「コールド!トゥーコールド!」
白い息を吐き出しながらカラ松くんが身を震わせ、玄関に駆け込む。黒いモッズコートのフードは、雪のせいで僅かに濡れていた。
ショッピングモールでの買い物を終えた私とカラ松くんが数時間ぶりに外を出たら、空一面に広がる灰色の雲から雪がちらついていたのだ。今日は今年一番の冷え込みになりそうだと朝の天気予報で報道していたけれど、降雪は予想外だった。そのため私たちは、次に予定していた公園散策を急遽取り止め、徒歩圏内にある我が家へ避難することにしたのである。
玄関でアウターの水滴を払い、二人分の上着をコートハンガーに掛けた。それから私が先に部屋に上がり、明かりと暖房をつける。風量は強に設定。家を出て数時間の間に、部屋はすっかり冷え切っていた。
「ユーリ、戦利品はここに置いていいか?」
カラ松くんが紙袋をフローリングに置く。今日買った服が入った袋を、彼は購入直後から持っていてくれた。
「うん、ありがとう。適当にその辺でいいよ」
カラ松くんは私の返事に頷いた後、リビングの掃出し窓から外の様子を窺った。レースカーテン越しにも今なおはらはらと舞う雪が見える。
「スノー、か。冷えるはずだ」
そう言う彼の出で立ちは、Vネックの白い長袖ニット一枚。袖はしっかり捲っているから、そりゃ寒いわとツッコミの一つも入れたくなる。
でも上半身のラインが出てたまらん色香を放ち、これはこれでオイシイから黙っておく。冬場の推しの色気は貴重だ。
「ほんと寒いね。何か温かいもの入れようか」
暖房が効くまではしばらくかかりそうだ。
「コーヒーならオレがやるぞ、ハニー」
カラ松くんにとっては勝手知ったる我が家のキッチンである。すっかり第二の自宅だな、と笑いそうになった。
スマホで時刻を確認して、私は唸る。時刻は午後四時半になろうかという頃合いだ。
「コーヒーだけだとお腹すかない?」
「しかし二時間もすればディナータイムになるだろ」
その言い方は、私の質問を肯定しているようにも受け取れた。つまり、空腹を感じてはいるものの、おやつをしっかり食べるのは躊躇する微妙な時間と感じているのだろう。
「晩ご飯は調節すればいいよ」
冷蔵庫にある食材で作れば、献立や量を調節しやすい。費用も抑えられて一石二鳥だ。
「温かいもの用意するね」
コーヒーは手軽だ。インスタントならカップに粉末と湯を注げば数十秒で完成するし、血行を促進して体を温めるカフェインが含まれている。だが反面で利尿作用があり、トイレに行く回数が増えて体内の水分が出ることで体温が下がるとも言われている。
リビングのローソファに背を預けタブレットを眺めているカラ松くんを横目に、私はキッチンの棚からピュアココアの缶を取り出す。ミルクパンにココアの粉と砂糖、少量の水を加えた後、ペースト状になるまでスプーンで練る。三つの材料がよく混ざったら、牛乳を加えてコンロの火にかけた。
「ユーリ?何か作るのか?」
リビングからカラ松くんの声がする。
「すぐできるよー」
アルミ製ミルクパンは火の通りが早い。二人分の牛乳が沸騰直前の温度まで上がるのは瞬く間だった。ココアのペーストは跡形もなく溶けて、美しいえんじ色になる。カカオの香ばしい匂いが換気扇に吸い込まれていく。
色違いのカップに注いで、カラ松くんの待つリビングに運ぶ。彼は私が着くなり、鼻を鳴らした。
「サンキュー、ハニー。それは……チョコ、じゃないな。ココアか?」
「当ったりー。カラ松くん仕様で、ほんのちょっと砂糖控えめにしてみました」
カラ松くんの隣に腰を落ち着けて、マグカップに両手を添える。冷えた手に温もりが伝わって心地良い。
お茶請けには、いちごジャムがのったロシアンクッキー。我ながらいいチョイスだと内心で自画自賛する。
カラ松くんは何度か息を吹きかけた後、カップに口をつけた。
「───旨い」
目が瞠られる。
「ココアなんて久し振りだからもっと甘ったるく感じるかと思ったが、普通に旨いな。一気に飲めそうだ」
