夏の終わりだというのにうだるような熱気を孕んだ、ある昼間の出来事だった。
眩い太陽の日差しが容赦なく照りつけアスファルトを焼く炎天下、私とカラ松くんは商業施設が立ち並ぶ街中にいた。
ショッピングモールでの買い物を済ませた後、外のキッチンカーで買った冷たいドリンクで喉を潤す。透明なプラスチックのコップからは水滴が垂れて、指先を濡らした。
「なぁハニー、暑すぎるとは思わないか?
来週はセプテンバーだぞ、立秋だってとうに過ぎてる」
「暑いねぇ」
自動ドアをくぐって外へ出た途端、汗が吹き出る真夏日だ。無骨な手で不快そうに汗を拭う推しの色気はたまらん。二の腕とデコルテの露出本当にごちそうさまです。五万サマー。
「フッ、このままでは汗も滴るいい男になってしまうな。サマーめ、世のカラ松ガールズたちをこれ以上魅了してどうしようというんだ…っ」
カラ松くんは悩ましげに前髪を掻き上げる。
夏の推しのエロさは眼福通り越して無課金なことに戦慄するレベルなのは事実だが、如何せん言い方が腹立つ。ここは安定のスルーかと思案したところで、不意にカラ松くんが眉間に皺を寄せた。
「…痒い」
右手を自身のうなじに当てながら、忌々しそうな声。
「どうしたの?蚊にでも刺された?」
「首元がムズムズすると思ったら、案の定だ。ユーリを待っている時には腕を刺されたから、今日だけでもう二度目だぞ」
言いながらカラ松くんは二の腕を私に向けた。肩を覆う袖のすぐ下に、薄く赤い斑点がある。
今年の夏は、クーラーなしの生活は考えられないほどに厳しい猛暑日が続いた。そのせいか、この時期定番害虫である蚊との遭遇頻度が極端に減っていたのだ。彼らが活発に活動する気温は26度から32度とも言われており、35度を超えると活動停止する説も聞く。
立秋を過ぎ、暑さが多少──本当に多少だが──和らいできたここ数日、再び彼らを見かけるようになった気がするとは思っていた。その矢先の被害、である。
いずれにせよ、推しの血を吸う蚊が妬ましい。隠密の如く密やかに近づき、標的に悟られることなく吸血する。最高じゃないか。
「首、どこ刺されたの?」
「この辺だと思うんだが」
言いながらカラ松くんは、首を傾けて襟元を広げる。
覗き込むと、彼が示す箇所が赤い。しかも刺されたばかりらしく、ぷっくりと盛り上がっている。そのエロスたるや、視覚の暴力。
「…あれ、もしかしてこのアングルって実は相当エッチなのでは?」
うっかり本音が口を突いて出た。これは痒いだろうね、とか適当な建前を語るつものだったのに。
「険しい顔して言う台詞かっ」
当然だが、すぐさま失言を咎められる。しかし頬を赤くしながらなので、攻撃力は皆無に等しい。
「今なら吸血鬼の気持ちが分かる」
「会ったこともない他種族の気持ちを慮るな」
怒られた。
「カラ松くん、血液型は?」
「A型だ」
「ということは、特別刺されやすいタイプってわけでもないね」
一般的にはO型が狙われやすいらしい。
「そういうの関係あるのか?というか、ただでさえ暑いのに、さらに痒いのは不快だ」
掻きむしりたくなる衝動を抑えてなのか、カラ松くんは首筋に手を当てた。気怠げに溜息をつく。
「じゃあさ、これからは特に予定ないし、うちでダラダラしよっか?」
私の家に着くなり、カラ松くんはリビングの姿見で家に刺された箇所を確認する。時間の経過と共に痒みは薄れたようだが、焼けた肌に残る赤みが気になるらしい。
「フッ、数ある人間の中で、他の誰でもなくイケてるオレの血を吸いたい、と…そういうことか」
何というポジティヴ思考。いっそ見習いたい。
そんなことを考えながら冷えた麦茶をテーブルに置いたところで、不意に指先に違和感を覚えた。
「嫌だなぁ、私も刺されてたみたい」
「え?」
右手の人差し指第二関節が腫れている。可動域が減り、知覚した途端じわりと熱を持つ。痒みと僅かな痛みが溶け合った強い感覚が指先にまで広がって、何とも言い難い不快感が私を襲う。
「虫刺されの薬あったかなぁ」
「どれ、見せてみろ」
差し出すより前に私の手を取って、彼は眉根を寄せた。
「…ユーリの体を傷つけたゲス野郎がいるんだな」
「表現気をつけて」
「オレの血だけじゃ飽き足らず…っ」
「同じ蚊とは限らないよ、冷静に」
「指は特に痒いよな。掻いたら駄目だぞ、ユーリの綺麗な指に跡が残る」
親か。
「刺された場所によって腫れ方が痒さが違うの、止めてほしいよね」
救急箱に常備していた虫刺されの薬を塗りながら、私は溜息を吐く。指先からツンとした刺激臭が広がった。
