短編:ハッピーバースデー

「ユーリは、何が欲しい?」
さり気なく切り出したつもりだったが、声は思いの外上擦っていた。右手を添えたガラスコップの水面には微かに波紋が広がり、自分が想像以上に緊張していることを知らされる。
乾いた喉を潤すため、動揺を悟られないため、カラ松はグラスの水を一気にあおった。


待ち合わせ後、ひとまずユーリと共にカフェに入った。
席に着いた直後、ユーリは耳にかかる髪を掻き上げながらカラ松に微笑む。その仕草がどことなく艶めかしく、どきりとする。もうずいぶんと長い時間を共有しているのに、一向に慣れない。それどころか、会うたびに心を奪われていく。これ以上奪われるものなんてないと思っているのに、まだ奪われていない部分があったのかと驚くほどに。

ユーリの左手首に装着されたネイビーレザーのベルト型ブレスレットは、知り合ってしばらく経った頃にカラ松がプレゼントしたものだ。多少色褪せて本革の味が出ている。カラ松と会う時は必ずつけてくれていて、鎖など繋がっていないのに、まるで彼女の所有権を得たような気持ちになる。
けれどひとたび口にすれば、勘違いも甚だしいと叱責を食らうのだろう。

「カラ松くん?」
メニューを開いてああだこうだと他愛ない会話を幾つか重ねた後での、上記のカラ松の問いだった。ユーリはきょとんとしてメニューから顔を上げた。
「何が欲しいって……あ、何頼むかってこと?」
そう言った彼女に対し、カラ松はかぶりを振った。
「えーと、まぁ何だ、その……」
視線をあちこちに彷徨わせながら言い淀むカラ松の返事を、ユーリは不思議そうな顔で待つ。

「来月はユーリのバースデー、だろ?」

一ヶ月後の休日。以前何かのタイミングでユーリの誕生日を知る機会があって、これだけは忘れるものかと記憶に刻みつけてきた。
「覚えててくれたんだ」
ユーリはにこりと微笑する。
「フッ、麗しのハニーがガイアに生を受けた記念すべきスペシャルディだからな。イエス・キリストの生誕以上にインポータントな日だぜ」
「強大な勢力を敵に回そうとするな」
真顔で咎められた。
気取って言ってはみたものの、半分ほどはカラ松の本心だった。忘れてはならない大切な日である。
毎日が誰かのバースデーだ。かつて、そんなことを言って幼馴染の誕生日パーティに不参加の意を示したこともあった。今は反省している。
「それでだ、できれば当日にプレゼントを渡したいと思ってて…欲しい物があればそれを渡したい。ユーリが望む物で、オレが渡せる物なら何でも構わないぞ」
「道具使ったプレイ」
「この流れで言う台詞がそれか」

間髪入れず放たれた望みを秒速で棄却する。カラ松は腕組みをして、長い息を吐いた。
「私が欲しい物でカラ松くんが渡せる物なら何でもいいって条件でしょ?
道具も使う側の私が用意するよ?絶対気持ちよくするし、後悔させない」
人として大事な何かを色々失う気がするから却下だ」
「…それはあり得る」
「納得するんじゃない」
もうこのやり取りも半ばルーティンと化している。端から見れば異様な会話だろうが、この後に顔を見合わせて笑うまでがお決まりと言っていい。言わば挨拶だ。
「うーん、何でもいい、かぁ…」
「プレイ関連はなしだぞ」
「急に制限かかった」
ユーリは肩を竦める。
唸りながら目を閉じるユーリをよそに、カラ松は側を通りかかった店員に声をかけて二人分の注文をした。悩むユーリも愛らしい。カラ松の提案に真剣に向かい合ってくれている証拠だ。
「バースデー当日は空いてるのか?
その、もし当日何か用があるならその前後の日でも──」
「空いてる」
最後まで言い終わらぬうちに、ユーリが被せてくる。射抜くような視線が向けられた。
「っていうか、空けてる。仕事休みだし、カラ松くんに祝ってほしいしね」
「……ッ」
彼女に到底敵わないと思うのは、こういう時だ。
僅かな逡巡もなく口にされる本心は、この話題を切り出したカラ松本人が最も望んでいた言葉だったから。

ユーリの誕生日に約束を取り付けるタイミングをずっと見計らっていた。
二ヶ月先では早すぎるし、数週間前では万一先約が入ると取り返しがつかない。だから一ヶ月前の今日は一か八かの賭けだった。
彼女の誕生日を共に過ごす権利は、他の誰にも譲れない。

