カラ松が目が覚めた時、本棚の時計は午前八時前を指していた。
カーテンの隙間から漏れさす白い光に朝の訪れを感じながら、六つ子にとって早朝とも呼べる時間帯に自然と覚醒したことに、しばし驚き呆然としたものだ。
兄弟は当然ながらまだ夢の中である。熟睡していて、起きる気配もない。
普段ならカラ松も躊躇なく二度寝を決め込む時間だが、布団への誘惑を一切感じないほどの心地良い目覚めだった。よく寝た、そんな感想さえ脳裏を過ぎる。
「…起きるか」
うんと背伸びをする。挙げた手を腹部まで下ろした時、ふと左手に違和感を感じた。持ち上げて手を見やると──薬指に見慣れない銀の指輪。
表面に多少細かな傷は見受けられたが、新品に近い。カラ松の指にピッタリ合うサイズ感で、まるでオーダーメイドのようだった。
「何でこんなものを…」
デザイン性のないシンプルなリングである。兄弟のうちの誰かの私物を拝借したまま眠ってしまったのだろうか。記憶は曖昧で、関連付けられるような出来事は何一つ浮かんでこない。
いかんせん昨晩は六人で飲みすぎた。いつ布団に入ったかさえ記憶にないのだ。その間に発生した出来事ならば、覚えていなくても無理はない。全員が揃った時にでも持ち主を確認しよう。
隣で眠る一松とトド松を起こさないよう布団を抜けたところで、カラ松は自分の格好に目を瞠った。水色のパジャマで眠る五人に対し、自分だけが長袖のシャツとジャージだったからだ。
二日酔いのせいか、頭の中に霧が広がっているみたいに、思考がままならない。考えること自体がひどく億劫で、体力を奪われる。
ぼんやりと一階に下りると、居間には松代と───ユーリがいた。
「ユーリ…っ」
反射的に名を呼んだきり、言葉が続かない。朝の八時だ。何か約束をしていただろうかと思考を巡らせるが、とんと覚えがない。というか、こんな朝早くに彼女が松野家にいることが異例である。
カラ松と目が合ったユーリは、なぜだか少し大人びて見えた。化粧を変えたのかもしれない。よく知らないが、女性は化粧で変わるというから。
「あら、カラ松。ユーリちゃんもう来てるわよ」
来客用のコーヒーカップをユーリの前に置き、腰を上げながら松代が苦笑する。
「おはよう」
ユーリは怒るでもなく、にこにこと愛嬌のある笑顔をカラ松に向けた。
「あんた、まさかユーリちゃんが来るってこと忘れてたんじゃないでしょうね」
松代の言い方から察するに、約束を交わしていたらしい。それにしてもやけに早い時間ではないかと訝りながらも、反故にしてしまった罪悪感がじわりと胸に浸透しようとする。
どう反応すべきか悩んでいたら、松代が溜息をつく。
「やぁね、この子ったら。結婚しても抜けてるんだから」
「え…」
聞き慣れない単語が飛び出してきた。
「そういうとこも可愛いからいいんですよ」
ユーリは口元に左手を当て、笑みを返す。その指には、シルバーの指輪が光っていた。カラ松と同じ指に、同じ形のリング。
眼前に提示されるいくつかの事実が、一つの事実に集約されていく。けれど見えてくる景色はあまりにも荒唐無稽な絵空事で、口にする勇気が出ない。
「結婚、って…」
カラ松が呟けば、あれぇ、とユーリがいたずらっぽく口角を上げた。
「もう、嫌だなぁ。久し振りの実家お泊りだから寝ぼけてる?」
「長年のだらしない生活習慣は、結婚したからってそう簡単には抜けないってことね、きっと」
松代が辛辣に吐き捨ててくる。
「あはは。まだ新婚だから現実味ないのかもしれませんよ」
そう言って、ユーリはカラ松を見る。
「ね、カラ松」
ああ、とカラ松は思う。
思い出したのだ。半年前に、一年の交際期間を経てユーリと結婚したこと、婚姻と同時に実家を出て二人で新居に住んでいることを。彼女は今、松野の姓を名乗っている。
昨日は数カ月ぶりにカラ松だけが実家に泊まり、六人で遅くまで酒を飲んだ。話題の大半はカラ松の新婚生活で、ひどく茶化されたっけ。
「そうね、それはありそう。私だって、ユーリちゃんが娘になったなんて今も夢のようよ」
「やだお義母さん、上手いこと言うんだから」
からからと女二人は笑い合った。
「久し振りに六人で寝た感想はどう?懐かしかった?」
カラ松の朝食をちゃぶ台に配膳しながら、ユーリか尋ねてくる。焼き鮭に卵焼き、しじみの味噌汁といった和朝食が並ぶ。
「…何とも感じなかった。見慣れた部屋といつものブラザーたち、というか。
むしろこの指輪に違和感を感じたくらいだ。誰かのをつけてしまったのか、って」
「それは重症だね。でもそうなると思ってたから、今朝は二日酔いに効くしじみのお味噌汁だよ」
ユーリは笑みと共に、カラ松の目尻を人差し指の腹でなぞる。もう片手はあぐらを掻いたカラ松の股の上だ。今にも吐息がかかりそうなほど顔が近くて、カラ松は咄嗟に息を止めた。茶を注いだ湯呑を運んできた松代は自分たちの距離感に驚くでもなく、微笑ましげに見つめる。
「ユーリ、今日は、その…どんな予定だったか、教えてくれないか?」
「今日?朝ご飯食べて身支度したら買い物の約束でしょ?