「体質や年齢によっても痒みの出方は違うらしいな」
「確かにそうかも。刺された患部が盛り上がる人もいれば、注射針の跡みたいなのが残るだけって人もいるしね」
「虫刺されの痒みは、アレルギー反応だと聞いたことがある。そうだとすると、アレルギー体質であればあるほど強い痒みが出るのかもな」
言いながらカラ松くんは無意識に腕の跡を掻こうとして、慌ててグラスへと手を戻した。痒みを軽減したいがためについつい患部に爪を立てがちだが、掻き壊してしまうと患部に細菌が感染して悪化するだけだ。
「ユーリは跡が目立つから、虫除けは徹底にした方がいい。まだしばらくは奴らの季節だ」
彼の忠告には、素直に頷いた。
虫刺されの跡は存外目立つ。加えて年を重ねるにつれ、痕跡の消滅に日数がかかるようにもなってきたから、刺されないようにする対策は必須なのである。
「見える位置に跡があると不格好なんだよね」
絆創膏で隠す手もあるが、あらぬ誤解を招く事態にも繋がりかねない。悩ましいところだ。
「ああ…キスマークでもつけられたんじゃないか、ってからかわれるヤツか?」
「それは隠したら、の場合ね。見える分には勘違いされないよ。だってほら、キスマークと虫刺されの跡って全然違うでしょ」
手首のスナップを効かせてひらひらと振り払う仕草で、私は笑う。カラ松くんからも同じ反応が返ってきて、自然と話題が別の事柄に移り変わる──はずだった。
「なるほど、さすがはハニーだ」
感慨深く首を縦に振るカラ松くんに対し、私の五感が警鐘を鳴らす。
「まるでキスマークをつけたことがあるような言い方だな?」
横顔のまま、目線だけが私へ寄越された。口角の上がった唇は笑みの形を作ってはいるが、双眸はひどく冷たい。抑揚のない、静かな声。
「それとも、つけられた方か?」
地雷踏み抜いた。
冷笑と呼ぶに相応しい表情を顔に貼り付け、カラ松くんはゆっくりと私に顔を向ける。私は反射的に視線を逸らした。
「なぁ…ユーリ」
その問いに正しく答えたところで、沸騰した感情は綺麗サッパリなくなると言えるのか。むしろ火に油を注ぐだけだろう。ならば私の選択は、沈黙の一択だ。
しかしいくら無言を貫いたところで、カラ松くんが納得するはずもない。返事をしない理由を都合悪く解釈し、怒りを募らせていくばかりだ。
ここは多少の遺恨を残す覚悟で喧嘩するかと腹を決めたところで、突如忌々しい羽音が耳を掠めて私は目を剥いた。
「うわっ、ヤだ、蚊がいる!」
生理的な不快感に首を思いきり振れば、カラ松くんも驚いて体を強張らせた。
素早く黒目を動かして、標的の位置を見定める。僅かな音と視界に映る小さな黒点を見逃さない。
「カラ松くんっ、そっち!右!」
「マジか!?」
彼は次の瞬間大きく一歩足を下げて、腰を落とした。俯瞰して見た室内の先で認識した標的を、両手で叩く。一度目の攻撃は回避された。間髪入れずに放った追撃は、体勢を崩して失敗する。
敵は私たちの敵意を知ってか知らずか、ふらふらと不規則に動き回る。
「くそっ、ちょこまかと!」
カラ松くんが青筋を立てて声を荒げた。怒りに我を忘れる推しも最高に推せる。スマホが手元にないのが心底悔やまれた。
「こうなったら奥の手だッ」
カラ松くんは両手を左右から上下へと移動し、構えを変えた。そして続く三発目、胸元に上げた手を勢いよく下ろして、ついに標的を仕留めることに成功する。
「やった!」
私は歓声をあげてガッツポーズ。
けれど喜びは長くは続かなかった。カラ松くんが広げた両手には、鮮血がべったりと広がっていたからだ。だって、それはつまり──
何気なく触れた自分の腕に、いつもとは何か違う妙な感覚を覚える。まさかと思い、恐る恐る目を向けると、肘から下の前腕に親指大の赤い腫れ。
「災難だな、ハニー」
手のひらの血をティッシュで拭いながら、カラ松くんは苦笑する。
「気付かなかった…」
「虫除けを徹底的にすべきだと話をした側からこれか」
「帰ってきた時に玄関から入ってきたんだろうね」
痒みを認識する前に処置しようと、テーブルに置きっぱなしにしていた薬に手を伸ばした───しかし、その手は容易く奪われる。
「ノンノン、キスマークの件がまだ終わってない」
チッ、誤魔化せなかったか。
手首を緩く掴まれたまま、いつの間にか壁際に追い詰められる。力ではどう足掻いても彼には敵わない。どうやらキスマークの話は、地雷中の地雷、ド本命だったらしい。
「えー…」
言っても言わなくても結論は目に見えているのだから、せめてここは僅差でマシな言わない選択を尊重してくれてもいいではないかと、私は内心腹立たしい気持ちになる。
