キャラ変の弊害と変わらないもの

「ごめん、ユーリちゃん!」

カラ松くんを迎えに松野家を訪問した時のこと。
玄関先の木製ベンチに腰掛けていたおそ松くんが、私を視認するなり立ち上がり、頭を下げた。


珍しい場所に珍しい人物が座っていると思ったら、私が来るのを待っていたらしい。
「カラ松の性格が変わったこと、ユーリちゃんには言っとかなきゃと思って」
その説明だけ聞けば、カラ松くんが自分の生き様を見つめ直すような出来事でもあったかのようだが、何のことはない──デカパンの薬の影響とのこと。お前ら六つ子はほんと、隙あらばデカパンの珍妙な薬に手を出して事件勃発させるよな。
「『性格入れ替わり薬』間違って飲んじゃったんだよ、あいつ」
何をどう間違えたら、そんな絶対に手を出したくない物騒な薬を飲むに至るのか。おそ松くんはなぜか照れくさそうに首筋に手を当てた。
「ほら、俺、暇だったからさ」
「一年中だよね」
「十四松あたりが真面目になったら面白いと思ったんだ」
「兄弟に同情を禁じえない」
珍しいもの見たさの気持ちは分からないではないが。
で、と私は玄関前でおそ松くんと対峙しながら腕を組む。
「カラ松くんはどう変わったの?」
私の問いに、おそ松くんは眉間に寄せた皺に手を当てて思案顔になった。

「クズ」

私は目をぱちくりとさせる。
「それだといつも通りだけど?」
「ひどっ!ちょっとユーリちゃん、カラ松のこと何だと思ってるわけ!?」
六つ子の一員だと思ってるよ」
「すっごい含みあるなぁ」
照りつける日差しが強く、雲も少ない外出日和の快晴。おそ松くんと交わす会話の中で僅かに漂う非現実感に、眩暈さえする。平穏は遠い。
「ま、試作品だから効果は数時間…長くても半日しか保たないみたいだし、ちょっとしたスパイスだと思って受け入れてやって」
元凶が上から目線。

「今のカラ松は何つーのかな、優しさがなくなったっていうか、誰でも彼でも蔑んで不機嫌に正論吐く感じ?俺たちのこと見下すみたいな?」

ちょっと待て。私は手の平をおそ松くんに向けて彼の言葉を遮る。
「ってことは──排他松的ジト目の推しが拝み放題?触り放題?は?最高すぎる
ここが天国か。
おそ松くんは私の肩を叩き、穏やかな顔でふっと息を吐いた。
「ユーリちゃんならそう言ってくれると思ってた。でも順応早すぎてお兄ちゃん心配




窓枠を背もたれ代わりにして気怠げに腰掛け、人差し指と中指で挟んだ煙草を口から引き抜く。形の良い唇から吐き出されるのは、ゆらゆらと揺れる紫煙。指一本動かすことさえ億劫とでも言いたげに、全身の筋肉を弛緩させている。
襖を開けた先で、細めた双眸がおもむろにこちらを向いた。
「…何だ、ユーリか」
驚きも歓迎もせず、ただ呟かれる名前。私を認識しても、手にした煙草からは煙が立ち上り続ける。
「ご挨拶だね。約束通り時間ピッタリに迎えに来たっていうのに」
私は肩を竦める。平静を装ってはいるが、胸の鼓動はいつになく早鐘を打っていた。演技や冗談といった仮面ではないのかを、私自身の目で見極めるためだ。
「…煙草、吸うんだ」
私の前では吸いたがらなかった。タイミング悪く見つかったら、慌てて灰皿で揉み消していた煙草。私の前では吸いたくないからと、決まりが悪そうに苦笑したものを、今は躊躇いもなく。
激レアな絵面、とうっかり声に出したら、傍らのおそ松くんが白い目で私を見た
「吸って悪いか?お前に迷惑かけたことはないはずだが」
そして突然のお前呼び。
私は背後を振り返っておそ松くんに耳打ちする。
「これは殴っていいやつ?」
「俺にも責任の一端あるから、止めたげて」
「製造者責任取りなよ」
「俺が生んだ子みたいな言い方するじゃん」
「生み出したのは間違いない」
「言い返せないこの悔しさ」
推しと言えど、許容範囲というものは一応存在する。話が違うぞとコントみたいな応酬をこそこそと交わしていたら、唐突に私とおそ松くんの間に青いパーカーが割って入った。