「クッキーにも合うよね」
生地のサクサク感と粘度の高いジャムのハーモニーが絶妙だ。ドリンクも菓子も甘いのにしつこさはなく、スッと喉に通る。寒さと長時間の移動による適度な疲労感で、脳が糖分を欲していたのかもしれない。
「ココアのポリフェノールとかテオブロミンっていうのが、血管を広げて体を温める効果があるんだって」
「へぇ、理に適ったドリンクなんだな」
素直に感嘆する推しの可愛さプライスレス。
「…それに」
カラ松くんは私を見てはにかむ。
「ユーリがオレのために入れてくれたものだから、余計に旨く感じるんだろうな」
飲み物一つにも虚勢を張りたがり、やれ男は黙ってコーヒーだのブラックだのとのたまう彼に、甘い物を飲ませてみたかった。鼻を明かしてやろうという意図も、なかったとは言えない。
結果的に事は上手く運び、晴れやかな笑みを引き出すことに成功した。マグカップの中身は数分もせず空になり、当初の思惑以上の成果は出たと言える。ギャップ萌えはいつの時代も鉄板。
その晩、私は物音で目を覚ました。カーテンの隙間から入り込む僅かな街灯の光が、ローソファから上体を起こす人影を照らす。布の擦れる音が小さく響き、私の意識を現へ呼び戻した。
「…カラ松くん?」
ほとんど条件反射で名を呼ぶ。私の他に室内にいる人間は、彼しかいなかったからだ。電気のスイッチを入れたら、やたら眩しくて目を細める。
私たちは例によって夜に酒を飲み、寝落ち同然に意識を失った。飲みかけのアルコール缶と食べかけのつまみはテーブルに散乱したままで、私と彼の出で立ちは帰宅時と同じ外出着、私に至っては化粧も落としていない。カラ松くんが眠った後に少し横になるだけのつもりが、うっかり熟睡してしまった。電気を消している時点で寝る気満々だった気がしないでもないが。
「ハニー…すまん、起こしたか?」
カラ松くんが申し訳なさそうに眉を下げたのは、その瞬間だけだった。壁掛け時計を一瞥してすぐ、溜息混じりに腕組みをする。
「──というか、オレに非があるのは百も承知で言わせてもらうが、放置せず起こすなり何なりしてくれ。その…なし崩し的に泊まってしまうのはやはり、道徳的にだな…」
彼の眉間に皺が寄る。私は瞬時に悟った。説教へのカウントダウンである、と。
貞操観念どうなってるんだ身持ちは固くあれだの、お前が言うな的なテンプレ説教はもはや耳にタコなのだ。それに対して返す私の台詞も、既にお決まりとなって久しい。いい加減説教の効果は希薄どころかゼロに近いことを学習してくれと切に願う。
私はベッドの端に腰を下ろし、これから始まる小言に早くも辟易した。
「いいか、ユーリ。ユーリは自分の魅力を───」
しかし、彼の言葉はそこで途切れる。
カラ松くんの腹が、ぐぅと大きな音を鳴らしたからだ。
私は目を見開き、彼は反射的に自分の腹部に手を当てた。聞き流すにはあまりに大きな音だったから、説教の中断もやむなしだ。
「……あ」
「お腹すいた?」
私はカラ松くんに尋ねる。
というのも、空腹を満たす夕食は摂っていなかったのだ。クッキー以降口にしたのは、つまみとして用意した乾き物だけだった。腹が減れば後でラーメンなり丼なりを作ればいいという考えでいたけれど、その前に眠ってしまったから。
「…すいた」
気勢を削がれたみたいにカラ松くんは呟いて、地面に視線を落とした。
「だよね。ごめん、ちゃんとご飯用意しなくて。簡単なものでよければ用意するから、少しだけ待ってて」
「や、待て、ユーリ!オレはそういうつもりじゃ───」
立ち上がろうとする私を慌てて止めようとするので、カラ松くんの唇に人差し指を当てて黙らせる。
「私もお腹すいたからさ、夜食付き合ってよ」
一人で食べるのは味気ないしね、と付け加えて言えば、カラ松くんの表情は晴れやかなものになった。ぱぁっと、明かりが灯るように。
「そ、そうか、ハニーもハングリーだというなら致し方ないな」