「チェックメイトだ、ユーリ」
もう後はない、と。
片方の膝を立て、彼は私を見下ろす。
「あ、蚊がもう一匹」
「ええッ!?どこだっ、どこ!?」
カラ松くんは素っ頓狂な声を上げて、千切れるほどに首を左右に振った。そこに隙が生じる。
火事場の馬鹿力ならぬ咄嗟の瞬発力を発揮し、掴まれた腕ごと引き寄せて、あっという間にカラ松くんと位置を入れ替わった。フローリングに尻をついて怯える彼と、立ち塞がり追い詰める私という構図が出来上がる。
起死回生、形勢逆転である。
「……へ?」
「さて、チェックメイトはどっちかな?」
明かりを背にした私の影が、カラ松くんの顔に重なる。
彼が望むのは、私の口から真実が語られることだ。
「私がキスマークをつけたことがあるか、それともつけられたか、それが気になるんだよね?」
「うっ…そう、だ」
カラ松くんは僅かな逡巡を見せた。いざ真実を眼前にして怖気づいたような、そんな顔だ。
おのれの浅はかな嫉妬のせいで、こちとら必要のない策を巡らす羽目になったんじゃ、濃厚なベロチューかまして腰砕けにしたろかなどと、内なる般若の私が一瞬顔を覗かせたが、深呼吸で心を落ち着かせる。
そんなことをすればセクハラ通り越して事案だ。ここは穏便に済ませなければ。
「この蚊に刺された跡をよーく見て」
腕を上げ、先ほど刺されたばかりの箇所をカラ松くんに突きつける。
「…ユーリ、なに、を───ッ」
最後まで言い終わらぬうちに、カラ松くんはぴくりと眉をひそめた。
私がカラ松くんの手首を引いて、彼の前腕に口づけたからだ。
私の唇が腕に触れるのを見せつけるような角度で、手首に近い皮膚の薄い部分を力強く吸い上げる。カラ松くんは呆然としたまま動かない。
触れていたのは、数秒だった。口を離すと、腕には鬱血痕が色濃く残った。細長く歪な形で、痣に近い印象を受けるもの。
丸い突起や、鮮やかな赤みが目立つ虫刺されとは、大きく違う。
「キスマークはつけたことあるよ──カラ松くんに、ね」
ニヤリと笑えば、カラ松くんはようやく意識を取り戻したように瞠目した。
「な…っ!?」
「これで満足?」
「き、詭弁じゃないか、ユーリっ!」
荒げた声は裏返っていて、よほど動揺したとみえる。顔色はタコさながらだ。チッチッと私は彼の前で人差し指を振った。
「とーんでもない。これが私の答え。カラ松くんが聞きたかった嘘偽りない真実だよ」
不純物や混ざりもののない、純度百%の真実。
これでどうだ、と私は胸を張った。
「おそ松くんたちに何か言われたら、蚊に刺されたとでも言っておいてよ」
次男含む童貞村の連中には、どうせ見分けなんかつくわけないのだ。そもそも、キスマークなのではと揶揄される心配すらないかもしれない。
しばし呆然と、腕につけられたキスマークを見つめていたカラ松くんだったが、やがて唇を尖らせた。
「何だかうまく言いくるめられたような気が…」
「これじゃ足りない?もっと強烈で蕩けるようなのしてほしいのかな?喜んで」
フローリングの上で立てた彼の両膝を割って、その間に体をねじ込む。腿の下に手を差し込めば、傍目には行為に及ぶ寸前とも受け取れる際どい格好になる。
「わあああぁあぁあぁっ、ユーリっ、ち、違う!ちがぁう!」
「私は正直に答えたのに納得しないなら、これはもう体に教えるしかないよね」
「手段が卑猥!」
手のひらで顎のラインをなぞるように触れると、カラ松くんは顎を引いて嫌がるポーズは取るのだが、恨めしげに私を睨む目つきは蠱惑的にも感じられた。拒否の感情の中には、間違いなく相反する意思も含まれている。
私が気付いているとは、彼自身露にも思っていないのだろうが。
その後、カラ松くんは事あるごとに自分の腕を一瞥するものだから、その都度私は何とも言えない居たたまれなさに苦しむこととなった。黒歴史増産おめでとう私。
その上、初めての情事に及ぶ前のような恥じらいを顔に浮かべられては、もういっそここで抱いて既成事実作った方が早くない?おあつらえ向きに密室だ、などという思惑さえ頭をもたげる。
「そんなに気になるなら、絆創膏でも貼る?」
「何で?貼る必要ないだろ」
「じゃあそんなに何回も見ないでよ。こっちが恥ずかしくなる」
私の台詞に、カラ松くんは唖然とした。
「えっ…そ、そんなに何度も見てたか?」
「見まくってた」
自覚がなかったのか。指摘されてようやく自覚した彼は、今度こそ顔全体を朱に染め上げて言葉を失う。可愛い以外の形容が見当たらない。可愛い推しは存在が罪深い。
カッとなってやった。
後悔は───さて、どうだろう。