「プレゼントのことなんだけど」
ドリンクを運んできた店員が離れるのを皮切りに、ユーリが会話を再開する。彼女が注文した濃褐色の液体にコーヒーフレッシュの白が混ざり、跡形もなく溶けていくのをカラ松はぼんやりと眺めていた。
「ん、決まったのか?」
ユーリはふるふると首を左右に振った。
「ううん、まだ。だから私の言いたいタイミングで伝えてもいい?」
意図が分からずイエスともノーとも答えられないカラ松に、彼女は慌てたように補足する。
「えっと、つまり、欲しい物決まったらもちろん伝えるんだけど、私が言い出すまで待っててほしいな、って。
もしかしたら誕生日当日になっちゃうかもしれないけど」
胸元で両手を合わせて拝むような仕草。
本音を言えば、誕生日当日にプレゼントを渡す光景を思い描いていた。ユーリが望む物を当日スマートに差し出し、ユーリが喜ぶ。お手本のようなハッピーエンド。
しかしそういった一連の行為はカラ松の自己満足に過ぎないと、すぐに思い直す。目的は自分が格好いい男を演じるのではなく、ユーリにとって幸せな一日を演出することだ。
「もちろんだとも。ユーリが言ってくれるまで待つさ」
「ありがと。ちゃんと言うからね」
朗らかな彼女の笑顔にカラ松は幾度も救われてきた。同時に、どんな苦難も解決に導いてくれそうな力強さと安心感に傾倒し、先行き不透明な自分の未来からは目を背けてきた。
これから先進む道を誇りに思いたい。できることならユーリの手を取りたい───そのためには変わる努力も必要だ。




「そう言えば、来週ユーリちゃんの誕生日だよね」
居間のちゃぶ台に頬杖をつきながら、不意にトド松が口火を切った。今週はどうやって暇を潰すかという生産性皆無の会話をポツポツと交わしていた矢先である。
間が悪いことに、その空間には六つ子全員が雁首を揃えていた。収入源が親からの小遣いのみという年中資金不足故に、外出頻度は否が応でも低下しがちのため、起こり得るべくして起こっている状況と言える。
「…そうだな」
返事の切れが悪くなる。こと兄弟に関して回避すべきシチュエーションが発生した場合、可及的速やかに対処しなければ悲惨な結末を迎えるに違いないからだ。
「休日だし、会うんだろ?」
チョロ松が求人誌から顔を上げて尋ねてくる。
「約束は取り付けてる。一応プランも立てた」
洒落たディナーも豪華絢爛な宝石も自分には提供できないけれど、祝う気持ちは誰にも負けないと自負している。
だからこそ兄弟の邪魔だけは阻止しなければ。カラ松は手に汗握る。