「炊飯器に昼間炊いたご飯があったと思うんだよね」
「カップラーメンがあるか?あれならユーリの手を煩わせないし、オレはそれで十分だ」
「駄目」
私は首を横に振る。
「カラ松くん、おそ松くんたちと夜食にカップラーメンよく食べるって話してたでしょ。頻繁だと体にも肌にも悪いよ」
松野家では夕食のおかずやご飯は八人で食べきってしまうため、夜食となると必然的にパンやインスタントになるらしい。食べ盛りの男が六人もいれば、さもありなん、である。
しかしここは松野家ではない、私の家だ。
「あ、ユーリ!」
キッチンに向かう私を、カラ松くんが呼び止める。
「何?」
振り向くと、カラ松くんは気恥ずかしそうに明後日の方向を向いていた。あぐらを掻いた背中は少し丸まっていて、彼の感情を物語る。
「……ありがとう」
深夜の推しも尊い。
卵を割って出汁と刻みネギと混ぜ合わせたものを、熱したフライパンに投入して形を整える。ネギ入り卵焼きだ。
それから炊飯器に残っていた白米をボウルに入れ、瓶詰めの昆布の佃煮を中央に入れた大きめのおにぎりを二つ握る。合間にフライパンでウインナーを焼きつつ、フリーズドライの味噌汁にケトルの湯を注いだ。
所要時間は十分ほどだっただろうか。おにぎりと卵焼き、ウインナーをプレートに載せ、その傍らに湯気の立つ味噌汁という完璧な夜食の布陣。それをカラ松くんの待つリビングに運んだ後、自分用に冷蔵庫から低糖ヨーグルトを取り出す。
「えっ、これオレ食べてもいいの!?夜食にしては豪華すぎないか!?」
推しの艶肌を守れるなら喜んで栄養提供しますとも。
そんな本音を唾液と共に飲み込んで、冷えた麦茶を手渡す。
「そう言ってもらえると用意した甲斐あるなぁ。カップラーメンよりは腹の足しになると思うよ」
「比較にならないだろ───いただきます」
礼儀正しく両手を合わせ、カラ松くんはおにぎりにかぶりついた。私の両手には余る大きさで作ったそれは、たった一口で半分が彼の口に収まる。リズミカルに動く顎と手を見つめていたら、カラ松くんが口を開いた。
「旨い!」
躊躇いのない弾む声。
「ユーリというシェフに気付かないミショランの目が節穴すぎる」
卵焼きを噛みながら、感慨深げにカラ松くんは言う。称賛が桁違いすぎて身に余るレベルを余裕で超えてくる。
けれど彼は、それこそ目を輝かせながら私の料理を旨い旨いと食べてくれるので、毎度のことながら本当に作り甲斐があり、作らせてほしいとさえ思わせる反応は作り手冥利に尽きる。
味噌汁の椀の縁に口をつけたカラ松くんが、ぽつりと呟いた。
「それに…この旨さはきっと、背徳感もスパイスになってる」
「深夜に食べてるから?」
私を見て、彼はニッと目を細めた。含みのある、何か良からぬことを目論んでいる時の笑みだ。
「ブラザーたちがマミーのトラップをかいくぐってカップラーメンにありつこうという時に、オレは誰にも奪われる心配なく、美しく可憐なハニーの手料理に悠々と舌鼓を打っている。優越感しかない」
トラップというパワーワード。
「オレは階段のとりもちからの脳天ハンマーで即死だったこともあるからな」
確実に殺しにいくスタイルのトラップ。我が子とて容赦しない松代マジ松代。
「まぁ、それくらいハニーの料理は旨いとオレが感じてるということだ」
上手いことまとめてきおった。
翌朝八時を過ぎる頃、携帯のアラームによって強制的に起床を促される。
夜中に一度目覚めているためか気怠さが重しとなって頭に伸し掛かり、私を再び布団へと誘おうとするから、誘惑を跳ね除けて体を起こす。規則正しい生活に体が馴染んでいるせいか、体内時計が大幅に狂うと体調に支障が出やすくなるらしい。
しかし、ソファですやすやと寝息を立てているカラ松くんを目で捉えた瞬間、私の意識は完全に覚醒した。足音を殺して傍らで膝を折る。寝起きのカラ松くんは可愛さの化身だ。貞操を狙っている人間の家で熟睡するなど、食ってくれと言っているようなもの。私の無警戒さを詰る前に、自分の警戒心のなさを顧みるべきではなかろうか。