あ、晩御飯はお義母さんが食べていきなさいって言ってくれたから、ご馳走になって帰ろう」
言われてみれば、そんな約束を交わしたような気もする。
カラ松は自分の膝に置かれたユーリの手を取り、薬指で光る指輪をじっと見つめた。デザイン自体はシンプルだが、緩やかなウェーブラインが指の付け根にピッタリとフィットしている。
「カラ松、どうかした?」
不思議そうにユーリが首を傾げる。
「結婚、したんだな」
地面に足が着かない、ふわふわと浮いて漂っているような感覚が続いている。そのせいかふと口をついて出た台詞も、どこか他人事めいたものだった。
「そうだよ。カラ松と結婚してもうすぐ半年──って、本当どうしたの?熱ある?」
ユーリは手を伸ばして、カラ松の額に触れた。
「え、ちょ…っ」
「んー、熱はなさそう」
先程からやたら顔が近い。結婚している間柄とはいえ、実の親の前で堂々とイチャつくのは少々抵抗がある。
慌てふためくカラ松の腕が、湯気の立ちのぼる湯呑みにぶつかった。傾いた器から中の緑茶が盛大に溢れ、カラ松のジャージに滴り落ちる。
「うおっ!」
「わっ、だ、大丈夫!?」
ユーリは目を剥いて、カラ松の腿に台拭きを当てる。
「火傷しちゃう。着替え持ってくるから、とりあえずズボン脱いで」
「は?」
パードン?
「だから脱いでって」
「脱いだらパンイチなんだが」
公然わいせつ罪まっしぐらである。
「知ってるよ。でもこのままだと火傷するから、とっとと脱げ」
苛立ってらっしゃる。
しかしカラ松はジャージパンツに手をかけようとするユーリの腕を掴み、断固拒否の姿勢を貫く。親とユーリのいる前であられもない姿になる羞恥心はもとより、今どんなパンツを着用しているのかがどうしても思い出せない方が割と深刻だった。
「ぬ、脱げるか!」
「今更何で照れるの。夫婦だよ?カラ松の下着姿なんて見慣れてるし、毎日洗濯だってしてるでしょ」
ジャージを引っ掴み、押し倒す勢いで脱がそうとしてくるから、カラ松は早々に白旗を揚げる。真剣な表情のユーリに迫られてなお拒絶できるほど、人間ができていない。とことん弱いのだ、ユーリには。
「何度も私に抱かれて今以上に恥ずかしい姿晒してるのに今更──」
「わあああぁぁあぁあぁ!」
「パンツくらいで恥ずかしがらないの」
「オレの自尊心は丁重に扱ってくれ!あと畳み掛けるの止めて!」
朝から泣きたい気持ちになった。
熱湯を浴びたにも関わらず、火傷にならなかったのは幸いだった。ドタバタと忙しない朝が過ぎ、兄弟が起きないうちに外出の準備を整える。
玄関を出て戸惑いがちに伸ばした手を、ユーリは当たり前のように取ってくれた。手のひらが重なって、すぐに指が絡む。
口実を必要としない触れ合いに憧れていた。早くそんな日が訪れたらいいのにと、幾度となく願った。思わず笑みが溢れる。語り尽くせないほどの彼女への愛しさを、絡めた指に込めて、少しだけ力を強める。
「もしかして、カラ松疲れてる?」
