短編:アイドル始めません

灼熱のスポットライトに照らされたステージ、眼前に広がる百人単位の視線、フロア内に響き渡る軽快なテンポの音楽。現実味のない景色に思考を奪われつつ、体が覚えたステップをただひたすらに実行する。意識は一点に集中させる。
右足を引いて上半身を回転させ、客に背中を向けた。肩越しに斜め右下に視線を落とし、マイクを握る手から力を抜く。曲の転調と同時に、体の向きを再びステージに戻し、私は唇から音色を紡ぐ。

フロアの最奥、間接照明さえ僅かにしか当たらない暗闇の中、私の目はカラ松くんを捉える。彼は真っ直ぐに、私を見つめていた。




その日、私はトト子ちゃんに拉致られた
折り入って話があるからといつになく申告な声で呼び出された先に現れたのは、魚に食いつかれたが如きの異様な被り物イカ下足が数本垂れたワンピースに身を包んだトト子ちゃんだった。呆然とする私の手を取って、挨拶もそこそこに有無を言わさず連行したのは、小さなライブハウスの控室である。

「ユーリちゃん連れてきたよ」
トト子ちゃんがドアを開けると、ピンク色の長髪に猫耳を装着した女の子が、スマホから顔を上げた。
──橋本にゃーだ。
チョロ松くんが推している地下アイドル。一緒に撮ったチェキや彼女が載った雑誌を何度か見せてもらったから記憶している。ライブ終わりなのか、傍らには小さめのキャリーケースが一つ。
「何で橋本にゃーさんが…?」
「私のこと知ってくれてるんだ?ありがとねー」
小首を傾げて微笑む仕草は、可愛らしい。
「ユーリちゃん、こいつのこと知ってんの?変わってんね」
橋本さんとは裏腹に、トト子ちゃんは眉間に思いきり皺を刻んで不服顔だ。口調も刺々しい。
「は?お前より私の方が断然知名度あるしな」
橋本さんは鼻で笑う。唐突なキャラチェン。
「チョロ松くんの推しの子だよね?だから、何度か写真を…」
「だとさ。お前の知名度じゃねーんだと。ざまぁ
最高に帰りたい。私何でここにいるの?
「うっせー!つか、身近に私のファンがいるならやっぱ知名度あんじゃん。えーと、ユーリちゃんだっけ?弱井トト子から何て聞いてる?」
どうもトト子ちゃんと橋本さんの間ではある程度の話が済んでいるらしい。当事者の私だけが蚊帳の外である。
「相談があるってことだけ。急に連れてこられて、何が何やらって感じです」
「拉致ればノーとは言いにくいでしょ」
しれっと恐ろしいこと言ってきた。となるとこの状況は、お前に拒否権はねぇぞという前提?
「ユーリちゃんにお願いがあるんだ」
橋本さんは立ち上がり、私の前に立った。エメラルドグリーンを思わせる瞳が、じっと私を見つめる。

「来月のライブに、私と弱井トト子とのグループで出て欲しいの」

「無理です」
全力でノーセンキュー。
早っ!待って待って!今の緊迫したシチュエーションだと、流れ的にせめて詳しい話を聞こうかって展開になるでしょ!」
「聞いても無理です。誰にもの頼んでると思ってるんですか?相手考えてください」
極めて平凡な一社会人である自分の適性を鑑みた故の発言だったが、果てしなく上から目線になってしまった。
「トト子たちがよく使ってるこのライブハウスの人がさ、ここより大きめの箱でライブ共催するんだ。ちょっと有名なアーティストの前座で色物になるんだけどね。
でもそこに来るライブ関係者たちの目に留まる可能性があるなら、私は出たい」
トト子ちゃんが腕組みをして語る。軽い口調だが、目は真剣だ。アイドルとして売れて有名になるための絶好の機会を、決して逃すまいとする強い意思が伝わってくる。
「もちろん報酬も均等に分配する。チャージバックじゃなく固定型で、実入りは大きいんだ」
実際の金額も橋本さんから提示されたが、その界隈に疎い私には、その額が適当なのかの判断がつかない。
「それに…ユーリちゃんの職場、副業は禁止じゃないもんね?」
トト子ちゃんが緩く微笑む。なぜ知っているのか。
「三人目は自分たちで探せって言われて──」
「ユーリちゃんならトト子の引き立て役にちょうどいいかなって
純真な目で本音がダダ漏れ。
「アイドルに興味ないから立ち位置に文句言わなくて、でも頼まれたら手を抜かない便利な子ってユーリちゃんくらいなんだよね」
私を持ち上げると見せかけた壮大なディスり
二人には悪いが早々に暇を告げよう。手を振って出口へと体を向ける私に、トト子ちゃんはそっと耳打ちする。