「でも…もう逃げられないよね?」
私から。
言い訳をして口実をつけ、距離を詰めた。じわじわと追い詰めて絡め取って、けれど逃げ道は残して、選択を彼自身に委ねた。彼は自分の選んだ道だと信じて疑っていないだろう。
全部、私が敷いたレールだと知る日は───永遠に来ない。
「なーんて」
私は肩を竦める。それほどの人心掌握術を備えていたら、今頃は巨万の富を築けていたに違いない。
私の行動原理は単純で、推しが幸せであること、その幸せを自分の意志と力で掴み取ってもらうこと。それだけだ。私は助け舟を出すだけ。
「諦めて私に捕食されるのが一番幸せかもよ」
笑って、カラ松くんの髪を撫でた。
私が朝食の用意をしていると、コンロの着火音でカラ松くんが目を覚ました。
「ん…」
寝惚け眼を手の甲で擦りながら、緩慢な動きで上体を起こす。眩しそうに目を細くする仕草が、不愉快そうな表情を作っていた。彼のそんな顔つきは起床時の一時的なもので、見るたびに悶絶しそうになる。マジで沼。
「おはよう、カラ松くん」
料理の手を止めてリビングに顔を出すと、彼はまだ虚ろな目で私をじっと見やった。
「もう朝か…」
後頭部に寝癖ができている。
「おはよう、ハニー」
ふにゃりと相好を崩して、どこまでも穏やかな声音で。格好つけようとか威厳を見せようとかいう一切の虚勢を取り払った笑顔が私に向けられる。眩しくて直視できない、推しの無垢な笑顔は国家予算に匹敵する価値。
「あと数分で朝ご飯できるからね」
「ん、分かった。手伝う」
カラ松くんは大きなあくびをしてから、のそのそと起き上がった。ジャージパンツと裸足の組み合わせって何でこうもエロイのか。新しい性的嗜好の扉が開く音がする。
開幕数秒で語彙力尽きるほどの怒涛の色香に、早くも正気を失いそうだ。足首撫で回したい。
「ユーリが起きた時にオレのことも起こしてくれていいんだぞ。ゲストとして甘える気はない」
ベテランニートにあるまじき模範的回答だ。
「カラ松くんの寝顔が可愛すぎるから、起こすのもったいないんだよ」
正直に答えたら、彼は目を剥いた。両耳が一瞬で赤く染まる。
「そ、そうやってオレをからかうんじゃない!」
「からかってないよ。今朝も動画と写真しこたま撮らせてもらったし…あ、何なら観る?我ながら最高の絵が撮れたよ」
「いいっ、見ない!というか、いつの間に!?」
侮ってもらっては困る、レアスチル発生イベントを逃す私ではない。
コンロで火にかけられている鍋をカラ松くんが覗き込んだ。
「何を作ってるんだ?」
「あんかけうどんだよ」
「うどん?」
「うん。大根おろしのあんかけうどん。食欲なくても食べやすいし、大根は二日酔いにも効くっていうしね」
大根おろしを作るのは手間だが、事前にすりおろしたものを冷凍しておけば、鍋に放り込むだけで済む。同じ鍋でだし汁とうどんを煮込み、最後に片栗粉でとろみをつければ完成だ。包丁不要の時短メニューである。
最後に、半丁サイズの絹豆腐を手のひらで半分にカットして醤油をかけ、冷奴を小皿に添えた。
「おお、旨そうだ」
「美味しいよー」
私がうどんを盛った器をテーブルに置く傍らで、カラ松くんが箸を並べる。
両手を合わせて挨拶の言葉を口にしたら、彼は片手でうどん鉢を持ち上げて思いきり麺を頬張った。小気味好い音を立ててうどんを啜り、満足げに口角を上げつつ咀嚼していく。
合間に冷奴を口に含み、一人前のうどんはあっという間に彼の胃袋に収まった。仕上げとばかりにコップの麦茶を一気に飲み干して、完食である。
「こういう料理を自然に出せるのは尊敬する。ハニーはいいワイフになるな」
私の器にはまだ半分ほどの麺が残っている。
「休みだからだよ。平日の朝ご飯なんて時間ないからトーストとかコーンフレークとか簡単なものだし。それに…」
「ん?」
カラ松くんが首を傾げる。
