短編:マッサージにありがちな話

「ユーリ、片側空けてくれ」

夏は中盤を迎え、窓の外では蝉の大合唱が絶え間なく響く騒々しい昼間のこと。松野家二階の六つ子の部屋で、ユーリが二人がけのソファに寝そべっていた。
「えあ?」
読み耽っていた漫画から顔を上げて、ユーリは間の抜けた声を発する。
「あ、ここ?いいよ」
肘掛けにまで伸ばしていた足を折り、一人分のスペースを空ける。カラ松は雑誌を手に、ユーリの隣に腰を下ろした。
「座ってもいいんだけど、足置いてもいい?」
「足?」
「足伸ばしたいから、カラ松くんの膝の上に足置いてもいいかなってお伺い」
ああ、とカラ松は合点がいく。
「ユーリがいいなら、オレは構わないが」
「ありがと」
単行本の上から愛嬌のある双眸を覗かせて、にこりと笑う。その笑顔のためなら、自分にできることは何だってしたいと思う、罪作りな表情だ。
承諾後、ユーリは躊躇なくカラ松の腿の上に両足を投げ出した。涼しげなハーフパンツから伸びる足は何も纏っておらず、いわゆる生足だ。

「…オレが相手とはいえ、無防備すぎないか?」
否、カラ松が相手だというのに警戒心が欠片もないと明記した方がいいか。いずれにせよ、看過できない。
「足高くするとむくみ解消になるらしいね」
「噛み合ってないぞ」
「ちょうどいい高さだよ」
何の話だ。
「いや、まぁ…ハニーがいいなら、いいんだが」
足置き場にされること自体に不快感はないから、止めろと言うつもりは毛頭ない。ならば、ただ難癖をつけたいだけなのではという不本意な結果に辿り着く。
釈然としない気持ちを抱えながら雑誌を開こうとして、ふとユーリに顔を向けた。
「というか、むくんでるのか?」
「んー、どうだろう。むくんでるかは分かんないけど、ここ何日か立ち仕事が多くて足がダルいのは事実なんだよね」
だから今日は外出ではなく自宅でのんびりしたいと言ったのか。
パチンコで勝利を収め、久しぶりに軍資金が潤沢にあるとカラ松が告げたにも関わらず、ユーリはどちらかの自宅で過ごす案を推した。

「マッサージするか?」

言ってから、カラ松は慌てて両手を振った。
「あ、別に、その…いやらしい意味ではなく、外出を渋るくらい疲れてるならと思ってだな…ブラザーたちにしたこともあるし」
弁明するほど言い訳がましくなる。
しかしユーリはぱぁっと顔を綻ばせて、首を縦に振った。
「え、いいの?じゃあお願い!」




片手で足首を固定し、もう片手でつま先を掴んでゆっくりと全体を回す。
指の長さと爪の形が自分のそれとはまるで違って、軽々しく足先に触れるのは不思議な感覚だった。付き合いの長い兄弟の足ですら、これほどまじまじと眺めたことはないだろう。
「あー、いい感じ。その調子でやって」
ユーリは高らかに言う。
「まだ準備運動みたいなものだから当然だろ。これで痛かったら問題だ」
親指と人差し指を使って、足指を一本ずつ丁寧に伸ばしていく。少し上に反らすようにするのがコツだ。ユーリの反応を見て、力を加減する。

足の裏には、体の不調を確認するためのツボが幾つか存在する。その内の、定番と言われる箇所を順番に指で押していった。
「いったー!」
土踏まずを押した瞬間、ユーリが叫び声を上げる。
「え、ま、ちょ、痛い痛い痛い痛い、痛いからッ!
「ここが痛いのか?」
位置を確認するという建前で、本音はユーリが痛がる様子が面白くて、カラ松は一層力を込める。
「いででででででっ!」
「土踏まずを痛がるのは、消化器が弱ってる証拠らしい。
胃もたれとかあるんじゃないか?ちゃんと栄養あるもの食べてるか?」
漫画を開いたまま胸に置き、ユーリは不服そうに天を仰いだ。
「…耳が痛い台詞」
「不精はよくないぞ、ハニー」

人差し指と中指の付け根も多少痛みを感じるようだったが、耐えられないほどではないらしく、眉間に皺を寄せるに留まる。
「い、痛…っ、でも、気持ちいいかも…もうちょっと、ん、強くして」
合間合間で痛さを堪えるために呼吸を止め、緩急をつけながら弱々しい声で告げられる。表情も相まって、ぶっちゃけエロい
「つ、強くしていいのか?」
「…うん、いいよ」
唇から漏れるような湿り気を帯びた声。急激に体の熱が上がって、カラ松の口調は自然と上擦ったものになる。
「あだだだだ!」
だから力加減には失敗もする。
「ちょうどいいラインってもんがあるでしょーが!」
そして怒られた。


ユーリのスマホを借りて、画面に表示されるリンパマッサージとかいうのを試してみる。ふくらはぎ辺りは気持ちいいらしい。少々力を入れても、ユーリは平然としていた。ときどきツボを指圧すると、ぴくりと足が反応する。
「ん…そこ、気持ちいい…」
漫画を読みながら恍惚とするユーリ。蕩けるような、普段絶対にしない表情だ。膝を立てるように足を動かす都度ハーフパンツが僅かに捲れ上がり、白い腿が覗く。
「カラ松くん…っ、もう少し、ゆっくり…」
声だけ聞けば立派に情事の最中のそれだ。キツイ。
「わざとか?」
「え、何が?」
「喘がないでくれ」
「喘いでないけど」
「無自覚か。そろそろキツイんだが、マジで」
「あ、手疲れた?ごめんごめん、カラ松くんの気持ちよくって
「言葉攻めも勘弁してくれないか…」
ため息混じりに片手で顔を押さえたら、ユーリはようやくカラ松の意図するところを理解したらしく、肩を揺らして苦笑した。
「防御力に難ありだねぇ」