「オレのハニーに馴れ馴れ過ぎやしないか、おそ松」

侮蔑にも似た視線はおそ松くんに向けられた。私の目に映るのは、不機嫌そうな横顔。眉の角度は一層鋭い。
そしておそ松くんはというと、お前のせいだろうが、という顔と、オレのハニーとか言いやがったぞこいつ、みたいな感情が入り混じった複雑な顔をする。
「あー、はいはい、ごめんごめん。てか、ユーリちゃんと話くらいは別に良くない?」
「おそ松」
声が一段と低くなる。カラ松くんが聞く耳を持たない様子だったので、彼は早々に白旗を揚げた。
「共感性羞恥で死にそうだから、後頼むわ、ユーリちゃん」
「あっ、ちょ…」
私の肩を叩き、踵を返すおそ松くん。

逃げおった。
階段をスタコラサッサと駆け下りていく長男。私は追いかけることもできず、改めてカラ松くんに体を向ける。
「…まぁおそ松くんはいいや。でもお前って呼ばれるの好きじゃないから、ちゃんと名前で呼んで」
けれど返事はなく、退屈そうな視線が寄越されただけだった。
「今日出掛けるって約束はどうする?
カラ松くん準備してないみたいだし、取り止めに──」
「行く」
あ、行くんだ。
「今から用意する」
そう言いつつも、煙草を口の端に咥えたままぼけっとくゆらせている。大儀そうにソファに座り、足を組んだ。広くはない部屋の中に灰色の煙が舞って、次第に消えていく。紙が焦げたような独特の匂いが私の鼻をツンと突いた。
「この煙草が終わったら出るか」
捨て始めて間もない長さなので、長くても五分くらいだろうか。
「じゃあ待っとくよ」
下手に抗うよりは、現状把握に努めた方が良さそうだ。そう判断し、私は見ようによっては従順な態度で頷き、彼の隣に座った。

灰皿に細かな灰が落ちていく様を何気なく見つめた後に顔を上げると、カラ松くんと目が合う。否、正確を期すなら、彼の視線は微妙にズレていて、私の全体を俯瞰して見ているようだった。
「…スカート、か」
私の出で立ちは、胸元にロゴがプリントされた白シャツとミモレ丈のプリーツスカートに、アンクル丈の靴下だ。特段オシャレでもないが、かといって野暮ったくもないと自負しているから、品定めするような視線には困惑を隠せない。
「変かな?」
「いや…」
私の首にぶら下がるペンダントを人差し指ですくい上げ、視線を落とす。伏せ気味の瞼にかかる睫毛に、意外と長めなんだなと、逸れた思考が脳裏を巡る。

「ギリギリ及第点だな。オレの魅力には劣る」

触れるものみな傷つけるガラスの二十代、爆誕。
不敵な笑みを浮かべて、羞恥心なく戯言をぬかしおる。推しじゃなかったら腹部に拳を埋め込んでいるところだ。けれど少し面白いと感じてしまうのは、やはり相手がカラ松くん故なのだろう。
「ありがと。考えて選んできた甲斐があるよ」
「どこに行くかは決まってなかったんだよな」
「そ。だから一応歩きやすい格好で来たの。でもスカートだから運動系はナシね」
「それはオレが決めることだ」
カラ松くんはにべもない。主導権握りたいタイプの次男か。ユーリと一緒なら何でもいいぞと相好を崩して言われるのがデフォだったから、違和感を感じつつも、何だか新鮮だ。




灰皿に短くなった煙草が押し付けられる頃、私はカラ松くんによって二階から追い出されてしまう。着替えるから出ていけと、有無を言わさぬ命令でもって。
一階の居間を覗くと一松くんがいて、一連の顛末を知っているらしく、ユーリちゃんも大変だよねと出会い頭に同情された。
「こういうイレギュラーにちょっとずつ慣れてきてる自分が怖いよ」
「もう元には戻れないね」
「うん、逆に何にもないと退屈ってなりそう。おかしいよね、平穏な日常って幸せなはずなのに」
へへ、と一松くんは笑う。
「こちら側へようこそ」
「止めてってば」
苦笑しながら一松くんの背中を叩く。それから顔を見合わせて、お互いの苦労を労る意味合いの笑いを溢していたら、不意に横から腕を引っ張られた。
「……あ」
眉根を寄せた不機嫌な眼差しが、一松くんを睨む。四男は慣れた様子でひょいっと肩を竦めて、居間へと戻っていく。去り際に彼が私にくれた一瞥は、私の境遇を憐れむかのようで、言葉を失う。
そしてそんな私にとどめを刺したのは、カラ松くんの一言だった。