「カラ松くんには美味しい物を食べさせたいから」
私の独りよがりだとしても。
「餌付けみたいなもんかな」
私は微苦笑で肩を竦めた。彼が私の料理を好めば、私たちが会う口実の一つとなり得る。
「言葉を返すようだが」
カラ松くんは真っ直ぐに私を見据える。
「餌付けなら、とっくの昔にされてる」
「あ、そうなの?」
「ユーリの作る料理は何でも旨いからな。店を出したらミショランの星は確実に獲得できる。オレなら毎日でも通うぞ」
「ふふ、嬉しいな。おばさん料理上手だから、ちょっと対抗心みたいなのはあったんだよね」
松野家の朝食は基本的に和食だ。主菜と汁物と香の物という品数を毎日用意するのは労力を必要とする。限られた予算の中で栄養バランスにも配慮し、ニート六人全員が標準体型を維持できている事実も、彼女の料理スキルの高さを裏付ける。
なのにカラ松くんは、一度たりとも私の料理をおばさんのとは比べなかった。比較されたら結果は明らかにも関わらず、母親の味付けを引き合いに出すことなく、いつも手放しで私の料理を褒めてくれる。
「マミーはマミー、ユーリはユーリだろ?
確かに慣れた味というのはあるが、ユーリの手料理はどれも掛け値なしに旨いと思ってる。そもそも、ユーリに料理を作ってもらえるだけで…オレは幸せだ」
自分のために作る料理は味気ないものだ。材料の時点で味は大方想像がつき、驚きも意外性もない。自分で作って自分で消費するサイクルは早い段階で食傷する。年数の経過と共に作り手としての意欲を失い、外食や惣菜で空腹を満たす人が増えるのも頷ける。
「私、カラ松くん相手に料理作るの好きだよ。食べっぷりいいし、何でも美味しく食べてくれるし」
我々は、食事に関しては需要と供給のバランスが取れているように思う。
「喜んで食べてくれる人がいるっていいね」
「ユーリ…」
「供物を捧げれば捧げるほど、推しの血となり肉となる」
「一気に殺伐とした雰囲気に」
事実ですから。
「しかしまぁ、振る舞ってもらうばかりなのはオレの性に合わない。ギブアンドテイクが成立してこそフェアな関係だ」
カラ松くんは腕を組み、物憂げな表情で眉間に皺を寄せた。それから突然背を正し、ニッと笑う。
「次の週末は、オレがユーリをもてなそう。我ながらナイスアイデアだな。どうだ、ハニー?」
「料理できるんだ?」
彼が実際に包丁を握る姿は見たことがなかったから、その発言は意外だった。知り合って一年近く経つけれど、まだまだ知らないことも多い。
「できるともさ!オレを誰だと思ってるんだ、松野カラ松だぞ」
片手を胸元に当てて鼻を鳴らす。見栄ではなく、過去の経験に基づく自信が感じられた。
「じゃあごちそうしてもらおうかな。楽しみにしてるね」
私はにこりと微笑む。享受した同じ分だけ返そうとする気持ちだけで十分嬉しいから、プレッシャーはかけたくない。
「任せろ!」
キッチンからジュワジュワと油の跳ねる小気味好い音が響いてくる。加えて換気扇のプロペラ音、不規則な足音や蛇口からの流水音も混じり、多様な音の重なりは演奏にも似て、ちょっとしたオーケストラのようだ。
カラ松くんに料理を作ってもらう日は、思いの外早々に訪れた。彼らの起床より前に両親が出払い、置き手紙と共にランチ代として三千円があてがわれたが、一人当たりワンコインでは外食はままならない。頭を抱えていたところ、私との約束を思い出したカラ松くんがこれ幸いとコックとして名乗りを上げた流れである。
私が昼前に訪ねた時、カラ松くんは既に調理に取り掛かっていた。推しのエプロン姿が尊すぎて吐血しかけた。エプロン装備によりストイックさ微増と同時に可愛さがカンストし、脱がせたい衝動に襲われる。参加者私だけの耐久レースの開幕だ。
「手伝わなくていい?」
「オフコース!ハニーは今日のメインゲストだからな。ビッグシップに乗ったつもりで待っててくれ」
カラ松くんはウインクしながらのサムズアップ。泥舟フラグかな?
