「ユーリちゃんが言うのはあくまでも選択肢の一つだろ?
ただでさえ無謀な策で精神消耗した挙げ句、失敗したら目も当てられないじゃん。そこ分かってる?」
松野家一階の居間で、ユーリと膝を突き合わせて一松は眉をひそめる。対するユーリも腕組みをし、苛立たしげに口をへの字に曲げていた。
「実行に移したこともないのに、机上の空論で失敗前提はネガティヴこじらせてるよ。
下手な鉄砲数撃ちゃ当たるって言葉もあるのに、一回の挫折さえ恐れるって、一松くん意外と完璧主義なのかな」
「人には得手不得手があるんだよ。敢えて苦手な手段を講じる必要ある?」
「経験積んで得た結論なら説得力もあるけど、一松くんのはただの言い訳じゃない?」
「待つっていうのも一つの手だろ」
「待ち続けた結果なら、もう既に出てると思う。期限を伸ばすメリットが分からないよ」
一松とユーリの間には、ピリピリとした一触即発の空気が漂う。一見意見を交わして真意を探り合っているようだが、互いが導火線にライターを向けている状態だ。着火は時間の問題に思われた。
「ニートでひきこもりのおれと、バリバリ働いてリア充なユーリちゃんとは、そもそも生きる世界が違うんだよ。同じ目線には絶対に立てない」
一松は癖の強い髪を片手でクシャクシャと掻き回した。この議論に一刻も早く終止符を打ちたい焦燥感が顔に出る。
「そりゃ立てないよ。立場どころか考え方だって違うんだから。
でも一松くんが打開策を見つけたいなら、一緒に考えることはできる。私はそうしたいからここにいるの」
なのに、とユーリは続ける。
「一松くんってば、さっきから態度が投げやりすぎる!」
ユーリは自分の膝に拳を叩き、怒りをあらわにする。すぐ側のちゃぶ台にしなかったのは、飲みかけのコーヒーカップが二つ置かれていたからだ。
「できないものはできないんだよ!おれだって、どうにかできるならしたいよ!」
噛みつくように一松が声を出す。
「とりあえず一回でもやってみたらいいじゃん!」
「だから、やれたら苦労しねぇんだよ!ユーリちゃんはおれに死ねって言うわけ!?」
「極論!」
「同じだろうが!」
「やってもないのに逆ギレとはいい度胸だ!オモテ出ろ!」
カラ松とおそ松が二人の口論に気付いたのは、議論が終盤に差し掛かった頃だった。
母に頼まれた買い物を終えて帰宅するや否や、障子を一枚隔てた先の騒ぎを聞きつけ、帰宅の挨拶もそこそこに何事かと割って入る。
障子を開けた先では、一松とユーリが肩を怒らせて睨み合っていた。
「え、何これ。一松とユーリちゃんの……喧嘩?」
信じられないものを見たとばかりに瞠目するおそ松。
「…一体どうしたんだ、ハニー?一松が何かやったのか?
