「グッモーニン、ユーリ」
週末の日曜日、駅前で待ち合わせた当推しはいつになく爽やかに私を出迎えた。私の自惚れでなければ、会いたくてたまらなかった、そんな強い感情を笑顔に滲ませて。
おはようを言う推し、実質のモーニングコール。
「会えるのを昨日から楽しみにしてたんだ。ハニー恋しさのあまり、今朝は目覚ましなしでウェイクアップしてしまったぜ」
自分に酔ったような悩ましげなポーズで、カラ松くんは溜息を吐く。
「私も、カラ松くんと会うの楽しみにしてたよ」
翌週へのエネルギーチャージ要因だ。推し活なくして怒涛の平日は生き抜けない。
カラ松くんは目尻を桜色に染めて、はは、と小さく笑う。
「その声がずっと聞きたかった。今日もキュートだ、ハニー」
互いの声を聞くのも一週間ぶりだ。今週は私が多忙で、彼に電話をする時間を削減して休息に充てた。カラ松くんに電話をすると長電話になりがちで、電話自体に集中力も要する。その点では、手の空いた時にメッセージが送れるメールやSNSは手軽な連絡手段と言える。
「今日は先週末より少し暖かいな」
「そうだね。春めいてきて、そろそろ暖房つけなくてもよさそう」
薄手のジャケットとトップスで十分暖が取れる。そよ風が孕む冷気も、真冬に比べると穏やかなものになった。
「ようやく薄着のハニーが見れ──じゃなくて、過ごしやすくていいな」
そう言う彼もまた、白いVネックシャツにナイロン素材のネイビーミリタリーブルゾン。体格の美しさをこれでもかと見せつけるスタイル、嫌いじゃない。露出した鎖骨美味しいです。
「分かる。カラ松くんは暖かい季節が似合うよね。夏、うん、特に夏、夏」
「何で三回言った?」
「大事なことだから」
カラ松くんは、私の発した言葉に納得しかねるとばかりに顔をしかめたが、ふと目を瞠った。
「…ユーリ、化粧を変えたか?」
まじまじと顔を覗き込まれる。顔が近い。
「あ、うん、気付いてくれたんだ?アイシャドウとアイラインの色を明るくしてみたの」
私は驚きを隠せない。なぜなら、色を変えたと言っても、濃茶を薄茶にしたような、顔に施してみれば大差のない変化だからだ。毎日見ている私自身でさえ、少し明るく見えるかな、と思った程度なのに。
「スプリングっぽくていいな。今日のファッションにもよく似合う。
軽やかな気持ちになる感じがして…オレは好きだ」
褒め殺してきた。今日はどうした?
「先に何か食べるか?」
「うん、混む前に食べた方が良さそう。何がいいかなぁ」
「オーダーしたらすぐ出でくる定番ものか、少し待つがシャレたランチか、マイプリンセスのご希望は?」
「お腹減ったから、すぐ出てくるヤツで」
駅の時計台が示す時刻は、十一時過ぎ。私が同意すると、カラ松くんは顎に手を当て思案する。
「この辺だと…そうだな、バーガーかラーメンといったところだが」
「バーガーかな」
「オーケー。ビッグでデリシャスなバーガーを出す店がこの先にある。そこで昼飯にしよう」
流れるような意思疎通だ。普段以上にスムーズに進行し、ストレスのない会話が続く。カラ松くんの気遣いはとても自然で、私の装いを称賛して場を和ませた後、またたく間に昼食が決まった。
「カラ松くん、この一週間で何かいいことあったの?」
注文したハンバーガーをかじりながら、私はテーブルの向かい側のカラ松くんに尋ねる。少し早めの昼食だ。席は八割方埋まっており、店内は程よくざわめいている。
「いいこと?」
ドリンクカップに刺したストローを口の端に咥えて、カラ松くんがきょとんとする。ストローを口にする推しがエロい。
「特には。いつも通り自堕落を極めて退屈を潰すことに全力投球した一週間だったぞ」
それはそれで問題では?