「そうだよ、ユーリちゃん。カラ松が全部やるってんだから、俺らはこっちで大人しく待ってようぜ」
おそ松くんが私の肩を叩き、居間に敷かれた座布団への着席を促す。既に他の四人は円卓を囲んで昼食提供待ちの姿勢だ。卓上には七人分の箸とコップが並べられている。
「もうすぐ完成だぜ、ハニー!乞うご期待!」
軽やかなステップでエプロンの裾を翻すカラ松くん。もう普通に可愛い。抱かせろ。
おそ松くんに背中を押されて、ちゃぶ台の前に座る。普段料理を作って出す側なので、出来上がりを待つのは手持ち無沙汰で落ち着かない。六つ子たちに話しかけられれば応じるものの、無意識に台所に視線を向けてしまう。
台所に繋がる障子は開放されていて、悪戦苦闘するカラ松くんの後ろ姿がチラチラ窺えた。
「大丈夫だよ、ユーリちゃん。カラ松はああ見えて変な物は出さないと思うから」
そんな態度を料理スキルへの不安と受け取られたのか、チョロ松くんが宥めるように私に言った。傍らの一松くんが我が意を得たりとばかりに頷く。
「そうそう。相手がおれらだけならともかく、他ならぬユーリちゃんがいるしね。いい顔したいに決まってる」
「ユーリちゃんの好感度上げたいってのは、ぼくも分かるなぁ。
優しくてもメリットどころかデメリットしかないこいつらには、その辺の草でも食っとけって思うのに、不思議だよね」
とびっきりの笑顔で毒を撒き散らす末弟。兄弟に対して容赦がない。
そうこうしているうちに十四松くんがトランプに誘ってきたので、私の思考は逸れる。カード裏面に描かれた天地のない幾何学模様に、意識が吸い込まれるようだった。
「待たせたな、ハニー&ブラザー!フィニッシュだ!」
何度目かのポーカーの決着がついた時、カラ松くんが台所から顔を覗かせた。彼が両手に持った丼からは白い湯気が立ち上る。醤油ベースの甘辛い匂いが居間に広がり、誰かの腹がぐぅと鳴った。何とはなしに壁掛け時計に目をやれば、正午を少し回った頃だ。
「やった、俺もう腹ペコだよカラ松ー!」
「へー、結構旨そうじゃん」
おそ松くんとチョロ松くんが彼の手元を覗き込み、感嘆の声を漏らした。
「フフン、そうだろうそうだろう。このオレが手によりをかけて作ったんだ。ヤミー以外の感想はないに決まってる」
鶏もも肉とナスを甘辛く味付けしたスタミナ丼だ。ふっくらとした鶏もも肉に施されたコーティングの艶が食欲をそそる。小ねぎを彩りとして加えることで、茶色一辺倒の色合いも引き締まっている。
丼は工程が少なく、味付けもそう複雑ではない。失敗するリスクが小さい初心者向けメニューだ。その上満腹感も出るから、一人暮らしではとても重宝する。
「いただきます」
片手に丼、片手に箸を握って、もも肉と白米を口に運ぶ。胃を刺激する香りと味が口の中に広がって、私は感嘆の息を漏らす。砂糖醤油が絡まった少し硬めの白米は噛みごたえがある。
「んー、美味しい!」
次の一口を放り込みつつ、私は声高に告げた。箸を握りながらもそわそわと落ち着かない様子だったカラ松くんの頬が、ぱぁっと上気する。
「ほ、本当か、ハニー!?」
「うん、これご飯すごく進むね。いくらでも食べられそう。
カラ松くんの手作りってだけで美味しい要素しかないのに、それ抜きにしても美味しいよ」
甘辛い味の中に時折ピリッとした程よい辛味も感じる。豆板醤かコチュジャンを混ぜたのだろう。絶妙な辛さがアクセントとなり、箸が進む。
「確かに旨い」
「兄さん、ぼくお代わりー!」
おそ松くんが首を縦に振り、十四松くんは空になった丼を高く掲げた。カラ松くんが破顔する。
「オーケー、特別だぜブラザー」
少しだけなら余っているからと、カラ松くんは立ち上がって台所に向かう。
他の面々にも味は概ね好評で、限られた予算内で及第点の料理を作るミッションをこなした次男の評価は確実に上昇したようだった。
「これからは母さんたちがいない時は、カラ松兄さんが料理作る担当になったらいいんじゃない?」
食事を終えて一息つき、洗い物を終えたカラ松くんが戻ったのを見計らうように、トド松くんがぽつりと言った。
「それいい」
「適材適所ってヤツか」
「カラ松の今日の料理、結構良かったしね」
名案だと指を鳴らす面々。そうきたか。
功績を称えると見せかけた面倒事の押し付けだ。頼まれたら断れないカラ松くんの弱点を突いた巧妙な手口。
さすがに看過できず、口を挟もうとした───その瞬間。
「え、無理」
カラ松くんがきょとん顔で拒絶した。
「ユーリに頼まれればいくらでも作るし、頼まれなくても作りたいと思うが、何でオレがお前らのために台所に立たなきゃならないんだ?