「カラ松くんの幼少時のアルバム贈呈」

「最善を尽くして引き立て役やらせていただきます」




双方の利害は一致した。
私の変わり身の速さに橋本さんはしばし目を瞠っていたが、私の気が変わらないうちにとキャリーケースを開けて何やら光沢のある布を取り出す。
「テーマは『うさぎ』。で、これが衣装ね」
畳に広げられたのは、不思議の国のアリスに登場する白うさぎを彷彿とさせる鮮やかな色合いのステージ衣装だった。
白のワイシャツにとサテン生地の青いベスト、ボトムスはベストと同じ生地で、裾レースの膝上丈スカラップキュロット。白いジャケットの折り返した袖は、格子の白と黒と目を色違いに並べたチェック柄だ。ジャケットのフラワーホールから垂れるゴールドのラペルチェーンが胸元を彩る。
加えて白いうさ耳のカチューシャをつければ、もはやコスプレの域。色物扱いだから致し方ないとしても、キュロットの膝丈が膝上十センチを超えるのはキツイ
「意外と似合うじゃん」
橋本さんに褒められたが、嬉しくない。姿見に映る自分はまるで別人だった。
トト子ちゃんと橋本さんは、同じデザインのワインレッドカラー。さすがは見目麗しいアイドル、コスプレ衣装も難なく着こなして鏡の前でポーズを決めてみせる。
「推しの幼少時の写真だけでは見合わない気がしてきた…」
「何で?うさぎのユーリちゃん可愛いよ?トト子の次の次の次くらいに
ありがとう、それ褒めてるか微妙なライン
推しのレアアイテムに釣られた自分を恥じつつ、いい加減覚悟を決めなければと思った辺りで、不意に控室のドアが開いた。

姿を現したのは──カラ松くんだ。

「ユーリ!?」

「カラ松くん!?」
なぜ彼がこんな所に。
トト子ちゃんの平然とした表情から察するに、手はず通りといったところか。カラ松くんは唖然としつつも私の出で立ちに顔を赤くした。
「ど、どういうことだ、何でユーリが…!?」
「見ての通りだよ。来てくれてありがとう、カラ松くん」
うさ耳と衣装の装いで浮かべる彼女の笑顔は愛らしい。
「トト子ちゃん、これは…」
「ユーリちゃんに出てもらうならカラ松くんの許可は必要かなと思って、トト子が呼んだの」
余計なことを。
「許可?…というかハニーも、目のやり場に困るその格好はどういうことだ?」
「いや、どうもこうも策略に嵌められたというか陥れられたというか…みなまで言わないで。キツイのは分かって──」
「そうじゃない」
カラ松くんは私の言葉を遮る。

「ユーリには似合いすぎる。他の男の前ではそんな格好するんじゃないぞ」

私の服装から目を逸らしながら、カラ松くんが言う。
「何これ、最高に分かりやすい」
「でしょ。これが盲目ってヤツよ」
橋本さんとトト子ちゃんの白けた視線が背中に刺さる。
「ごめんね、カラ松くん。ライブで着る衣装だから、ユーリちゃんだけ他の人に見せないって約束はできないな」
「ライブ?それにさっき言ってたオレの許可とか…一体何の話なんだ?」
私は首を傾げる。
「カラ松くん、何も聞いてないの?」
「聞くも何も、ユーリについて大事な話があるから急いできてほしいと電話があって駆けつけたんだ。で、いざ来てみたらユーリがいて、しかもこんな卑猥な服を着てるから驚いてる」
彼もまた被害者だったか。あとさらっと卑猥とか言うな。
そして私が深い溜息をついた傍らで、嬉々として顛末を語り始めるトト子ちゃんと橋本さんであった。