「ん、いや待てよ…そう言えば、三日前にトッティの買い物に付き合って荷物を持ってやったら、スタバァでフラペチーノを奢ってもらった。二種類発売されてて、オレがいると二つ同時に試せるからだったんだが」
「あー、そういえば今週から発売だったね」
春をイメージした、桜とベリーの二種類だ。特に桜フラペチーノは、ホイップクリームの上に桜の花びらを模したイチゴ味のチョコチップがまぶされ、SNS映えもする。
「シュガーにシュガーを重ねたスイートなドリンクだが、意外と旨かったぞ。ただ…飲み干した後はコーヒーが飲みたくなった。
やはりオレのような男らしさを極めたいい男には、ブラックコーヒーが似合うな」
カラ松くんは苦笑する。
「──と、オレの話はこれくらいにして、ユーリの話が聞きたい。今週はずっと忙しかったんだろ?」
お、と私は不思議に思う。いつもなら饒舌にひとしきり語ってくれるのに、私に話を振ってきた。
「まぁねー。何時間も愚痴言えそうだよ。それくらい忙しかったし」
「オレで良ければいくらでも聞くぞ」
その言葉に二言はないのだろう。彼はいつも私の愚痴に根気よく付き合ってくれる。余計なアドバイスを挟まずに私の感情に寄り添う。退屈そうな顔もしない。
「大変な一週間だったけど、悪いことばかりじゃなかったから大丈夫だよ」
ジャンクフードが美味しいと感じるくらいの余裕はある。
「どんないいことがあったんだ?」
ポテトを口に放り込みながらも、視線は私に向けられている。
「この一週間どんなことがあったとか、どう感じたとか……オレのいない間にハニーに起きたことが知りたい」
一週間の出来事を脳裏で反芻する。多くの時間は睡眠と仕事に割かれていて、その他といえば家事と身支度への配分が多い。趣味や友人への連絡に時間を費やす気力がなく、そんな中で気持ちが高ぶったことといえば──
「晩御飯に、綺麗なだし巻き卵に挑戦したの」
「だし巻き卵か、旨いよな。酒のあてにもいい。作るのは初めてだったのか?」
「うん、手間がかかるからなかなか作る機会なくて。卵焼きはよく作るんだけど」
「ハニーの卵焼きは旨いよな」
「ふふ」
卵焼きとだし巻き卵は、似て非なる食べ物である。作るだけなら簡単にできる。材料を混ぜて焼けばいい。
しかし、だし巻き卵と言った際に想起する、ふわふわで焦げ目のないよう美しく仕上げるには技術が必要なのだ。
「で、どうだったんだ?
綺麗な、っていうからには難易度は高そうだが」
寿司屋の腕を確認したいなら玉子と穴子を頼めとは、よく言ったものだ。
「レシピ観ながらだったんだけど、一回目は焦げ目できちゃった。でも二回目はうまく出来たんだよ」
「ワオワオワオ!ユーリシェフの感想をぜひ聞かせてほしいな。その時どんな気持ちだった?」
カラ松くんはさながら海外のドラマに出てくるキャラのように瞳を輝かせ、大袈裟な口調で先を促してくる。今日は本当どうした?
「もちろん嬉しかったよ」
「よっぽどの傑作だったんだな、ハニー」
「うん!味もいい感じにできたから、今度うち来た時に食べてね」
卵は栄養価も高く汎用性もある、いわゆるスーパーフードだ。だし巻き卵に至っては、主菜にも副菜にもなる使い勝手のいいメニューで、レパートリーとしては申し分ない。
カラ松くんはきっと美味しそうに食べてくれるんだろうなと思ったら、胸が弾んだ。
「料理といえば、カラ松くんは最近料理した?」
豪快にハンバーガーを頬張る彼に、私は問いかけた。ん、と応じる口の端には、ケチャップソースがついている。私が正面から紙ナプキンで拭うと、くすぐったそうな顔をした。