おそ松がおもむろに立ち上がり、カラ松の左肩に腕を乗せた。長男からの気安い接触は、良からぬことの前触れであることが多い。

「なら、俺らも俺らでユーリちゃんの誕生日祝おっかな」

目を剥くカラ松に、おそ松はニッと笑う。
「そんな物騒な目つきすんなって。お前の邪魔しようって意味じゃないんだよ、カラ松。
この前ユーリちゃん来た時、お前ちょっと席外した時あったじゃん?
そん時にユーリちゃんの誕生日を俺ら全員が聞いちゃってるわけ」
「賛成!ぼくもユーリちゃんお祝いしたい。ぼくらとユーリちゃんの関係上、さすがにスルーはできないしね」
畳に寝転がって硬式ボールを上空に投げていた十四松が、飛び跳ねるように上体を起こす。
「無視は失礼にあたるな」
一松が同意して。
「費用は、ちょっとくらいなら母さんが援助してくれるんじゃないかな?
会場うちにして、ケーキ焼くとかならできると思う」
チョロ松が具体的な提案をする。
「それいい、ケーキ焼こうよ。サプライズ感あるし」
「あ、ならさ、トッティ、敢えて翌週祝うってのは?
誕生日当日は俺ら全員用があっていないって体にすんの。そんで翌週、適当な用事で呼びつけてサプラーイズ、みたいな」
おそ松は嬉々とした声を発しながら、両手を広げて出迎えるようなポーズを取る。
カラ松は早い段階で諦観の境地に達した。兄弟が乗り気になった時点で歯止めをかけられる者はいない。むしろ邪魔立てする自分こそ悪者にされかねない。
「飾り付けなら材料百均で揃うよね」
「買い出しはおれと十四松でいいんじゃない?」
「ケーキはみんなでデザイン考えようよ。その後ボクが材料調べて、母さんにカンパ交渉してみる」
あれはどうだこれはどうだと提案される案を腕組みで聞いていたチョロ松が、突如立ち上がってA3の白い用紙を円卓に広げた。その姿はさながら、計略を巡らせる参謀だ。
「じゃあ、みんなの話をまとめて詰めていこう。失敗は許されないからね。
ユーリちゃんの誕生日を日にちズラしてサプライズで盛大に祝おう計画───通称『バルバロッサ作戦』
作戦名は目的に掠りもしてない上に脈絡もない。
「指揮は頼むよ、チョロ松」
おそ松がウインクでゴーサインを出す。
「ユーリちゃんに喜んでもらえるといいね、バルバロッサ作戦」
「おれらの今後の命運がかかってる重要な任務だ」
「バルバロッサ作戦、か……チョロ松兄さんにしては悪くない作戦名だね」
もうどこからツッこめばいいのか分からない。
スルー案件なのか。カラ松は何か言おうとして上げた左手のやり場を失い、静かに自身の膝の上に落とした。
「よしっ、いいかお前ら!バルバロッサ作戦は絶対成功させるぞ!」
「おー!」
長男の掛け声に呼応して、残りの四名が勢いよく右手を突き上げた。

目的のすり替わった自己本位的な祝い方はこういうことを示すのだなと、カラ松はこれまでの自分の言動を客観的に見せつけられた気がして、心の内で少々反省した。
けれどユーリに喜んでほしいという気持ちは彼らにも確かに存在する。その点はカラ松と何ら変わりはない。だからカラ松もすぐさま立ち上がり、五人の輪の中に首を突っ込むのだった。




ユーリの誕生日当日は幸運にも晴天に恵まれた。降水確率ゼロパーセントの外出日和だ。
「カラ松くん見て見て、バースデーバッジ!」
ユーリは弾む声で、生誕の祝福と共に手渡されたバッジをカラ松に見せる。角の丸い可愛らしいローマ字でハッピーバスデーと刻まれた、今日が誕生日であることを証明した者だけが貰える特典である。
「ユーリを彩るには華やかさが少々物足りない装飾だが、仕方ないな。
では準備も整ったことだし、バースデーの恩恵を片っ端から受けるジャーニーに出向くとしよう」
「ラジャー!」

カラ松とユーリはハタ坊が運営する遊園地クズニーランドへやって来た。
ここでは当日が誕生日である証明を提示すれば、該当者は入場料無料、同行者一名も半額になる。その上、前述したバースデーバッチが貰え、そのバッチを身に着けていると園内で様々なサービスが受けられるのだ。
そのためカラ松たちは、ステータスの八割方を動きやすさに割り振ったラフな格好だ。当初思い描いていたロマンチックなバースデープランとは程遠い出で立ちだけれど、今の装いの方が気楽でいい。
ユーリは何日も前からここへ来るのを楽しみにしていたし、カラ松の独りよがりな計画では決して見られなかったであろう笑顔も見れた。

「お誕生日おめでとうございます!」
そして入場門をくぐってからというもの、すれ違うスタッフがユーリのバッチを見るなり祝いの言葉を投げてくる。
「ありがとうございます」
その都度嬉しそうにはにかんで、ユーリは礼を述べる。
祝福は花びらのように降り注ぐ。ひらひらと不規則な動きで空中を舞い、やがて彼女を包み込もうとする。
「ユーリ」
けれどカラ松は、己の進行を阻む花びらを払う。
呼ばれたユーリは声の方向に顔を向ける。少なくともその刹那は、彼女の意識はカラ松だけのものだった。
「…いや、何でもない」

