だったため、反対側の食品街までは長距離を歩かなければならなかった。

絶え間なく人が行き交うモール内。多くは他人に目もくれないはずなのに、誰かに追われているような感覚が拭えない。足早に進み、途中のアパレルショップの姿見で髪を整えるフリをして背後を窺うが、追跡者の特定には至らない。
そもそも私自身、追跡や尾行にまるで縁のない一般人なのだ。特定して対処せよという方が無謀ではある。
「…気のせい、かな?」
立ち止まって首を傾げた次の瞬間──背中に誰かがぶつかった。
「あ、すみませ──」
「動くな」
振り返ろうとした私に、低音が囁く。腰に、まるで指先で突かれたような切っ先の鋭い何かが触れる感覚もする。
「…何か用ですか?」
努めて冷静に言えば、彼は私の腕を掴んで左を向かせる。その先にあるのは、従業員用のバックヤードに続くスイングドアだった。
「黙って行け」

観音開きのドアの奥は、ダンボール箱や資材が乱雑に置かれており、通路スペースは一定確保されているものの、自然と視界は狭くなる。従業員の姿は少なく、すれ違ったとしても私たちの横を会釈して素通りしていく。日雇いのバイトとでも思われているのかもしれない。
「宝石はどこだ?」
人気のない搬入口まで連行されたところで、私と男は対峙する形になり、男はようやく口をきいた。その手に握られているのは、やはりナイフだった。首からは社員証──おそらく偽造したもの──を下げていて、用意周到だ。バックヤードで怪しまれなかったのも合点がいく。
「宝石?何のことです?」
「とぼけるな。お前だって命は惜しいだろ」
「そりゃ命は惜しいけど、意味分からないこと言われたら、何て答えればいいか分からないですよ」
「そうか…なら仲間の所まで連れて行ってもらおうか?」
私がモールに入る前から追ってきていたのか。そんなことは些末な疑問ではあるけれど。

「仲間なら、ここにいるさ」

突然響き渡る静かな声の直後に、どさりと重量のある物が地面に落ちる音。
「ハニーを脅した威勢の割にこの程度か」
忌々しげに吐き捨てるのは、カラ松くんだ。
音もなく男の背後に回った彼は、呼応すると同時に片腕を首に回し、もう一方の腕で一気に締め上げたのだ。
「カラ松くん」
「ユーリにナイフ突きつけてタダで済むと思うなよ」
眉間に深い皺を刻み、気を失った男の頭をスニーカーで踏みつける。ドSの所業。
「ユーリもユーリだ。無茶はさせないと言ったオレが馬鹿みたいじゃないか。
ユーリが囮になるのはこれっきりだからな。二度と志願もするな、心臓がいくつあっても足りん」
ナイフを向けられていた腰に、カラ松くんの手が回る。
「もうしないよ」
「生きた心地がしない。ユーリを守ると約束したが、当のプリンセスがこうもじゃじゃ馬ではな」
「ごめんごめん」
雄みの強い推しも素晴らしい。排他松を彷彿とさせる塩対応に、顔面の筋肉が緩みそうになるのを必死で耐える。運び屋とか報酬とか、私にはどうでもいいのだ。推しの貴重な新規絵さえ拝めれば、それでいい。

事の発端は、運転中に追跡車に気付いたチョロ松くんの一声だった。
「やる?」
「やる」
即答するカラ松くん。
「どこがいい?」
「せっかくゴールに近づいているんだし、目立つ行動はすんなよ」
一松くんの忠告を受け、チョロ松くんはふむと片手を顎に当てた。それから瞠られた双眸は、キラキラと輝いていた。
「じゃあ、時間潰しと晩御飯買い出しついでに、確実な方法があるんだけど」
そうして、私が囮となって人気のない場所に誘導する作戦が決行されたのである。
彼らの名誉のために言っておくが、私が囮になるのは全員が反対した。けれど餌になるなら、見るからに弱い一般人の私が最も適役であることは明確だったのだ。




時刻は午後八時五分前。無事に目的地の解体工事中のショッピングモールに到着する。
宝石の受け渡しはカラ松くんと私で行うことになった。チョロ松くんと一松くんは車内に待機。というのも、何気なくつけていたカーテレビで、美少女と猫が主役のハートフルアニメが始まったため、二人が釘付けになってしまったのだ。仕事よりアニメを取るあたり、ニートの名に恥じない態度である。
とは言っても、宝石を渡すだけだ。すぐに終わる──そのはずだった。

