「ユーリ…二人で会うのは、これで最後にしよう」
寂しげな微笑みと共に投げられた言葉に、空気が凍りついた。
いつもと変わりない日々の続きのはずだった。
なのに、歳月を感じさせる築古の一軒家、第二の我が家同然と誤認するほど足繁く通った松野家の居間で、終焉を告げる声が静かに響き渡る。つい先程まで軽口を叩き合っていた和やかさは、見る影もない。
「…え」
私は絶句した。カラ松くんの視線は追求を避けるように、私の目から地面へと落ちる。
「じ、冗談止めてよ、もう。今日はエイプリルフールじゃないよ、カラ松くん。そんなことで私を騙そうったって、そうはいかないなんだから」
努めて明るい声を出す。重苦しい空気を変えなければと駄目だと、理由もなくそう思ったのだ。
「もう疲れたんだ」
けれど、カラ松くんは首を振った。私の抵抗に対する明確な拒絶を示す。
「一緒にいることも、待つことも」
そう告げられて、私は言葉に詰まる。心臓が強く鼓動を打ち、膝に置いた手が震えた。
カラ松くんは私の意見など、聞く耳を持っていない。否、容易く揺らがないほどに強固な決意をもっての発言なのだ。
私は今、カラ松くんに別離を告げられている。
「どうしたの?私何か気を悪くするようなことした?だとしたら──」
「逆だ」
「逆?」
「『何もしなかった』…だから、だ」
二の句が継げなかった。どういうことなの、なんて訊けない。
「もうすぐユーリに出会って一年になる。
いつかは…と思ってたけど、オレたちは何も変わらなかった。このままでいいのかと悩むようになって、そんな折に知り合った子がいて───デートに誘われたんだ」
心なしか嬉しそうに目を細めた彼に、私は終焉の訪れを自覚せざるを得ない。彼の心は既に別の女性に向けられている事実を、まざまざと突きつけられる。
「中途半端なまま彼女と向き合いたくない。だからもう会えない」
淡々と、けれど強く断言される。
「さよならだ…ユーリ」
デートの終わりの挨拶でも、カラ松くんはその言葉だけは使いたがらなかった。二度と会えなくなるような気がするから、と。私たちの間で禁忌にも等しく、意図的に封じていた台詞が、カラ松くんの口から紡がれる。
「…そんなの勝手すぎる」
きっと届かない、虚しい意義を唱えた。意味のない時間稼ぎの応酬だと、心のどこかで気付いているのに。
「私の気持ちはどうなるの?」
「すまない。ユーリのことは嫌いじゃない…ただ、今はもう何とも思わないだけで」
「そんな…」
もうどうしようもないことなのだと、彼の瞳が語る。
「ユーリちゃん!」
終わりを受け止める他ない私の前に、突如として十四松くんが現れた。
廊下と居間を隔てる障子を勢いよく開け放ち、彼にしては珍しく思い詰めたように眉を釣り上げている。
「ごめん…話、聞いちゃった。出した結論に後悔はないんだね、カラ松兄さん?」
「くどいぞ、十四松」
カラ松くんはにべもない。いかなる交渉も受け付けない、そう語るかのようだ。
「そっか。だったらユーリちゃん、今はまだ無理だろうけど、いつかぼくと…ぼくと───えーと……野球する?」
「カットー!」
メガホンを手に当てながら、トド松くんが荒々しく室内に乗り込んでくる。
「何でそこトチるかなぁ、十四松兄さん。成否がかかってる大事な台詞なんだから、間違えないでよ」
「サーセン!」
悪びれもせず頭に袖を乗せる十四松くん。その傍らで、私とカラ松くんは顔を見合わせてくすりと笑う。
「そうだぞ、十四松。そんなんじゃダディとマミーは騙せないぜ」
そう。
今までの一連のシリアスは──六つ子の両親に仕掛ける壮大なドッキリの予行演習なのだ。
「カラ松くんの演技、真に迫ってて良かったよ。台詞間違いもないし、間の取り方も上手くてビックリしちゃった」
私は一度大きく深呼吸してから、カラ松くんに向き直る。台詞自体は長くないとはいえ、真実味のある彼の表現力には度肝を抜かれた。
「かつて演劇界の彗星と呼ばれしこの松野カラ松に、演じられない役なんてないんだぜ、ハニー」
顎に片手を当て恍惚の表情になるカラ松くんに対し、監督役のトド松くんがハッと失笑した。
「満を持して木の役だったくせに」
「人間の役だと、オレのカリスマ性が放つ輝きがオーディエンスを魅了し、舞台を食ってしまうからな。顧問の名采配だ」
ポジティヴ思考が過ぎる。
「ユーリもなかなかの名演技だったぞ」
「ありがと。でもこういうの慣れてないし、みんな見てる中で演技するのすごく緊張したよ。手も震えたし」