「オレが?」
「さっきから何だか上の空だし。このところ仕事も忙しかったもんね。出掛けるの止めて今日はゆっくりする?」
平静を装っていたつもりだったが、ユーリにはお見通しらしい。
「フッ、さすがの洞察力だぜ、マイハニー。ハズバンドの体調を心配するハニーの心根は、さながら慈愛のゴッドネスといったところか」
カラ松の物言いに、ユーリは何か言いたげに眉間に皺を寄せたが、無言のまま鼻から長めの息を吐いた。
「…ま、冗談は置いといて。カラ松はお疲れってことで、今夜は抱かないでおくよ」
またしても突然落下する爆弾。
「だ…ッ!?」
「平日はお互いに忙しかったから、今夜はカラ松抱きたかったんだけど。体調戻ってからだね。その時は寝かさないから、覚悟してね」
うふふと照れくさそうに微笑む表情とは裏腹の、とんだドS発言。
過去の情事の映像が、カラ松の頭のスクリーンにぼんやりと投影される。電気を消したベッドの上、キャミソール姿のユーリが熱っぽい瞳で──カラ松を組み敷いている。リップサービスよろしく耳元で愛を囁かれたら、もうどちらが上とか下とか、そんなことどうでもよくなってしまうのだ。それこそ付き合う前は、抱かれないぞと決り文句みたいに強気で言い返していたけれど。
「…勘弁してください」
カラ松は両手で顔を覆った。
「付き合う前を思い出すね」
顔は前を向きながら、ユーリは視線だけカラ松に寄越した。見惚れるなという方が無茶なくらい、華を纏ったような端麗な横顔。
「一年以上前になるんだな」
「うん。今も初な感じだけど、付き合う前はいつも緊張しながらカラ松が手を出してくるの。寒いからとかはぐれたらいけないからとか理由をつけて、こうやって」
空いている方の手を、カラ松に向けてくる。
その瞬間、数多の映像が怒涛のようにカラ松の頭を過ぎた。まるで鈍器で後頭部を殴打されたかのような衝撃だった。思考を遮っていた重苦しい濃霧が晴れて、視界が拓ける。
「…オレはその姿を、つい先日もユーリの前で晒したぞ」
一年付き合って、結婚半年。左手の薬指に銀の指輪。突きつけられる事実と装飾品になぜだか釈然としなかったのは、二日酔いがもたらす愚鈍さ故ではなかった。
この景色が──夢だからだ。
夢である自覚を持ちながら見る夢、いわゆる明晰夢というものなのだろう。
疑念を抱いたのは、湯呑みの中身が溢れた時だ。熱湯に近い液体が服にかかっても、温度を感じなかった。朝食も、明確な味を感じられなかった。
今だって、どんなに手に力を込めても──ユーリの温もりが伝わってこない。
「え?カラ松、何か言った?」
カラ松。
当たり前のようにそう呼んでくれることは純粋に嬉しい。叶えたい夢の一つだった。
「いや…オレたち、何でこの結婚指輪にしたんだろうな」
話題を切り替える。
夢の世界では、自分と彼女がどんな道を歩んできたのか興味が湧いた。少しだけ、あるかもしれない未来を垣間見たい。
「わー、他人事。すっごく悩んだの忘れたの?