溢れるほどの祝福が彼女を包もうとも、ユーリの瞳に映るのは自分でありたい。ひどく傲慢な願望が胸に巣食っていると、カラ松は認めざるをえない。


道行くスタッフがユーリ──正しくはユーリのつけるバースデーバッチ──を視認するなり、誕生日を祝う。手を振り、笑顔を向け、道を開ける。さながら小さな凱旋パレードの様相を呈し、ありもしない金色の冠がユーリの頭上に見えるかのようだった。
「今日の主役はハニーだな」
麗らかな晴天もユーリへの祝意を示している。
「偉い人になった気がしてきちゃうね。でも嬉しいな」
少し照れくさそうにユーリが笑う。
「クレバーという意味ではその表現はあながち間違いとは言い切れないぞ。ユーリは巧妙に悪知恵が働いて抜け目がなくとんでもなく狡猾だ」
「褒め言葉の皮を被った壮絶なディスり」
顔から表情を消してツッコミを入れてくる彼女に、カラ松は笑みで返す。
「意表を突いて裏をかき、常にオレの数歩先を行くユーリを尊敬はしてる。いつまで経っても追いつける気がしない。
まぁ、だからこそ追いかけ甲斐があるわけなんだが」
カラ松は顎に片手を当て、くく、と喉を鳴らす。褒められたのか貶されたのか判別がつかないユーリは複雑を極める表情で、唇をへの時にした。
園内を行き交う群衆の顔は識別できない。彼らの声は演出のBGMとなり、姿はユーリを際立たせる背景と化す。

いくつかのアトラクションを楽しんだ頃、時計の針は正午を少し過ぎた時刻を示すので、カラ松たちは空腹を満たすためにレストランへ足を運ぶ。
ソファのテーブル席がずらりと並び、和洋中とバラエティに富んだメニューを揃えるファミレスのような店だ。道に開けた側は全面ガラス張りで、日差しが差し込んでいる。
四人がけの席に案内され、それぞれが食事を終えた頃。

「ユーリちゃん」

突如背後から名を呼ばれた彼女は、ハッと振り返る。その先にいたのは───クズニーランドの経営者だった。
「ハタ坊…っ」
彼は小さな両手にバースデープレートを持ち、いそいそとテーブルに置いた。たっぷりの生クリームとフルーツであしらわれたパンケーキに、チョコレートソースで『ハッピーバースデー』の文字が描かれている。
「お誕生日おめでとうなんだじょ」
「…え!?」
「これはハタ坊からのプレゼントなんだじょ」
そう言って、彼の斜め後ろに控えていたウェイターから受け取ったドリンクをプレートの横に並べる。透明度の高いコバルトブルーのノンアルコールカクテルだ。
ユーリはカクテルの色とカラ松の顔を見比べ、瞬時に察したようだった。相変わらず聡い。その理解力の速さと聡明さは、彼女を一層美しく飾り立てる。
「ありがとう、ハタ坊!ハタ坊にも祝ってもらえるなんて、忙しいのにわざわざ来てくれて本当ありがとうね」
「友達の誕生日の方が大事なんだじょ」
ハタ坊は言ってから、指を鳴らした。すぐさまどこからともなく脳天に旗を刺した秘書が姿を現し、彼の身長に似つかわしくない大きさのジュラルミンケースを差し出す。嫌な予感。
「何をプレゼントしたらいいか分からなかったから、札束を詰めるだけ詰め込んできたこれもあげるじょ」
「あ、それはいらないです」
ユーリは顔から表情を消して両手を前に突き出す。秘書が何かに気付いたようでハタ坊の耳に顔を寄せる。
「ミスターフラッグ、ユーリ様はおそらく荷物になるので固辞していらっしゃるかと」
「違う、そうじゃない」
「なら自宅に送るんだじょ。部屋に敷き詰めた札束風呂なら喜んでくれるじょ?
「……床から何センチくらいの高さ?」
ユーリは躊躇いながらもうずうずした様子で問うた。さすがに興味を引かれたらしい。実現することの叶わない平民の夢のまた夢だから、仕方ないと言えば仕方ないが。
しかしカラ松が再考を要求するまでもなく、彼女は首を横に振った。
「ごめん、違う、今のナシ。そういう祝い方してほしくてハタ坊と友達やってるわけじゃないから」
札束風呂に後ろ髪を引かれている様子だったが、ユーリはケースを押し返す。
「そうだぞ、ハタ坊。プレートを持ってきて祝うだけって話だっただろ」
腕を組み、カラ松は抜け駆けを嗜める。
誕生日特典を利用してクズニーランドを満喫するプランに決まった時点で、カラ松はハタ坊に連絡を取った。時間があればユーリを祝わないかと持ちかけたのだ。ハタ坊は快諾し、食後にバースデープレートを運ぶサプライズを仕掛けて祝う、そういう話だった。ジュラルミンケースの札束は聞いていない。
「とはいえ、ハニーのバースデーを盛大に祝福したいハタ坊の気持ちを無下にするわけにもいけないな。せっかく用意したプレゼントだ」
「私この後の展開読めた」
ポツリと溢されたユーリの呟きを聞かなかったことにして。