「料理とは言えないかもしれないが、ブラザーが腹が減ったと言うんで、オレ流にアレンジした袋麺を作ったな。醤油ラーメンに粉末のいりこだしを入れると旨くなるとテレビで観て、それを試してみた」
「へぇ、美味しそう。コクが出る感じかな?」
「イグザクトリー!さすがの推理力だな、ユーリ。
さらに海苔とネギを載せれば、安売りの袋麺がたちまち有名店にも引けを取らないほどのデリシャスな味にメタモルフォーゼというわけだ!愛するブラザーのため、袋麺を匠の技で豪華に彩る…オレ!」
ノッてきた。楽しそうで何より。このまま松野カラ松劇場が開催されるかと思いきや、彼はハッとしてから苦笑顔になった。
「またオレの話になってるな。ユーリの話を聞こうとしたのに、いつの間にかユーリにイニシアチブを握られている」
「会わなかった間のカラ松くんのこと、もっと知りたいからね」
こちとら推させていただいている身なのだ、推しに関する情報収集は最優先で行わなければならない。砂漠のオアシス、推し活に幸あれ。今日も私の推しフォルダが充実するぜ。
そんな本音をうっとりとした表情に隠す私に、腕組みをした肘をテーブルにつき、カラ松くんが身を乗り出した。頬は心なしか赤い。
「…オレの方が、ずっとそう思ってる」
尊い。
昼食を終えて、松野家を訪ねる。おそ松くんを始めとする五人は出払っていて、松代おばさんが快く出迎えてくれた。
「何かドリンクを持ってくる。少し待っててくれ」
二階に案内された後、カラ松くんはそう言って階段を軽やかに下りていく。私はソファにどっかと腰を下ろしスマホのディスプレイに指を当てたが、ふと壁際の本棚に目が止まった。
少年漫画やラノベが大半を占め、巻数の並びは不揃いで、かと思えば年季の入った野球のルールブックが無造作に押し込まれていたりと、秩序がない。六つ子の性質を物語るような棚だと微笑ましく感じていたら、ふと気になる箇所を見つけた。
数冊、漫画の背表紙が不自然に手前に突き出ている。
気になって押し込むが、奥で何かに引っかかるのか、入らない。漫画を抜き出して奥を覗き込むと───図書館の本。
奥に自然に落ちたとは考えにくい。となると、意図的に隠したのか。
「何の本だろ?」
表紙を見て、私は目を疑った。
『意中の女性に好かれる話術とテクニック』
今日、私の変化にいち早く気付いて褒めてきた。やたらと私の話を聞きたがった。いつになく私の感情に共感し、彼自身の自慢話を控えた。
これは全部──
「ユーリ、マミーが紅茶とコーヒーどっちが──」
そうこうしているうちにカラ松くんが戻ってきて、驚愕に目を瞠った。何かごめん。
「ハニイイイィイイィィィ!?
な、ななななななな、何を…っ、それは…その本は……っ」
顔が真っ赤だ。
偽ればいいのに。誰もいないのだから、自分が借りた本ではないと、ただ一言。
「ごめん。本の後ろに落ちてるみたいだったから、気になって…」
謝罪は失言だったと、言ってから気付く。カラ松くんのだと認識していると暴露したようなものだ。案の定、彼は両手で顔を覆った。
本には付箋も貼られていて、熱心に読み込んだらしい形跡があった。
じろりと恨みがましい視線が向けられる。瞳が僅かに潤んでいるせいか、平常時の威圧感は皆無に等しく、むしろ扇情的でとてもエロい。誘ってる?
「……はぁ」
溜息が吐き出される。
「それはブラザーのだと弁明する余地はあるか?」
「最初の時点で無理案件かな」
「…だよな…分かった、腹を括る。オレが借りた本だ。中は見ないでくれると助かる」
「うん」
私は承諾し、彼に本を返す。カラ松くんは受け取って、自嘲気味に笑った。
「オレが実践しようとしたことを、ユーリは今までずっと自然にやってたと気付いたオレの驚きが分かるか?」