フルオーダーするにはお金がないとか、凝ったデザインは格好いいけど長くつけるものだからシンプルが一番かもとか、何時間も話し合ったよね」
ユーリの言い草に、カラ松はフッと笑みを溢した。
ショーケースを前に議論を交わし合う自分たちの姿が、整合性を保つための捏造された記憶としてぼんやりと思い出される。先程から頭に浮かぶ記憶は一切合切が偽りだというのに、どうしようもないほど愛しさが込み上げるから、苦しい。
「すまん。うん、そうだったな」
そういう選択肢を選ぶ未来も、あり得るのだろう。
「なぁ、ユーリ。オレといて幸せか?」
この先無数に枝分かれしているであろう未来の中に、自分がユーリを幸せにする世界線があるのか、と。ふとそんな些末なことを知りたくなる。
社会的地位も富もない。職に就いて自立しているユーリとは対等でさえない。純粋な好意だけで睦言を語り合えるほど幼くもないのに、手元には行き場のない強大な想いがある。
夢でいい。夢でいいから、どうか──
「もちろん!カラ松と結婚して幸せだよ」
カラ松の不安を払拭するのは、いつだってユーリの笑顔だった。快活で裏のない、愛らしい表情。
「…ありがとう。それを聞けて良かった。年月が経っても変わらないな、ハニーは」
「少しは変わっていってると思うけど、カラ松への気持ちが減ることはないから、そういう意味合いでは変わらないのかもね」
とんでもない台詞を躊躇なく言い放って、カラ松を赤面させるのもそうだ。こういった応酬は今でさえ既に様式美となり、ユーリの口から紡がる言葉が甘いことを期待するようにもなった。カラ松の渇望を察したわけでもないのに、望むものを返してくれる。
カラ松は不意に立ち止まり、ユーリの両肩を掴む。互いに向き合う格好になった。ユーリはぽかんと口を半開きにしてカラ松を見やる。
「ユーリに伝えたいことがある」
思いの丈を、言の葉に変えて声に乗せた。
文脈も時系列も整合性もない。浮かんだものから矢継ぎ早に口にするせいで、時に言葉に詰まった。いつか必ず告げなければと、半ば使命感に駆られていた、支離滅裂で自分本位な想い。
公道だとか公衆の面前だとか、周囲の目を気にして躊躇う必要はない。これは自分の夢だ。行き交う他人は無機物に等しい。その証拠に、誰もカラ松に好奇の目を向けない。ゲームの村人よろしく、賑わいを演出するためのパーツに過ぎないのだ。
ずっと言いたかった、でも言えなかった、一年かけて積み重ねてきた想いと感謝を、ユーリへ。
現実ではまだ当面言えそうにないから、せめて夢の中の君に。
時間にすれば、一分二分程度の演説だったと思う。ユーリは抵抗も拒絶もせずに、ただ真っ直ぐにカラ松に向かい合っていた。
「──だから、その…幸せにするから、必ず」
虚像に未来を予告する。
目の前にいる数年後のユーリは、カラ松の願望が作り上げた自分にとって都合のいい映像だ。でも現実もきっと、大きな相違はないような、そんな気がする。
「今は、オレの覚悟を知っていてくれるだけでいい」
カラ松がそう言うと、ユーリは結婚指輪をはめた手を持ち上げて、カラ松の頬を撫でる。温もりのない、けれど感触だけは確かに感じる夢の中。
「知ってるよ」
彼女は目を細めて、笑った。
瞬きをした後、次に目に映ったのは、見慣れた襖だった。
今の今まで向かい合っていたユーリの笑顔はどこにもなく、そもそも場所が違う。横に伏せていた上体を起こせば、グリーンのソファが視界に広がる。
左手の薬指には、何もつけていなかった。つい今しがたまで確かにあって、デザインも色合いも明瞭に思い出せるのに。
「……ユーリ」
夢だと分かっていた。幻と理解した上で過ごしていた世界だった。なのに、大切なものをなくしたような喪失感がカラ松に伸し掛かり、息を止めようとする。
「はいはい、どうかした?」
だから、自身の深刻さとは真逆の軽快な声が帰ってきた時は、心臓が口から飛び出すかと思った。
「えっ!?は、ハニー、いるのか!?」
慌てて室内を見回すと、ソファを背もたれ代わりにカーペットに座るユーリと目が合う。彼女は丸い瞳でカラ松を見上げていた。
「十分くらい前からね」
膝を立てて、カラ松の顔を覗き込む。
「あー、汗かいてる。よく寝てたように見えたけど、嫌な夢でも見た?」
ユーリに言われて初めて、汗に濡れていることに気付いた。
「…あ、その、ハニー」
「何?」
「オレ…何か口走ってなかったか?」
「別に何も。というか、それを訊くってことは、やましい感じの夢だったの?」
ニヤニヤするユーリ。カラ松は緩くかぶりを振った。自分の盛大な告白は誰にも聞かれなかったことに、ひとまず安堵する。
「改めて決意をしただけだ。これからのことに対して」
曖昧な表現で濁しても、ユーリはその先を追求しない。いつだってカラ松の意思を尊重してくれる。その気遣いは嬉しくもあり、稀に物足りなくもある。我ながら贅沢な悩みだ。
「決意、ねぇ…」
「信じてもらえないだろうが…誰にも言ってない、でも必ず叶えようと思っていることだ。オレだって真面目に考えることもあるんだぞ」
眉をひそめてユーリを睨む。子どものように不貞腐れるカラ松に、ユーリはにこりとする。
夢の中と寸分違わず同じ笑顔で。
「知ってるよ」