「そのケースはオレが預かろう」

「待たんか」
致し方なしといった体でケースに手を伸ばしたら、速攻でユーリに手の甲をピシャリと叩かれた。
「ノンノン、ハニー、安心しろ。何も横取りしようってわけじゃない、預かるだけだ───半永久的に
「それを横取りって言うんだよ。楽して大金得ようなんて浅はかな考えはカラ松くんらしいけど止めなさい」
凄絶な言われようだ。
しかしユーリからの好感度ダウンは避けなければならない。カラ松は潔く手を放したのだった。




「あー、楽しかった!」
ユーリは両手を天高く上げて、勢いよく振り下ろす。クズニーランドの出口へ向かう足取りは非常に軽く、疲労感を感じさせない。
夕食を終えて園を後にする。一日中園内のスタッフに誕生日を祝う言葉を投げられて、ユーリはご満悦だ。その笑顏を見ているカラ松も満たされる。自分自身が祝われているような錯覚さえ覚えた。
「あ、そうだ」
カラ松はハッとする。街灯にスポットライトのように照らされるユーリが、何事かと振り返った。
「まだ時間あるか?
ブラザーが面白い漫画の短編集を買ったんだ。この前借りた雑誌も返したいし、帰りにうちに寄って渡したいんだが」
クズニーランドからは赤塚駅を経由してユーリ宅の最寄り駅になる。遠回りにはならないからこその提案だった。
「うん、いいよ。まだそんなに遅い時間じゃないしね」
ユーリは二つ返事で了承する。
「オーケー、それじゃあ我が家に寄り道だ」
駅までの道中、跳ねるような足取りで色のついたタイルだけを踏むユーリを、心から可愛いと思った。

「ねぇ、カラ松くん」
くるりとカラ松を振り返り、ユーリは両手を自分の後ろに回した。
「遅くなっちゃったけど、誕生日プレゼント決まったよ」
「そうか。それで、何がいい?」
無茶は言ってくれるなと牽制はするものの、ユーリが喜ぶのなら多少無理難題を求められても応えたい気概はある。元より、ユーリがカラ松に無理強いさせるとは思っていないけれど。
「いやー、我ながらかなりワガママなお願いになっちゃうんだけど…」
ユーリが言葉を詰まらせるのは珍しい。
「ドンビーシャイだ、ハニー。
前にも言っただろ?オレが渡せる物なら何でもいい、って」
そう答えたら、彼女は照れくさそうにはにかんだ。それでも黒目をあちこちに向けて逡巡する様子を見せるから、よっぽど入手難易度が高いか高価な物なのかとカラ松に緊張が走る。
「ええと…」
苦笑しながら、ユーリは指先で自分の頬を掻く。

「来年も再来年もその先も、私の誕生日に『おめでとう』って言ってほしい」

カラ松は目を瞠った。虚をつかれたと言っていい。
かぐや姫よろしく火鼠の皮衣や蓬莱の玉の枝といった無謀な要求さえ覚悟していた。なのに。
「…それだけか?」
何か裏があるのではと勘ぐってしまうのは悪い癖だ。
「うん。期限は私が寿命で死ぬまでかなぁ」
「ハニー、本当にそれでいいのか?もっとこう、アクセサリーとか色々───」
言い終えるより前に、はたと気付く。ユーリは笑っている。
「それ『が』いいんだよ」
それでいい、じゃない。妥協ではなく望みとして。

冗談だと思うじゃないか。
自分に渡せる物なら何でもと懐の大きい所を見せつけようとしたカラ松に対し、金銭のかからない彼女の要求はあまりにも小さく感じられた。
それに加えて、寿命で死ぬまでなんて、何十年も先の果てしない未来の話だ。でも言い換えれば、その果てしない期間を彼女は───
「分かった、必ず叶えよう」
「約束ね」
「ああ、もちろん。ユーリと必ず顔を合わせて伝えるという前提でいいか?」
「どうしても無理な時は電話でもいいけど、基本は私の目の前で、かな」
一見可愛らしい願いに聞こえる。
「じゃあ改めて、これが今年分のプレゼントだ」
カラ松は背筋を正した。ユーリは両手を腿の前で組み、じっと待つ。

