短編:白銀の世界で恋人たちは

「雪の降る日に、ユーリと出掛けたかった」
カラ松くんは相好を崩しながらそう告げて、改めて私をじっと見つめた。

「……調子こいてすいませんでした」




彼と会う予定の週末、東京の天気予報は雪だった。積雪によっては交通網に影響が出るから、会うのは延期しようかという私の提案をカラ松くんは拒否し、雪だからこそ会いたいと電話口で力説してきた。日頃私の意向を優先してくれる彼にしては珍しい懇願だったから、天気が荒れないことを祈りつつ、雪がちらつく中外へ繰り出したのである。

「フッ、ハニーよ。オレは今日驚くべきファクトに気が付いたぜ」
待ち合わせ場所である駅の構内。お決まりの挨拶を済ませたところで、カラ松くんは人差し指で前髪を横に流す仕草をした。
「スノウ…それは美しい。喧騒の街東京を白く染める純白、そして───」
右手の手のひらを上向けて、外へと私の視線を促す。

「ほぼ雨だ」

知ってた。
体に触れたら一瞬で液体に変わる結晶、傘は必須。視界と足場への悪影響が追加される分、雨よりも厄介な天気である。
やっと気付いたのかと白けた目を彼に向けたら、ネイビーカラーのダウンジャケットの肩口だけ、色が少し濃くなっている。
「カラ松くん、肩濡れてるよ。傘さして来なかったの?」
「え?…ああ、オレが出た頃はまだ小降りだったし、まぁ…その───」
あからさまに歯切れが悪くなった。無言で続きを促すと、カラ松くんは諦観の様相を呈し、吐息と共に本音を口にした。
「ここ何年も雪が降ってる間は基本ひきこもってたから、ここまで面倒くさいと思わなかった」
「さすがニートのプロ」
ツッコミが思わず口を突いて出てしまった。
「オレの想定を上回るスノウ…やるじゃないか」
感心してる場合か。
「実は…憧れてたんだ」
カラ松くんは鼻先を指で掻きながら、照れくさそうな表情をする。

「雪の舞う中、ユーリと二人で並んで歩けたら、と」

微苦笑と共に紡がれる本心。
「漫画でよくあるだろ?
鼻についた雪を拭うとか、白い息を吐きながら語り合うとか、そういうのをやりたいと思っていたんだが……冷静になった今は煩わしさが勝つ。
オレが今家のこたつで温もりたいと思うくらいだから、ハニーを呼び出した罪悪感がすごい
ようやく現実を直視し始めたらしい。駅のコンコースで傘を畳む人たちは、一様に大儀そうな顔つきに見えた。降雪に胸を高鳴らせているのはほんの一部に過ぎない。
「雪って、漫画やドラマのようなロマンチックなものじゃないと思うよ」
「うん」
「降るのが強くなってもし電車止まったら、カラ松くんがタクシー代出してよね」
「それは…も、もちろんだ!」
カラ松くんは強く頷く。私の機嫌を損ねるまいとした焦りが窺えた。
しかし直後、ハッとして私を見据える。
「そうか、雪をオプションにせずメインに据えていれば…スキーデートにすれば良かったのか!
懲りてねぇ。
何が何でも雪をエンジョイしたい勢力か。私は呆れつつも、彼のその真っ直ぐさが羨ましくもあった。
「次はリベンジだ、ハニー!」
瞳を輝かせて同意を求めてきたら、もうノーとは言えなくなる。
「そうだね」
「オレ、金貯めておくから」
期待に胸をふくらませて破顔する推しは可愛いの極み。拒否の選択肢は消えた。私は従順なイエスマンとなり、彼の笑顔を求める。
「はは、ユーリも息が白いな」
絵面が軽率に最高得点を叩き出してくる。我が推し活に悔いなし。


雪が本降りの様相を呈し、景色が白く染まる。悠々と散歩できる雰囲気でもなく、私たちは駅からほど近いショッピングモールで時間を潰すことにした。天気予報では、ややもすれば小降りになるという予測だったためだ。
案の定、一時間後私たちが外へ出た時には晴れ間が覗いていた。降ったり止んだりの不安定な一日らしい。
「やっぱり晴れている方がいいな」
「だねー」
地面には白い絨毯が広がっている。レインブーツで踏みしめれば、シャリッと音を立てた。不意に差し込んだ太陽の光が反射して、私は目を細める。
「ユーリ」
カラ松くんが微笑みと共に手を差し出してくる。
「足場が不安定だ───さ、お手をどうぞ」
従者か執事のように、少々大袈裟にも見える仕草で。けれど意外と様になるのが、松野カラ松という男だ。
私は彼と同じ表情で、その手を取った。

呼吸するたびに白い息が空気中に吐き出される。雪が積もるだけあって気温は低く、体温は容易く奪われる。吹き付ける風が孕む冷気に首を竦めたら、カラ松くんがふふと笑った。
「どうかした?」
「あ、いや…」
決まりが悪そうに、目が逸らされる。
「…夢が一つ叶って嬉しい、そんなことを思ってた」
雪の舞う中、私と並んで歩けたら──先程彼が語った夢を思い出す。