マッサージを施していた手を離し、足の間に体を割り込ませる。
片側の腿に手を差し込んで持ち上げながら、自身の上体をユーリと重なるように近づけた。ちょっとした仕返しだ。いつも余裕ぶってからかってくる、彼女への。
「カラ松くん…?」
異変を察知し、動向を窺うように名を呼んでくる。浮かぶ戸惑いの色は、まだ微か。
「腿のストレッチだ。別にエロい意味じゃない」
「そう?」
「ああ」
抑揚のない声で、ユーリから視線を逸して告げた。窓ガラスを通して聞こえてくる蝉の鳴き声が、ひどく遠い。この部屋だけが世界から切り離されたような非現実感が、一帯を支配しようとする。

「なら、もうちょっと強くしてよ」

「え」
「カラ松くんがもっと近づいたら、強くできるよね?」
どうして、と危うく喉まで出かける。カラ松の目論みに気付いていないはずがないのだ。なのに。
「…いいのか?」
「ストレッチなんでしょ?」
妖艶な微笑み。カラ松の小手先の技などお見通しだと言わんばかりの平静さをたたえて。
カラ松はほんの少しだけ力を強め、戸惑いながらも互いの胸が触れるくらいまで体を寄せた。このまま胸が触れ合えば、早鐘のように打ち付ける鼓動が伝わってしまうのではないかと、柄にもない不安に駆り立てられる。

刹那、すっと伸ばされた両手に、カラ松は体ごとユーリに引き寄せられた。

「え、ちょ…ッ、ユーリ!?」
「ごめん、手が滑った」
首に回された手を緩めず、耳元でユーリが囁いた。吐息が耳にかかって、ぞくりと腰に響く。
「重力無視して滑る手があるか」
「あるんだなぁ、これが」
いつまでもユーリに全体重をかけ続けるわけにもいかず、片手で肘をつき、もう片手を彼女の背中の下に潜り込ませる。
「ねぇ、カラ松くん──下に、誰かいる?」
「いや…誰も。いるとしたらマミーくらいか」
仮に松代が在宅していたとしても、彼女には昨日話の流れでユーリの訪問を報告している。日頃単独行動が多い危険分子のおそ松たちに至っては、揃ってトト子のライブに顔を出しているから、終了時刻を過ぎるまで帰宅はあり得ない。カラ松たちを邪魔立てする者は誰も、いない。
「なら問題ないね」
何が。
そう問うのは、もはや無粋だ。




しばしの苦慮の末、カラ松はユーリと体勢を入れ替える。自分の腹の上にユーリが跨る格好になった。
「どうして?」
「重いだろ」
「私が乗っても重いよ」
「フッ、心配は御無用だぜハニー。ハニーの体重なんて、エンジェルウィングさながらの軽やかさだ」
「そう?」
カラ松を見下ろしながら、溢れた髪を細い指先で耳に掻き上げる。
「もちろん、まだマッサージを続けるというなら、元の体勢に戻さないといけないんだが」
ユーリを組み敷くのは、体を重ねるのは、いつか、自然とそうなった時でいい。理由をつけた結果ではなく、互いに望んだ、その時に。
土壇場ヘタレなのは認める。いい雰囲気に持ち込むだけ持ち込んでおいて、最後まで致せない不甲斐なさは当面の課題だ。

「あ、それなら私もマッサージできるよ」
無邪気に笑ったかと思うと、ユーリはソファの上で片手の指を絡め、強く握りしめてくる。
「どうかな?」
「…上手いじゃないか、ユーリ」
「でっしょー」
子供みたいな笑顔と、艶めいた接触のギャップに思考が追いつかない。彼女が何を考え、何を思うのかは、もう予測がつかくなっている。
ユーリがカラ松の胸に顔を埋めた。全体重を預けてくるものの、先述したように重さはまるで感じない。ただ愛しい温もりがあるだけだ。
ユーリの愛用するシャンプーの香りが、カラ松の鼻孔をくすぐった。
「足、カラ松くんのおかげで軽くなったよ」
「ああいうマッサージでいいなら、いつでも歓迎だ。ハニー専属契約でもするか?」
「いいね。契約金は必要?」
「ちょうど今、十分すぎるものを貰ってる最中だ」
そう答えたら、ユーリはふふと笑った。


駆け引きを仕掛けたら、意図を察しながらもユーリは全部受け止めてくれる。まるで恋人じみたこの瞬間が、たまらなく幸せだと思う。
だから十中八九敗北を期すると分かっていても、手を出してしまうのだろう。

そうこうしているうちに、いつしか睡魔に意識を奪われる。微睡みの中、繋ぐ手の感覚だけがやたらと鮮明で、カラ松は揺れる気持ちを振り切り、力強くその手を握り返した。

しばらく経ったその後、スマホの充電切れによりいち早く帰宅したトド松の怒号によって覚醒を促され、イチャついたまま寝るなと正座で説教を食らうのだった。
マッサージをしていただけだと弁解を試みかけたが、卑猥な隠語を使うんじゃないと火に油を注ぐ未来が目に見えたので、二人して大人しく背中を丸めたのである。