「お疲れ様だじょ」
解体工事が始まって日が経っていないためか、電気が通っていないこと以外の建物の損傷は、さほど見受けられなかった。
懐中電灯を片手に指定された階に到着すると、ハタ坊とその秘書が私たちを出迎えた。
「ハタ坊…っ」
「みんななら来てくれると思ってたじょー」
両手を上げて歓迎してくるハタ坊だが、相変わらず感情の読めない顔である。
「例のブツを渡してほしいんだじょ」
例のブツとか言うし。
「あ、ああ…これだな」
「違うじょ」
「え?」
カラ松くんが差し出そうとした小箱に対し、ハタ坊は首を振って拒否の姿勢。
「ユーリちゃん」
突然名を呼ばれて、私はハタ坊を見る。

「ユーリちゃんがつけてる通信機に、宝石が隠されてるんだじょ」

「は!?」
「えっ…」
私とカラ松くんの口からは引っくり返ったような声が漏れた。そりゃそうだ、宝石は小箱の中に保管されていると聞いていたし、そもそもニートの六つ子に本物を託すとか頭おかしい。
「敵を欺くにはまずは味方から作戦でございます」
秘書が顔色一つ変えず、涼しい声で言った。
あらやださすがハタ坊、我々素人には理解し得ない高等戦術を用いるなんて素晴らしい慧眼──って、やかましいわ
世界を震撼させる曰く付きの宝石をブラブラさせていた事実に驚きを禁じ得ず、通信機を外す手が震えてしまった。
「元々は王冠と一対だったんだじょ」
ハタ坊はボストンバッグの中から、古めかしい貴金属製の王冠を取り出した。トップの台座部分には、ポッカリと穴が空いている。
「人格者として名高い王と常に共にあったものが、革命で暗殺された際に、宝石だけが奪われたのです。呪いの伝承はそこから始まりました。
今一度王冠に戻せば、呪いは消滅すると語り継がれてきました」
「はぁ…」
壮大な物語すぎて、いまいち実感が湧かない。長い夢を見ているようだ。

ハタ坊が通信機から取り出した宝石を、ピンセットで摘み上げる。黒い石だった。王冠の台座にピッタリと収まる。
「これでいいじょ。また儲かるじょー」
「何だか眉唾だな。曰く付きのジュエリーにしろ、呪いの伝承にしろ」
カラ松くんが眉根を寄せて揶揄する。仕事を終えた安堵感が彼に軽口を叩かせたのかもしれないが、呪いの実態を誰も見ていないのだから、致し方ないとも言える。
「確認すればいいじょ」
ハタ坊が何か言い出した。
彼はピンセットで台座から石を外すと、私に投げて寄越した。咄嗟に両手で受け取る。
「あ」
そして何を思ったか、私は救いを求めてカラ松くん視線を向けてしまう。
「え、えっ…ちょ…っ!」
「ハニー…ッ!?」

『宝石に触れながら最初に見た相手に、未来永劫囚われる』

数時間前に聞いた呪いが、脳裏に蘇る。
手元には、黒曜石のような漆黒。差し込む光の屈折で多様な輝きを放つ宝石とは違う、どこまでも深い黒。外周に平行な面が階段状につけられた長方形型の美しさに加え、じっと見つめていたら意識ごと吸い込まれそうなほど、黒く、暗澹と───

「ユーリ!」

両肩を掴まれて、私はハッとする。
「あ…ごめん、曰く付きっていうから、つい見入っちゃって」
「平気か?」
「え?…ああ、私のこと?うん、大丈夫みたい」
意識的に周りを見渡すが、普段通りだ。カラ松くんに対しての感情も、平時と何ら変化はない。
カラ松くんは腕の力を抜き、安堵の息を吐いた。
「ハタ坊、笑えないジョークだぞ。ユーリに何かあったら、どう責任取るつもりだったんだ。というか、何も起こらなかったじゃないか。こうなると、呪いというのも怪しいな」
「一度王冠に戻したことで効果がなくなったのかじょ?不思議だじょ」
「何でもいいけど、これはどうするの?どっかの国で保管でもするの?」
私はハタ坊からピンセットを奪うようにして、宝石を台座に戻す。掌紋や皮脂がついてしまっただろうが、知ったことではない。
「処分するんだじょ」
「処分?」
「原型をなくすほど粉々にして、二度と悪用されないようにするんだじょ」
「…そっか」