「誕生日おめでとう、ユーリ───君が生まれてきてくれたおかげで、オレはとても幸せだ」

彼女の生誕に溢れんばかりの祝福を。




チカチカと点滅する街灯が松野家の玄関を照らす。引き戸のすりガラス越しに、玄関框に灯っている明かりも窺えた。カラ松の帰りが遅くなると連絡しているので、戸の鍵も開いている。
ユーリと敷地へ足を踏み入れようとして、カラ松は足を止める。ポストから封筒の端が覗いていたからだ。繋いでいたユーリの手を離し、ポストに手を伸ばした。
「…あー、すまんハニー、先入っててくれ」
「いいけど、どうかした?」
「隣のビル宛の郵便物が入ってるんだ。あっちのポストに入れてくる」
不運だね、と呟いてユーリは笑い声を溢す。人通りの少ない静かな空間にとろりと溶けるような声だった。
「分かった。みんなはいるのかな?」
「ブラザーたちも今日は遅くまで出掛けると聞いてるから、どうだろうな」
茶封筒を掲げながら首を傾げるカラ松を横目に、ユーリは玄関の引き戸に手をかけた。

「ハッピーバースデー、ユーリちゃん!」

発砲音のような甲高い破裂音が玄関に轟き、五つのクラッカーから飛び出した色とりどりのテープがユーリの頭上に舞い落ちる。はらはらと散るメッキテープは蛍光灯を受けて眩く光り、今日の主役を鮮やかに彩った。
そしてポカンと口を半開きにして立ち尽くすユーリの前に、当家の五男が颯爽と躍り出る。
「はい、ユーリちゃん、これつけて!」
赤く縁取られたたすきを彼女の首にかける。表面に明朝体で大きく書かれた文字は『あんたが主役』。
「え?……ええ!?」
「ユーリちゃん今日が誕生日だろ?俺らにもお祝いさせてよ」
呆気に取られるユーリの頭からテープを払いながら、おそ松が言う。
「ほら、誕生日って当日祝ってもらった方が嬉しいじゃん?僕ら基本的に予定空けられるし」
「空けられるっていうか、埋まる予定ないってのが正しいけどな。…ま、それにおれらはユーリちゃんのオトモダチだから」
チョロ松と一松が続ける。

やはり当日にユーリの誕生日を祝おう、そういう流れになったのは計画の詳細を練ろうとした時だった。
サプライズで当日意図的に不在にする意味が分からない、と根本的な駄目出しが始まり、何やかんやでカラ松がデート後にユーリを松野家に誘導する作戦に決まったのだ。今思えば、カラ松に朝帰りをさせない思惑も多分に含まれていた気もするが。

「まだ時間ある?あるよね?上がってってよ」
スマホを構えて動画撮影をしていたトド松が、口早に手のひらを居間へ向けて辞退させない流れを作る。十四松も末弟に倣い、両手を室内へ差し向けて期待に目を輝かせた。まるで飼い主の反応を待つ犬のようだ。
「いいの?そういうことなら遠慮なくお邪魔しようかな」
肩を竦めて、ユーリは玄関で靴を脱ぐ。立ち上がろうとする彼女の前でカラ松は片膝を立て、手を差し出した。
「さぁ、お手をこちらへ、今日という日にまた一段と美しくなられたプリンセス」
仰々しい台詞に返されたのは、朗らかな笑みだった。手のひらが重なって、同時に立ち上がる。


居間の壁を折り紙で作った輪を組み合わせた輪飾りと手書きの垂れ幕で飾り、中央に添えた円卓には手作りケーキとスナック菓子、そしてアルコール含めたドリンクが置かれている。
ケーキは一日かけてカラ松を除く五人が作り上げたものだ。当初の想定通り、事情を説明して松代から材料費をせしめることに成功したため、盛り付けのフルーツも満足いく量を使うことができた。
そんな室内の様子を見るなり破顔するユーリを見て、カラ松たちは目配せをすることで互いの健闘を称え合った。声を弾ませながら飾りつけやケーキを撮影する彼女の反応に充実感を覚える。
「おい、お前ら」
次の瞬間、おそ松から号令がかかった。ミッションが第二段階へ移行する合図だ。
「ユーリ」
「ユーリちゃん」
呼ばれて振り返ったユーリは、度肝を抜かれることになる。

