あなたを襲う夜が来る(後)

廊下は暗闇に包まれている。窓から差し込む僅かな月明かりだけが頼りで、彼に倣って足音を忍ばせながら進む。そうしてカラ松くんに手を引かれて連れて行かれたのは、数個先にある客間だった。
カラ松くんは私の部屋でしたように、入るなりドアを施錠する。何かから逃げている、そんな印象を受けた。
「ユーリちゃん!…良かった、無事だったんだね」
室内の明かりは落とされていて、トド松くんのスマホのライトが周囲を照らす。声を潜めて、彼は安堵の息を漏らした。パジャマ姿の六つ子とトト子ちゃんは、揃って血の気の引いた青い顔をしている。
「何かあったの?」
七人が円陣を描くようにハタ坊を取り囲んでおり、諸悪の根源は一目瞭然だったが一応聞いておく。
「ハタ坊」
おそ松くんが溜息と共に、回答を促す。ハタ坊はきょとんとしたいつもの表情のまま、口を開いた。

「ひとりかくれんぼをしてるんだじょ」

「何やらかしてくれてんだお前」
あまりの衝撃にうっかり暴言が漏れ出てしまった。
「あ、良かった。やっぱりその反応で正しいんだよな、安心したわ」
一松くんが胸を撫で下ろす。彼とトド松くんを除く面子は不安げな様子ながらも、危機感は二人ほど感じていないようだった。事態を正しく理解しているのは、四男と末弟と私の三名か。
「ユーリ、そのひとりかくれんぼっていうのは一体何なんだ?」
「えっ、知ってて私を呼びに来たんじゃないの?」
「一松が血相変えて部屋に飛び込んで来て、屋敷の中に危ない奴が徘徊してるっていうから…」
「みんなボクに感謝してよね。
ボクがハタ坊のひとりかくれんぼに気付かなかったら、下手したら大惨事になってたかもしれないんだから」
深夜に喉が渇いたトド松くんがキッチンに向かったところ、大浴場の脱衣室に入るハタ坊を見かけて何気なく覗いたのだそうだ。ハタ坊が何かを呟いてぬいぐるみの腹部を出刃包丁で刺すのを目撃し、「次は君が鬼だじょ」と告げる声を聞いた。ひとりかくれんぼ開始の手順である。
SNSで都市伝説に精通していたトド松くんは気付くや否や来た道を引き返し、兄弟を叩き起こしたという経緯だ。一松くんがひとりかくれんぼを知っていたおかげで危機感の共有ができ、深夜の起床を億劫がる全員を一同に会させることに成功した。

ひとりかくれんぼは、コックリさんのような降霊術と言われている。成仏できずにいる浮幽霊は実体を欲しがるため、呼び寄せて人形に乗り移らせるのだ。
十数年前、実行した者が怪奇現象に見舞われた体験談をネットに書き込んだことで、検証を試みる者が多発した。結果、ひとりかくれんぼの知名度は上がり、都市伝説として今も名を馳せている。

「でも、始めたってことは終わらせる方法もあるんじゃないの?あるよね?
トト子ちゃんが首を傾げた。始めたのならとっとと終わらせてこいとその瞳は語る。
「そ、そうだよ、ハタ坊。ぬいぐるみはまだお風呂場なんだよね?」
ひとりかくれんぼは二時間以内に終わらせなければならないと聞く。刺した後は隠れる名目で一旦風呂場から出る必要はあるが、戻ればぬいぐるみはまだいるはずだ。