「オレを待つ間、他の男にヘラヘラするのはどういう了見だ?」

全面的にお前に非があるだろうが。
待ち合わせの時間になっても準備一つもせず、煙草終わったら出るとか言いながらいざ終わったら着替えるとか言い出し、振り回される身にもなれこの野郎。
「了見も何も、文句一つ言わず待ってた私と、そんな私に付き合ってくれた一松くんに対して何なのその態度。デレのあるツンは可愛いけど、ツン十割から愛嬌を見出して愛でるのは至難の業なんだからね!」
先程まで従順そのものだった私が眉を吊り上げて反論するのは想定外だったのか、カラ松くんは僅かだが目を瞠った。チッと忌々しげに舌打ちされる。

「…悪かった」
小さく呟かれた気がしたのは、空耳だったのだろうか。
私を廊下に残してカラ松くんは玄関へと歩を進めるので、私は慌てて彼を追う。


カラ松くんは白シャツにスキニーデニムというラフな格好だった。ビンテージ調のレザーブレスレットが、手首でいいアクセントになっている。
「似合うね、すごく似合う。普通の格好なのにエロスを感じて止まないこの世の不思議
推しに関する褒め言葉は、無意識に口から溢れるから困る。カラ松くんは理解できないものを見るかのように顔をしかめた。
「似合うのは当然だ。どうだ、ユーリの隣にはもったいないくらいのいい男だとは思わないか?」
己の魅力に揺るぎない自信を持っている。確かに、ピンと伸ばした背筋と程よく整った体格と血色のいい肌は、昼夜逆転しているニートとは思えない。
「オレとデートできるユーリはラッキーだぞ」
「私は別にパーカーのままでも良かったのに」
ラフな格好なら大して変わらないではないか。そう思っての発言だったが、カラ松くんは嘲笑気味にハッと笑った。
「デートにあのパーカーはないだろ。オレだってオンオフの区別はつける」
今のカラ松くんは、デートいう言葉を平気で口にする。好意を秘めた親密な二人が、意図的に逢瀬を重ねることを意味した単語。普段の彼なら、冗談めかして、もしくはその場が特別なものを意味する時にしか口にしなかった。照れ隠しに濁していた表現を、率直に紡ぐ。

「…ユーリに合わせたんだ」

頭を撫でられて、小さく囁かれたその声は、今度はしっかり私の耳に届いた。太陽の光を受けて、眩しいくらいに光る、白。

「足、痛くなったら言えよ」
「え?」
「そのスニーカー、まだ新しいだろ。靴ずれになりそうだったらすぐ言え。分かったな」
気遣い通り越してもはや命令だったが、そういう私の変化に気付くのは、やはりカラ松くんだ。表面はひどく横柄でも、カラ松くんはカラ松くんなのだなと、私は内心で笑った。




話題のハードボイルド映画が観たいとカラ松くんが言うので、映画館にやって来た。
米国秘密情報部のエージェントを主人公にしたスパイアクション映画だ。スタンドマンを使わない過激なアクションと、緻密に練られた物語により、公開前から話題を呼んでいた。
「オレと来てカップルシート以外に座るのはあり得ん」
カラ松くんに至っては、チケット購入にあたって、不遜な振る舞いで私の苛立ちを誘った。
カップルシートは別にいい、数百円程度上乗せくらいは許容しよう。値段についてはどうでもいいが、サディストなのか俺様なのか、はたまた性根が腐っているだけなのか、キャラが掴めない。予測できない挙動ばかりされると、こちらもいい加減疲弊する。
「ユーリ、何だその顔は。…ああ、なるほど、オレとのデートで緊張してるのか。可愛い奴だな」
この辺は通常運行に近い。私が溜息を溢したのを、ポジティブに捉えるところはさすがだ。
それに、ポップコーンとドリンクが入ったトレイは、私が頼まずとも運んでくれる。

カップルシートは、シアタールームの最後部に設置されている。二人がけのソファだ。ソファの手前に直径三十センチほどの専用テーブルがあり、そこにトレイを置く。
「楽しみだね」
開始五分前ともなると、半数以上の席が埋まった。
「カップルシートいいな。映画館は全席ソファにするべきなんじゃないか?」
背もたれにゆったりと腰掛け、優雅に足を組む仕草は様になっている。
「でも映画に見入ってたら、きっとあっという間だよ」
腕を上げてポップコーンを掴めば、肩が触れ合う。手を伸ばすたびに接触するのも悪いので間隔を空けようとすると、無言で睨めつけられた。何なんだ。