控室に備え付けられた年代物のちゃぶ台を囲み、橋本さんのファンから差し入れで貰ったクッキーをお茶請けに、私たちは今後のスケジュールを話し合う。控室には茶を入れるための一通りの道具もあり──なぜか私が──茶を入れ、各自の前に置く。
「事情は分かった」
一通り彼女たちの話が終わり、カラ松くんが頷く。
「ユーリがやると言ったなら、オレはユーリの意思を尊重する…が、ユーリの本名は出さない方がいいんじゃないか?」
さすがはカラ松くん、私の意向を理解している。
「身バレしないように身元情報の扱いは注意するし、化粧とウィッグで雰囲気変えればバレないと思う」
汗をかいても落ちにくいメイクを施すから、と橋本さんは言う。

ステージで歌うのは一曲だが、ダンスとフォーメーションもあるので、練習は必須である。
「後で音源送るから、各自で練習ね」
「合同練習とリハの日は私がスケジュール組むから、
ユーリ ちゃんID教えて」
言われるままに私は橋本さんとSNSのIDを交換する。チョロ松くんの推しのプライベートIDをゲットしてしまった。

その後トト子ちゃんと橋本さんが立ち位置やソロパートの分配で対立し、口論になる。私たちがいる手前取っ組み合いにまでは至らないものの、アイドルとは思えぬ暴言が互いの口から吐き出されていく。
「ハニー」
低い声で呼ばれて、私はぎくりとする。彼がこういった呼び方をする時は、得てして彼の意に沿わない事態が勃発した時なのだ。
「オレはハニーを応援するし、ライブサクセスのために力も貸す。しかし…ただの善意で参加を了承したとはどうしても思えない」
「ええと、それは…」
「何か裏があるんじゃないか?」
深読みキタコレ。
いやしかし、私の思考パターンや趣向を先例と照らし合わせた末の、彼なりの疑問に違いない。そして、カラ松くんに嘘はつきたくない私の出す答えは、決まっている。
幼少時の写真を餌に釣られた真実を知るや否や、カラ松くんは耳を真っ赤に染め上げた。
「そんなもの、うちでいくらでも見れるだろう!」
「見たいんじゃなくて、欲しいんだよ。撮ってるシーンも違うと思うし!」
「だからって、たかだかオレの写真欲しさに無謀なことを──って、え?…オレの写真のために……はぁ!?」
カラ松くんは両手を拳にして、ちゃぶ台を叩いた。

「オレのハニーが可愛すぎる!」

お前のじゃない。
いつの間にかトト子ちゃんと橋本さんの口論は止んでいて、彼女たちはまたもや鼻白んだ顔で私を見つめていた。止めて。
「ソーキュート…っ」
言い換えて畳み掛けるな。




翌日から私の予定は、多忙を極めた。
仕事終わりから就寝までの合間を縫って歌詞の暗記とダンスに勤しみ、昼休みにコソコソと練習もした。アイドル専業のトト子ちゃんたちとは違い、練習に費やせる時間が少ない。足を引っ張らないためにも私は必死だった。