「ちょっと目を離したら、いなくなってたんだじょ」

惨劇の幕開け。
私の脳内で試合開始のゴングが鳴った。
「キッチンに行ったら引き出しが開いてて、包丁が何本かなくなってたんだしょ
どう足掻いても絶望じゃねぇか。呆けた面で淡々と語るハタ坊を除く八人が一斉に顔を見合わせた。
「ああもうっ、何でそういうことに僕らを巻き込むかなぁ!?ちゃんと最初に言えよ!」
音量を絞りつつチョロ松くんが叫ぶ。
「言ったじょ」
「は!?」
チョロ松くんがメンチを切る。
「…あー…そういえば、何か言ってたかも」
十四松くんは心当たりがある様子で、気まずそうに黒目を左右にゆらゆらさせた。
「チビ太のとこで飲んでた時、別荘でやろうと思ってることがある的なこと言ってて、豪邸なら行きたいってぼくら頼んだよね?
確か…山奥だし、やりたいことは夜中にやるから危ないしうるさいかもってハタ坊言ってた」
カラ松くんが腕組みをする。
「言ってたな。
それを、オレらが寝てからなら何しようが気にならないから平気だって返した覚えがある」
元凶は六つ子でした。
完全に巻き込まれた側のトト子ちゃんは苦虫を数十匹同時に噛み潰した顔になり、会心のボディーブローが六人に見舞われる。いいぞ、もっとやれ。

六つ子のうめき声が呼び水となったのか、次の瞬間、耳をつんざく破壊音が轟いた。斧で木を砕破したような、メキメキと甲高い音。数十メートルは隔てた距離から聞こえたが、音自体は間違いなく私たちのいる二階から発された。
全員が目を瞠り、カラ松くんは私の肩を抱き寄せる。
「見つけにきたんだじょ」
平然と恐ろしい仮説を述べるハタ坊の脳天にツッコミを叩き込む心の余裕なんて、もはやない。
「ハタ坊、ひとりかくれんぼの終わらせ方は頭入ってる!?」
「じょ」
今にも胸ぐらを掴まんとするトド松くんの剣幕に、ハタ坊は首を縦に振った。
「全員一緒だと危ないから、別れて行動しよう」
「…それしかないか。トド松くん、制限時間のことは──」
「五時までだよね。二時間もあるから何とかなるよ……たぶん」
トド松くんはそう言うものの、実は既にハタ坊はルールを破ってしまっている。スタート時点に口に含んだ塩水は、最後にぬいぐるみに吹きかけるまでは保持していないといけないのに、彼は飲み込んでしまっているようなのだ。
開幕から破綻しているこのひとりかくれんぼが、今後無事終わらせられるかの保証はどこにもない。
「早く出ないと」
密室に閉じこもっているのは間違いなくフラグ。
私が退室を促そうと声を出したら───突然、ドアがコンコンとノックされる。

『もういいかい?』

特有のリズムに乗った、知らない声。くぐもった、布越しに発された声のようだった。
「……うっわ」
おそ松くんが嫌悪感丸出しで眉をひそめる。
「おそ松、ドアを開けろ。オレが仕留める」
「それ囮じゃん!」
「壁際に立てばいいだろ!」
廊下に続くドアは内開きだ。おそ松くんは背中を壁伝いに腕を伸ばし、ドアノブに手をかける。ノブ側の壁にはフロアライトを武器代わりに構えるカラ松くんが控えた。サムターンを回して解錠し、長男がゆっくりとドアを開く。次男がライトを振りかぶる。
「……あれ?」
しかしそこには、誰の姿もなかった。拍子抜けしたおそ松くんが廊下に顔を出して周囲を見回すが、やはり何もいない。私たちも慌ててドアに駆け寄る。
そこに───シャリ、と背後で音がした。まるで、ビニール袋に入れた米が擦れ合うような音だ。私の背筋に冷たいものが走る。ひとりかくれんぼは、ぬいぐるみから綿を取り出して、代わりに『米を詰める』。
そして何より、私たちの背後は───