だとしたらすまん、今すぐ心の底から反省させるから勘弁してやってくれ」
カラ松は不安げに眉を下げつつも、血管の浮き出た拳の関節を鳴らして一松ににじり寄る。殺気を感じた一松は、猫のような素早いバックステップで瞬時に後退した。結果的にユーリの背後に隠れる形になる。
「待て待て、カラ松。一松っちゃん死んじゃう」
おそ松が苦笑しながらカラ松の肩を叩き、やんわりと制する。
「そうだよ、カラ松くん。これは私と一松くんの話し合いだから」
「しかし…ユーリも一松もあんなに大声で怒鳴ってたんだ。些細なことじゃないんだろ?」
一松を見るユーリの表情は、激昂と言っても過言ではなかった。対する一松も然り。
情熱的とも取れる真っ直ぐな瞳が、ほんの僅かな時間でも自分ではなく他の男に向けられていた。ユーリの意識が一松に一身に注がれた。その事実がカラ松の胸を締め付ける。親愛や劣情故ではない、意見の対立による取るに足らない口喧嘩と頭では理解していても。
「で、何の喧嘩なわけ?」
重ねるようにおそ松が問う。
「それは……あー…」
ユーリは言葉を濁して一松を一瞥し、一松はチッと舌打ちして視線を落とした。
「…何でもない」
「何でもないことないだろ。ユーリちゃん怒らせるってお前よっぽどだぞ」
「別に大したことじゃないって」
「答えろ、一松」
静かに、しかし語気を強めてカラ松が促す。拒絶を許容しない声が、一松を戦慄させた。脅しとも取れる強要に見えたのか、ユーリは眉間に皺を刻んで抗議の手を上げかける。
しかし、一松が口を割る方が早かった。
「……女の子との出会い方」
「は?」
「だからっ、どうやったら女の子と出会って仲良くなれるかって話してただけだよ!もういいだろ、ぶん殴るぞ!」
顔を真っ赤して唾を飛ばす一松の傍らで、ユーリは憂いを帯びた顔をしながら片手を頬に当てた。
「一松くん、自分から行動起こすのは無理の一点張りで…。
私とカラ松くんみたいな実例もあるから、一回でも婚活パーティとか街コンとかそういう集まりに行ったらどうかなって提案したんだよ」
「それができる強メンタルだったら、今頃人間の友達できてるって言ってんじゃん。水掛け論もいい加減に」
「人間の友達ならいるでしょ」
「え?」
「私」
自分を指さして、ユーリはきょとんとする。一松の友人としてカウントされていなかった事実に傷心しているようにも見えた。
一松の頬に、再び赤みが差す。え、あ、と言葉の出来損ないを溢しながら、居心地悪そうに首を掻いた。
「わー、すげーどうでもいい。痴話喧嘩かよ。俺いち抜けた」
おそ松はビニール袋を引っ提げて、台所へ向かった。ガサガサとビニール袋から食品を取り出して、冷蔵庫へ仕舞う。
「ごめん…」
一松が頭を下げることで、ユーリは溜飲を下げたようだった。ニッと愛嬌のある笑顔になる。
「私も言葉が悪かったから、ごめん。
それはそれとして、来週のカフェは午後からでいい?私、予約しとくよ」
「うん、任せる。時間決まったら電話して」
「…カフェ?」
聞き捨てならない。
「ユーリ、オレの目の前でデートの約束か?」
ユーリが自分以外の男──例え自分の兄弟でも──と仲睦まじそうに話しているのを見ると、心がざわついて平静ではいられない。二人きりで会う約束を交わすなら、なおさらだ。口出しできない浅い関係性を棚上げして、自分というものがありながら、と思ってしまう。
腕組みをして鼻白んだら、一松が強い眼差しを投げてきた。
「デートじゃない。この応酬何度目だよ。ユーリちゃん絡みになるとほんと極端に視野狭くなるな、お前」
「保護猫カフェに行くんだよ。売上の半分が募金になるんだって。カラ松くんも行く?」
「女の子受けする内装だから男一人だと行きにくいって話したら、ユーリちゃんが付き合ってくれる流れになっただけ。そんな心配なら、お前も来れば?」
「あ…そう、なんだ……」
