「ユーリの手料理が食べたい」
用事があって電話をかけた昼過ぎ、電話口で躊躇いがちに告げられた言葉がそれだった。
カラ松くんにしては珍しく神妙な雰囲気だったので、まさかプロポーズや愛の告白だとかいうロマンチックな意味合いではと勘違いを──するわけがないのは当然だが、何かただならぬ事態が発生していることは明らかだった。
おばさんが昨日から風邪を引いて込んでいる。
彼は原因をそのように語った。
松代おばさんは松野家の家事一切を担う柱だ。その柱が突如崩れたのならば、カラ松くんの動揺はさもありなんと言える。要は、まともな料理が食べたいのだろう。
運の悪いことに、おじさんは数日前から出張、おばさんの財布には小銭しかなく外食もままならず、カードで貯金を下ろしに行こうにも暗証番号を教えてもらえないとのこと。
「ありもので何か作ったら?みんな料理できるんでしょ?」
「それが…久しぶりにブラザーたちがチャレンジしたら大惨事になった」
「だいさんじ…」
「トッティが作ったカルボナーラはダマになってパッサパサ、おそ松はキッチンドリンカーで誤ってビールを中華鍋に注いでチャーハンが激マズ」
漫画でよくある典型的料理下手キャラか。お前らは欠点の層ばかり厚くしてどうする。
「昨日の晩飯に至っては、カップラーメンとおにぎりだったんだぞ」
安牌。賢い選択だ。
「間の悪いことに、チビ太も新しい食材探しだとかで最近見かけないんだ…」
チビ太さんナイス逃亡。私はスマホを耳に当てながら、空いている片手の親指を立てた。
「それで、その…もし迷惑でないなら、晩飯を作ってもらえないだろうか?」
いつになく低姿勢だ。強気な眉を下げている表情が目に浮かぶ。
「ユーリの手料理が食べたいんだ」
当初は当然断ろうとした。二十歳超えた成人男性が六人もいて、冷蔵庫に多かれ少なかれ食材はあるのだから、煮るなり焼くなり何とでもできる。そして少ないながら、彼らには料理経験もあるのだ。
けれど──
「ユーリの作る料理は何だって旨いし、たまに振る舞ってもらえる時はすごく嬉しいし、無性に食べたくなってしまって…無理を言っているのは分かってるんだが…」
「…仕方ないなぁ」
推しの可愛いおねだりにノーといえる強靭な心は私にはない。
無理難題なら容赦なく突っぱねることができても、ご飯作ってくらいならオッケーしちゃうよね。彼らは料理を食べられて私は推しを餌付けしつつ愛でられる、こんな完璧なWin-Winがかつてあっただろうか。
「ユーリ…っ」
「でも今日限りの一回だけね。次回からは自分たちで何とかすること」
「もちろんだ!恩に着るぜハニー!」
電話を終えた後、私はすぐさまトド松くんにメッセージを送った。それからペンを持ち、思案する。今夜のメニューを考えるためだ。
日が暮れる前に、私は松野家を訪れた。
カラ松くんは玄関口まで出てきて歓迎してくれ、顔を合わせるなり私が下げていた紙袋を持ってくれる。しかしその重量に驚いたのだろう、彼は受け取った直後僅かに目を瞠った。
「ハニー、これは何が入ってるんだ?」
「鍋。家にある材料で筑前煮作ってきたの。コンロ2つだと作業スピードに限界あるし、みんな早くご飯食べたいでしょ?」
少々持ち出しが発生するが、手土産代わりだ。まぁそんなことより、推しのツナギ姿って何でこうもエロいんだろうか。胸元の開きが深いVネックと、へそ付近まで下ろしたジッパー、露出は少なめにも関わらず充満する色気。ぶっちゃけムラッとした。
そこに加えて、早くご飯を食べさせてあげようという私の気遣いに、ふにゃりと相好を崩してくるから、私の性欲は早くもマックスになる。これ何ていう拷問?