室内。

「出て!今すぐ!」
私の叫びと同時に、全員が部屋を出た。狭い空間を我先にと飛び出したせいで、チョロ松くんが躓いて転倒しそうになる。彼が地面に手をつく直前にトト子ちゃんがすくい上げ、十四松くんが踵を返してぬいぐるみに飛び蹴りを見舞う。
衝撃で人形の手から離れた出刃包丁が、トド松くんの腹部の真横を掠めた。
「うわぁっ!」
ぬいぐるみはすぐさま立ち上がり、私たちを追う。トド松くんが反射的に飛び退いたのが階段の踊り場だったこともあり、階段を通り過ぎていた私たちとは道が分かれ、八人がバラバラでの逃走を余儀なくされた。




不運にも、ぬいぐるみがターゲットと定めたのは私とカラ松くん、それからハタ坊と一松くんだった。実行者のハタ坊がいるから致し方ないが、ジャリジャリと人形に似合わない不協和音を立てながら接近してくる恐怖は筆舌に尽くしがたい。
ハタ坊がひとりかくれんぼの鬼にしたぬいぐるみは、彼が運営する遊園地であるクズニーランドのマスコットキャラクターのくまだった。愛くるしい表情のまま包丁を振りかざして追いかけてくるギャップは恐ろしいの一言に尽きる。トラウマになったらハタ坊締めるからなマジで。
「ど、どっかに隠れるか何かしないと!このままだと体力ゲージゼロで詰む!」
四男が息切れしながら声を上げる。詰むとか不吉なこと言うな。
しかし一松くんの言葉にも一理ある。ぬいぐるみの驚異的なスピードは、私たちが少しでも速度を緩めればすぐに追いつかれてしまうほどだ。敵は無機物故に無限の体力を有し、さらに地理の分からない館内で私たちが闇雲に走るのは危険も伴う。
「次で迎え撃とう」
「はい?」
まさかの反撃ターン突入。
言うなり、カラ松くんは廊下の脇に設置されている消火器を手に取った。抱えあげ、ぬいぐるみ目掛けて叩きつける。鈍い衝突音が耳を貫く。
一松くんとハタ坊は、彼が消火器を構えている僅かな時間のうちに先に行ってしまった。分裂してしまったが、少数に分かれた方が勝率は上がるかもしれない。
「ユーリ、こっちだ!」
カラ松くんに手を引かれて、私たちは再び走った。

飛び込んだ先は、バーラウンジだった。
カウンターの奥には各種グラスと酒瓶が配置され、手前には本皮のバーチェアが四つ並ぶ。さながら小ぢんまりと経営しているバーだ。黒と濃茶を基調にしたシックな内装で、間接照明が程よくカウンターを照らす。明かりは最小限にとどめ、物音を立てないよう室内を歩く。
部屋は幸いにも左右に出入り口が設けられている上、施錠が可能だった。私はそっとドアを閉め、鍵をかけた。ドアにもたれ、呼吸を整える。準備運動なしの全力疾走は体に負担がかかる。加えて、手が震えて仕方ない。深呼吸して冷静さを取り戻そうとすればするほど、足先から恐怖が這い上がろうとする。
そもそも二時間程度しか寝ていないから、頭と体が重い。眠気を振り払うように、私は頭を振った。
「ひとりかくれんぼは…ハタ坊が終わらせないといけないんだと思う」
「そういうルールなのか?」
「うーん、そもそもひとりかくれんぼ自体が眉唾だから、絶対これだっていうルールはないも同然なんだけどね」
「なら、ハタ坊見捨ててオレたちだけ帰ればいい
何というハッピーエンド。
「…確かに」
目から鱗である。
「私たちに二次被害が及ばないとは限らないけど、それも一つの手だね」
カラ松くんは不満げに腕を組む。
「万一にもユーリに危害が及ぶ可能性が残るなら、撤退案は却下だな。気は乗らないが、ユーリの平穏な日常のために一肌脱ぐか」
判断基準を私にするのはいかがなものか。ハタ坊との扱いの差がすごい。まぁ、悪い気はしないけれど。
「ハタ坊が誰かと一緒にいてくれたらいいんだけど…」
スマホからトド松くんにメッセージを送ると、すぐさま返事があった。ハタ坊は末弟チームには合流していないようだ。

