短編:目に映るのはいつだって

嫉妬は厄介な感情だ。
まず、起点となる人体に相応の負荷が掛かる。爆発を抑え込むのに精神力を消耗する割に、周囲にもたらすプラスの効果は限りなく薄い。
そしてこの感情の発生によって状況が劇的に改善することは稀で、ややもすると不穏な空気を撒き散らして新しい厄災の種となる。面倒くさい奴、という不名誉な烙印を押されることも多い。
卑屈で醜く、挙句の果てには自己嫌悪さえ誘発する厄介なもの──それが嫉妬だ。




「あの…すみません」
横から声が聞こえて、カラ松は振り返った。
木製の杖に体重を預けた七十過ぎと思われる老女が、困惑げな表情を浮かべてカラ松を見上げている。
場所は、山手線の中でも比較的主要な駅の構内である。行き交う人の姿は多く、地面を踏み鳴らす足音や人声でそれなりに騒々しい。
「ん?」
「ここから数分先の所に高木ビルっていう建物があるらしいんですが、どう行ったらいいか分からなくて…教えていただけません?
囲碁クラブの教室があるんです」
囲碁クラブ。末弟を連想するワードだ。そんな雑念が過ぎったが、振り払って目の前の相手に向き直った。
老婦は地図を印刷したらしい用紙を取り出して差し向けてくるが、カラ松は戸惑いの色を濃くする。というのも、自分もまたこの周辺においてはストレンジャーなのである。赤塚区内ならいざ知らず、区を越えれば土地勘はないに等しい。
「フッ、熟女さえも惹き付けてしまう隠しきれない魅力を持つ…オレ。群衆の中でも一際眩い光を放つ一番星ってのも困った配役だぜ」
魅力的すぎるのも罪。
「それで、その…高木ビルにはどう行けばいいでしょう?」
女性に催促されてカラ松は我に返る。
「…ああ、すみません。ええと、その場所なら──」

「三番出口を出て、百メートルほど真っ直ぐ歩くとあるみたいですよ」

声の主は、ユーリだ。
カラ松の横からひょいっと顔を覗かせて、スマホの画面を女性に見せる。それから近くの柱に設置されている案内図で、現在地と出口を指差した。
方向を理解したらしい老女は何度もカラ松とユーリに頭を下げ、そのままユーリが示した方向へと向かっていった。

「助かった、ハニー」
彼女の姿が完全に見えなくなってから、カラ松は安堵の息を漏らす。
「ううん、スマホの地図アプリで調べただけだから。私自身、これのおかげでどこ行っても迷子にならなくて助かってるし」
「そうか…最近はスマホという手があるんだな」
「スマホが普及してから、道を訊かれるってことが減ったよね」
ユーリは感慨深げに呟くが、カラ松はスマホはおろかガラケーも持ったことがないから、とんど現実味がない。加えて、下手な相槌は打ちたくなかった。
「ユーリに近寄ろうとするゲスどもの、声をかける口実にならないのは幸いだ」
「意味が不明」

「しかし事実だろう?」
「開いた口が塞がらないってこのことかと痛感してる」
ユーリは可愛い顔に似つかわしくない複雑を極めた表情で、長い溜息を吐いた。

「オレはユーリのようにスマホを持ってないから、交番に案内しようと思ってた」
しかしカラ松がそう呟くや否や、彼女は一転して目を瞠る。
「ええっ!?何で驚くんだ!今まで何回かそうしてたんだが、そんなに駄目な手段だったか!?」
都心の駅前なら高確率で交番がある。仮に警官が不在でも、交番内の電話で連絡を取ることもできる。彼らなら土地勘もあるからと、そう思っての選択だった。
いつも警官に声をかけた段階でカラ松は離席していたから、結末を見届けたことはなかったが、まさか。
「違う、ごめん、そうじゃないの」
ユーリは慌てて首を横に振る。
「確かにその方法は確実だなって、目から鱗だったから驚いただけ。誤解させちゃったみたいでごめん」
「あっ、いや……オレが勝手に勘違いしただけだ。ハニーは悪くない」
「今までもそうしてたんでしょ?──親切なんだね、カラ松くん」
ユーリの微笑みを向けられて、カラ松は顔が熱くなるのを感じた。過去の経験が結果オーライでユーリの好感度を上げたらしいが、そんなことよりも、今この瞬間笑ってくれていることが嬉しくてたまらない。
「世のカラ松ガールズたちの愛に応えるのがオレの使命だからな。当然のことをしたまでだ」
賛辞を素直に受け取らず、天の邪鬼よろしく気取って茶化してしまうのは、悪い癖だ。