カラ松を含む六人全員が横一列となり、ユーリの前に跪いたからだ。

「誕生日おめでとう。俺らの時は三倍返しくらいでいいから」
「一つ年を重ねたハニーは一段と美しい」
「ユーリちゃんの一年が楽しいものになりますように」
「ほんと大した物じゃないけど…」
「ぼくらもユーリちゃんのこと大好きー!」
「サプライズ喜んでもらえて嬉しいな。これからもボクと仲良くしてね」
各自が用意したプレゼントをユーリに差し出す。
おそ松は何でもいうこときく券、チョロ松は七人が写った写真入りのフォトフレーム、一松は大容量にぼし、十四松は野外で摘んできた小さな花束、トド松は手作りクッキー、そしてカラ松は左手を。
ユーリは笑った。大輪の花が咲き誇るように。彼女の両手はプレゼントで溢れ、最後にユーリはカラ松の左手を取る。
「えー、もう、何これ…嬉しいなぁ。みんな、ありがとね。まさかこんな風に祝ってもらえるとは思ってもみなかったから、嬉しいのをどう伝えたらいいか分からないよ」
「いやいや、何言ってんの。ユーリちゃんと俺らの仲でしょ?
最初はわざと翌週祝おうかって話だったんだけど、ズラして祝うとか失礼すぎるよな。ほんと弟たちは女心分かってないっつーかさ」
おそ松が片手を腰に当てながら嘆かわしいとばかりに首を振る。
「最初に提案したのお前だけどな」
即座にトド松から白い目を向けられるも、長男は聞こえないフリだ。
「でもこれで次のおれらの誕生日は安泰でしょ?ユーリちゃんに祝ってもらえるの確定だし」
「楽しみしかない。そりゃプレゼントも欲しいけど、可愛い女の子から祝ってもらえるってステータスだけでも最高」
一松とチョロ松が拳を握りしめた。
「ここまでされちゃお返ししないわけにはいかないもんね。喜んでもらえるよう頑張るよ」
確約である。
兄弟は両手を上げ、歓喜した。




カラ松がトイレを出て部屋に戻ろうとしたところ、玄関近くでユーリと二人きりになる機会があった。五人から貰ったプレゼントを、暇を告げるまで玄関に置いておくためだ。
「あ、カラ松くん」
「騙すような真似してすまなかった、ハニー」
サプライズを成功させるには、カラ松の誘導が鍵を握っていた。僅かでもユーリに感付かれるわけにはいかなかったのだが、罪悪感のようなモヤはずっとあった。
ユーリはからからと笑う。
「そんなの気にすることじゃないよ。迷惑かかるどころかすごく嬉しかったし、謝らないで」
「そうか?…まぁ、ユーリがそう言うなら…」
「っていうかさ」
襖を一枚隔てた先では五人がやいのやいのと他愛ない会話を繰り広げている。時折罵倒や笑い声が響いて、賑やかを通り越して騒々しい。開閉には便利だが防音性の低さは難点だ。
「カラ松くんが左手を出してきたのは、事前に私にプレゼントを渡してくれたから、ってことで合ってる?」
五人が思い思いの貢ぎ物を差し出す中、カラ松は唯一物を出さなかった。
「…そうだな、それもある」
「それも?」
意図が掴めずオウム返しになるユーリの肩を、静かに抱き寄せる。左耳に顔を寄せて、囁くように告げた。

「オレの左手の指はユーリのものだ──という意味合いもある」

姿勢を戻せば、呆気に取られたユーリの顔。それから彼女は声を殺して不敵に笑う。
「私のものなのは左手だけ?」
「それ以上は、今夜ベッドの上でなら思う存分聞かせられると思うが?」
襖越しの兄弟には聞かせないよう声を抑えて。
「いいね」
今度はユーリがカラ松の耳元に頬を寄せた。不意打ちに、びくりと肩が揺れる。
「いつもよりたくさん可愛がってあげる」
しなやかな指がカラ松の腰に触れて、すぐに離れる。触れた瞬間、抱きしめられるかと思った。だから即刻離れてしまった時、物足りなさに眉をひそめてしまう。
その一部始終をユーリに見られた。カラ松の弱い部分を見逃すような優しい彼女ではないから、意味深長な横目を向けられる。


誕生日の夜は、まだ終わらない。