私がトド松くんとやりとりしている間に、カラ松くんは備え付けの冷蔵庫を開けて瓶のドリンクを二本取り出した。カウンター内の引き出しから栓抜きを拝借して蓋を取り、棚のガラスコップになみなみと注ぐ。
「カラ松くん、冷静だね」
率直な感想のつもりだったが、嫌味のような発言になってしまったかもしれない。
「そうか?怖くないと言えば嘘になるが……まぁ、ゴリゴリに殺意持ったチビ太に襲撃されて一人ずつ殺られた経験があるしな
「……は?」
「文字通り『そして誰もいなくなった』状態になった」
何やらかしたんだお前ら。
チビ太さんを激昂させる原因は想像に難くないが、とんだ幼馴染との腐れ縁が続いてるものだとチビ太さんに同情したくなった。
「それに今は、ユーリがいる」
「どういう意味?」
コップが一つ手渡される。口をつけると、全力疾走した体に染み渡る。カラ松くんはオレンジ色のコップを掲げ、不敵に笑った。

「絶対に守らないといけない相手の前で、おちおち怖がるナイトがいるか?」

声にならない。
覚悟を決めなければいけないのは、私の方。
「…私も、怖がってる場合じゃないね」
「ユーリ?」
カウンターにコップを置いたら、水滴がぽたりとテーブルに落ちる。
「───私も守るから、カラ松くんのこと」
物理的には彼に敵わないし、きっと守られてしまうことの方が多いのだろうけど、私にだって矜持がある。
覚悟を示すためにじっとカラ松くんを見つめたら、彼は目元を赤くして相好を崩した。
「…ん」
小さく声を出して。
「ならイーブンに、今回は貸し借りにするか?オレに借りを作ると高くつくぞ」
「作らないように努力するよ」
ジュースを飲む彼の手がふと止まる。
「でももし私が足手まといになったら、その時はひとりかくれんぼを終わらせることを優先してほしい」
タイムリミットまでに悪夢の終焉を迎えることが最優先だ。
しかしカラ松くんは不服と言わんばかりに、眉に深い皺を寄せた。短い溜息と共に口を開く。
「ハニー、こういう時くらいは素直に『私を守れ』と言ってくれ」
「それは…」
「オレに迷惑がかかる、か?
そんなことあるはずないだろ。ユーリに頼られることほどオレにとっての誉れはないんだと、もう何回も話したはずだ。
それに、危険なことも、ユーリが悲しむこともしない」
この降霊術は開始からルールを破り破綻している。終止符を打つ方法が存在するのかさえ今は怪しい。家が軋むかすかな音にさえ怯える恐怖から脱するために、私たちが尽くさねばならないのは最善策だ。例え、いくらかの犠牲を払ってでも。
けれど───
「じゃあ…万が一のことがあったら、助けてほしいな」
「オフコース、ハニー」

ああ、これアレだ、ごめん、危機的状況なのに空気読めなくて本当申し訳ないが───うちの推し可愛すぎん?
笑顔が超絶可愛い。私を守ってくれるって話なのに、守りたいこの笑顔、ってなる。可愛すぎて心臓が痛い。

どこからか、叫び声と衝撃音がした。




体力はある程度回復した。部屋に隠れていてもいたずらに時間が過ぎていくだけだ。ひとまずハタ坊を探すことにする。
遠くから絶叫が聞こえた誰か──おそらくは六つ子のうちの誰か──のことは心配だが、無事を祈るしかない。
廊下は足元に等間隔に設置された間接照明が僅かに灯っているだけで、仄暗い。それでも暗闇に覆われていないだけずいぶんとマシだった。