でもユーリがそう言うのなら、今後も道を訊かれたら積極的に答えようと心に決めたカラ松だった。




上記の出来事から数ヶ月が経った昼下がり。某駅のカフェやテイクアウトの店が軒を連ねる広々とした改札外エリアに、カラ松とユーリはいた。
「じゃあ買ってくるから、ここで待ってて」
最初に喉の渇きを口にしたのはユーリだった。ドリンクでも買うかとカラ松が提案し、目ぼしい店を見つけたものの、狭い店内には購入待ちの列。その現状を鑑みての、ユーリの発言だった。
「分かった。ナンパにはくれぐれも気をつけるんだぞ、ハニー」
「子供のお使いか」
「麗しいレディだと言ってるんだ」
そう言ったら、ユーリは少し困ったように笑いながら、手を振った。背を真っ直ぐに伸ばした足取りで、カフェへ向かう。
こういう時、一般的にはスマホなり本なりを出して、時間を潰すのだろう。生憎どちらも所持していないから、カラ松は何とはなしに傍らの案内図を見やる。乗り入れ路線の多い駅のせいか、案内図自体が煩雑で本末転倒だ。新宿駅や大阪駅のようなダンジョン駅とまではいかないが、構内で右往左往してしまいそうな構造である。
そんな中、カラ松の視線はある一点で止まった。ブロンドのロングヘアが美しい異国の女性。齢は自分と近いだろうか、大きなキャリーケースを引きながら、案内図の前で立ち止まる。カーディガンの下にチューブトップを纏い、りんごのような胸がたわわに揺れた
「…ジーザス」
うっかり口を滑らせてしまうほどには、童貞には目の毒だ。谷間もしっかりと視認でき、でかい
彼女は自身のスマホと案内図を見比べては、困り顔で首を傾げる。

「流れるブロンドヘアがビューティフルなレディ、何か困りごとか?」
声をかけたカラ松に、やましい気持ちはなかった──とは言わない。しかしそれ以上に、ユーリの存在が大きかった。親切だねと言ってくれた言葉が、リフレインする。
「I got lost…ah…道に迷いました」
たどたどしい日本語で告げた後、彼女は苦笑を浮かべる。
「このデパートメントストアに行きたいんです。でも行き方が分からなくて」
体ごと寄せてきたせいで、豊満な胸がカラ松の腕に当たりそうになる。挙動不審になりながらもスマホを覗くと、駅から少しばかり歩いた先にある百貨店だ。幸か不幸か、ユーリと向かおうとしていた場所である。
「オレもそこに行くんだ。一緒に行くか?」
徒歩で数分の地点だが、地下を通ったりと道が入り組んでいる。口が説明するよりも、同行した方が早い。
そう思っての提案だったが、美女は双眸を輝かせてカラ松の腕にしがみついた。
「ワオッ、サンキュー!あなた親切!」
今度こそ胸がカラ松の腕に当たる。意識を失わなかった自分を褒めたい。
「ち、ちょっ…レディ!」

「お待たせ、カラ松くん」

そうこうしている内に、両手にドリンクを抱えたユーリが戻ってくる。彼女の目に映るのは、ナイスバディな美女に抱きつかれるカラ松という絵面。
「ユーリ…っ」
「そちらの方は?」
ユーリは動じる様子もなく、外国人の女性へと顔を向ける。
「えっ!?あっ、このレディは、道を訊いて──」
狼狽えながらも腕を振り払い、釈明のため口を開く。すると美女は何を思ったのか、ユーリとカラ松を交互に見やってから、尋ねた。