「オレの予想通りだった。白い背景も相まって、今日のユーリはいつも以上に綺麗だ」

キュートだぜ、なんていっそ茶化して言ってくれれば、私も笑って受け流せたのに。これは本心の吐露だ。私に受け止めてくれと希う。
「ありがとう。カラ松くんにそう言ってもらえると嬉しい」
だから私も真正面から受け止める。何か言葉を告げるべきか逡巡するより前に、私の口から大きなくしゃみが出た。空いている片手で鼻を擦ったら、驚くほど冷えている。
「わっ、手冷た!どうりで寒いはずだよ」
「雪はまだ降るみたいだしな」
カラ松くんはしばし目線を上向けて思案した後、繋いでいる私の手ごと無造作に自分のアウターのポケットに突っ込んだ。私は言葉を失う。一軍の方々がやることをしれっとかましてきたぞ、こいつ。
「オレのワガママでハニーをコールドにしてしまっただろ?」
無邪気か。
「にしては大胆だね」
え、と驚きを顔に貼り付けてから、カラ松くんは自らのポケットに視線を落とした。視覚で現状を確認し、脳で認識と情報処理に至る。
「……あ」
反応は体全員でもって表された。
「えっ、あ…っ、あの、い、嫌か?」
「ううん。とんでもない」
ああ、とカラ松くんは安堵の息を漏らす。
「実は…やってみたかったんだ。ほら、これもよくあるだろ、恋人の手をこうやって温めるヤツ」
それから目尻を朱に染めて、はにかむように苦笑した。恋人。カラ松くんは自分がどんな強大な爆弾を落としたか自覚のないまま嬉しそうに前を向くから、私は気付かなかったことにした。私の菩薩級に広い心と気遣いに感謝しろ。

「雪絡みでやりたいこと、全部やってみる?」
乗りかかった船だ。私の休日に雪が降るなんてそう頻繁にあることでもない。
「やりたいこと…」
「カラ松くんの憧れ、私も興味あるし」
推しに関する新情報は課金してでも得るべし。
「ハニー…っ!」
カラ松くんは感極まった様子で破顔する。つかの間の晴れ間が、彼の顔を明るく照らした。




私たちは井の頭公園へとやって来た。私たちにとっては、目的のない散策時の定番コースになっている。都会の公園とは思えないほど緑と湖が広がり、四季折々の景色を美しく彩りつつ、閑散と喧騒の間の程よい人気を感じられる場所だ。
公園に着く頃には再び雪がちらつき、木々や道を一層白く染め上げていた。見慣れた光景がひたすらに白いその変貌は、まるで異世界への入り口だ。踏みしめた二人分の足跡は、降り積もる雪で隠される。

「雪景色だねぇ」
私は感嘆の声を漏らした。普段に比べて人気が少ないせいもあるのだろう、景色も空も全てが白い、世界。
「さすがに来園者は少ない、か…」
周りを見渡しながらカラ松くんが言う。
「こんな日にベンチに座ってまったり、ってわけにはいかないよね」
「だな。不審者と勘違いされかねん」
私たちは道中のキッチンカーで買ったホットコーヒーをカイロ代わりに両手で抱え、歩く。純白の絨毯に、不揃いな足跡を刻みながら。
遠くの方で子供たちが、傘もささずに駆け回っている。体が濡れるのも構わず、足元の雪で玉を作って相手に投げたり、手で掬った雪を散らしてみたり、キャッキャッと明るい歓声が私たちにも届く。
何だか少しだけ羨ましくなって、私はカラ松くんが持つ傘から抜けた。雪を浴びる。
「ユーリ?」
サラサラと舞い落ちる結晶は、手のひらに触れるなり溶けていく。形を確かめる暇もないほどあっという間に、幻想は現実に姿を変える。
雪を純粋に楽しめなくなって、大人への変貌を自覚した。と同時に、何か大切なものを失ったようにも感じていた。雪がもたらす不便や不快が先立って、愉悦に蓋をしたのだ。

「ユーリ、雪が──」
「楽しいね」
「…ユーリ?」
「冷たくて白くて綺麗で、神秘的」
私は軽快な足取りで進む。純白の絨毯に誰よりも早く足跡をつけたくて、長靴で走ったあの頃みたいに。両手を横に伸ばして、緩く体を回転させる。くるくると回る景色の中で、カラ松くんが笑っている。

「スノーフェアリーみたいだ」

独白に似た呟きだった。
「お世辞が上手いね」
「歯の浮くような台詞だからか?」
何だ、自覚はあるのか。そうかもねと同意を示そうとしたら、カラ松くんに先を越される。
「ストレートな表現の方がいいのか?」
その返しは予想外だった。
「──綺麗だ。眩暈がするくらい、本当に、嘘偽りなく」
熱を帯びた双眸は細められ、白い息と共に空気に乗って届く言葉。私は目を閉じ、自分の鼻筋に指先を当てる。私の語彙は死んだ。
悶絶を必死に堪えていたら、す、と手のひらが向けられる。
「スマホ貸してくれ」
「何か撮るの?」