他の面々はというと、空きっ腹を抱えて居間でぐったりとしており、死屍累々の様相を呈していた。
「あ、ユーリちゃん、いらっしゃーい」
「来てくれてほんっと助かるー。昨日から俺らまともな物食べてないんだよー」
「手伝いはカラ松がやるから、申し訳ないけど頼むね」
「持つべきものは友達だよね。ユーリちゃんマジ女神」
「お腹すいたー!」
好き勝手言ってくれる。おばさんの日々の苦労が偲ばれた。
おばさんにひとまず挨拶をと思ったが、様子を見に行ったカラ松くん曰く寝ているとのことだったので、先に料理を始めることにする。
松野家のキッチンは整然とし、程よく手入れがされている。私は鞄から取り出したエプロンを装着して、よし、と気合いを入れた。
冷蔵庫内の食材と調味料は、トド松くんから一通り写真を送ってもらって把握している。その他必要な物は自宅から持ってきたから、不足はない。滞りなく事が運ぶ手はずである。
本日のメニューは、鶏もも肉のから揚げと野菜の天ぷら、味噌汁とほうれん草の和え物、自宅で作ってきた筑前煮だ。揚げ物と同時進行で汁物と小鉢を順に作るイメージトレーニングも万全。腕を捲くって、私はさっそく作業に取り掛かった。
料理を始めて半時間が経った頃だろうか、障子を開けてカラ松くんが顔を覗かせた。タオルで手を拭いて振り返れば、カブスカウトのように二本指で敬礼してウインクする姿が目に入る。
「フッ、キッチンにキュートなフェアリーがいると思ったら、ユーリの後ろ姿だったか」
「揚げ物がある程度できたらご飯にするからね」
コンロの上では、大きな中華鍋の中で揚げ物がじゅうじゅうと香ばしい音を立てている。手順の少ない和え物と味噌汁はほぼ完成していて、進捗は予定通りである。
「ユーリがエプロンをつけているのは何度か見ているが、エプロン姿がこうも様になるレディもなかなかいないぞ」
「モチベーション上げるの上手いねぇ。期待に応えられるよう頑張るよ」
「おだててるわけじゃない。本当に似合うから言ってるんだ」
結果的に私のやる気を底上げしているのだが、本人は無自覚らしい。それどころか、世辞だと判じられるのは不本意とばかりに口を尖らせた。
しかし彼の目がある物に留まってからは、曲げたヘソもどこへやら、双眸が輝きを宿す。
「…から揚げか」
網を敷いたバットに盛られた黄金色の鶏もも肉である。肉好きを公言するだけあって、相変わらず肉料理には目がない。
「味見する?」
「えっ、いいのか!?する!」
カラ松くんの顔がぱぁっと明るくなる。尻尾があれば間違いなく全力で振っていただろう。
私は菜箸で掴んだできたてのから揚げに数回息を吹きかけてから、下に手を添えて彼の口へと運ぶ。
「はい、あーん」
彼は満面の笑みでから揚げを頬張って、大きく首を縦に振った。
「旨い!やっぱりハニーの料理は何食べても旨いな」
「でしょ?下味もつけてて割と自信作なんだよ、これ。褒めてくれたご褒美に、特別にもう一個あげちゃおう」
二個目のから揚げを差し出せば、カラ松くんは一層満悦の表情を浮かべた。
「ワオワオワオ!さすがだぜユーリ!」
「その代わり、配膳手伝ってね」
「お安い御用だ」
それから彼は視線をダイニングテーブルへと向けて、ん、と声を上げた。
「ユーリ、あれは…」
カラ松くんが目に留めたのは、トレイに載った鍋敷きと一人用の土鍋だ。傍らにはガラスコップとレンゲが添えられている。
「あ、それ?おばさんの分のお粥」
「マミーの?」
「まだ食欲ないかもしれないけど、お粥なら食べやすいかなと思って。風邪を治すためには体力もつけないとね」
聞いた限りでは、昨日はゼリーとスポーツドリンクしか摂っていないらしい。
粥は消化が早く内臓に負担をかけない上に、体を温める効果もある。余計な世話かもしれないが、適量を火にかけるだけなので大した手間でもない。
「あー…そうか、そうだよな。腹が空かないと言っていたが、それを鵜呑みにするのも良くないな」
恥じ入るように、カラ松くんは首に手を当てた。
「今回は色々不運も重なったからね。でも電話でも言ったけど、次は自分たちで何とかするんだよ。アドバイスくらいならするから」
「ああ、そうする──でも」
目線を落として、言葉を詰まらせた。逡巡するような間があって、やがて顔には穏やかな笑みが浮かぶ。
「思いがけずユーリに会えて、ユーリの手料理が食べられて幸せだと思ってしまうのは…マミーに悪いな」
ご両親の寝室に続く襖を軽くノックする。