「ガールフレンド?」

ネイティヴの発音だったが、この程度なら聞き取れる。日本語なら女の恋人を指すが、相手は外国人だ。女の友達、そういう意味合いでは間違っていないから、カラ松は頷く。
「ああ、イエス」
そう答えると、彼女はにっこりと微笑んだ。大人びた顔立ちだが、笑顔は子供のように無邪気で愛嬌がある。
対照的にユーリの顔には微かに驚きの色が見えたようだったが、気のせいか。
「どこへ行く予定って?」
「オレたちと同じ所だ」
「なるほど、それはラッキーだね。百貨店までは歩いて十分くらいです。でも道は分かりにくいので、ご案内しますね」




日本には観光で来ており、百貨店で開催されている物産展で土産を買いたいのだと美女は語った。
駅周辺には複数の百貨店が点在している。一見利便性は高いが、駅から直結のルートがなく、地上をはじめ地下街や歩道橋が複雑に絡み合っているため、地図アプリが示す時間内にはまず到着しない。
「ここだ」
歩道橋の階段を下りたところで、カラ松が建物の入口を指す。
「物産展をやってる催事場は八階だから、エレベーターを使うといい」
「エレベーターは、入ってすぐ左です」
カラ松に続いてユーリが言う。
「サンキュー!助かりました!」
胸の前で両手を組んだかと思いきや、カラ松の背中に両手を回して抱きしめる。肩の上から腕を回して肩を叩くような形で、いわゆるコミュニケーションとしてのハグだ。知識としては理解しているが、ここは日本だし、カラ松は童貞だ
「あっ、ちょ…っ、あの…!」
抱き返すわけにも、かといって突き放すこともできず、行き場のないカラ松の手が宙に浮く。
しかし彼女はカラ松の動揺を気にも留めず、すぐさまユーリにも同じハグをした。ユーリが驚いたのは一瞬で、すぐに困ったような苦笑顔になった。

それから彼女は英語でユーリに何か告げたようだった。聴き取ることは適わず、会話が終わるのを待つしかない。ユーリは口角を僅かに上げたまま相槌を打っていて、表情から感情は読み取れなかった。
最後に、美女がユーリに何かしらの問いかけを投げたらしい。
「オーケー」
ユーリは首を縦に振り、了承の意を示した。
異国の旅人は満足げに笑って、ユーリとカラ松に手を振りながら百貨店の自動ドアをくぐり、やがて見えなくなった。


「なぁ、ハニー」
風のような人だったと、カラ松は思う。
「さっき、ソーリーって彼女言ってなかったか?」
ユーリとの会話は聞き取れなかったが、単語くらいは拾える。それがたまたま謝罪の言葉だっただけで。
「うん、言ってたよ」
「手を煩わせたことに対してか?でも、こういう時普通外国ではサンキューだよな」
ソーリーを多用するのは日本人特有だ。
カラ松が顎に手を当て思案すれば、ユーリは小首を傾げて笑う。

「優しくていい彼氏ね、って言われた」

予想だにしなかった展開に唖然とするカラ松をよそに、ユーリは続ける。
「迷って困ってた時に声をかけてもらえたのが嬉しかった。あなたの彼氏なのに馴れ馴れしくしちゃってごめんねって、そう言ってたんだよ」
「…え。か、彼氏!?なぜ!?」
誤解されたことが嬉しくないと言えば嘘になる。しかし、勘繰られるならともかく、断言されるほどあからさまな接触はなかったはずだ。百貨店に来るまでの道中も、彼女を挟む格好で歩いていた。揃いのアクセサリーをつけているわけでもない。
動揺するカラ松に、ユーリはやれやれと肩を竦めた。
「ガールフレンドだって言ったのは、カラ松くんでしょ」
「…オレのせいなのか?」
「単語だけで訳すと女友達って字だけど──英語では『彼女』って意味だからね。相手が異性の女の子でも、友達ならフレンドって言うんだよ」