拍子抜けしたら、途端に二人に対して申し訳ない気持ちが湧き上がる。嫉妬が真実追求の目を曇らせ、苛立ちが相手への信頼を見失わせた。
「でもさ、一松が女の子と対等に喧嘩ってめちゃくちゃレアじゃね?」
棒アイスを咥えながら、おそ松がどっかとちゃぶ台の前に腰を下ろす。
「人間以外にしか興味を示さない一松が、大声出してユーリちゃんと言い争うって、お兄ちゃん感動しちゃったよ。社会出て十分やっていける」
「や、まぁ、ユーリちゃんには慣れたっていうか…可愛いし、一応女の子って認識はしてるけど、よく会う親戚の子みたいな感じ」
「エンカウント率高いもんな」
「私はモンスターか。潰すぞニート勇者一行」
ユーリの抉るようなツッコミをしれっと受け流し、おそ松はカラカラと愉快そうに笑う。
「カラ松とは喧嘩しないの?」
「おそ松、そんなこと今はどうでもいいだろ」
ユーリの側に座って、カラ松はおそ松に一瞥をくれた。空気を読まずに自分本位を貫くのは長男の長所にして欠点でもある。カラ松の不快な表情を視認してなお、問いを撤回せず彼女の返事を待つ。
「全然ないよね」
ユーリは肩を竦め、視線をもってカラ松に同意を求めた。
「あっても、どっちかが注意する感じ。頻度的には、私が言われることの方が多いかな」
「喧嘩する理由がない」
カラ松は頷く。
「怒ったハニーも艶やかだが、スマイルが一番似合うからな」
これは正直な気持ちだ。もちろん、真剣に叱責されれば己の非云々以前にダメージを受けるし、淀む空気を一刻も早く解消したいと気が逸る。
そして同時に、カラ松に向ける強い熱量の意味を勘違いしそうにもなる。ユーリがカラ松のことだけを見て、カラ松のことだけを考えているその時間を、幸福と感じる。
しかし、本心を言えば───
ユーリと本音で議論を戦わせた一松が、ひどく羨ましい。
「喧嘩ってどうすればいいんだ?」
「え、それ私に訊く?」
カラ松の質問に、ユーリは呆気に取られる。
「あ、売ればいいのか」
「ド天然でサイコパス発言は怖いよ」
「慣れないことはしない方がいいんじゃない?」
ユーリどころか一松にも窘められた。
拳を突き合わせる回数が多いのは兄弟だが、彼らに対しても基本的には包容力を見せつけるポーズを取るのが多いことに加え、暴力に発展する時は大抵複数人が絡み合う。カラ松単騎で誰かと激しい口論になることは少ないのだ。
「お前は売られた喧嘩を買うのがメインなタイプだもんな」
「ノンノンおそ松、オレはオールウェイズピースフルなだけだ。ガイアに生きとし生ける者、みんな愛してるぜ!」
博愛主義を声を大にして告げるも、おそ松は素知らぬ顔だ。彼は口から出したアイスの棒をゴミ箱に投げた。緩やかな弧を描き、見事ゴミ箱の中に落ちる。
「なぁ、ユーリちゃん。こいつこんなこと言うけど、怒ると理詰めで詰ってくることあるから気をつけて。ピザの時もそうだったけど、地雷踏むと怖いの」
「ピザ…ああ、排他松のアレね」
一松も思うところがあるようで、おそ松の言葉に頷く。
もしピザを頼むならどれにするかという生産性の欠片もない話を際限なく続け、最終的に口汚い暴言大会になった場に呆れて何が悪いのか。
さらには、平和的に離脱しようとしたカラ松を罵倒してきたから、正論を叩きつけただけの話だ。一方的に苦言を呈しただけで口論にさえ発展しなかった事象を取り上げて、それを気分を害した時の標準仕様と非難されるのは心外である。
けれどユーリは長男の忠告を意に介した様子もなく、にこりと微笑む。
「でも喧嘩するほど仲がいいっていうし、まぁしないに越したことないけど、いつかはカラ松くんと本音で喧嘩できたらなとは思うよ」
「ユーリ…」
その日は、唐突に訪れる。
春先だというのに日差しの強い夏日の午後、松野家の玄関を開けてユーリが約束の時間に姿を現した。額からは汗が滴り、首を伝って服を濡らす。