しかし、それにつけても映画館のポップコーンは魅惑の食べ物だ。食べだしたら止まらない。
シアター内の電気が消え、巨大スクリーンに今後放映予定の映画のCMが流れ出す。
「ユーリ」
不意に名を呼ばれて、私は横を向く。
「どうしたの?」
言うや否や、暗がりからカラ松くんの右手が伸びてきて、私の唇の端に触れた。

「星屑がついてるぜ」

ポップコーンのカスだ。カラ松くんは指先で拭ったそれを──自分の口に放り込んだ。呆然とする私に、ニヤリと笑う。
漫画やドラマの胸キュンイベントとしてたびたび描写される出来事が己の身に起き、私は──咄嗟に星屑とか上品な表現できる語彙力すげぇな、と感心しきりだった。


幕が下り、私たちは席を立ってシアターを出る。
その時私の目は間違いなくキラキラと輝いていたし、頬は紅潮し、何なら両手も忙しなく動かしていた。それほど興奮していた。

「まさか最後にペンギンが来るなんて…っ!」

「ペンギン」
虚空を見つめ、カラ松くんが表情のない顔で呟く。
「途中の水族館での襲撃は伏線だったんだよ、絶対!もう一回観たら、主人公を救ったペンギンが画面のどこかに映ってるんだと思う!」
「いや…というか、なぜペンギン
もっとこう、あっただろ。いがみ合ったライバルとか、主人公を尊敬してる後輩とか、伏線になるべき要素は他にもあったじゃないか。なのに、終盤の絶体絶命のピンチから救ったのが、よりよってペンギン…」
「フラグと見せかけた印象操作だね、実によくできてる。ぬいぐるみに擬態したペンギンが飛び出してきたあの瞬間、鳥肌立ったよ。もう一回大画面で観たいね」
鼻息荒く早口で捲し立てる私に、カラ松くんがふっと微笑んだ。
「面白い推察だ。
いいだろう、来週もう一度観るか。ペンギンの伏線があったかどうか、だな」

そう、微笑んだのだ。
今日初めて、ようやく愛嬌の感じられる顔で、笑った。

でもまだ心から破顔する姿ではない。私が好きな彼の笑顔とは程遠い。頑なに弱さを露呈させまいとする彼の意思が、それを阻む。
「絶対あると思うよ。賭ける?」
気軽な誘いのつもりだった。ジュースとかランチとか、どちらが負けても遺恨が残らない程度の軽いゲームの感覚。
カラ松くんは、片側の口角を上げた。
「オレに賭けを挑むとはいい度胸だ。当然勝算があってのことだろうな?
命は安々と投げ出すものじゃないぞ、ハニー」
命懸けのギャンブルにランクアップさせた覚えはない。
「えっ、大袈裟すぎない!?」
「賭けの提示は喧嘩を売ったも同然だ。ならオレは全力で応じる。例え相手がユーリであってもな───さぁ、どうする?」
悪魔の手が恭しく差し伸べられる。フェアな取引と見せかけた、どう転んでも一方にだけ都合のいい契約書を、さあどうぞご署名をと急き立てられるような。
私の胸中に、不安がどっと押し寄せる。彼がここまで自信ありげに言うからには、伏線などなかったことを既に知っているのかもしれない。
いやしかし、現状の彼の性格から考えると、ブラフの可能性も高い。それこそ顔色一つ変えずにホラを吹きそうな人格である。私が近距離でじっと凝視しても、眉さえ動かさない。顔を真っ赤にして動揺して、慌てふためく姿など、微塵もない。
「…か、賭ける!」
直後、カラ松くんはニヤリとほくそ笑んだ。

「オーケー、ハニー」

あれ、もしかして負け確定?