不意に、私はハッとして周囲を見回す。誰かにじっと見られているような、ひどく居心地の悪い感覚がしたのだ。
「ユーリ?」
他人からの視線に敏感なわけではないのに。むしろ普段は全く気付かないくらいなのに。
「…あ、ごめん、何でもない」
雨粒が当たる窓ガラスに、血の気のない私の顔が映る。視線の正体はガラスに映る私自身か。

やれやれと安堵したのもつかの間、パン、と風船が割れるような音がした。私たちの足音さえ反響するほどの静寂を破る、甲高い破裂音が続けざまに轟く。音は───天井とすぐ真横から発された。
「…っ!」
音が発生する要素がない空間での音、要はラップ音だと気付いて思わず飛び退いたら、結果的にカラ松くんの胸に飛びつく格好になった。彼は一瞬ぎょっとしたものの、すぐに右手で私の背中に手を添える。
「フッ、暗闇で急に抱きついてくるとは…大胆なハニーだ」
そんな悠長な話ちゃうねん。
気取ってる場合か。今なお響く耳障りな音を前に冗談を言えるカラ松くんに、私は驚きを隠せない。
「お、音!音が……っ」
カラ松くんはきょとんとして私を見やる。
「音?何の?」
「…え?だって、パンって、音…」

「何も聞こえないぞ」

そんな馬鹿な。私にしか聞こえないラップ音なんてあるのか。私は戦慄し、言葉を失った。
「とりあえず、向こうにいるらしいブラザーと合流しよう」
間近からの破裂音に疑心暗鬼になる私に、カラ松くんは廊下の先を指で示す。奥に行くほど闇は濃くなり、景色が不鮮明になっている。少なくとも私には、誰の姿も視認できない。
「よく分かるね?気配でもするの?」
私には六つ子の声も気配も感じられないが、カラ松くんには一卵性双生児特有のいわゆるテレパシーみたいなものがあるのかもしれない。理由は何にしろ、戦力が増えるのは僥倖だ。
「何言ってるんだ、ユーリ。あっちからうるさいくらいの声がするだろ」
彼の指の先には───暗闇だけが広がっている。
「全く…緊張感のない奴らだ」
微苦笑しながらカラ松くんは歩を進めようとするので、咄嗟に腕を掴んで引き止める。
「駄目!」
「ユーリ、何──」

「じょおおおおぉぉおぉぉ!」

カラ松くんの言葉をかき消したのは、緊張感のないハタ坊の叫びだった。両手を振り回しながら廊下を曲がり、私たちに向かって走ってくる。
その背後には、出刃包丁を握るぬいぐるみ。全力疾走のハタ坊に負けず劣らずの速度で彼の背後を追う。
「一人で走れるか、ハニー?」
カラ松くんが彼らを見据えながら問うた。
「な、何とか」
「よし、じゃあ───」
カラ松くんは傍らを通り抜けようとしたハタ坊をさっと小脇に抱える。

「一転攻勢だ!」

それから方向転換して階段へと駆け出した。私も彼の後を追う。
「ハタ坊、風呂場は!?」
「あっちだじょ」
ぬいぐるみは米を研ぐような音を立てながら背後に迫る。
ハタ坊が指す方へ向かう道中、角を曲がった際に私たちの視界に入った敵は、もう数メートルのところまで接近していた。風呂場まで間に合わない。冷や汗が私のこめかみを伝ったところで、カラ松くんが片手でハタ坊を抱えたまま、窓際に置かれていた直径三十センチほどの古美術品のような花瓶を掴む。
「くたばれ!」
手の甲に血管を浮かせ、力の限りで叩きつける。けたたましい破壊音と共に割れた陶器が飛び散った。彼はその破片の飛来をハタ坊を盾にして防ぐ。扱いがなかなかひどい。
ぬいぐるみが怯んだ隙をついて、私たちは再び駆け出した。