玄関で出迎えたカラ松は、ユーリを見るなり言葉を失った。
この日の彼女の服装が、後に繰り広げられる口論の火種となる。
窓を開けた風通しのいい居間に案内する。室内にはチョロ松とトド松もいて、笑顔でユーリを出迎えた。
言いたいことは山ほどあったが、まずは労をねぎらい、冷えた麦茶を差し出す。ユーリがそれを一気飲みして喉を潤したところで、カラ松は口火を切った。
「ユーリ…その格好で電車に乗って来たのか?」
「うん?そうだよ」
ユーリは首を傾げる。カラ松が何を言わんとしているか見当がつかない、そう言いたげだ。
「あのな、ユーリ」
額に手を当て、長い息を吐く。
「今日の格好はいくら何でもセクシーすぎないか?」
肩口がしっかり見えるショッキングピンクのノースリーブブラウスに、デニムのショートパンツ。カーディガンを羽織ってはいるが、ざっくり編みのメッシュデザインで、防寒着として効果があるかは甚だ疑問な装い。
かといって異性受けを狙ったあざとさはなく、ハツラツとした健康的な色香が漂うものの、街中ですれ違えば十中八九露出した腕や脚に目が行く。鮮やかなピンクのトップスの存在感が強いのも、要因として大きいだろう。
「別に普通だと思うけどなぁ。ほら、今日暑いし」
ユーリはカーディガンを脱ぎ、両手を組んで後頭部に回した。無防備な両脇がなかなかにエロい。インナーが見え隠れする絶妙なチラリズムまで付属して、新たな性癖の扉を開きそうだ。
ユーリのそんな姿を見るのが自分だけなら構わない。問題なのは、松野家に辿り着く道中に多数の目があったことだ。
「ユーリちゃんのその服、ボクは好きだなぁ。すっごく似合うよ」
トド松は円卓に頬杖をつき、さり気なく好感度を上げてくる。
「確かに今日は季節外れに暑いしね」
チョロ松も末弟に賛同するので、ユーリは満足げだ。
「普通じゃない。いくら暑いからって肌を出しすぎだ。ジロジロ見られたいのか?」
言外に含ませたカラ松の嫌味に気付いたらしいユーリは、片方の眉をぴくりとつり上げる。
「自分がそうだからって、他人も同じだと思わない方がいいよ」
「ノーキディングだ、ハニー。何度も口酸っぱく言ってきたが、自分の魅力やスタイルの良さを過小評価するのはクレバーじゃないな」
いくら言い聞かせても一向に改善されない不用心さに、いい加減呆れも混じる。警戒心が足りなさすぎるのだ。
「おい、ちょっとカラ松──」
不穏な空気を察したチョロ松が割って入ろうとするのを片手で制して、続ける。
「いつ痴漢に狙われたっておかしくないんだぞ」
「飛躍しすぎ」
「どこかだ。不特定多数の男を惹き付ける厄介さはそろそろ自覚した方がいい」
「モテたくて着てるわけじゃないからね。好きな服着ちゃ駄目なの?この格好、そんなに下品?」
「そんなこと言ってないだろ!」
論点がズレ始めている。
似合う似合わないの話ではないのだ。自分以外の男がユーリに対して情事を連想させるような感情を抱くことが、どうしても許容できない。指一本触れさせることはおろか、妄想のネタにさえさせたくない。
だからといって地味な服装で彼女の魅力を半減させたくもない、矛盾した思考。
ひどく歪な劣情が、苛立ちを誘発する。
「確かに肌見せっぽいけど、動いたって下着が見えるわけじゃないでしょ!」
ユーリの音量も徐々に上がり、次第に感情的なものになる。
「普通の夏服なら見えないような部分がガン見できる時点でエロくないとかおかしいだろ!太ももは絶対領域だぞ、安売りするんじゃない!」
「自分だって、お縄にならないギリギリを攻めた露出に命かけてるスタンスのくせに!」
指先を突きつけ、ユーリが毅然と言い放つ。チョロ松とトド松が静かに首を縦に振った。ヤバイ。
「そもそもショートパンツはお前の標準装備じゃん。秋の高尾山でも着てたよな」
「自分はいいのにユーリちゃんは駄目なわけ?