投げやり気味にソファに腰を下ろし、カラ松くんは私を一瞥した。無言のまま首を振り、私も彼の隣に座る。
「ユーリはオレよりも圧倒的にスキルを持ってる。そんな相手に、即席のテクニックが通用するはずなかったんだ」
それを聞き、私は声を立てずに笑った。
「話術スキルなんて持ってないよ」
「しかし──」
「私はね、カラ松くんと楽しい時間を過ごしたいし、もっとカラ松くんを知りたいから話を聞きたいの。
話すたびに新しい発見があって、カラ松くんの話を聞くのが好きなんだよね」
私の言葉にカラ松くんはなぜかハッとした様子で、自分の膝に置いた本に目を落とした。
「……本質だ」
「ん?」
「モテたい、好かれたいと思ったとして、じゃあモテてどうなりたいのか……ヤりたいのか、恋愛をしたいのか。恋愛なら、恋愛に何を求め、パートナーとどんな未来を築きたいのか。
それを自分の中で噛み砕いてから実践に移せと書かれていて、確かにそうだな、と思ったんだ。
でもユーリは、最初から本質を理解していたんだな」
本質を見誤れば、手段を間違え、結果を得られたとしても満足感には程遠いものとなる。彼ら六つ子はいつも表層ばかりを追い求め、その本質を自問しない。なぜモテたいのか、どうしてヤりたいのか。
そもそも、それは本当に自分たちの望みなのか。
「引かないで、聞いてほしいんだが…」
そんな前置きと共に、カラ松くんは感情を吐露する。私は深く頷いた。
「改めて考えた時、オレは…今は、相手との未来を想像してることに気付いた。真剣な恋愛をして、結婚して、ジュニアもできたらいいなと思う。
だから相手は自立した社会人が良いのかも、となって……」
切れ切れに、彼が捉えた己の本質が紡がれる。
「そんな意識はまるでしてなかったんだが、そういう意味では…言い方は良くないが──ああ、ユーリは条件的にもピッタリなんだ、って」
顔色を窺うようにチラリと視線が向けられる。私は極力感情を出さないよう努めていたが、それを拒絶と受け取ったらしい彼は狼狽した。
「や、っ、違うんだ…!その、スペックで判断してるわけじゃない!ずっと養ってもらいたいとか働きたくないとかは、あー…思ってないわけじゃない、が」
素直か。
危うく手首のスナップを効かせて胸に叩きつけるところだった。
「結果的に、ベストなスペックを持つのがハニーだったってことは、何というか…」
カラ松くんは手のひらを首筋に当てて、首を傾げてみせた。羞恥心が混じった複雑そうな顔で。
「これは本当に偶然なのか、と思ったんだ…」
人は、出会いに意味を持たせたがる。運命的だとか赤い糸だとか美辞麗句で飾り付けた意味付けをすることで、関係性を継続する都合のいい理由になるから。
この次男は特にその傾向が顕著だ。自分に酔っている。私との繋がりも、あらかじめ仕組まれた定めであるかのように語る。
それは反面で、いつ途切れるか分からない関係への不安の表れでもあるのだろう。
「オレは…ユーリにとって紳士だろう?」
紳士とは。
「レディーファーストを徹底してる的なこと?」
彼は首を振る。私は察した。
「なるほど、うん、確かにそうだね。私にはヤらせろって言わないもんね」
「ストレートを剛速球で投げてくるの止めてくれないか」
「違った?」
「……合ってる」
ほらみろ。
「そういうことが頭にないわけじゃないが…我慢できるくらいには、真剣なんだ。真剣に考えてる」
「あ、ヤりたいってのはやっぱあるんだ」
「ある。ヤりたい」
急にカラ松くんの目が据わる。地雷を踏んだかもしれない。
「愚問だと思わないか!?
欲求あり余る青春時代と二十代を女っ気なしの童貞で突っ走ってきた挙げ句、今は目の前に超絶キュートでビューティなハニーがいるんだぞ!?