そもそも賭け自体を撤廃すれば済んだ話なのではと、冷静になった頃に気付いたが、今となっては後の祭りだ。挑発に乗って挑戦に応じた報いは、素直に受けよう。自分の責任は自分でとる、ユーリってば偉いゾ☆

そんなこんなで、映画で資金を使い果たした──主にカラ松くんが──私たちは、夕方の公園へと足を伸ばした。遊具で遊ぶ子どもたちの声をBGM代わりに、古びた木製ベンチが私たちの語り場になる。
カラ松くんは相変わらず気怠げで、唯我独尊を地で行く俺様に磨きがかかる。
けれど付き合ううちに気付いたことがあって、態度こそ不遜ではあるものの、話の腰は決して折らないし、時折問いかけを挟みつつ私の話に興味を持って聞いてくれる。

そして彼は一度だって言わなかった、『つまらない』『退屈』といった私を傷つける危険性を伴う言葉を。

結局のところは、根底はやはり推しなのだ。可愛い可愛い私の推しは、今日も限りなくシコい存在であった

「あ、もう六時半」
何気なくスマホを開いたら、そんな時間だった。すっかり話し込んでしまった。
「そんな時間か。今日のオレを独占できたことを誇りに思っていいぜ」
前髪を片手で掻き上げ、悩ましげに息を吐くカラ松くん。
「あはは、言うねぇ。なら光栄ついでに、ご自宅まで送らせていただこうかな」
スマホを鞄に放り込み、私はベンチから立ち上がろうとした。

その手首を、カラ松くんが掴む。

反射的に振り返ると、縋るような双眸の彼と視線が交わる。心細さに似た不安を、顔に滲ませて。
「…カラ松くん?」
「あ…その……何だ、もう少し、時間はあるか?」
「時間?」
「ユーリがいいなら、もう少しだけこのまま…」
途切れ途切れに紡がれる言の葉に呆然としていたら、カラ松くんがハッとして目を逸らした。

「…い、一緒に過ごしてやっても構わないぞ!」

デレきたー!
これが噂のツンデレってヤツか。なるほど、今までの憎らしいほどの俺様は、好感度上げの序盤でよくあるツン期だったのだな。九割のツンを一割のデレが無効化する、ツンデレとは何と恐ろしい属性だろう。ツンデレは魔性。

私を憎からず思っている感情も、維持されているらしい。根本は変わらない、松野カラ松のまま。

「うん、じゃあもう少し喋ろっか」
笑顔で応じて、私は再びカラ松くんの隣に座る。
「…言っておくが、ユーリがオレとまだ過ごしたいという名残惜しそうな顔をするから、善意で誘ってやっただけだ。
オレとデートしたいというカラ松ガールズは、両手で抱えきれない花束の数ほどいるんだからな」
勘違いしないでよねパターン発動。
頬を赤らめながら言う台詞じゃないぞ、とツッコミを入れて差し上げたい。
「でも、私が夜ももう少し一緒にいたいって言ったら、そうしてくれるんだ?」
デートの単語を躊躇なく言える彼なら、私への好意をどう言葉で示すのか興味があった。ちょっとした悪戯心だが、趣味が良くないことは自覚している。
「ユーリがそれを望むなら、応えてやるのもやぶさかじゃない」
主体はあくまでも私である姿勢は崩したくないらしい。
「その代わり──」
語気が強まった。

「今みたいな健全なデートで済むと思うなよ」

片手で私の腰を引き寄せて、もう片手で手首を掴んでくる。吐息が皮膚にかかるほど近い距離感で、彼は言った。

「次は、そうだな…ユーリ、お前を帰──」




元に戻ったなと私が感じたのは、彼を包む空気が一変したからだ。
我に返った、そう表現するのが正しいだろう。腰に回した手の力は依然強いまま、私を睨みつけていた目は大きく瞠られた。瞳に映るのは、驚愕。
「……ユーリ?」
「うん」
「え…」
腰を抱き、手首を握り、胸が触れ合うほどの至近距離。

「今日のことは忘れてください!」

カラ松くんが土下座をしたのは、それから一秒後のことである。


「すまんっ、本心じゃないんだ!自分でもよく分からないが、態度悪くて本当すまなかった!ごめんなさい!」
地面に頭を擦りつけて大声を出すから、私は慌てた。幸いにも周囲に人気はなくなっていたが、私が謝罪させてるみたいじゃないか。
「カラ松くんっ、大丈夫だから!私全然気にしてないし、謝ることないよ」
地面に膝をつき、彼の頭を上げさせる。目尻に浮かんだ涙と砂でぐしゃぐしゃになったその顔を、ハンドタオルで拭った。
性格が変わっていた間の記憶はあるらしい。薬の影響という事実は、まだ隠しておいた方が良さそうだ。
「…本当か?」
「本当も本当。今日だっていつもと同じくらい楽しかったんだから」
ここは本音で話をしておくべきだろう。
そう思って自身の感想を告げると、カラ松くんはようやく安堵したようだった。両手も地面に置いたものだから、彼の手も砂まみれだ。
「しかし…ひどいことをたくさん言った。準備もせずハニーを待たせたし、態度も偉そうで…」
「大丈夫だから」
グーパンは何度か構えたし、殴ったろかなという思考も掠めなかったわけではないが──私を大切に思ってくれるのは、性格が変わっても伝わってきた。
「カラ松くんの言いたいことは伝わってたよ」
「オレの…?」
「私と一緒にいて楽しいってこと。あんな態度だったのに、つまらないとか帰りたいとか、一度も言わなかったから」
カラ松くんはきょとんとする。しかし直後、キッと眉を吊り上げた。