カラ松兄さん、とんだダブスタ野郎」
状況はカラ松にとって不利な方向へと舵を切る。さらに、もっと言ってやれと、ユーリは親指おっ立てて援護射撃に回るから、形勢不利で完全に四面楚歌に陥った。
だが一旦上げた拳をそうやすやすと下げるわけにもいかない。
「お、オレはただ着たい服を着てるだけだ!」
「私もそうだけど!」
「うっ…」
「男だから狙われないとか変な目で見られないなんて時代錯誤!推しの尻を虎視眈々と狙ってる私が目の前にいるでしょうがっ」
「ユーリちゃん…そこに胸張っちゃ駄目だろ」
チョロ松が控えめにツッコミを入れる。
「とにかく、服装をカラ松くんに指図される覚えはないから!母親か!」
「少なくともモンペではあるよねー」
トド松がスマホの画面を優雅にスワイプしながら、悠然と呟く。誰がモンスターペアレンツだ。
「オレはユーリの身を案じて言ってるんだ!中はもうそれで仕方ないとしても、上はせめてこれにしろっ」
カラ松は椅子に掛けていた自分の上着を、乱暴にユーリに差し向ける。コバルトブルーのシンプルなシャツだ。ユーリとの外出用に出していただけで、今日はまだ一度も袖を通していない。
口論の途中から腕組みを崩さず拒否姿勢を貫いていたユーリだが、唇を尖らせながら不承不承カラ松からシャツを受け取った。意見は受け入れるが納得はしていないという態度だ。
「…とりあえずトイレ行ってくる」
実質的な一時休戦である。シャツを羽織り、ユーリはカラ松たちに背を向けた。
その後ろ姿に、カラ松を始めとする三人は言葉を失った。
「ちょ…っ、これはヤバイ…」
「か、カラ松兄さん、ひょっとしてこれが目的だったの!?」
「まっ、待て待て!誤解だっ、違ぁう!」
揃って茹で上がったタコの如く顔を赤らめ、あちこちに黒目を彷徨わせる。
「は?何?」
ユーリは青筋を立てて振り返った。
「えっ、や、ユーリ…これは、ごか──」
シャツの丈でショートパンツが隠れ、風呂上がりの彼シャツさながらの格好に見えたのだ。
丈が長めのシャツだったのも災いした。下着の上からシャツを羽織ったイメージが脳裏に浮かんで、こうなるともう否が応でも妄想の下着姿が頭から離れなくなる。頬は自然と紅潮した。
「とんだ策士だな、カラ松。全ては彼シャツへの布石だったとは…」
チョロ松が畏怖の念を込めた目でカラ松を凝視した。
「むっつりエロ大魔王」
「違ああぁあぁう!」
「カラ松くん見損なったよ」
「ハニーまで!?」
「悪いけど、痴話喧嘩はよそでやれ」
些末にもほどがある兄弟の喧嘩に呆れ果てた末っ子が、カラ松とユーリを二階へと追い立てた。仲直りするまで戻ってこなくていいからと、ぴしゃりと襖が閉められる。
鍵のない一枚板を物理的に開け放つことは容易いが、不用意に顔を覗かせようものなら今度こそ雷が落ちるだろう。
「カラ松くんのせいだから」
「原因はハニーだろ」
互いに不貞腐れた顔で、渋々階段を上る。
ユーリと二人きりという状況は、普段なら諸手を挙げて歓迎するシチュエーションだ。これまで幾度となく、意図的にその状況を作り出してきた。
しかし今は、喜びよりも気まずさが先立つ。ユーリは目を吊り上げているし、カラ松もまた彼女の主張に同意しかねるために機嫌が悪い。
「服については、オレはいいんだ」
重苦しい空気を打破するため、カラ松は先陣を切った。
「オレは着たい服を着る」
「私もそうするつもりだけど?」
ユーリはどっかとソファに座り、再び腕を組む。隣に並ぶ気になれず、カラ松はカーペットに腰を下ろした。自ずと見下される体勢になるが、やむ無しだ。
「ユーリは駄目だ。多少の露出はいいとしても、今日のような露出面積が極端に大きい服は控えるべきだろ。何かあった時に自衛できるのか?」
「何でそこまで言われなきゃいけないの?