だから、カラ松くんと会う休日に私が疲弊しきっていたのは、当然の展開だったと言える。
「疲れてるなら無理に会わなくていいんだぞ、ユーリ」
カフェの窓際に設置された対面のソファ席。通りに面したガラスに映る彼は、浮かない顔だった。
私はコーヒーに砂糖を落としながら、首を振る。
「メンタル回復には、ある程度のライフ消耗も止むを得ない」
「…つまり?」
「私がカラ松くんに会いたいの」
仕事と練習に明け暮れる日々に、癒やしは必要だ。語気を強めて言い放つと、カラ松くんは僅かに目を見開き、そして破顔した。
「じゃあ今日は夕方までのんびり過ごそう。夕飯はハニーの家で食べるか。簡単なものでいいならオレが作るから、その間ハニーは寝て休む。オーケー?」
「うん!」
カラ松くんの提案は渡りに船だった。感情に体がついていかないことが悔やまれる。
報酬に目が眩んで請け負うんじゃなかったとまで思いそうになる。けれどそれは、本気で取り組んでいる二人に失礼だ。考えを切り替えろ。
スプーンで琥珀色の液体をかき混ぜていたら、カラ松くんがテーブルに上半身を乗り出してきた。

「頑張って結果を出そうとするユーリは格好いいんだ、もっと自分を誇っていい。オレが自慢したいくらいなんだぞ」

私は呆気に取られる。
推しの癒やし効果舐めてた。メンタルの回復量ヤバイ。
「今日の晩餐は任せておけ。オレが腕によりをかけて振る舞おう」
「ふふ、何を作ってくれるの?」
「んー…そうだな、チャーハン、とか?」
啖呵切ってチャーハンかと私は笑いそうになる。
「わ、いいね。楽しみにしてる」
「アイドルの体調管理に気を遣う…オレ。フーン、マネージャーというジョブも悪くないな」
一人悦に入るカラ松くん。
「本業でアイドルとか絶対ないから。
アイドルってキラキラしてるけど、そんな気軽になれるもんじゃないんだよ。地道な努力が必要だし、人脈や運もいる。今回だって他に人がいないって言うから受けたけど、練習しないと二人の引き立て役すら務まらないんだからね」
「言っておくが、オレだって一回限りだから納得したんだからな。
ユーリが他の男たちに愛想を振りまくのは、これっきりにしてもらおう。絶対に正体はバレないようにな」
言われるまでもない。ウィッグを被って化粧も変えるし、何なら付け黒子もつける。だから案ずるなと声をかけようとしたら、その矢先にカラ松くんは自身の髪を片手でぐしゃぐしゃに掻き回す。

「すまん…本当は、オレが嫌なんだ。ユーリのことを心配してるのも事実だが、それ以上に…オレが──」

「カラ松くん…」
「ユーリが、遠くに行ってしまいそうな気がして」
弱々しい声で紡がれる言葉。私は耳にかかる髪を掻き上げ、ふっと笑う。
「キラキラファントムストリームこじらすな、働け」
「すいません」





ライブの日、私たち三人は一日限定のグループと紹介があった。トト子ちゃんと橋本さんは普段はソロ活動をしていること、私の素性は本人の希望により非公開であることも合わせて説明してもらう。
金髪のロングカールウィッグをかぶり、いつもとテイストの違う化粧、そして下唇の近くに付け黒子をつけた。変装よろしく顔を変えた私を見たカラ松くんは、しばし呆然としたものだ。
ホールは千客万来で、百人規模の来場客で溢れていた。大勢の客を前に、うさ耳と色物のコスチュームを着てステージに立つ。経営陣の前でのプレゼンとはまた大きく異なる緊張感が私たちを包む。

ステージに立った橋本さんが、最前列を見てにこりと笑う。男性陣が彼女の笑顔に応じ、ペンライトを振った。SNSを見て駆けつけた彼女のファンだ。その中にはチョロ松くんもいて、目を輝かせて橋本さんとトト子ちゃんを見つめる。
私とも視線がぶつかったので、絶対に私だと気付くんじゃねぇぞと念を込めて目を細めたら、赤面された。

「橋本にゃーです!普段は猫耳、尻尾、ブレザー、みなさんの性癖くすぐる超絶愛玩ヒロインやってます」
「魚介類を愛してやまないお魚アイドル、弱井トト子です!デビュー曲は『鱗を剥がさないで』です、みんな買ってねー」
二人はうさぎの格好で猫だの魚だのとのたまう。けれど会場からは小さくない笑い声が溢れて、ひとまず彼らの関心を得たことが窺える。掴みはオーケーというヤツだ。
目が眩むようなスポットライトを浴び、音源に合わせて声を出す。思考より先に動く体。舞い上がる二人の髪が煌めいて、フロアに響き渡る歌声はどこか他人事のようにも感じられた。
マイクを持たない側の腕を横に広げて、指先に力を込める。弧を描くようにすぐさま胸元に引き寄せ、肩を竦めながらサビに入る。二人の歌声を掻き消さない声量を意識しつつ、歌声を重ねた。