オカズにするくらいは良くない!?」
私に訊くな。オカズや肴にするのは勝手だとしても、当の本人に対してぶちかますのは自殺行為じゃないか。脳内イメージのシチュエーションを朝まで執拗に問い質すぞゴラ。
あー、と盛大な息を吐いて、カラ松くんはソファの背もたれに両手を投げ出した。自棄っぱちだ。彼は顔を天井に向けて、目を細めた。
「テクニシャンのユーリに小手先はマジでナンセンスだった…」
「その異名は異議あり」
今後も呼び続けたら実践してやるからな。
「──っていうかさ」
私も背もたれに背を預けて、カラ松くんと同じ格好になる。顔を横に向けたら、目が合った。
「今更テクニックとか必要ないとは思わなかった?一年ずっと一緒にいるのに」
「まぁ、いや…んー……」
「こういうのは、出会ってすぐの頃にしなきゃ。効果があるのは、いくらでも軌道修正できる間だけだと思うよ」
私たちは、騒々しく賑やかな日々と思い出を重ねてきた。
「いつもと様子が違うのは面白かったけどね。ただ、ここまで来て急に態度変えられても、どうしたの?何かあった?ってなっちゃうかな」
「…そういうもんか」
彼は不服そうに眉根を寄せた。努力が実らなかったどころか仇となったのだから、その心境は察するに余りある。
「もしくは、相手が手ひどく失恋したのを慰める時とか?」
拠り所を失って空いた穴を、優しく寄り添う言葉と態度で埋める手法である。タイミングと手段によっては効果を発揮するが、逆に嫌悪感を顕にされる可能性も併せ持つ諸刃の剣だ。傷ついた相手の隙につけ入ると揶揄されがちではあるけれど。
「それは嫌だ」
即座に拒否反応を示すカラ松くん。
「例え一瞬でもユーリが他の誰かを見るのは、オレは耐えられない」
可愛いなぁ、と私は思う。頭を撫でて、そんなことは起こり得ないのだと言葉にして安心させてやりたくなる。
しかし私が上体を起こした矢先、階下から声がかかった。
「カラ松ー、ユーリちゃん来てるー?」
おそ松くんの声だ。
カラ松くんは大儀そうに立ち上がり、襖を開けて顔を覗かせた。
「ハニーは来てるが、どうした?」
「母さんがユーリちゃんのために今川焼き買ってきたって。カスタードとかうぐいすあんもあるから、自宅組は早めにいいヤツ選んどこうぜ」
「ブラザーたちには情け無用ということだな、いいだろう!甘やかすだけが愛の形じゃない、時には愛故の厳しさも必要だ。オレの分あずき残しておけよ!」
今川焼きの味に対する執着と、言い訳感がハンパない。早く下りてこないと知らないからなと長男は言い残して、遠ざかっていく。
「──というわけだ、ハニー。ブラザーたちが帰ってくる前に今川焼きを選んでしまおう」
「私は何味でもいいよ」
「ゲストを差し置くわけにはいかないだろ」
フッと穏やかに笑って、カラ松くんは私に手を差し伸べようとした。
しかし私がその手を視認して反応するより前に、彼は気が変わったのか、私の隣に座り直した。
「ユーリにテクニックは通用しないと、オレは言ったな」
自ら話を蒸し返してくるか。私は驚きを顔に貼り付けながらも、それがカラ松くんの意向であるならと受け止めた。
「言ったね」
「…実は、使う予定のなかったものが一つある」
もったいぶった言い方だ。腹の中を何となく理解する。相手に予告した上での行使はそれこそ効果が得られないのではと訝る私をよそに、カラ松くんはどこか高揚しているようだった。
「試してもいいか?」
こわごわと顔色を窺いながらの問い。
少なくとも、幾らかの可能性を感じてのことなのだろう。どんなものなのか、純粋な好奇心が勝った。
「いいよ」
承諾する私に目を細め、けれど彼は一度視線を地面に落とし、微かな逡巡を見せた。実行に移すか否かの葛藤か。
カラ松くんが躊躇していたのは、実質数秒だ。やがて意を決したように顔を上げ、そして───
私を正面から強く抱きしめた。
「……っ」
予想外の手段に、思考が止まる。
両腕が回された背中を引き寄せられ、私の顔はカラ松くんの肩に埋もれる形になった。柔軟剤と皮膚の匂いが入り混じった独特な香りが鼻をついて、今私を抱きしめるのが間違いなくカラ松くんであることを再認識する。
「ユーリ…」
万感の思いが込められた言霊が囁かれる。
「カラ松くん、これは──」
私が最後まで質問を紡がなかったのは、襖を隔てた階下から聞き慣れた幾つもの声が聞こえてきたからだ。ただいまと帰宅を告げる声と、床板を軋ませる複数の足音。
「あ、やっぱこれユーリちゃんの靴?」
「居間にいるの?二階?」
「えっ、お前らもう帰ってきちゃったの?あー、だから先に選んどけって言ったのに」
「選ぶって何を?」
途切れ途切れに五人の会話が漏れ聞こえる。
「ね、カラ松くん、みんなが…」
「分かってる」
そう言いながらも、力を緩める様子はまるでない。
抗うべきなのか従順でいるべきなのか、だらりと下ろしたままの腕に行き場がない。
「だからだ」
だから?
「いつブラザーたちが上がってきて戸を開けるか分からないのは、スリルがあるだろ?