「さっきすげー音したけど、あれカラ松?」
敵を巻いて一息ついた後、おそ松くんとトト子ちゃんとの合流を果たす。目的の大浴場はもう間近だ。
「ユーリちゃんとカラ松くんが怪我してなくて良かった」
そう言いながらトト子ちゃんは武器代わりのゴルフクラブを握りしめる。
「お前がハタ坊回収してくれて助かったわ。急に見失ったからマジ焦った」
「じょー」
「風呂場に急ぐぞ。ハタ坊が使ったコップが残ってるはずだ」
カラ松くんが顎で進行方向を示す。
「コップ…?」
「ひとりかくれんぼを終わらせるために必要なの」
おそ松くんは首を捻ったが、私の説明に納得したようだった。

それからの目的地までの僅かな距離も、誰かが肩に手を置いた感触がしただの、耳元で囁き声が聞こえるだのと撹乱は続いた。メンバーが増えたため安心感は小さくなかったし笑みも覗いたが、全員が目に見えて疲弊している。スマホの画面は四時半を回った時刻を表示しており、タイムリミットも近づいていた。
チョロ松くんたち数名は無事でいるだろうか。どこかに隠れていてくれたらいいのだけれど。
大浴場の脱衣所の扉は、武器を握るトト子ちゃんが開けた。電気が消えているので、私がスマホのライトを室内に向ける。
「あ、コップって…あれのこと?」
彼女が人差し指を向けたのは、脱衣場の一角の床に無造作に置かれたガラスコップだった。中身は透明で、まだ半分ほど残っている。本来使用すべきはなくなっている半分なのだが、希望を託すしかない。
「ハタ坊……は不安だな。ユーリちゃん、持ってて」
おそ松くんからコップを受け取る。
「これ、最後に必要なんだろ?よく分かんないから、その辺は任せる。俺らはあいつをふん縛ればいいんだよな」
白い歯を見せてニッと笑うおそ松くん。任せとけよと、力こぶを作るポーズをした。
「…奴を探そう」
カラ松くんはおそ松くんに対してムッとした表情を見せたが、長男は彼から視線を逸して気付かない素振りを貫く。トト子ちゃんは腰に手を当て、呆れ顔だった。


『見ぃつけた』

背筋に冷たいものが走り抜ける。思考が停止する。
「…その必要はなかったらしいな」
「飛んで火にいる夏の虫、ってな」
松野家長兄の表情は窺えなかったが、ひどく冷静な声音だった。
ハタ坊を狙ってぬいぐるみが高く飛ぶ。その体の長さほどはある鋭利な包丁を振りかぶって。
最初に動いたのは、トト子ちゃんだった。リーチの長いゴルフクラブでぬいぐるみの脳天を叩く。続いておそ松くんが地面に落ちたぬいぐるみの手元を蹴り上げ、凶器を遠ざける。最後にカラ松くんが、いつの間にか調達していたロープで縛り、自由を奪う。息もつかせぬ見事な連携プレーだ。機動力を失ったぬいぐるみはジタバタと足掻く。
「で、あとどうすんの?」
出刃包丁を拾い上げたおそ松くんが私に尋ねた。
「あ、えと…コップの塩水をかけて燃やすの。それで落ち着くはず」
私は力の入らない足取りでぬいぐるみに近づき、ハタ坊にコップを渡す。彼は残っていた中身を口に含んだ。

これでようやく終わると安堵した次の瞬間───ぬいぐるみの口元が大きく裂け、口を開けた。あるはずのない鋭い牙を剥き出しにし、束縛されたまま私の足元に飛びかかってくる。
体は動かなかった。眼前の事実を認識するのに時間を要してしまい、脳が回避の判断を下すのが間に合わない。
「ユーリちゃん!」
トト子ちゃんの声に我に返った頃には、もう遅い。
けれど刹那、カラ松くんの靴がぬいぐるみを踏みつけた。グシャ、と人形らしからぬ不穏な音が耳を抜ける。怪異を見下ろす彼の双眸に宿るのは、強い嫌悪。
「───ハタ坊」
今のうちにかたを付けろ、とカラ松くんは言う。ハタ坊が口の塩水をぬいぐるみに吹き付けると、ぬいぐるみは完全に動きを止めた。だらりと伸びた肢体は、ピクリともしない。
「ハタ坊の勝ちだじょ」