勝手知ったるメンバーしかいないが、慣れないことをして体が強張った。そんな中でも台詞を間違えなかった自分には及第点をあげたい。
「でもさ、ユーリちゃんの新しい相手が十四松ってやっぱダークホースすぎない?まだ一松の方がリアル感ある」
部屋の端で台本を開いていたチョロ松くんが立ち上がる。
「えっ、おれ!?」
彼の傍らでギョッとする一松くん。
「駄目駄目、いちまっちゃんには荷が重い。乗り換え先なら俺が一番可能性あるだろ。だから言ったじゃん、俺が最適だって」
トド松くんの背後から顔を覗かせるのはおそ松くんだ。意気揚々と鼻を鳴らす。しかしカラ松くんが即座にかぶりを振った。
「いや、相手がお前だと驚くとか以前に『止めておけ』となるから、ドッキリが成立しない」
辛辣。
「ねぇ、これ台本の内容変えちゃ駄目かな?この流れだと、私結構ひどい奴だよ」
コピー用紙をホッチキス留めした簡易台本をトド松くんに差し向けて、私は提案を口にする。
気を持たせるだけ持たせておいて、いざ関係継続を拒否されたら、そんなつもりなかったけど他の女の所に行くのは許さんという浅ましさが滲み出ている役柄だ。
ふふ、とトド松くんは微笑む。
「上手く相手を騙すコツは、嘘の中に真実を混ぜることなんだよ、ユーリちゃん」
「まるで私がカラ松くんを弄んでるような言い草」
「え?違った?」
「概ね合ってる」
「ハニー…そこは嘘でいいから否定しろ」
ツッコミよろしくカラ松くんの白い目が向けられる。軽蔑のジト目オイシイです。
「せっかくの結婚記念日なのに、息子の修羅場見ちゃうのはトラウマにならないかなぁ」
彼らは午前中二人きりでデートに出掛けると聞いている。楽しい気分で帰宅したところに昼ドラチックな修羅場が勃発していたら、水を差すことにならないか。
その懸念には、おそ松くんが答える。
「大丈夫だって、ユーリちゃん。俺らの親だよ?
メンタル鋼で心臓には剛毛だから、これくらいしないとスルースキル発動されて平常運行になる」
どんな親だ。
「クラッカー鳴らすのは、父さんたちが入ってきた瞬間でいいんだよね?僕とおそ松兄さんは台所に隠れてればいい?」
「廊下側の障子のすぐ横がいいかな。で、開いた瞬間にサプラーイズって感じ」
「その間おれは台所でケーキ準備だよね」
「うん。一松兄さんは午前中にボクとオードブル取りに行くから、それも忘れないで」
ケーキについては、私がこちらに来る途中で受け取る手はずになっている。
さて、クズで駄目男で万年金欠のニート六人が、明後日に迫る両親の結婚記念日を盛大に祝おうと躍起になっているのには理由がある。
数日前、ドッキリの協力を求められた私は二つ返事で了承した。何て親孝行なのだろうと感動し、純粋に彼らを褒め称えようとした時のことだ。
「やらない理由がないだろ。
一年に一回盛り上げておけば、少なくとも当面の安泰が約束されるんだよ?」
片側の口角を吊り上げて、おそ松くんが下劣な笑みを浮かべた。そしてその後ろでは、残りの五人が大きく頷いていたのだった。
居間では、トド松くんを筆頭に五人が雁首揃え、手順と配置の確認でやいのやいのと騒ぎ立てている。
私とカラ松くんは縁側を通って庭へ出た。静かな環境で芝居の練習をするためだ。
台本片手に、カラ松くんが別れの話を切り出す冒頭からスタートする。
「私、そんなこと言わないでって縋った方がいいかな?」
最も効果的で真実味のある演じ方が掴めない。だが、考えれば考えるほど深みにハマる気もして悩ましいところだ。
「んー、そこまでいくとユーリっぽくないな。流れ的に、顔に出さず耐える感じはどうだ?」
「ということは、カラ松くんの『何とも思わないだけで』の後に、少し間を開けて」
衝撃に打ち震えるように目を見開く。それから神妙な顔つきで一旦地面に視線を移し、僅かに唇を噛む。
「そんな…」
絞り出したように、苦痛を滲ませる。
「こんな感じかな?」
「いいぞ、グッドワークだ、ハニー!」
白い歯を覗かせて、カラ松くんが破顔する。つい先程まで冷徹な眼差しを私に投げていた人と同一人物とは、到底思えない。
「テンポは冗長になってないかな?演じてると分かんないんだよね」
「オレは問題ないと思うが」
開いた台本に目を落とし、カラ松くんは自身の人差し指を下唇に当てた。思案顔も最高に推せる。推しは今日も顔がいい。
「二人で会うのはこれが最後だとオレが切り出す前は、どうする?