フロア奥に酒を嗜むラウンジコーナーがある。カウンターチェアに座っているカラ松くんの姿を私の目が捉えた。目線を上げる振り付け時にほんの一瞬垣間見えたに過ぎないが、彼は感情の読めない表情で、私の動きだけを追っていた。

百人以上の客がいても、すぐに分かる。薄暗い空間に溶け込む黒の出で立ちでも、彼の姿だけは。




「おっつかれー!」
控室に入るなり、三人でハイタッチ。
それから橋本さんは、差し入れの冷えたペットボトルを投げて寄越す。
私は礼を告げながらパイプ椅子に座り、背もたれに思いきり背中を預けた。ノーミスクリア、我ながら最高の引き立て役、すんばらしー。顔に出さず自画自賛。
メインアーティストの演奏が控室にまで漏れ聞こえてくる。室内には出演を終えた三人だけだ。
「沸いたねー。他人の曲だったってのが気に入らないけど」
トト子ちゃんは高らかに足を組み、ボトルのドリンクをあおった。ステージ上で見せた純真さとはかけ離れた貪欲な精神。
「休憩時間には顔売りに行かなきゃね」
橋本さんは鏡の前で化粧直しに余念がない。
「当然。このために名刺作ってきたんだから」
「やるじゃん、弱井トト子」
「当然だろ」
乱暴な応酬の後、顔を見合わせてニヤリとほくそ笑む二人。その頭上で白いうさ耳がふわふわ揺れている絵面は、違和感しかない。

「ハニー!」
そうこうしている内に、カラ松くんが控室に飛び込んでくる。
「一番輝いてたな!こんな小さな箱はユーリには合わないっ、武道館目指せる圧倒的存在感だった!エクセレント!マーベラスっ」
控室に轟く大きい声は、幸いにもステージの演奏でかき消える。
「嬉しいけど褒めすぎだよ、カラ松くん」
「オレは本気だ!一回きりの約束で良かった、ハニーのカリスマ性は新興宗教の教祖クラスだ!」
思考が危ない。
私は立ち上がって彼を中に引き入れると、ドアの外の様子を窺う。廊下には誰もいない。
「チョロ松くんは?」
「会ってないな。オレがここに来ることは話してないし、後で適当に偶然を装っておけばいいだろう」
確かに。トト子ちゃんの応援に来たとでも説明すれば納得するだろう。
「本当に頑張ったな。たった一回きりの出演のために、寝る間を惜しんで練習してたのを見てたから感慨深い。グレートサクセスだ、ユーリ」
私の本心も知った上で労ってくれる、その賛辞は素直に嬉しい。成功の高揚感がまだ胸の内で燻っているから、今にも目尻に涙が浮かびそうだった。
「…ありがとう」

「最後に見送りあるから、それまでは衣装脱がないでね」
スマホのディスプレイに目線を落として、橋本さんは言う。
「希望者には握手もするから」
続けて発された台詞を、私は来場者へのサービスの一環だろうなくらいに気軽に捉えていたのだが、カラ松くんが眉根を寄せた。
「ウェイト」
それから橋本さんの前に立ち、腕を組む。