こんなの普通の服でしょ。へそ出したわけでもあるまいし」
「そういう思考がデンジャーだと言いたいんだ」
カラ松の反論を受けたユーリは、見せつけるように長い溜息をついた。
「もうっ、これじゃずっと堂々巡り!」
両者に譲歩の意思がないなら、口論は長引くだけだ。
服の配慮をしてほしいだけなのに、上手くいかない。一松の時のように落ち着くべきところに落ち着かず、空気だけが重苦しくなっていく。さらに時間の経過に比例して、互いの強情の度合いは一層強いものになった。
覚悟を決める。
「ユーリ、頼む!」
カラ松は深く頭を下げた。額がカーペットに密着する。
「え…えっ、ちょ、カラ松く──」
「服に関しては、オレの意向を汲んでくれ!」
どうしても嫌なのだ。彼女が不特定多数の男から、欲望の対象として見られるのは。
───かつての自分がそうだったから。
露出度の高い服を着た女性が視界に入るたび、目の保養だと鼻の下を伸ばした。晒された素肌を凝視するのは男としての礼儀であると、声高に主張さえしたものだ。
相手側の感情が十分すぎるほど理解できるからこそ、看過できない。
「っ、待って、顔上げて、カラ松くん」
ユーリが床に膝をつき、カラ松の背中に手を置いた。声は間近からかかる。
「本当もう…どうして服一つにそこまでするかな…」
戸惑う声とは裏腹に、顔に怒りの色はない。
彼女の手に促されカラ松は顔を上げようとして───硬直した。
ユーリの白い太ももが、近い。
程よい肉付きで、腿から膝にかけてのラインから目が離せなくなる。触れたくなる衝動を抑えるのに精一杯で、下半身に集中する熱を制御する余力など皆無。前屈みの格好のまま動けなくなった。
「は、ハニー、タイム…ちょっとタイムだ」
今上半身を上げるとマズイ。
「あー…」
ユーリは早々に察したようで、カラ松の背中から手を離し、顔からスッと表情を消した。最高に気まずい。
真剣な議論の最中に太ももに魅入られて欲情した馬鹿のレッテルを貼られてもおかしくない。紛うことなき事実だけれども。
「ショートパンツ駄目って言った本当の理由が分かった気がする」
どこまでも静かな声音で告げられた言葉は、最後の審判のようにも感じられた。
「え、なっ、ユーリっ、ちが──」
「大丈夫、みんなには言わないから」
今度は、宥めるみたいに背中をポンポンと軽く叩かれた。恐る恐る顔を上げると、微笑むユーリ。
雷を落とされて軽蔑されても仕方のないこの状況で、彼女はカラ松を気遣う。いっそ一思いに叱ってくれた方が、後腐れなく終止符を打てそうなものを。
ユーリが膝に手を当てて立ち上がろうとするので、視線を逸らしたままカラ松は口を開いた。
「でも…分かっただろう?