やらかした。

あの時の問いかけに対し、カラ松は躊躇なくイエスと答えた。誤解の元凶は自分だったという最悪のオチ。
顔に熱が集中する。ユーリはオレの彼女だ、そう宣言したに他ならない。それも本人の前で、臆面もなく堂々と。
「…その顔、やっぱり意味勘違いしてたんだ」
ユーリは苦笑する。す、と視線がカラ松から外れた。


「ドリンク持って戻ったらスタイルのいい美人と腕組んでるから、最初は何事かと思ったよ」
何気なく放たれた台詞に、小さな違和感を覚える。具体的根拠はと問われれば閉口せざるを得ないが、どことなく棘があった。
カラ松は自然と前のめりになる。
「な、なぁ、ハニー…ひょっとして、怒ってるのか?」
尋ねた声は上擦っていたかもしれない。
「デレデレしてるな、とは思った」
「してないぞっ、断じてそんなことはない!」
主観の吐露に対する事実の提示。疑念を抱かれ、本来ならば必死に否定して信頼回復に努めるべきシーンなのだろうが、頬の筋肉が緩むのを抑えられない。
「いやぁ、大きな胸押し付けられてテンションは上がってたよね」
「…それは、まぁ、親切の副産物とはいえあれほどの大きなものはラッキーだな、とは──って、違ぁう!」
いつもの癖でつられてしまった。ユーリは白けた顔でカラ松を見る。

「胸が当たって悪い気がしないのは生理的なもので、他のレディに目移りなんて絶対にない。それは今までもそうだし、これからもだ!」

「何でさっきからずっとニヤニヤしてるの?」
「し、してない」
「声も嬉しそうだし」
腕組みをし、ユーリは面白くなさそうに溜息をつく。
百貨店の入り口付近で立ち止まり、不穏な空気で言葉を重ねる男女一組。すわ痴話喧嘩と認識されてもおかしくない状況にも関わらず、カラ松は高揚していた。

「い、いや、嬉しくなんかないぞ。実に困っている。
誰よりもスマイルが似合う麗しのハニーがご機嫌斜めで、どうすればまた微笑んでくれるかをずっと悩んでるんだからな」

矢継ぎ早に言い放ち、カラ松は眉間に深い皺を刻んだ。
「天照大神を天岩戸から出す方がよっぽどイージーだぜ」
「どうだかなぁ」
しかし言葉とは裏腹に、ユーリは組んでいた腕を解いて──笑った。
「まぁいいや。私もテンパったとはいえ大人気なかった」
「えっ!?ええと、ユーリ、それは…ジェラシーだったと、自惚れていいのか?」
限りなくクロに近いグレーが眼前に提示される。色を確定したくて、カラ松は意を決して尋ねるけれど、ユーリは緩くほくそ笑むだけだ。
「さぁ」
グレーをグレーのまま、カラ松に差し出して。




「そろそろ行こうか。押し問答をするために来たんじゃないしね」
スマホの画面で時刻を確認してから、カラ松の腕を軽く叩く。誘導という名の強制だ。これ以上の追求は無駄だと、長い付き合いでカラ松は悟る。
煙に巻かれてしまうのはもはや様式美なのではと落胆しそうになるが、次の瞬間──ユーリはカラ松の腕を取った。
「…ユーリ?」
自分の二の腕に、ユーリの指が添えられる。

「私はカラ松くんのガールフレンド、なんでしょ?」

果たしてどちらの意味合いか。
いたずらっぽい眼差しが、きらきらと美しい。
「何度訊かれても、オレはイエスと答えるぞ」
ユーリはおかしくてたまらないというように、一層顔を綻ばせる。

「でも一番しっくりくるのは、やっぱり──ハニー、だな」

カラ松はユーリを見つめた。

「行こう、マイハニー」