「聞いてない」
「言ってない」

互いに向け合った鋭い眼光からは火花が散るかのようだった。雲行きが怪しくなってくる。ぶっちゃけクソだるい
「ファンサは当然だしね」
「ユーリはアイドルじゃない」
「今日限りは私たちとグループ組んでるアイドルだから。本人も異論ないでしょ」
「どこの馬の骨ともしれない野郎どもに気安く手を握られろと?」
「承認欲求を満たしてくれて、なおかつ課金もしてくれる大事な人たちだから」
要は価値観の相違である。どちらが正しいという話ではなく、このままでは水掛け論がヒートアップするだけだ。
トト子ちゃんは我関せずの体で、置かれていた雑誌を気怠そうに眺めている。
「希望者だけっていうし、その中でも多くの人は橋本さん目当てだと思うよ」
報酬を得る以上、今日は最後まで彼女たちの引き立て役を貫くと決めている。カラ松くんの心配は嬉しいが、大人しく引き下がりやがれ
しかし彼は眉間に寄せた皺を一層深くした。
「分からんぞ。三人とも可愛いからな──特にハニーは別格だ」
途端にトト子ちゃんと橋本さんは苦虫を潰した顔になる。推しが本当にすいません。
「とにかく終わるまでは邪魔したら駄目。トト子ちゃんと橋本さんに迷惑かけたら──襲うよ
「っ、ハニー…」
私の凄みに目を瞠り、カラ松くんは項垂れる。言い過ぎたかと良心の呵責に苛まれそうになるが、私が何か言うよりカラ松くんが妥協案を見出す方が早かった。

「…分かった、手出しはしない。ただし、側で見届けさせてもらうからな」


メインアーティストの演奏が終わり、私たちは出入り口近くで待機する。
「ありがとうございました!良かったらソロライブにも来てくださいね」
客の多くはこのライブの主役目当てだから、見向きされないのは端から折込済みだった。しかしトト子ちゃんと橋本さんは商魂逞しいもので、今後のライブスケジュールが記載されたチラシを配布する。私は愛想笑いを浮かべて彼女たちを彩る花に徹する。
ときどき握手を求めてくれる客もいて、もちろん笑顔で応じた。僅か数秒の触れ合いで、世辞も多分に含まれているだろうが、気にかけてくれるのは喜ばしいことだ。
「にゃーちゃん!超絶可愛かったよ!」
聞き慣れた声がして振り向けば、顔を綻ばせたチョロ松くんが橋本さんと握手を交わしていた。
「あ、トト子ちゃんももちろん!猫も魚もいいけど、うさぎも最高だった!」
後がつかえているので、やり取りはほんの一瞬だ。チョロ松くんが私の前に来る。
「ありがとうございました」
声音を変えて、私は礼を述べる。彼は少し照れくさそうに視線を外したが、すぐに顔を上げた。
「ええと…君は、今回限りの助っ人なのかな?」
「はい。これからも是非二人を応援してくださいね」
チョロ松くんにとっては言われるまでもないことだが、他人ならこう言うだろうと想定した台詞を口にする。彼は頷いて、笑った。

「にゃーちゃんとトト子ちゃんを支えてくれて、ありがとね」

しっかと手が握られる。
「ち──」
「チョロ松」
危うく名を呼びそうになるのを、カラ松くんの声が遮った。
「えっ!?あ、え、カラ松?何だ、お前も来てたの?」
「トト子ちゃんの応援にな。こんな所で会うとは奇遇だな、ブラザー」
チョロ松くんの肩を抱き、カラ松くんは外へと向かう。去り際にちらりと一瞥が寄越された。三男からは見えないようひらひらと手が振られたので、彼のことはカラ松くんに任せることにした。

「あの」
客を八割方見送ったところで、一人の男性に声をかけられた。私と同世代くらいだろうか、優しい雰囲気を纏った人だ。
「あ、はい」
「素性は非公開ということでしたが、もし活動をしてるならSNSとか…せめて場所を教えてもらうことはできますか?」
予想だにしていなかった問いだ。私は硬直する。傍らの橋本さんが、ニヤニヤと意地の悪い笑みを浮かべた。
「すみません…元々活動してなくて、今回は二人のサポートとして入っただけなんです。今後も予定はしていません」
明確にしておかなければと意気込んだら、棘のある物言いになってしまった。
「でも──楽しかったです。
見てくださって、ありがとうございました」
これは本心だった。今後も足を踏み入れるつもりは毛頭ないが、達成感には未だに酔いしれている。
男性はダメ元の確認だったようで、にこりと笑みを見せてくれた。
「そうですか…。
歌も踊りも、荒削りで一生懸命なところがすごく良かったです。一曲があっという間でした」
私の胸に温かいものが広がる感覚があった。引き立て役だのメインに添える彩りだのと卑下していたが、人を喜ばせるという実りのある結果を残せたのだ。
別れを告げる彼に、私は深々と頭を下げた。