いきなり核心に迫る会話が始まるのは不自然だよな」
「あー、確かに。じゃあさ、そこは私がスマホで面白い画像か何かを見せようとして…っていうのは?
で、カラ松くんは、ずっと言うか悩んでたけど意を決して、って感じで」
「いいな、そうするか。オレとユーリのテンションの落差が浮き彫りにもなって、一石二鳥だ」
カラ松くんは楽しそうだ。彼と演技について語り合うのはこれが初めてで、高校時代に演劇部所属と知ったのもつい最近のことである。
役がハマるというのは、今の彼のようなことを言うのだろう。用意された台詞を口にしているのに、誇張や不自然さは一切感じられない。まさか本当は彼の本心ではないかと、疑心暗鬼に駆られそうにさえなる。
けれど。
「カラ松くんにフラれるっていうのが、意外性あっていいお芝居だよね」
「え、そうか?」
私の胸に巣食う根拠のない黒いモヤを払うのは、他でもないカラ松くん本人だった。
「意外性というか…天地がひっくり返ってもあり得ない展開だぞ」
心外だとばかりに、溜息と共に吐き出された言葉。
「嘘や演技でしか到底言えない台詞だ。
ユーリに出会ってから今日まで、ユーリ以上のレディは街中で見かけたことさえないのに」
透き通るくらい青い空を背にした彼が眩しい。首を傾げた際に揺れる黒い髪が、太陽の光を受けて細く光った。こぼれ落ちるような瞬きに、目が眩む。
「台本があるから演じるが、こんな台詞をユーリに言うのはこれっきりだ──例え嘘でも、言いたくないんだからな」
台本を手の甲で叩きながら、苦笑するカラ松くん。
尊さは臨界点を突破し、私は天を仰いだ。
「実は…話の展開は私がトド松くんに提案したんだ」
このことは、言わないつもりだった。
会話の流れで明るみになるのは致し方ないと思ってたが、六つ子は脚本を書いた末弟の案と誤認し、トド松くんも立案者については言及しなないまま準備が進んだ。
わざわざ明るみにする必要性はない些末なことだが、カラ松くんが告げてくれた本心には報いたい。主役が望まぬ台詞を言わせるよう仕向けた、理由を。
案の定、カラ松くんは目を瞠った。
「普通には起こり得ない、いざ発生したら心底驚くようなドッキリを仕掛けたいって、そう言われたんだよね」
「演出家の素質もあるんじゃないか?」
褒められた。
「最初は逆の立場のを言ったんだけど、それは十分あり得るからって一蹴されちゃって」
私が肩を竦めると、カラ松くんは苦虫を潰したような顔をする。
しかし次の瞬間、カラ松くんはハッとして私を見た。
「ユーリは、起こり得ないと思ってるのか?