「雪景色はまた来年以降も見られるが、雪の中で舞う今日のユーリは、今日しか見られないだろ?」

細やかな白い粒が舞い落ちる景色で、鼻を赤くしたカラ松くんが微笑む。
雪景色に佇む推し、尊さが限界突破




少しの間、傘もささずに二人で雪を浴びた。数十メートル先も見渡せない不便な視界、目に映る景色はどこまでも白に覆われている。
「付き合ってくれてサンキュ、ハニー」
傘を広げて私に向けながら、カラ松くんは言った。
「ううん、結構楽しかったよ。最初、辛辣な言い方してごめんね」
私の詫びには、穏やかな笑みが返ってきた。
「ユーリの叱責は当然だ。オレだって雪の日におそ松に意味もなく付き合わされたら殴る
長男が不憫。慈悲はないんですか。

「夢も叶った。今日はラッキーデーだ」
「あれ、それはまだじゃない?」
「まだ、とは?」
カラ松くんがきょとんとするので、私は笑う。言い出しっぺが願望を失念してどうするのだ。
だって、彼が望んだのは───

「雪の舞う中、私と二人で並んで歩く──でしょ?」

雪が降っていなければ叶ったことにならない。私の意向に気付いた彼は、頬を紅潮させて嬉しそうに破顔する。
「一分だけオレにくれ」
傘を畳みながら、カラ松くんが告げた。彼の黒い髪に雪の結晶が落ちる。うっすらと地面に積もった白い絨毯に、大きさの異なる二つの足跡を残しながら、私たちは黙って歩いた。
どんな言葉も野暮な気がした。


「手も足も冷たいねー」
レインブーツとはいえ、寒さは直に伝わる。外気に晒されている両手は言わずもがなだ。
「フッ、いいことを教えてやろう」
両手に息を吐きかける私を横目で見ていたカラ松くんが、フフンと鼻を鳴らす。
「オレのここは、ハニー専用でいつでも空いてるぜ」
ダウンジャケットを広げ、胸元を強調した。いつでも包み込んでやると、そう言いたいのだろう。そういうのは身長差や体格差があるから効果的なのであって、目線が並ぶ私相手には横からの風避けにしかならない。絵面が良くない。
「あ」
しかし私の脳裏に、一つの案が浮上する。
「ねぇ、カラ松くん」
「ん?」
「ちょっと両手出してみて」
彼は私の発言に僅かな疑念も抱かず、向かい合う格好で、手のひらを上向けて素直に差し出してくる。私はそれを取って、自分の手ごとジャケットの両サイドのポケットに突っ込んだ。カラ松くんは驚きに目を見開く。
「っ…ユーリ…!」
「欠点は、ここから動けないことだね」
名案だと思ったが早計だったようだ。さてどうするか。思案を巡らせる私とは対照的に、カラ松くんは呆気に取られたまま動かない。

「あはは、やだもー!」
そうこうするうちに、少し離れた場所から軽やかな女性の笑い声が耳に届く。私たちは反射的に顔を声の方へ向けた。
視線の先では、彼氏と思わしき二十代の男が彼女の両手を包み込んでいる。互いに突き合わせた顔には笑みが浮かんでいて、微笑ましい光景だ。
「……カップルか」
しかしカラ松くんは眉根を寄せて忌々しげに呟く。若いカップルに対する六つ子の敵対心と劣等感は凄まじく、そこに妥協はない。リア充に親でも殺されたんか。いや両方生きてるけども。
というか。
「私たちも同じじゃない?」
端から見れば。
「いや待てハニー、オレはもっと高尚な──」
「だって、ほら」
私のジャケットに差し込まれた彼の両手に目を向けると、カラ松くんはハッと我に返った様子だった。
「えっ…しかし、これはあの……えぇっ!?」
声がひっくり返った。無自覚ってヤツは怖いな。まぁそこが可愛い。

やがてカラ松くんは空気を変えるように、わざとらしく咳払いを一つした。
「ユーリの恋人役という大役を仰せつかったのはマイプレジャーだ。この松野カラ松、今日一日つつがなく勤め上げてみせよう」
「わざわざ演じなくても、自然とそう見えてると思うよ」
私たちが互いに心地良いと感じる距離感は、ただの友達にしてはあまりにも近すぎる。
カラ松くんは鼻先を一層赤くしながら、フッと笑う。
「いつになく大胆なことを言うじゃないか、ハニー」
「雪のせいかな」
「……そうかもな」
声を立てず、肩を揺すって笑う。


「なら、これからオレがらしくないことを言っても、全部雪のせいにしてくれよ」

そう言って彼は、私の耳に唇を寄せた。生温い吐息と共に紡ぎ出される言葉は、私の耳にしか届かない。目を閉じて、声に意識を傾ける。
何もかも全部、降り積もる雪のせいにして。

六つ子が嫌悪するカップルという器に、私たちも無自覚に溶け込んでいく。