そういう格好をすると、オレみたいな奴が出るんだ」
彼女がどんな感情でその言葉を受け止めたのかは分からない。確認する勇気もなかった。
ただ、上がりかけた膝は再びカーペットについた。ほんの数秒、無言の時間が流れる。自分が唾を飲み込む音が彼女にも聞こえるのではと思うほどの静寂。
その矢先、カラ松の首に細い手が伸びてくる。
「そんな格好で言っても説得力ないよ」
軽やかな笑い声だった。
指先の腹でカラ松の首筋を撫で上げたかと思うと、その手は次に耳朶をくすぐった。指の感覚と体温が伝わって、カラ松は息を止める。
「あ、そっか。私が挑発するような服着てるせいだったね」
「だ、だから駄目だ、って…っ」
間違いなくセクシャルな意味合いで触れてきているのが分かるから、耳朶に触れているだけなのに、上擦った声が出た。服どころか言葉でも余裕綽々で挑発されているのに、素直に反応する自分の下半身が憎い。
こういう時、百戦錬磨の手練なら、逆手に取ってユーリの気を引くくらい赤子の手をひねるほど簡単なのかもしれない。余裕たっぷりの態度で迫ってみせて、なかなか染まらない彼女の頬を赤くすることだってできるのではないか。
しかしそう思う反面、二枚目になりきれない自分だからこそ気に入られている事実もまた、理解している。
ユーリは今度こそ立ち上がり、カラ松の背中側に回る。
「落ち着いたら言ってね」
部屋を出るのだろう。彼女自身は視認していないとはいえ、性の対象として反応された結果が目の前にあっては居心地が悪いに違いない。ひどく距離の近い名状し難い関係性ではあるけれど、名目上は友人なのだ。
カラ松は片手を顔に当て、音を立てずに息を吐く。自己嫌悪という名の黒い感情が体内を這いずり回ろうとする。
だから、背中に何かが触れた時は目を剥いた。
「……ユーリ?」
振り返ると、今日彼女が着ていたトップスの色が視界に入る。カラ松の背中にもたれて、ユーリは手元のスマホに目を落とした。背中の大半が密着する格好。
体は、一瞬で軽くなった。
カラ松の痴態を目に入れず、その上で変わらない信頼を態度でもって示してくれる。嫌悪されても仕方のない状況にも関わらず、だ。
こういうことを男相手にしれっとやってしまうから喧嘩に発展するし、その一方で心底可愛いと感じてしまうから、結果的に有耶無耶のまま帳消しになる。
しかし、ゼロになったわけではない。幾度となく繰り返され、消化しきれなかった不満はしこりとしてカラ松の胸に禍根を残している。
「…あの、さ」
どんな切り出し方をすればいいのか分からなかった。
「このまま聞いてほしいんだが…」
背中合わせのまま、顔を合わせないで。
「うん?どうかした?」
「オレはユーリをフレンドとして……そして、異性として見てる」
相槌は、もう返ってはこなかった。
けれど触れ合った背中には強張った様子もない。カラ松はあぐらを掻いた自分の足に視線を落としたまま、続ける。
「だから距離が近づけばこういった反応はこれからも起きるだろうし、ユーリが変な男にそそのかされないか心配もする。それに対して苛立つこともある」
コップから溢れた水はもう元には戻らない。
「それを全部踏まえての、さっきの頼みだ」
カラ松が微動だにしないように、ユーリもまた振り返らなかった。合わせた背中に動きはなく、どんな表情をしているのか窺い知る術もない。
階下から兄弟が上がってきて、いつもみたいに強制終了しないだろうかなんて、ご都合主義的な閉幕を心のどこかで望みながら、今日こそは普段とは違う結末を、とも願う。
「前向きに検討する」
静かな声が室内に通る。耳に心地いい、愛しい声。
「…そうか、そうしてくれると助かる」
正確にはイエスではないけれど、カラ松の意思を汲もうとする思いは伝わってくる。個人的な領域に少々踏み込みすぎたことを反省しながら、カラ松は礼を述べた。
「カラ松くんとの関係も」
「うん……って、えっ!?」
振り返ったのは、ほとんど条件反射だった。背後を向いたユーリの横顔には、薄い笑みが浮かんでいる。
「は、ハニー…今のは……」
ユーリは緩やかに上半身を捻って、カラ松と向かい合う。
「今日の服のことみたいに、一緒に考えていきたいなって私は思ってるんだけど」
彼女の瞳には、口を半開きにして唖然とする自分が映っている。
「どうかな?」
首を傾げたら、さらさらと髪が流れ落ちる。意向を伺う形式になってはいるが、拒否されるなんて一ミリも想定していない顔だ。
全ては最初から、ユーリの手の内にある。でも、もう、それさえも。
「…はい」
声が掠れた。
「よろしくお願い、します」
こういうのを怪我の功名というのだろうか。
ユーリがカラ松との曖昧な関係性に踏み込んで言及するのは稀で、願ってもないことだ。頭を下げたカラ松の心はこれ以上なく弾んでいた。
やっと踏み出した、最初の一歩。