「はい」
「おばさん、有栖川です」
「どうぞ」
襖を一枚隔てているせいか、声にいつもの張りが感じられなかった。
「お休みのところすみません」
トレイ片手に襖を開ける。カーテンが閉めきられた部屋に煌々と蛍光灯の明かりが灯っていた。おばさんは布団から上半身を起こして、私に微笑む。パジャマ姿で化粧っ気もないせいか、顔色もあまり良くない。
「いいのよ。私こそこんな格好で恥ずかしいわ。
っていうか、せっかくの休日なのにニートたちの晩ご飯作らせちゃって、ごめんなさいね」
「構いません。
おばさん、何か食べられそうですか?お粥作ったので、もし良かったら」
私は畳に膝をついて、トレイごと彼女の枕元に寄せる。おばさんは、まぁ、と感嘆の声を洩らした。
「ニートたちには期待できない気遣いも難なくこなしてしまう…っ、ユーリちゃん、恐ろしい子!」
ガラスの仮面か。
「でも嬉しいわ、熱が下がってきてお腹が空いたところだったの。
ユーリちゃんにこうして接してもらってると…私に娘がいたらこんな感じなのかしらって思っちゃうわね」
うちは何しろ同じ顔の野郎ばかり六人だから、とおばさんは長い溜息をついた。
「ユーリちゃんに晩ご飯作ってもらうの、カラ松が頼んだのよね?」
「そうです。あ、カラ松くんを悪く思わないでください。私がしたいと思ってやったことで──」
「手料理を食べさせる仲なの?」
「はい?」
何か言い出したぞ。
「熨斗つけてカラ松あげるから、松野の名字もついでに貰ってくれない?」
私は笑顔を顔に貼り付けたまま固まった。外堀が自ら埋まってくる珍しいパターン発生。
「あら、ごめんなさい私ったら。
そうよね、今どき男側の名字を名乗る必要ないわね。婿養子でもいいんだけど、どう?」
そういう問題じゃない。
「あの…」
「それが無理なら、簡単なお仕事頼まれてくれないかしら?婚姻届に名前書いて判子押すだけなんだけど」
グイグイ来おる。なのに目は笑ってない。しかも彼女の物言いは、どことなくおそ松くんの強引さを彷彿とさせる。
ここは事実を説明しておかねばなるまい。私は両の手のひらを前に出して彼女を制した。
「私たち友達で、そういう関係じゃないですから」
あくまでも友人関係であることを強調して弁明しても、おばさんは落胆する様子もない。それどころか、朗らかに笑う始末だ。
「やっぱり?ヘタレで申し訳ないわ」
私の反論は想定内だったらしい。さすがは彼の母親というべきか。
「まぁ、そういうとこも可愛いんですけどね」
「あれで?」
「はい、あれでどうしてなかなか」
「痛いんじゃなくて?」
「痛いと可愛いは、カラ松くんの場合紙一重なんですよ」
私にとっては、だけれど。
「むしろ息子さんの貞操を狙っていて、こちらが申し訳ないくらいです」
私たちの関係性と私自身の胸の内を、母親である彼女に明かすのはこれが初めてだ。今までは挨拶に一言二言加えるか、六つ子の誰かと共にいる状況での他愛ないやり取りだけだった。
友人の母親と二人きりで込み入った話をするのもおかしな話だし、適切な距離感を計りかねていたところに今回の依頼である。
「いいのよ、気にしないで。残しておいても価値にはならないものだし」
息子たちの将来を悲観しているわけではなさそうだが、行く末は少なからず気を揉んでいるのかもしれない。
「そうですか?なら引き続き遠慮なく」
「双方にメリットのあるいい取り引きができたわね」
私たちはどちらともなく頬を筋肉を緩めて、ふふ、と笑い合った。
夫婦の寝室を出て階段を下りた先で、カラ松くんが私を待っていた。
無言で手招きされて側に寄れば、彼が一段目に腰を掛けるのでそれに倣う。狭い階段に横並びで座ると、膝が触れ合うほどに距離は近くなった。
「ご飯は食べ終わったの?」
「ああ、ブラザーたちのがっつきは凄まじかったぞ。一瞬で皿が空になったし、から揚げに関しては奪い合いになった」
そう言うカラ松くんも奮闘したらしい。目尻に青あざができているし、腕には引っかかれたような真新しい傷がある。
「やはりユーリの料理スキルは卓越しているな、何を作っても最高に旨いのはジーニアスだ」
カラ松くんは悩ましげに額に手を当てる。いいぞ、もっと褒めろ。
「もうすぐ帰るだろう?家まで送っていく」
「うん、好意に甘えちゃおうかな」
明日は仕事だから早めに暇を告げなければ。
六つ子たちに食べさせることしか念頭になったから、自分の取り分を失念していたことに今更気付く。帰り際にコンビニで適当に買おう。