「ユーリ」
来場客の見送りを終え、控室に戻ろうとした頃にカラ松くんが戻ってきた。
「あ、お帰り。チョロ松くんはいいの?」
「途中で別れてきた。ハニーを置いては帰れない」
まだ宵の口だ。
「──というか、一人だけ長く話してる奴がいたな。そいつとは何の話をしてたんだ?」
見ていたのか。それならそうと最初から素直に訊けばいいものを。うさ耳のカチューシャを外しながら、私は笑う。
「褒めてくれたの」
「褒めた?」
「そう。上手くなかったけど頑張ってたねって。そう言ってもらえると嬉しいね」
もしかしたら取るに足らない世辞だったのかもしれないけれど、それでも私の心は満ちる。
「ユーリの努力はオレが一番知ってる」
なぜか張り合おうとする当推し。

「トト子ちゃんとにゃーちゃんを際立たせるために、敢えて目立つことをしなかったのも、仕事終わりに毎日練習してたのも、その努力をひけらかさず去ろうとしてることも……全部知ってる」

どこまでも真摯な瞳が、私を見つめた。唇を真一文字に引き結び、下ろした手は強く握りしめて、ただ真っ直ぐに私を捉える。
私には、それで十分だった。

アイドル二人に挨拶を済ませて、カラ松くんと共にライブハウスを後にする。化粧を落とし私服に着替えたら、完全にお役御免だ。
「ユーリちゃん!」
完全に気を抜いていたから、弾む声で名を呼ばれた時は思わず目を剥いた。
「…チョロ松くんっ」
ライブハウスから数メートルも離れていない通りである。ライブが終わってから一時間以上が経過しており、まさかこんな所でチョロ松くんに出くわすとは思ってもいなかった。ヤバイ。
「カラ松と一緒だったんだ?」
「あ、その、チョロ松くん、私…」
「ユーリちゃんもトト子ちゃんの応援?」
破顔するチョロ松くん。私は即座に頷いた。
「そう、はい、応援。トト子ちゃんと、私、話、盛り上がって、つい」
「…ハニー、日本語に不慣れな外国人みたいな喋り方になってるぞ
お前は黙っとれ。

「そっかぁ、にゃーちゃんもトト子ちゃんも超可愛かったよね!あの衣装はマジでレアだよっ、奮発してチケット買って良かったぁ。
っていうか、ユーリちゃんも行くって知ってたら誘ったのに」
「ホントダネー、キガツカナカッタナァ」
「ハニー…」
憐憫の目を向けるんじゃない。こちとら罪悪感と疲労感でいっぱいいっぱいなんだよ。
「あ、でもカラ松とデートか。じゃあ邪魔しちゃ悪いな」
「それは違うから大丈夫」
「何でそこだけ真顔で断言するんだ、ユーリ」

すかさず否定した私と不服そうなカラ松くんを前に、チョロ松くんは苦笑する。それから思い出したように、あ、と声に出した。

「もう一人の子も、お綺麗だったよね」

何と返せばいいのか、一瞬の躊躇いがあった。肯定するのは自画自賛乙だし、かといって否定すれば三男の感想に異議を唱えるに等しい。
黒目を左右に動かして思案していたら、不意にカラ松くんの右手が私の背中に触れた。

「ああ、綺麗だった。それに───すごく頑張ってたな」



一日限りのアイドルはこうしてひっそりと幕を閉じた。
充実感はあったり、表向きの輝かしさからは窺えない努力も垣間見ることができ、楽しくなかったと言えば嘘になる。麻薬のような優越感も身に沁みた。
でも私は、絶対に───アイドル、始めません。