…勘違いしそうにならないか?」
戸惑い、不安、緊張、そういった不特定多数の感情がごちゃまぜになって、私の心を乱そうとする。私自身はこの抱擁を彼らに見られても構わないけれど、カラ松くんが被害を被るのは避けたい。
ああ、そうか、私のこの緊張感は、カラ松くんを人質に取られているからなのか。合点がいった。
「吊り橋効果のこと?」
「そんな上等なものじゃないさ」
持て余した手で、私は彼のパーカーの裾を掴む。抵抗とも許容とも取れる曖昧な態度は、カラ松くんの体を僅かに揺らした。
「これは──秘密の共有だ」
秘密の共有。
投げられた言葉を内申で反芻する。
「ブラザーたちの声が聞こえるくらい近い距離でこうしてハグしているのは、オレとユーリしか知らない」
きっと、指南本が示す本来の意味合いは全く異なるのだろう。秘密の共有は、こんな風に密着して行われるものではないはずだ。抱擁までしてしまうと、自然に相手を惹き付けるどころか、自分の好意や下心が伝わってしまうから。
私は片手を持ち上げて、彼の胸に触れる。
「は、ハニー…!?」
「カラ松くん、ドキドキしてるね」
初よのぅ。抱きしめることまでやっておきながら、服越しに胸を触られただけで動揺するなんて──あ、待て、セクハラだと思われてるのか?まぁセクハラだけど。
「…するに決まってる」
反論するように語気を強めて、カラ松くんは言う。セクハラだから?
「近くにブラザーたちがいるからというのもあるが……大事にしたい反面で、やっぱり男としてそういうことを考えないわけでもないし…かなり葛藤してるんだぞ」
カラ松くんはそろそろと私から手を離して、赤くなった顔を歪ませた。茶化す場面ではないなと反省し、私は微笑む。
「…ユーリは?」
「え、私?」
「これも、ユーリには効果がなかったか?」
憂い顔で呟く。独りよがりなのかと気落ちしそうになる彼をすくい上げるのは、私の役目だ。私だけの。
カラ松くんの手を持ち上げて、私の左手首に運ぶ。太い血管を覆う皮膚の上に、彼の指先が触れた。
「……ハニー」
愛おしそうな艶っぽい声で、私を愛称で呼ぶ。その顔には子供のような屈託のない笑みが浮かんでいた。
「カラ松ー、ユーリちゃーん!」
一階からの呼び声が、私たちを現実に引き戻す。
「兄さんたちイチャついてんじゃない?邪魔したら悪いよ、すぐさま見てきて」
「言葉に一貫性がなさすぎるだろ、トッティ。分かった、僕が先陣を切る」
「程々になー」
廊下でわちゃわちゃと騒ぎ立てる数人の声に、カラ松くんはあたふたと両手を彷徨わせる。ゴホンとわざとらしい咳払いの後、大きく息を吸って口を開いた。
「すぐ行く!ハニーの分は残しておくんだぞ、ブラザー!」
「ごめーん、ゲームのキリが悪くて!ちょうど終わったから行くね!」
私も音量を彼に合わせて、階下に返事をする。
「何だ、ゲームだって」
「そういうこったろうと思ってたけどね」
声は次第に遠ざかり、やがてほとんど聞こえなくなる。
襖を開けて一階の様子を覗いたカラ松くんが、長い安堵の息を吐き出した。難は去ったらしい。
「ナイスフォロー、ハニー」
「ふふ、どういたしまして」
横髪を掻き上げながら、私は肩を揺らす。我ながら真実味のある嘘をついたものだ。詐欺師の素質があるのかもしれない。
「──カラ松くん的には、指南本は効果あったと思う?」
襖を開けて一段階段を下りたカラ松くんの背後で、私は尋ねた。ピクリと反応する背中。端整とも感じられる横顔で私を一瞥する。
テクニックには須らく理由があって、その理由こそが本質だ。それを理解せず技術を用いたところで効果は望めない。
「……あった」
彼の唇が小さく動く。
日中とはいえ薄暗がりの廊下で顔の血色を視認するのは至難の業だったが、私の思い違いでなければ、僅かに上気しているようだった。彼はくすぐったそうに笑う。
「───オレに」