「今日は、その…助かった。サンキュー、ハニー」
照れくさそうなその笑み一つで、私の疲労感は瞬く間に消えてしまいそうになる。
「どういたしまして。おばさん、お粥食べられそうだって。冗談言う元気も出てきたみたい」
「そうか…良かった。ユーリが来るとマミーはいつも楽しそうだ」
ニートを一人厄介払いできる可能性を秘めた相手だからだろう。
「男所帯だから、娘がいたらこんな感じなんだろうなって言ってたよ」
「む、娘…っ!?」
素っ頓狂な声が上がる。
「は、ハニーは…どう思った?」
「条件次第では悪くない話かも、ってとこかな」
「条件とは」
やたら気にしてくるやん。
「提示してもらえたら検討する」
「曖昧すぎないか、それ。せめてこう、最低条件くらいは…」
「私にどれだけの価値を感じてもらえてるかを知りたいの」
「価値、か…」
ふむ、とカラ松くんは腕を組む。
「小国の国家予算くらいは資金が必要じゃないか?」
目がマジだ。
「そんなハニーを電話一本で呼びつけてしまうオレは、やはり生まれながらにしてのギルドガイ」
己に陶酔するポーズが決まったところで、カラ松くんは改めて眉根を寄せて唸った。
「ごめんごめん、冗談。そんな悩まないで」
悩ませるつもりはなかったのだ。有耶無耶のまま切り上げようと私が声を発したら、あ、とカラ松くんは顔を上げた。
「いや、待てよ。だとしたら合点がいく」
「ん?」
「ユーリに会ったり、声を聞いたりするだけで嬉しいと感じるのは、そもそもオレにとってはユーリの価値が高すぎるからなんだろう」
どこまでも真剣な眼差しだった。
歯の浮くような台詞なのに、それが本心で語られていると分かるから、受け流すことができない。どう返事をすればいいかさえ、見当がつかなくなる。
「あいつらの目を盗んで二人きりで話をしている今この瞬間なんて特に、だ」
どこか妖艶に微笑まれて。
「え…尊い」
思わず口走っていた。何これ、何この人。尊さとエロスを兼ね備えた完全体。鎖骨をがっつり覗かせた姿で私に接近してくるとは、これが無自覚誘い受けってヤツか。
「カラ松くん…」
「どうした、ハニー?」
「このシチュエーションの背徳感とカラ松くんの際どい露出で、私の性欲がヤバい」
ジャッと音を立てて勢いよくファスナーが上げられた。
「こらこら、上げるな」
「む、無茶言うなっ」
カラ松くんは後ずさり、胸元で腕をクロスさせて防御の体勢を取る。こういう時の瞬発力は天下一品だ。
「何もしないよ」
「オレが抵抗しなかったらチャック下ろしてくるだろ!」
よくお分かりで。
「目のやり場に困る格好しておいて何を今さら」
拒否の姿勢を示してはいるが、拒絶には到底至らない弱々しいものだ。私は彼の脱走を防ぐために壁に片手をついた。いわゆる壁ドンと表現される行為である。
反応を窺いながら顔を近づけると、カラ松くんは一層体を縮こまらせていく。
「わあああぁああぁぁっ、な、何を…っ!?」
「ちょっとカラ松くん、声が──」
叫び声は狭い階段に反響する。
階段のすぐ近くには、食事を終えて寛ぐ六つ子たちがいるのだ。私と彼らを隔てるものは防音機能など皆無に等しい襖が一枚あるだけで。
「何なに、カラ松何の叫び?」
案の定、おそ松くんたちが怪訝そうな顔で廊下に飛び出してくる。
彼らの目に飛び込んでくるのは、両手で己の身を守る半泣きの次男と、壁に手をついて迫る私の姿。状況は語るまでもなく歴然だ。
「チッ」
「え、何で僕らユーリちゃんに舌打ちされたの」
「ユーリちゃん、カラ松に手出すならせめて外でやって」
ビール片手のおそ松くんが、手首のスナップを効かせて興味なさげに振り払う仕草をする。
「ブラザー!?」
珍しく長男の許可が下りたと私も驚いていたら、二階の襖が開く音がした。
「そうよカラ松、女の子に見せろと言われているうちが花よ。減るもんじゃなし」
おばさんが仁王立ちで私たちを見下ろす。今まさに襲われようとしている息子に投げる台詞ではないが、味方につけば心強い相手であることを痛感させられる。松代、さすがは松野家の実質の支配者だけのことはある。
「マミーまで…っ」
「エイトシャットアウトだね、カラ松くん」
「人の台詞を取るんじゃない!」
その後はというと、私とカラ松くんによるお決まりの攻防があって、私が帰るまでカラ松くんがツナギのチャックを上げっぱなしだったのは言うまでもない。