お前らがオレの立場なら作りたいと思うか?そういうことだ」
容赦なき一刀両断。
バッサリ切り捨てられるとは予想だにしていなかったのか、五人は揃って気不味そうに言葉を濁した。飯が絡むと性格が変わるタイプの次男坊。
「ユーリはいつでも言ってくれ。オレ、レパートリー増やしておくから」
私には全開の笑顔を見せるカラ松くん。超絶かわいい。
午後からは、暇を持て余す六つ子に付き合って松野家に残った。一松くんは親しくしている猫の訪問、十四松くんは日々のルーティンである野球の練習のためと、途中で数名が離席。私のことを客人として扱わなくなって久しいため、特別予定がない場合、彼らは自身の予定を優先することも多い。
一時期話題になった映画の放送があるからとトド松くんがテレビの電源を入れ、居間に残った面子が画面に視線を向ける。序盤は登場人物の紹介を兼ねた静かな幕開けだった。各キャラクターの不穏な言動や一枚岩でない関係性に、波乱の展開を予感させる。
既に一度視聴済みだった私は早い段階で集中力が切れ、傍らのカラ松くんに耳打ちする。
「カラ松くんの手料理が食べれて、嬉しかったよ」
彼の背がピンと伸びた。
「…オレも、ユーリが言っていた『喜んで食べてくれる人がいる』ことにやり甲斐がいを感じる気持ちが分かった」
気恥ずかしそうに人差し指で口元を掻いて。
「ユーリには手料理を振る舞ってもらうばかりだったからな。愛情はたっぷり込めたぞ」
「だからあんなに美味しかったんだね」
「料理なんて手間で面倒だと思ってたが、ユーリのためなら楽しいな……また作るから食べてくれ」
断る理由がない。私は大きく首を縦に振った。
「材料費出すからお願いしようかな。
でも経費だけで推しの手料理が食べられるなんて…これはもはやほぼ無課金。つまり無課金で推しの手料理がたらふく胃袋に……無課金勢なのに私利私欲を満たしててすみません」
「何で急に卑屈に!?」
「推しに金を使うために働いてるのに!」
「働く目的を見誤るのはデンジャーだぜ、ハニー…」
ベテランニートに諭された。
がっくりと項垂れる私を、トド松くんが呆れた目で一瞥する。カラ松くんとの会話に聞き耳を立てていた──立てるまでもなく聞こえる音量ではあったが──のはおそ松くんとチョロ松くんも同様だったらしく、一同に顔を歪めていた。
「…ユーリちゃんってさ、カラ松兄さんの扱いに関しては達人だよね」
トド松くんが円卓に頬杖をつく。
「匠と言っていい」
おそ松くんの形容に、チョロ松くんとトド松くんが苦笑する。三男は気怠げにテレビを見つめながら、何かを追い払うみたいに右手首を振った。
「一つ疑問があるとすれば───これだけ平然とイチャつくのに、二人が付き合ってないということだ」
私とカラ松くん以外が、「それな」と一斉に同意した。