王冠ごと宝石を粉砕し、粉々になった砂粒をハタ坊が窓から撒いた。月夜の明かりに照らされたそれは、きらきらと眩い輝きを放ちながら空を舞った。
報酬は後日手渡しになることを三男と四男に伝えるため、ユーリは先に車に戻ると言う。彼女の後を追うためにカラ松も踵を返した、その時。
「やっぱりおかしいじょ」
ハタ坊の声に振り返る。
「どうした?」
「宝石をはめた王冠はレプリカの方だったんだじょ」
だから何だ、と言い返そうとして、ハタ坊の言葉が意味する本質をようやく理解する。
「万一のために精巧なレプリカを用意してたんだじょ」
「じゃあ…ユーリは、どうして…」
彼女が宝石を手にした時、間違いなく最初に自分と目が合った。カラ松は失笑する。
「なるほど、オーケーオーケー、アンダスタン。やはり最初から呪いなんてなかったわけか。さながらオレたちは、噂に踊らされた哀れなピエロというところだな」
いずれにせよ、報酬さえ手に入れば事実がどうであれ関係ない。仕事に見合った金額の支払いは約束されている。他愛ないことと笑い捨てようとしたカラ松に、ハタ坊が続けた。

「別の噂もあったんだじょ」
「別の噂…?」
「えーと、んーと…何だったか忘れたじょ」

「心を寄せ合う者同士には効果がない」

頭に日の丸の旗を挿し、高そうなスーツに身を包んだ男が静かに告げた。カラ松は驚愕を顔に貼り付ける。
「それは、どういう…」
「言葉の通りでございます」
ハタ坊はしばらく不思議そうにカラ松を見ていたが、やがて別の方角へ顔を向けた。

「つまらない噂だじょ。それに、確認する方法は──もうないんだじょ」




「ユーリ!」
廃墟と化したモール内に、ユーリの懐中電灯を見つけて声をかける。その声は自分でも、ひどく焦っているように聞こえた。
「カラ松くん」
「一人では危険だ、一緒に戻ろう」
「もう仕事は終わってるし、ここも基本は立ち入りできないようになってるから平気だよ」
カラ松を安心させるためなのだろう、彼女が語るのは事実であり正論だ。いっそ耳障りなくらいに。
「──オレが心配なんだ」
けれど、カラ松の意思をいつだって尊重してくれる。
「ありがと」
ユーリは優しい笑みを浮かべ、カラ松が傍らに並ぶのを待った。

「カラ松くんは、どうして今回の仕事を受けようと思ったの?」
カジノの時はアルコールで正常な思考がままならなかった上に、友の窮地を救う万能感にも酔っていた。退屈な日常からの脱却に目が眩み、報酬は二の次だった。
今回は──
「遊ぶ金欲しさに」
自分で言っておいて、まるで強盗の犯行動機じゃないかと我に返る。
「いやっ、ええと…っ、遊ぶための金が必要…って、危ない意味じゃなくてだな、あのっ」
「あはは。分かるよ、そのまんまだよね」
「金があれば、ユーリの望む場所に行けて、ユーリの望むことができるだろ」
「私の…」
ユーリは呆気に取られたようだった。
「オレが年中金欠で、金が入ってもパチンコや競馬にも使って、ユーリには我慢ばかりさせて、だから…」
「ううん」
ユーリはかぶりを振った。
「危険なことして得たお金で豪遊するくらいなら、金欠の方がずっといい」
「なぜだ?金がないから二人で会うのはうちかハニーの家ばかりで──」

「お金なんかなくても、カラ松くんといられれば私はそれでいいんだよ」

困ったような微笑が印象的だった。
愛想でも偽りでもない、カラ松の言葉に喜びを感じつつも、本心を知ってなお現状維持を望む、そんな顔。
「でも、旅行雑誌見ては溜息ついたりしてるじゃないか」
「それはまぁ、そうだけど…」
ユーリは唇を尖らせて指先で頬を掻く。
「ないものねだりだよ。カラ松くんの身の安全とお金なら──カラ松くんの方が大事」
「ユーリ…」
恥も外聞もなく、華奢な体を衝動のまま掻き抱けたら、どれほど幸せだろう。柔らかな肌と心地良い温もりごと、自分だけのものにできたら。ユーリはいつだって、無意識にカラ松の劣情を掻き立ててくる。
けれどユーリのこの甘い言葉は、友人という関係性故であることも、カラ松は理解している。この先の未来も共にあろうとするなら、経済的負担を親に背負わせる立場からの脱却は不可避なのだ。