この台本通りのことだけじゃなく、立場が逆のことも…」
トド松くんが望んだ芝居は──『普通には起こり得ない』展開。
私は小さく笑う。
「思ってるよ」
何度も読み込んで癖のついた台本を縁側に放り投げ、そこに腰掛けた。乱暴に投げ出した足を上下にぶらつかせる。
「だから却下されたのが腑に落ちない」
日差しが照りつける地面に、ふと影が落ちる。間もなくデニムの足が正面から近づいてきて、視線を上向けると同時に──強く抱きしめられた。
心地良い体温が、触れ合う肌越しに伝わってくる。
「ね、カラ松くん」
「うん」
「反対も、起こり得ないことなんだよ」
「…うん」
彼の声は耳のすぐ横から聞こえてくる。小さな音量だが、私には風の音よりも明瞭だった。互いに相手の表情は窺えないけれど、確認する必要もない。
カラ松くんの背中に手を回すべきか逡巡していたら、彼はパッと離れて私の両肩を掴み、無邪気な笑顔を振りまいた。
「頑張ろうな!オレ最高にいい芝居するから!」
仮面が外れる。否、普段隠れている一面が顔を覗かせたと言うべきか。いずれにせよ、やる気になったのなら何よりだ。
「目指せオスカー!」
目指す方向は清々しいほど間違っているが。
「松野カラ松、とっておきの大芝居だ。
ユーリに告げる、最初で最後の別れの言葉──乞うご期待!」
練習を再開する。開始の合図と共に、カラ松くんの双眸からは熱が消えた。私に対する一切合切の興味を喪失した無機質な表情と、真正面から対峙する。
本当は、トド松くんは悩んでいたのだ。別れ話を切り出すのは私からの方が自然ではないか、彼はそんな疑問を私に投げかけたことがある。
それを極々自然な流れで、あくまでも彼の意思で、私が振られる立場になる物語に誘導した。
推しに手ひどく振られるのを、疑似では一度くらい体験しておきたかったから。
真実を口にしたら、きっとカラ松くんは呆れるのだろう。だからこれは、言わぬが花というヤツだ。
小さな小さな、君への嘘。
練習に練習を重ねたサプライズは、見事成功を収めた。
私とカラ松くんのドッキリ劇はおじさんとおばさんの度肝を抜き、十四松くんの乱入により混沌を極め、彼らによって荒々しく障子が開け放たれた瞬間に、両サイドに控えていたおそ松くんとチョロ松くんが盛大にクラッカーを鳴らす。唖然とするおじさんおばさんに、一松くんがホールケーキを差し向ける。ホワイトチョコのプレートに書かれた文字は『結婚記念日おめでとう』。
「ユーリちゃんも人が悪いわぁ。もうユーリちゃんに会えないかと本気で思っちゃった!」
居間のちゃぶ台を八人で囲む。テーブルには、切り分けたケーキと、湯気の立ち上るコーヒーが人数分。
「驚かせちゃってごめんなさい、おじさん、おばさん」
「ハニーが謝ることない。誘ったのはオレたちだ」
「そうだぞ、謝らなくていい、ユーリちゃん。娘に仕掛けられるドッキリってこんな感じなんだなぁって父さんドキドキしちゃった。これからはパパって呼んで」
松造がしれっとぬかしおる。
「カラ松とユーリちゃんどっちか選ばなきゃいけないなら、ユーリちゃん一択よね」
松代も同調してきた。修羅場の予感。
「マミー!?」
「六人いたら一人くらい誤差っていうか、ユーリちゃんと入れ替わりなら合計六人だから何の問題もないわよね」
問題しかない。
「親がそれ言っちゃう?六つ子存続を揺るがす問題発言だけど?」
おそ松くんが苦々しい顔で吐き捨てた。まったくもって長男の言う通りだ。
私は無言でケーキを口に運ぶが、もそもそとした食感が口内に広がるだけで、甘味が脳に伝達されない。
「娘という魅惑のポジションに、ニート風情が適うと思ってるのか?」
とどめを刺す松造。もうやだこの家族。
「父さんまで!?」
叫ぶ十四松くん。私、この計画に参加しない方が良かったんじゃなかろうか。諸悪の根源と化しているようで、気が気でない。
「だってカラ松はいつまで経っても進展させる気ないし」
「初で奥手が可愛いのは学生までよねぇ」
「父さんたちはユーリちゃんを娘にしたいんだよ、可愛いもん」
これで二人ともシラフ?マジで?何という地獄。
「父さんも母さんも、いい加減にしてしてくれ!」
眉根を寄せたカラ松くんが、すっくと立ち上がる。
「オレとユーリが入れ替わるなんてことがあってたまるか!あるとしたら、オレが出るかユーリが入るかどっちかしか───…あ」
威勢の良さは突如として失われ、しばしの沈黙の後、己の失態に気付いたとばかりに素っ頓狂な声が漏れた。
居た堪れなさは最高潮に達する。
「だ、だから…っ、じゃなくて!とにかく、二人にはユーリは渡さないからな!」
お前はもうお口チャックしろ。
面倒くさくなり、全力で聞かなかったことにした。隣の一松が指先で私の肩を叩き、秘蔵の猫アルバムをこっそり見せてくれたので、意識はそちらに集中させることにした。
後は野となれ山となれ。