「当たり前だ。ユーリを傷つけるような嘘は言わない」

私の両手は彼の頬に添えたまま。
「例え他のことは盛ったとしても、だ。どんなことがあってもそれだけは絶対に変わらない」

私はうっかり笑い出してしまった。
見ようによっては跪いたような格好も相まって、まるでプロポーズみたいだと思ってしまった。なのに二人とも砂まみれで、カラ松くんに至っては顔の砂さえまだ落ちきっていないその滑稽さが、私たちらしい気もして。
「し、真剣に言ってるんだぞ!」
「うん、分かってる。茶化したいんじゃないの、ごめんね。カラ松くんが元に戻って良かったなって思って」
一度立ち上がり、水道の水でタオルを濡らす。水気を絞ったそのタオルでもう一度顔の汚れを拭いたら、ようやく綺麗になった。

「やっぱり、いつものカラ松くんが一番かな」

ナルシストで気障ったらしく、でも二枚目を演じきれない優しい道化。気を抜いた時に浮かべる子どもみたいに純真な笑顔も、私には隠そうとするくせにダダ漏れているクズな二面性も、横文字を織り交ぜた意味不明な力説も、カラ松くんを構成する要素だから。全部引っくるめて、私は受け止める。けれどどうしても好みというものは出てくるから、それについては勘弁してもらいたい。
「すまない…服が汚れてしまったな」
言われてようやく、自分のスカートが砂土でとんでもないことになっているのに気が付いた。
「あー、本当だ。仕方ないね。これくらいなら、帰って洗ったら落ちるよ」
「落ちなかったら弁償する。その時は必ず言ってくれ」
「いいよいいよ、どうせ安物だし」
「ハニー」
私の言葉は、呼び声に遮られる。
「駄目だ。絶対に言うんだ、いいな?」
強引な物言いは、今日の俺様なカラ松くんを彷彿とさせた。譲れないことに関しては結構頑固だったっけ、なんてことを思う。
「…本当に落ちなかった時だけね」
「ああ」




いい年した大人二人がデニムとスカートを砂まみれにした姿のまま、公園を後にする。だいぶ払い落としはしたが、所々に茶色の染みができあがっていた。
「さっき、カラ松くんは何を言おうとしてたの?」
この際だから聞いておこうと、私は尋ねる。
「さっき?」
「ほら、健全なデートで済むと思うなって言った後、私の手を取って──」
「ッ!?な、なななななな何だろうな、それ!オレはそんなこと言った覚えはないぞ、ハニー!気のせいじゃないのかっ!?」
挙動不審全開で否定されても説得力に欠ける上、そっぽを向いた耳が赤い。元演劇部の演技力をここで発揮しなくてどうする。もうちょい頑張れ。
しかし本人が口を割らないのであれば、それ以上追求しても無駄だろう。
「そう?返事しなくていい話だったのかな?」
「返事って…」
腕を下ろした拍子に手の甲同士がぶつかる。ごめんと私が謝罪しようとするより先に、カラ松くんの人差し指が私の指先に軽く触れた。
「ユーリは…その、どういう返事をしようと思ってたんだ?
あっ、べ、別に覚えてるわけじゃなくて、何となく!何となく気になっただけだから!」
私はちらりと横目でカラ松くんを見やる。指先はまだ触れ合ったままで、けれど互いに言及はせず。蝋燭の火が灯るような小さな温もりが、重なった皮膚から伝わってくるようだった。

「───内緒」

あなたが言わないなら、私も言わない。
フェアな関係を望むなら、等価交換が必要だ。ズルをして一人だけ甘い汁を啜ろうだなんて、虫のいい話。

私が体ごと振り返ると、汚れたプリーツスカートがひらりと舞う。
王子を待つ純真な夢見る乙女は、ここにはいない。地に足を着けて、自分自身が汚れることも厭わずに今を邁進する女がいるだけだ。

だから私はこういう時、ただ艶然と笑う。