実は、とカラ松は切り出した。
「ホワイトデーのお返しも、と思ったんだ」
「…あ」
失念していたとばかりに、ユーリは開いた口に片手を当てる。次の土曜日が、その日なのだ。今の財布事情では、バレンタインの礼に相応しい物が何一つ買えないから、ハタ坊の依頼は渡りに船だった。
しかし当のユーリは、腰に手を当てて嘆かわしげに長い息を吐き出した。
「え…えっ?」
「これだけ私と長くいて、まだ私の欲しい物が分からないとみえる」
報酬目当てにハタ坊の依頼を受けたカラ松を叱責するみたいな言い草。カラ松は予想外の態度に唖然としながらも、必死に思考を巡らせる。態度と台詞から導き出されるユーリの欲しい物、それは──
「…本気か?」
冗談に違いないと守りに入る反面、どうか真実であってほしいと希う。相反する願望が混ざり合って、混乱する。
「本気も本気」
「オレの自惚れじゃないのか?なぁ、ユーリ、本当に…」
カラ松が最後まで紡ぐより先に、ユーリがにこりと目を細める。表情は時に、言葉よりも雄弁に感情を語る。
瞳に水の膜が張って、不意にカラ松の視界が歪む。必死に堪えて、笑みを返した。右手を胸に当てる。

「フッ…ならば、十四日が始まった瞬間から日付が変わるまでの二十四時間、この身はユーリと共にあろう。それをホワイトデーのお返しとして、受け取ってくれ」

ユーリは途端に双眸を輝かせ、胸元で手を組んだ。
「やった、そうこなくっちゃ!どうしよっかなぁ、金曜の夜から飲む?それともオールがいいかな?
せっかくだから日付変わった瞬間から楽しみたいよね。あー、悩むなぁ」
ついでに抱きたいなぁなどという不穏な発言もカラ松の耳に届いたが、この辺は聞こえなかったことにした
心の底から歓喜するみたいな軽やかな声。仮にそれが演技だとしても、自分はきっと喜んで騙されるだろう。ユーリを得られる代償に、他の何もかもを失ったとしても。
「バレンタインにオレが貰った感動には遠く及ばないぞ」
思い返すだけで顔の筋肉が弛緩してしまうくらいの幸福が降り注いだ、あの日。夢なら覚めるなと願った。
「そんなことない」
ユーリは毅然とかぶりを振る。紅潮した頬から漂う色香が、カラ松を惑わす。

「そんなことないよ」




あ、と何かを思い出したようにユーリが言う。
「お返しついでに、お願いもきいてくれるかな?」
「可愛いことを言うじゃないか、ハニー。いいだろう、キュートなハニーの依頼ごとならアフターフォローまでバッチリだぜ」
大袈裟に抑揚をつけて言い放ち、腕を組む。
しかしユーリはカラ松の気取った態度に一切の反応を返さず、いつになく真剣な眼差しでもってカラ松を見つめた。
カラ松とユーリが持つ懐中電灯は地面に向けられる格好になったが、夜目がきいて彼女の表情がかろうじて窺える。

「祝杯はあげなくていいから、約束して。
勝手に危険なことに首突っ込まない…危険なことをして、私を悲しませないって」

言葉を失った。今この瞬間まで当たり前にできていた呼吸の仕方さえ、分からなくなる。
「…分かった、約束する」
どうにか絞り出した声は、掠れてはいなかっただろうか。ユーリは満足げに微笑むから、聞こえてはいたらしい。
「よろしい」
「ユーリ…」
「まぁ、六つ子である限り無茶なことはするんだろうけど、せめて私には分からないようにね。今回はお互いに運が悪かった」
「確かにな。まさかあんな場所でハニーに会うとは夢にも思わなかったぜ」
けれど、笑顔のユーリに声をかけられて不覚にも胸が踊ってしまった自分は、まだまだ脇が甘いと痛感させられた。ほんの数秒、仕事のことを完全に失念したのだ。一瞬の判断ミスが命取りになると頭では理解していながら、偶然の出会いに心を持っていかれた。

「そろそろ戻ろっか。チョロ松くんたち待ってるよ」
ユーリが砂利を踏む音が、廃墟内に反響する。
「ハニー」
「何?」
「手…繋いでいいか?」
カラ松は右手に懐中電灯を持ち、空いている左手を差し向ける。
「何だ、その…瓦礫が多くて危ないだろ。最後の最後でハニーに怪我をさせたら、ブラザーたちに叱られる」
ユーリは刹那的にきょとんとしたが、すぐに穏やかな表情でカラ松の手を取った。
「お気遣いありがとう」
「ブラザーたちに見つかる前には離すから」
「私は別に見られてもいいのに」
「オレの命が危ない」
「そうでした」


それからカラ松とユーリは顔を見合わせて、軽やかな笑い声を上げた。夜空を彩る三日月が美しい夜の一幕である。