それから十分も経たないうちに、全員が一同に会した。パジャマには埃や汚れが目立ち、顔には疲労の色が濃い。それでも全員が五体満足での再会を喜んだ。
リビングに集った私たちのうち何名かは、倒れ込むようにソファに体を預けた。全員の筋肉を弛緩させて、口からは長い溜息を吐く。
「暖炉で燃やせば終わりだじょ」
火を灯した暖炉に、ぬいぐるみを放り投げる。憑依霊を失った人形は元来の愛くるしい表情だったが、腹部に詰め込まれた米の重みで布が広がり、薄汚れた姿になっていた。見る見るうちに布が炎に包まれ、やがて原型を留めなくなった。
「…やっと終わった」
一松くんが体を横にして目を閉じる。
「寝よう」
「今すぐ寝よう」
十四松くんとトド松くんも続き、ソファをベッド代わりにする。
「もうここでいい」
「おあつら向きのソファ最高」
おそ松くんとチョロ松くんも訪れる睡魔に身を任せる。ハタ坊は暖炉の傍らで寝落ち、トト子ちゃんは一人がけのソファでいつの間にか眠っており、私とカラ松くん以外の面々はあっという間に意識を手放した。
開けた窓の向こう側には、灰色から薄黄色の淡いグラデーションに彩られた空が広がり、夜が溶けて朝を迎えようとする世界が映る。悪夢の幕切れに相応しい、希望に満ちた景色だ。

「オレたちも寝るか?」
私の横で、カラ松くんも船を漕いでいる。なら、眠ってしまう前に伝えておかなければ。
「今回も守ってくれてありがとう、カラ松くん」
「へ?」
「また私が守られる形になっちゃったね」
どうしても腕力や体力では彼を上回ることができない。自分の身を守ることさえ不十分で、いつも助けられている。
しかし私の小さな自己嫌悪を、カラ松くんは一蹴する。

「ユーリがひとりかくれんぼの終わらせ方を伝えて指示を出してくれたから、タイムリミットに間に合った。
ユーリが司令塔でオレが実行役、それでWin-Winだっただろ?」

互いの強みを生かした戦略だった、と。そうか、そういう捉え方もあるのか。
「将来はオレとハニーで探偵業を営むというのもグッドアイデアなんじゃないか?」
「えっ、それはさすがに私の荷が重いよ」
「んー、ユーリが考えてオレが動く、最高のバディだと思うんだが…」
「カラ松くんにそう思ってもらえるのは嬉しいけどね」
私は苦笑する。
そんな私を見て、カラ松くんは顔を綻ばせた。

「だから、ユーリは何も気にしなくていい」

何もかも見透かしているようで、本当は深い意味なんてないのかもしれない。
けれど、彼は私の心に沈殿する淀みをあっさりと薙ぎ払う。彼は腕組みをして、背もたれに背中を預けた。
「……そう、かな」
私が少しだけ地面に視線を移して、再び顔を上げた時、カラ松くんは既に夢の世界の住人だった。規則正しい寝息を立て、軽く組んでいた腕は解けてソファの上に落ちる。
「カラ松くん」
声をかけても返事はない。


私は彼の右手に自分の左手を重ねて、目を閉じた。色々考えるべきことや、ハタ坊と六つ子マジ許さん貴様ら全員土下座して許しを請えこの野郎といった苛立ちも今更ふつふつと湧いたが、ひとまず後回しだ。とにかく今は眠い。

間もなく、朝日が昇る。夜が去り、平和な朝がやって来る。